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島は月の形をしている  作者: 大石安藤
4/21

動き始めた時

6・政治

 大統領を頂点とする共和制、一院制議会で国家を運営している。議員数は75名で、議会選挙は4年毎に行われる。

 大統領は国民投票によって選ばれる。任期は一期が4年、最長三期まで就任できる。大統領選挙は議会選挙のない中間年に行われる。

 政党は主なもので三党あり、各政党への支持率はかなり流動的である。政策もさることながら、政治家の人気で票が左右される。

 現在の大統領は先年の議会選挙で野党に下った党の男性党首で、二代続いた女性大統領の後に就任している。彼は党と同じく、次回選挙での支持が微妙視されている。



――腹、減ってるかもしれないな。

 ゼネは小さく聞こえる音の出所が、この小さな男の子だと気がついた。

「腹、減ってる? ええっとね」

 腰で締めた帯にはいつも小袋を括り付けている。それはぽっかりと膨らんでいて、中には雑多なものが詰め込まれているのだ。細身のナイフは父親に貰ったもので、釣り針と糸はコアツァに教えてもらって自分で作ったものだ。

 そんな中から、ゼネは潰れずにすんだ山モモの実を取り出した。細かいうぶ毛に包まれたその青い実を、そっと樽の中へ転がす。

「うまいから食べなよ。いまが一番うまいんだ」

 少年は怯えた顔のまま、転がってきた実とゼネの顔を忙しなく見比べる。

「食べなってば。うまいからさ。ほんとうだって」

 少年は目を上下に動かすばかりで手を伸ばそうとしない。けれど聞こえてくる音の意味を、ゼネは絶対に間違えていない。

 少し考えてから、またひとつ、実を取り出した。

「じゃ、俺が食ってみるからね。ほら」

 シャツの裾で軽く実をこすり、思い切りよく齧りつく。ちょっと硬い皮を破ると、甘酸っぱい汁が流れた。

「・・・うっまあい」

 思わず体がぶるっと震える。それぐらいうまい。

「うまい、ほんとうにうまいよ。食わないなら、俺が食っちゃうよ」

 ゼネが樽の中の実へ手を伸ばそうとすると、少年は細い腕をやっと体から離して、青い実をひったくった。

「やっぱり腹減ってるんだろう? あのさ、こうして齧りつくだけでいいから。ね」

 ゼネはまたひと口、がぶりと齧って飲み込んだ。じっと見ていた少年は、まず息を飲み、意を決したように丸い実を口元へ運んだ。

――そうそう。

 声を堪えてゼネが見つめる前で、少年の白い歯が、小さな音をたてて青い実に齧りついた。ごくりと喉が動く。するとこれまで怯えていた顔が、ぱっと輝いた。

――やったっ。

 ゼネは拳をぐっと握り、少年ががつがつとむさぼるのを見ていた。

「うまいだろう?」

 尋ねるゼネの方は見もしないで、少年は瞬く間にその実を食べ終えた。



 ウラカンの乗った貨物船が着いたのは、カラタの村がある南の市の隣、湖の市の南にある港で、南の市でもさらに南、島の南端に近い村に帰り着く頃には、太陽はだいぶ傾いていることになりそうだ。

 雨は止み、雲は流れていってしまい、上空はさっぱりと青い色を見せているのに、道の上には風がそよとも吹かない。地面から立ち上る熱気はしつこく、馬車を牽くどら馬の足並みまでなんだかぼんやりしている。

 四方の幌を絡め上げた荷台の中では、車の動きにあわせて微かながら風が通り抜けるものの、気休めにもならない。

 カラタは向かいに座るウラカンへ雨除けの帽子で風を送りながら、娘の止まることの無い話を聞いている。

「それでね、言葉に関する本で、子供にもわかりやすい物を探しているって言ったら、どの字なら読めますか、こんな言葉はわかりますかって、こうなのよ。それも面倒くさそうに、投げやりで。子供にもわかる本って言ったから、私の理解力が低いとか、そんな風に思ったのかもしれない。ひとをなんだと思っているのかしらって、頭にきちゃった。未開の地から来た謎の人類だとでも思っているのよ、きっと。それとも人間だとも思っていないかもしれないわ。一番最初に、島から来たと言ったからかもしれないけど。でもだからって、あんな態度が許せるわけじゃないでしょう。そもそも、現代が情報通信の世の中だってことがわかってないんじゃないかしらね。どこにいたって、情報量なんてさほど変わらなくなっているっていうのにね」

