出会いの時
5・島民
形質は以下の通り。
皮膚の色は褐色から赤みがかった褐色。髪の色は黒ないし褐色で、形状は波状ないし直毛。体型は全体として細めで手足が長い。男女の身長差が大きい。顔は面長で額が狭く、鼻が高い。目の色は黒か褐色。まれに金褐色。
乳児の死亡率が高い。
平均寿命は男女共75歳から80歳前後。
見た目にはわからない大きな特質として、三半規管の奥、蝸牛の手前に極小の磁石があることがわかっている。島民はこの石による強い磁力の影響により島の不安定な移動に耐えられ、反対に大陸での生活に適応できないのではないかと考えられている。そしてこの石の有無が、他国の人間が島で生活できない理由としても有力である。観光客の滞在許可は体力と目的に応じ、最長3ヶ月までである。反対に島民が島外で暮らせる最大限度は半年と言われている。
ゼネは困っていた。すっかり困り果てていた。
「・・・まいったなあ」
樽は確かに大きくてすばらしく、ぴかぴかと光って、とってもきれいだ。それに海に浮かせて動かす分には、ずっと軽くて扱いやすい。ただ、砂浜にあげるといきなり重くなり動かしにくくなった。それでも船に持っていくのなら海岸線を辿っていけばいいだけだから、それはたいした問題じゃない。
問題は中身だ。
中にいたのは、小さな男の子だった。
「泣くなよ、なあ」
横倒しにした樽の底にへばりつくようにしながら、少年は黙ったまま涙をぼろぼろと流している。言葉がわからないのか怯えているのか、なにを聞いても答えようとしない。
「泣くなってば。・・・そう言っても泣きたいんだろうけど」
ため息をついて頭を掻くと、腕を上げたことに驚いたのか、少年の体が大きく震えた。
怯えるのも無理はない。おそらくは全然知らないところへ来てしまったことに加え、いきなりやって来た見知らぬ人間に、樽ごと引っ張られて動かされたのだ。この砂浜がさっきの崖からほとんど離れていないことなど、泣いて樽にしがみついていた少年にはわかるはずもない。
ゼネにも男の子が泣きたくなる気持ちはわかる。でも、ただ黙って泣いていられても困ってしまう。せめて名前ぐらいわかればいいと思い、いろいろな方法を、ゼネが考えられる限りの方法を試してみたのだが、どれも効果が無い。声も出さずに泣いている少年をどうしたらいいのか、ゼネにはちっとも考えつかない。
――なんか、白いみたいだけど。
樽の中にいる少年は、薄汚れている。それでもゼネの肌の色とはまるっきり違うとわかる。白よりも、いっそ青白いのかもしれない。薄汚れていてさえ透明感がある。髪は黒いけれどまっすぐで、首筋ですっぱりと切ってある。こんな髪形の人も、あまりいないと思う。少なくともゼネは見たことがない。
ゼネよりはずっと年下だろう。肌の色が違うこの子がいくつなのか見当もつかないが、縮こまり、樽の底に背中を押しつけるようにして泣きながら、それでもちらちらとこちらを窺っている様子からは、話がわからないほど幼いわけではない気がした。
着ているものはシャツと、丈の長いズボンのようだ。シャツの黄色い縞の柄はなんとなくわかるが、あとは汚れていてはっきりわからない。顔と腕には覆う物が無いから、見えているのは地肌のはずだ。
――白、だよなあ。
ゼネはふうっと息を吐くと、少年を怖がらせないように、ゆっくりとした動作で辺りを見回した。
誰かが近くにいるような気配も無い。この子がどこから来て、なぜこんなところにいるのか、手がかりは本人と樽しか無い。
「困ったなあ。とうさんか、かあさんと一緒じゃないの?」
少年はゼネをじっと見つめ、変らずに涙をこぼし、体を震わせている。寒いわけじゃないだろうとわかっていても、とりあえず尋ねてみる。