 カラタは大陸の人達が島の人々をどう思っているのか直接に聞いたことは一度も無い。外国の人と会ったことも数えるほどしかない。どう思われているかと悩んだことも無い。噂で多少、ひどいことや怖いことも聞いたが、どれも嘘みたいだとしか思わなかった。それにあくまで噂でしかない。

 カラタが知っている数少ない大陸から来た人達は、皆、とても感じが良かった。それにウラカンの話を聞いていると、カラタは目が回って仕方がない。

「そうねえ、情報、の、世の中だのにねえ」

 娘の言っていることを理解しているかどうか、あまり自信は無い。

「そうでしょう。私、そこら辺の本を手に取って片っ端から大声で読み上げてやったの。何語だろうが、どんな本だろうが関係無しに。ちょっと顔が赤くなっちゃうようなのもあったんだけど、どうせその店員はこれっぽっちもわかりゃしないんだから、かまうもんかって思って。案の定、本の内容はわかっていないみたいだったわ」

 背中越しに話を聞いていたクポリは、勝ち誇ったような叔母の声に思わず噴き出した。

 この叔母ならやりかねないと思う。クポリは彼女の語学の才能がどれほどすごいものかはわからないが、度胸の良さなら知っている。ウラカンは自分が言ったとおりに店の本を片っ端から読み上げていき、立ち会わせた人々の度肝を抜いたに違いない。

「店中の人が集まってきたわよ。なかなか爽快だった。店員は目を白黒させて、すいませんとか、もうけっこうですとか、ぼそぼそ言ってたわ。そうそう、それから貴重なものですとかもったいぶって、でもとっても美しい本を見せて貰えた。もちろん、買えなかったけどね」

 ウラカンは痩せてしまった腕を上げ、たったいまそんなことをして目を丸くさせてやったとばかりに満足げな伸びをした。濃い湿気を含ませた微風でも、島の匂いがするだけで気持ちがいい。だが気持ちとは裏腹に、体はすぐに戻るものではない。体を緩めた瞬間に目眩を感じ、ウラカンの体はぐらりと前へ揺れた。

「大丈夫なの?」

 慌てるカラタに、ウラカンは手を振った。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと目眩がしただけ」

 目を閉じたまま顔を上げて息を吐いた。顔色がのっぺりと青くなっている。港に着いた時より具合が悪くなっているようで、カラタの顔も青ざめた。

「あんまりしゃべるからだよ。横になっていなさい」

 腕を伸ばして娘の額の汗を拭う母親に、ウラカンは微笑んだ。

「わかってる。大丈夫よ。たいして話してないじゃないの」

 ウラカンに黙っていろというのも酷な話で、その方がよっぽど具合が悪くなりそうだ。

「大陸へ行くと、そんなに悪くなるものなのかね」

 カラタのため息まじりの言葉に、ウラカンはちょっと考えた。

「そうねえ、私は何度も行っているけど。着いたばかりの時はなんとも思わないのよね。なんだ、島にいる時とあまり変わらないなって、いつもそう思うの。今度は調子がいいなって感じ。大丈夫かなって。あっちは珍しい物とかがいっぱいあるから、初めのうちは気を取られているってこともあるんでしょうけど。でもしばらくいるうちに、だんだん平衡感覚が無くなっていくっていうか、空を歩いているみたいな気がしてくるの。足元がしっかりしないような、ふわふわっと、こう。そうねえ、雲の上を歩いてるってこんな感じかなって。そう思うのよ。ほんとうの雲の上なら、なかなかいいものかもしれないんだけどねえ」

 空を見上げる。幌の四角い枠で切り取られた景色の中の、木陰を作る厚い葉が繁った並木の上に雲は少なく、青い空が延々と続いている。緑の匂いが鼻をくすぐる。島の空を歩くなら、どれほど気持ちがいいだろう。

「それから、どんどん足元が頼りない感じが強くなるの。だいたい一週間ぐらい経つと頭が重くなってくるかなあ。今度は長かったから、そのうち朝から吐き気までするようになっちゃって」

「えっ」

 母親の息を呑んだ気配に、ウラカンは慌てて視線をカラタに戻すと、両手を振った。

「そんなにしょっちゅうってわけじゃないのよ。たまによ、たまにね」

 だがそれ以上続けることは、余計な心配を増やすだけのような気がして、さすがのウラカンも続けられなかった。いまも、頭の中では磁石によるずれが起きているのか、くらくらくらくらと揺れる感覚が続いている。それは頭の中に何本も細い糸が張ってあり、常に弱く震えているのが、たまにビイインと大きく波打ち、それが目眩のようになる。

「ほらほら、いいから、横になりなさいよ」

「はいはい」

 横になったところで感覚が鈍るわけでもなく、この状態がマシになるわけでもない。いままでの経験からそれはわかっているのだが、ここは逆らわないほうがよさそうだ。

 クポリはゆっくり馬車を進めている。ウラカンは横になってさえ、ぼそぼそと母親に話しかけている。カラタは「おとなしく寝ていなさい」とか言いながら、娘との久しぶりの会話が嬉しいらしく、相槌を打ったり、最近の村の出来事などを話したりしていた。

 湖の市と南の市の境の川を渡り、いくつかの町を抜け、ようやく村の入り口に近づいた時、太陽は最初に考えていたよりは高いところを動いていた。案外早く帰れそうだとクポリが考えていた時、前方の横道から街道に男がひとり、ふらっと出てきた。

「あれっ」

 それが後ろ姿でも、少しぐらい遠くても、癖のある歩き方でクポリには誰だかすぐにわかる。

「じいさん、おい、じいさん。どこ行くんだ」

「あ?」

 いきなり声をかけてきた男を見上げると、コアツァは渋い顔で頷いた。

「ああ、もう帰ったのか。なんだ、早いじゃないか。ウラカンはどうした、寝てんのか? え? 昔からよく寝る娘だったな、あいつは」

 荷台から、カラタとウラカンの笑い声が響いた。

「まったく、失礼なんだから。起きてるわよ。ただいま」

 顔を覗かせたウラカンを見て、コアツァは大げさに驚いてみせた。

「なんだ、おまえ、どこの美人が乗っているのかと思ったじゃねえか。年寄りを驚かせやがって。しょうのない奴だ」

「なに言ってんの」

 呆れながら、カラタが手招きした。

「ねえ、乗ったら。兄さんも村に帰るんでしょう」

 コアツァの顔が渋面に戻った。

「いや、いい。まだ寄るところがあるからな」

「寄るところって」

 厭な予感を覚えながらも、クポリは「とりあえず乗ってくれ」とコアツァを促した。荷台で顔を揃えて頷く妹と姪を見て、コアツァも「じゃあ、そこまで」と乗り込んだ。

「で、どこまで行く? だいたい、どこに行ってたんだよ」

 コアツァが船を離れるのはたいがい、酒を買いに行く時だ。だがこの辺りにそんな店は無いし、漁港の浜からは遠すぎる。

「チアンドの奴、怪我しやがった。今年は船に乗れなくなったって言いやがるから、怒りがてら見舞ってきた」

「なんだって?」

 驚きのあまり、クポリは手綱を思い切り引き絞ってしまった。どら馬がブヒヒッと嘶いて前脚を蹴り上げ、馬車はぐらりと揺れた。

「馬鹿っ。なにしてんだ」

「ご、ごめんっ。叔母さん、大丈夫?」

 慌てて馬を落ち着かせるクポリに、ウラカンは笑いながら答えた。

「私なら大丈夫よ。かあさん、平気?」

「このぐらい、なんてことないよ」

「っとに、へたくそだな、おまえは」

 コアツァの罵りはどうでもいい。クポリはどら馬を押さえてから荷台を振り返ると、いま聞いた言葉を問い質した。

「どういうことだよ。チアンドが怪我をしたって。それ、ほんとうか」

 コアツァはクポリが怪我でもさせたかのように苦々しい顔を向けると、自分の右脚をトントンと叩いた。

「嘘言ってどうするんだよ。流行りに乗りやがって、あの馬鹿が。ここがぽっきり折れたんだと。音まで聞こえたって言いやがった」

「流行り?」

「舟だよ。流行ってんだろう。あの、帆が丸くて平べったいのが」

「ああ。あれか・・・」

 コアツァとクポリの話は、カラタとウラカンにはわからない。

「なあに、兄さん。今年は漁ができないの?」

 コアツァは乱暴に首を振ると、クポリに「早く動かせ。歩いた方が早いじゃねえか」と文句を言った。クポリが顰めた顔のまま馬車を動かし始めると、コアツァはカラタの方へ体を向けた。