「寒い? それともどっか痛い?」
大きな黒い瞳からは、これでもかというぐらいに涙が流れ出ているのだが、口を開こうとはしてくれない。
「こんなところでなにしてるの? ・・・って聞いてもわかんないんだろうなあ。それで、どこから来たの? ・・・って言ってもおんなじかあ」
――島の子じゃないんだろうなあ。
ゼネは島民以外の人間を知らない。それでもこの子が島の子供では無いことぐらいわかる。
緩やかな月の形をした島の、長い海岸線の南端にあたるここに港は無く、観光するようなところも無い。だいたいこの辺りは、森から海へ出ようとする島民がたまに通りかかるか、子供達が遊ぶくらいでしか人の来ないところだ。島民には見えない少年がこんなところに、それもどうして樽に乗っているのか、どんなに考えてみてもゼネにはなにも思いつかない。
雨はまだパラパラと音をたてていたが、海には陽が射し始めている。途方にくれて空を見上げると、雨粒をすべて吐き出した雲が、ずんずん流れていくところだった。
音をたて、叩きつけるような雨が降る中、馬車は港に着いた。雨で煙った港には何艘かの小型船が停泊しているだけで、ウラカンを乗せた貨物船が着くはずの桟橋は、まだぽっかりと空いている。
クポリは馬車を船着場より離れた、周囲で動き回る人々に邪魔にならない場所に止めた。
「やれ、間に合ったみたいだね」
カラタは御者台の後ろの幌の幕を分け、クポリの背後から顔を出すと、雨を見透かすように首を伸ばした。
「濡れるから中に入ってて。船が着いたら教えるから」
クポリは祖母の肩をそっと押して荷台の中へと戻した。彼は貸し馬車に常備されている雨具を身に着けている。それでも雨の勢いは抑えることができないから、全身に痺れを感じているぐらいだ。
「そう。じゃ、教えてね」
カラタが中へ戻ると、クポリは雨が入り込まないように幌の端をしっかり合わせ、港へ向き直り沖合いを見つめた。
荷台に戻ったカラタは、ほんの少しだけ我慢した。だがいまにも船が着くのではないかと気が気ではないから、すぐに辛抱ができなくなる。そんな性分は、孫のクポリも承知している。
「ごめんね。おまえ、漁の準備で忙しいんだろう」
クポリに話しかけながら、カラタは幌の端をめくって外を覗き見ようとする。だが孫の大きな体が重しになり、めくることができない。港の様子はわからないが、降りしきる強い雨も入りこんでこない。
「大丈夫だよ。それほどたいしたことは残ってないから」
クポリは道々何度も言ったことを繰り返し、気の急く祖母の言葉を適当にあしらいながら、船の着くのをじっと待ち続ける。
どれほど待つことも無く、雨の向こうにゆらりと薄い影が見えてきた。それは次第次第に大きくなり、色もどんどん濃くなったと思うと、突然、はらりと幕を除けたかのように船の姿がくっきり浮かび上がった。そこでやっと、クポリの方から声をかけた。
「着いたよ」
「着いた?」
クポリは慌てるカラタに、荷台の隅の雨具を指差した。
「それ着てからにして。止みそうに無いから」
「そう? ああ、そうね。ちょっと待ってて」
ばたばたと身支度を始めるカラタに、クポリはゆっくりでいいよと言いかけて止めた。なにを言っても無駄だし、はやる気持ちはわかる。
港には急速に人が増え始め、船舶関係者、港湾労働者、出迎えに来た人、客引き、物売り、他にもクポリには想像もつかない理由を持った人々が、あちらこちらから集まって来ては船が桟橋に接岸するのを待っている。
この貨物船は荷物よりも乗客の方が多いようだ。旅客船より安いから、島民は島の出入りには貨物船をよく使う。けれどそれは人が乗れるだけの空きがあったらの話だから、貨物船の方が予約を取るのが難しいとカラタは言っていた。