「漁には出るさ。飯が食えなくなっちまう」

「チアンドがいないと、兄さんの船はクポリとふたりになっちゃうじゃないの。いったい全体、チアンドはなにに乗ったっていうの」

 カラタは小柄で細く、どんな生き物よりすばしっこい青年を思い浮かべながら首を捻った。チアンドほど怪我という言葉が似合わない男もいない。どんなに危いことからも、すんでのところで逃げてしまうという印象がある。

「ふんっ。どうしようもねえ馬鹿しか乗らない舟に乗るからだ、まったく」

 取りつく島もないコアツァの代わりに、クポリが答えた。

「ばあちゃんは聞いたことが無いかもしれないな。叔母さんなら知っているかな。大陸から来た物だから。グアランタンって舟なんだけど」

「ううん、聞いたこと無い。なあに、それ」

「一枚板に近いぐらいに薄く作った舟に丸い帆を張って。それで海の上を走るんだ」

「走る?」

 ウラカンはカラタと顔を見合わせた。

「うん。走るっていう感じなんだよ、ほんとに。かなり速く走れるっていうんで、流行ってるんだけどね」

 どんなに頭を絞っても、ウラカンにはその舟にあたる物を思い浮かべることができない。

「ううん、わからないなあ。大陸でも、海には行ってないのよねえ。うん、やっぱり聞いたこと無い。大陸でもそう呼んでるのかしら。もっと他の呼び方とかじゃないかしら。海にも行っておけばよかった。何度か誘われたことはあるんだけどねえ」

 悔しそうなウラカンに、クポリは「いいや」と返す。

「大陸での呼び方は知らないな。ま、流行りものだから」

 クポリ自身、その舟を気に入っていないのはあきらかだ。

「まったく、いまどきの若い奴らは馬鹿げたことばかりしやがるよ」

 そういうコアツァが若かった頃、どれだけの人間に同じ言葉を言わせたことか、カラタは懸命にも口にしなかった。

 街道の先、山と海に分かれる分岐で降ろしてくれというコアツァに、クポリは「まさか」と尋ねた。

「コンジのところじゃないだろうな」

「ほかにいないだろう。とにかく聞くだけ聞いてみるからよ」

 海獣漁は普通、三人から五人程が乗った船が、二艘から四艘で組になって出漁する。船の数は獲物をどれだけ捕獲するか、どんな種類の海獣を狙うか、そして漁師の腕で決まってくる。もちろん船自体の大きさによっても変わる。

 コアツァは大物は狙わない。それでも昔、カラタの夫のバナットが生きていた頃は、十艘ほどの大船団を組んで海に出たこともあった。だがいまはモンランの船と二艘と決めている。モンランの船に四人、コアツァの船に三人。誰もが腕がいいことで評判な反面、ひとりでも欠けると痛手が大きい。同じ技量の腕を持つ者を見つけるのは相当に困難で、特に漁期がすぐにも始まるというこの時期では、息の合う船をもう一艘見つけることも難しいと言わざるを得ない。

 コンジは引退して五年になる。コアツァより、七つは年上のはずだ。

「もう無理だろう」

 クポリはため息をついた。

「他に頼める奴もいないからな」

 コアツァはがりがりと顎を掻き、それから帯の小袋に手をやった。それを見てカラタが眉を顰めた。

「兄さん」

「え?」

 カラタの視線を辿り、目の前の痩せ細ったウラカンを見直してから、コアツァは慌てて煙草を袋に突っ込んだ。

「いいわよ、煙草くらい大丈夫よ。気にしないで」

 ウラカンはそう言ったが、コアツァは大きく首を振ると、また顎を掻いた。コアツァは困るとすぐに顎を掻き毟るので、顎鬚はいつもぼろぼろでまばらになっている。

「いや、もうすぐだからな」

 そう言った時にはすでに道が分かれるところまで来ていた。クポリが軽く手綱を引くと、どら馬は首を振りながら歩みを止めた。

「じゃあな」

 馬車を降りたコアツァは顎鬚を掻き毟りながら、叢を横切る道を歩き出した。



 少年は食べ足りないという顔でゼネを見つめている。だがもう食べ物は持っていない。

「ええっと・・・。どうしたらいいのかな」

 雨は上がり、太陽は陽射しもきついまま、まだまだ空高いところに陣取っている。この子をこのまま放っておくわけにはいかないだろう。島民には見えないし、誰かがこの子を探している気配も無い。

 少年は山モモの実がうまかったことで信用したのか、樽の中ほどまで出てきてゼネをじっと見つめている。目にあった怯えの影に取って代わり、珍しい人を見ているという好奇心が現れている。

――なんでこんなところまで来ちゃったのかなあ。

 島の子だったら、家まで連れて行ってあげることもできるかもしれない。だが島の子でなければ、ゼネにしてあげられることはたいして無い。

「叔父さんに頼んだ方がいいかなあ」

 ゼネは南の崖の上の森を見上げた。

 ホウチャンは沿岸警備の仕事をしている。森の中で密猟者を見つけたりすることもあるが、海から来る密入国者を見張って捕らえたり送り返したりする仕事が多いのだと聞いた。単に説明する気が無いだけかもしれないが、それ以上詳しいことは教えてくれない。きっと危険な仕事なんだろうとゼネが思うのは、カラタがいつでも心配しているからだ。

 そういう仕事をしているんだから、こんな場合の対処については詳しいだろうと思える。

「・・・呼んでくる方がいいか、連れて行った方がいいか」

 ホウチャンがまだあの樹の上にいるんだったら、呼んできた方が早いだろう。

「・・・いないような気がするんだよねえ」

 ゼネが樹を降りてから、かなり時間が経っている。あの時、ゲンナは船を見つけたと言っていた。ということは、叔父の仕事は次の段階に入っている、ということかもしれない。それにホウチャンを探しに行くにしても、他に誰かを呼びに行くにしても、こんな小さな男の子を、たったひとりでここに残して大丈夫だろうか。

「連れて行くとしたら、どこに行けばいいのかなあ」

 少年が大きなあくびをした。緊張が緩んできたようだ。大きな黒い目は、それに負けないぐらいに大きなゼネの目とぶつかると、照れくさそうに微笑んだ。

「・・・へへ」

 つられてゼネも微笑む。すると、少年の笑顔は心なしか大きくなり、樽の口の方、ゼネの方へとにじり寄ってきた。

「やっぱりばあちゃんちかな」

 少年が近寄ってきた時、ゼネは頷いた。

 カラタの家は村のいちばん高いところにある。ここからなら、ゼネの家に連れて行く方がずっと近い。だがウラカンが帰ってくると伝えた時、ホウチャンも仕事が終わったら寄ると言っていた。

――話が早いや。

「そうしよう。なあ、ばあちゃんちに行こう。俺のばあちゃんち」

 勢いこんで手を樽の縁に乗せ、顔を少年の方へ寄せて話しかけると、少年は驚いたように後ずさり、浮かべていた笑顔を引っ込めた。

「あ、ごめん、ごめん。別に驚かそうとしたわけじゃないんだ。あの、ごめんね」

 慌てて頭を樽から引き出し、「ごめんね」と繰り返す。

「あの、あのさ」

 座ったまま、上半身を倒れんばかりに後ろへと引いたなんとも不自然な格好で、ゼネは話を続けた。

「ここにいても仕方がないからさ、俺と一緒にばあちゃんちに行こうよ。叔父さんが、君をきっと家に帰れるようにしてくれるからさ。ね」

 そこでふと、頭に浮かんだことを口にしてみる。

「・・・迷子、なんだよね?」





7・経済

 物価上昇率は低い。貿易収支は全体としての赤字が増加傾向にある。

 主な輸出品は農・海産物で、特に海獣は引く手数多の状態であるが、海獣には制限項目が多いため、輸出量を増やすことは難しい。また日用品を大量生産する工場等が無いため、細かな物まで輸入に頼らざるを得ない。近年は特に赤字の拡大に拍車がかかっている。

 けれど政府見解は、自給自足を基本とした生活は成り立っていると主張している。

 失業率は低い。



「・・・これ、・・・重いな」

 はあはあと息を切らして後ろを振り返ると、さっきの砂浜はまだすぐそこに見えている。

「な、なんだか、全然進んでないな」

 ゼネの胸より高い幅を持つ樽の向こう側で、同じように息を切らしながら、少年が困ったようにゼネを見ている。

 樽は砂の上ではキュッキュと音をたてるばかりで、なかなか動かない。ふたりで力を合わせているといっても、ほとんどゼネひとりで運んでいるようなものだ。道がゆるやかな上りになった途端、樽の重さは、二倍にも三倍にもなったように感じた。