だがそれらの知識のほとんどはウラカンの手紙からの受け売りらしく、最後に必ず、「手紙にはそう書いてあったんだけど、大丈夫かねぇ」と言葉を付け足す。
わらわらと動く人々の中には、密航や密輸に関係する人間もいるのだろう。そしてそんな人間に目を光らせる人間もいるに違いない。叔父のホウチャンもそういった関係の仕事をしている。かなり大変な仕事のようだ。
――ゼネは森に行ったんだっけ。
ゼネなら目端が利くから、大きな森の中でも叔父達を見つけることができるだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、カラタの声と腕が幌の中から同時に出てきた。
「できたよ。さ、行こう」
早くしなきゃと焦るカラタに手を貸し、御者台側から下へ降ろした後、クポリはめくれあがった祖母の雨具の裾を気づかれないように直した。
ゴウウウウンと鈍い音の感触が、港中の空気を震わせた。接岸した船に人々のざわめきも大きくなった。
「あらまあ、どうしたもんだろう」
長い階段が船体に横づけされると、あっという間にそこいら中から人々が押し寄せ、小柄なカラタは右往左往するばかりだ。同じくらい小柄な娘の姿など、とても見つけられそうに無い。
おとなしく家で待っていればよかったかもしれないという考えが、ちらりと頭をよぎった。
――これじゃ、潰れっちゃう。
ウラカンは自分の娘とは思えないほど要領がいい。馬車ぐらいすぐに見つけて帰って来られるだろう。ウラカンの好きな食事をたっぷり用意して待っていればよかったのだ。
けれどウラカンの威勢のいいのはいつだって言葉ばかりで、ほんの少しと1、2週間島を離れていただけでも、ぐったりとくたびれた表情で帰ってくる。
――元気だとはあったけど、3ヶ月も行ったきりだったんだから、どんな影響を受けているかわからないもの。
カラタは精一杯、背伸びをした。
どこからやってくるのか、港には尽きることが無いように人が増え続けている。なにかを叫んでいる声も、四方八方から聞こえてくる。
物売りの甲高い声、船員達の荒々しい声、どら馬の嘶きまで入り乱れ、カラタは頭がくらくらしてきていたから、はじめ、自分の腕を掴んでいるのが孫だとはわからなかったぐらいだった。
はっとして振り向くと、孫息子が心配そうに顔を覗きこみながら、それでも強い力でカラタの腕を引いている。
「俺が捜して連れてくるから。ばあちゃん、馬車のところで待ってて」
「でもね」
「いいから」
クポリは島民の中でもひときわ背が高い。大陸からの人々に混じっても抜きん出るくらいで、確かに人捜しにはカラタよりよほど役にたつ。渋るカラタを人の波の外へ連れ出すと、クポリはとっとと船の方へ引き返した。いまさら怒声が飛び交う人々の中に戻ることもできず、カラタは馬車の前で首を伸ばしておとなしく待つことにした。
カラタを馬車に戻したはいいものの、クポリにもなかなか叔母らしき人を見つけることができない。混乱としか言いようがない中を擦り抜けながら、懸命に視線を走らせるのだが、それらしい姿が見つからない。そうこうしているうちに、船から降りてくる人はまばらになってきた。周囲の人波が減っている様子は無いが、船から降りて来るのはお仕着せを着た船員ぐらいになっている。貨物船に外国人の乗客はほとんどいないから、降りてしまえば、どの人が船に乗っていたかなど見分けがつかない。
ほんとうにこの船に乗っていたのか、なにか手違いでもあったんじゃないかと不安になってきた時になってやっと、甲板を誰よりもゆっくりと階段へ近づいてきた人物が叔母だとわかった。
――え?