「これじゃあ、いつ着けるかわかんないな」

 太陽は傾き始めている。こうなると暗くなるまであっという間だ。だがこの調子では星が見える頃になってもカラタの家どころか、村にも入っていない気がした。

「重いね」

 顔を見て言ってみても、少年はなにもわかっていないのか、とまどったように微笑むだけだ。

 一緒に行こうと樽の中に手を伸ばした時、少年は意外と素直にゼネの手を取った。そのまま手を引いたら外へと出てきたし、こっちだよと促すと、つられるように二、三歩足を踏み出した。

 なのに、そこから先へ動こうとしない。怯えているわけでは無いみたいだが、どうしても足を前へ出そうとしない。

「もしかして、これ?」

 少年がしきりに樽を振り返る仕草の意味を、ゼネはかなり長く考えてからようやくわかった。樽に戻りたいと言っているわけではなくて、置いておくのは厭だ、移動するなら樽を持っていきたいと言っているようだった。だからこそこうして、このやたらに大きな樽を運ぶことにしたのだが、ほんとうにそれであっていたのか、ゼネはどうしても確認したくなった。

「樽がなきゃ、厭なんだよね?」

 疲れた顔で尋ねても、少年はやっぱりにっこりと微笑むだけで、その小さな手は樽の縁をしっかりと掴んでいる。

 ゼネはため息をつくと、もう一度背後を振り返った。ここまで来た距離とこれからの長さを考えると、気が遠くなりそうだ。

――せめて兄ちゃんを呼んでくるべきかなあ。

 その方が早くて確実で、とっても楽なように思える。だがそれでも、やっぱりゼネは、少年をひとり残していくことに気が引ける。

――なんかなあ。

 夕方、無人の浜にひとりきりになるなんて可哀想だと思う気持ちもあった。そしてなんの根拠も無かったが、ひとりにしたなら、少年は樽ごとどこかに消えてしまうような気がした。

 それは悲しいような、悔しいような気がする。この小さな男の子に出会ったことを、どれだけ多くの言葉にしても、誰にも信じてもらえないだろう。悔しいし、このまま別れるのもなんだか寂しい。

「・・・そろそろ行こうか」

 ゼネは気合いを入れなおし、樽に手を乗せた。少年はゼネの様子を見ると、腕をぴんと張ってふんばった。樽はびくともしない。苦笑しながらゼネも腕に力を入れた時、離れた藪から前方の道の上へと、誰かがのそりと出てきたのが目に入った。

「ちょ、ちょっと待って」

 ゼネは少年に手を振りながら、左手を額にあて、射しこむ光を避けて目を細めた。

 夕暮れ時の、こんな浜辺の端っこに、いったい誰が来たんだろう。

 この頃、顔を会わせる度にホウチャンが言うことがある。密入国者が増えたから用心しろと言うのだ。ことに村外れのような辺鄙なところはかえって危ないらしい。それに密入国した者は島の密猟者と組んでいる場合が多いから、不審な気配を感じたら、それが島民だとしても油断してはならないとも言われている。

――こんなとこ、観光客が来るわけないしなぁ。

 実際、観光客よりは密入国者の方が確率は高そうだ。

――この子の父さんとか。

 誰だとしても、藪から出てくるのは不自然だ。あの辺りから出てきたということは、森にいたということになる。ゼネは慎重に様子を窺った。

 逆光でよく見えないが、なにも着ていない上半身は島の人間特有の赤味を帯びた褐色で、下に履いているズボンもゼネが履いている物に似ている。それでもまだ油断しちゃいけないんだよなと、ゼネは叔父の言葉を頭に浮かべた。もっともひとりなら、ホウチャンの言葉なんか思い出しもしなかったに違いない。叔父の危機感が、甥にはあまり伝わっていない。

 その男は歩き出す前に頭に巻いていた布をほどいた。夕陽を跳ね返す長い金茶の巻き毛が揺れた時、ゼネには男が誰だかわかった。

「やったっ。ゲンナだ」

 両手を口にあて、ゼネは大声で彼を呼んだ。



 ウラカンは竈の傍、海が見える縁側に座った。長い坂の下の海からの風がここまで昇ってくる。日暮れに騒ぐ鳥達の声も耳に心地よく響く。熱気は弱まってきている。太陽が家の後ろの森に沈もうとしているせいで、海はどんどん暗い深い色になっていく。そのうち、蝙蝠の群れが森から飛び出していくだろう。

 ――今日は南に動いていたんだ。

 島の動きが感じられると、ウラカンは殴られたような目眩に襲われ、ぎゅっと目を瞑った。島のリズムは馬車に乗って家に着くまでよりもずっと強く、一気に襲ってきたようだ。体中がずれを感じて訴えている。

「どうした? 辛いかい?」

 はっと目を開くと、カラタが顔を不安気に歪めて見つめている。ウラカンは首を振った。首を振るリズムと頭の中のリズムが合わなくて、これも気持ちが悪いのだが、懸命に笑顔を作ってみせる。

「ううん、大丈夫。風が気持ちいいなって思ってただけ。今日は南に動いているようね」

「そう、南だね。何日か前から南に動いているよ」

 カラタは手に持っていた椀を娘に渡し、腰を下ろした。

「でもじきに変わるよ。明日か、明後日くらいかな」

 島民は誰でも、島がいま、どちらの方へ動いているのかわかる。中には、動く方向が変わる時まで正確にわかる敏感な者もいる。けれどカラタはそろそろ変わるなというところぐらいまでしかわからないし、ウラカンは全然わからない。

「荷物、置いてきたから」

 海を見るふたりのところへクポリが顔を出した。

 カラタの家は島のほとんどの家と同じ高床式だ。敷地を決めると、何本も柱を立て、その上に板を敷き詰める。広い板敷きの上に、中央部分から好きな数だけ部屋のしきりを作っていく。次に、縁側がぐるりと部屋を囲む形に整える。最後に縁側沿いに竈やトイレを作る。カラタの家はその他に瓜を入れる室がある分、他の家より大きい。けれど室と竈の分、部屋が少し片側に寄っている。そして部屋数を沢山取れないので、屋根裏に小さな部屋を作ってある。だから他の家よりも天井が低い。昔から屋根裏が子供部屋で、クポリはその部屋にウラカンの荷物を置いてきた。重たい本だけは、床下に作ってある物入れの上だ。水が出たら、ウラカンはまっさきにそれらを救い出そうとするだろう。

「大変だったでしょう。なにからなにまで、ほんとうにありがとう」

「ご苦労さま。瓜でも食べるかい」

「いや、いい。帰るよ。船も心配だし、じいさんも戻ってる頃だろうから」

 船自体には心配ごとがあるわけじゃない。でもコアツァがコンジとどんな話をしたのか、そしてなにより、チアンドの具合も気にかかっていた。それらにもまして、これ以上ウラカンのやつれた姿を見ているのが厭だった。

「いいじゃないの、じきに日も暮れるからご飯、食べていけば。伯父さんならきっとうまくやっているわよ。いつだってなんでもうまくやっているじゃない。伯父さんにまかせておけば大丈夫よ」

 ウラカンの言葉にクポリは苦笑した。うまくやっているとしたらどんなことになっているのか。考えるとかえって心配になる。クポリのこの神経質なところが、おおざっぱなコアツァとうまくいっている理由だと、カラタは思っている。

「とにかく」

 帰ると続けようとしたクポリの言葉が止まった。不思議に思ったカラタとウラカンはクポリの視線の先を辿り、揃って首を捻った。

「あれは、ゼネとゲンナよね。・・・押しているのはなに? 樽、かしらね」

 娘の言葉に、カラタはよくわからないまま、頼りなさそうに頷く。

「そうだね、そのようだけど」

 ゆるく長い坂を、ゼネとゲンナが大きな樽を押しながら上ってくる。太陽がほとんど沈んでしまったほの暗い中でも鈍く光って見える樽の横、ゼネの隣を、小さな子供がついてくることもわかった。

「ゼネの隣にいる子は誰なの? よく見えないけど。小さな子ね」

 首を振り、それから傾げ、不安そうにカラタが答えた。

「見たこと無いね。・・・どうも」

 そのまま黙ってしまった祖母の後をクポリが続けた。

「島の子じゃないね」


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