あれほど懸命に捜していたのに、クポリはすぐに声をかけることができなかった。見間違いじゃないかと目を瞬かせたり、ごしごしと擦ってみたりもしたが、やはりそこにいるのは叔母のウラカンで、クポリは階段の下で呆然と立ち止まった。
「あら、クポリ? 迎えに来てくれたの? 悪かったわね。いま、忙しい時期なんじゃないの? 伯父さん、怒ってるんじゃない?」
だから声をかけたのはウラカンの方が先だった。いつものように早口で話しながら、雨除けの帽子をしっかりと被り、大きな鞄を両手に下げて、鳥の雛のようによろよろと降りてくる。我に返ったクポリは慌てて駆け寄り、どちらもいやに重たい鞄を受け取った。
「持つよ」
「ああ、ありがとう。本が入っているから重いの。気をつけて。ほんとに重いのよ」
「大丈夫。ばあちゃんも来てる。あっちに馬車があるから」
けれど階段を降りてしまうと、ウラカンはすっかり人混みに埋もれてしまい、「あら、そうなの」としか言えなかった。クポリは叔母を護りながら、少しずつ前へと進んでいく。
人の波をなんとか渡りきり開けたところへ出てくると、ウラカンにも、大木の前に止まった馬車のさらに前で、ぽつんと立って首を伸ばしている母親を見つけることができた。
「ほんとうだ。かあさん、来てくれたんだ。忙しいんだから無理しなくてもいいのに」
ウラカンの足が小走りになる。クポリは「気をつけて」と言いながら、困惑した目で叔母の背中を見つめた。
ふっくらと丸みをおびていた体は痩せ細り、硬い入れ物に詰め込まれていたかのようにカクカクと角張って見える。顔色もひどく悪い。赤みがかり艶やかだった褐色の肌は、鈍く黒ずんだ銅色になっている。半年前、30になったんだから縁談ぐらい持ってきてよと、兄であるクポリの父親に笑って、でも半分も本気ではない笑みを浮かべていた、いつでも若々しくて陽気な叔母と同じ人とは思えないぐらいだ。
カラタも驚いていた。だが駆け寄ってくる娘に驚きを悟られまいと、ぐっと息を呑みこみ、なんとか笑顔を浮かべて手を振った。
「おかえり。疲れただろう」
ウラカンは「ただいまあ」と笑うと、これだけはいつでも変わりない早口で話し出した。
「わざわざありがとう。悪かったわね。でも、ひとりで大丈夫だったのに。馬車屋なんか、港にいくらだってあるんだから。クポリまで引き連れちゃって大げさねえ。クポリは漁期前だから忙しいでしょう。伯父さん、怒ってるんじゃないの。大事な人手を持ってくなって。それに畑があるんだから、かあさんだって暇じゃないでしょ」
カラタはうんうんと頷きながら、そうっと娘の体を見回した。
――怪我をしたってわけじゃないみたいだし、とくに具合が悪いってこともないようだ。とにかく、まあ、なんとかね。
「長旅だから、疲れただろうと思ってねぇ。こんなに人がいたら、馬車を捜すのも大変だろう。それにサナが来てくれてから畑は楽なんだよ。あら、ずいぶん重そうだね」
クポリが抱えてきた荷物にもカラタは目を丸くした。島を出た時は、もっと小さな鞄ひとつしか持っていかなかったはずだ。
「そうなの、重いのよ。本が入ってるの。本よ、本。村の学校よりあるかもしれないわ。そのうち貸し出しでもしようかな。私だけが持っていてももったいないしね。今回行った国は大きいでしょ。いろいろなお店があって、本の種類も多いから目移りしちゃって。これでもかなり我慢したの。キリが無いし、持ち合わせも無くって。あんなに節約して貯めこんだのに、島じゃ考えられないぐらいお金がかかるんだもの。本だけじゃないのよ。どこに行っても、何をしてもお金が無いとなにもできないの。やっぱり3ヶ月ともなると、いままでとはわけが違うわ」
荷物を馬車に入れ、話し続ける親子も押し込みながら、クポリは端整な顔を歪めた。親子のよく似た顔立ちが、いまは妙に辛く感じられる。
ウラカンは普段と同じようにぺらぺらしゃべっていたが、さすがに息切れを感じたのか、馬車に乗り込むと長い息を吐いた。クポリは慎重に馬に鞭をあてた。