始まりの時
3・気候
島は熱帯と亜熱帯の気候帯を行き来している。おおまかに雨季と乾季に分けることができるが、時期は島の移動する特性のため、かなり曖昧である。雨季が多少長い傾向がある。他の島々や大陸に比べると、雨季乾季の気温の変動は大きい。
熱帯低気圧、豪雨、長雨などによる水害も起こりやすいが、島の動き一年を通じて穏やかに過ごせる時もある。
「ばあちゃあん」
坂の下から、サナが大きく手を振っている。後ろを歩いてくるクポリも、カラタの顔を見て手を上げた。
カラタはほっとして手綱の先でブウブウ唸っているどら馬を見上げた。まったくもって手に負えないこの大きな動物を、どうやったら上手に操ることができるのかと頭を痛めていたのだ。
「おまたせ。兄ちゃん、行ってくれるって」
「ああ、よかった。ありがとう。急ですまないね」
孫達に顔を向けると、どら馬がいまだとばかりに手綱を引っ張る。慌てて力を込めたが、カラタの体はどら馬に引きずられそうになった。
「変わるよ」
クポリが手を伸ばし手綱を受け取った。カラタはすぐに手を放した。
「ありがとう、助かるよ。じきに漁が始まるから忙しいだろうに、悪かったね」
「いや、そうでも無い」と言いながら、クポリはゆっくりとどら馬の背を撫でた。どら馬の唸り声は次第に小さくなっていく。
「あたしじゃどうにもならなくってね。ああ、やっぱりクポリは扱いがうまい。ほんとうに助かった」
カラタは握り締めすぎて痺れてしまった手を開いたり閉じたりしながら、一歩、二歩と後ずさった。
「これほど急じゃなければ、アイマツが行ってくれたと思うんだけどね。せめてあと二、三日早く手紙が着いてくれればねえ。船の方は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。準備はほとんど終わってるんだ」
あんなに唸っていたどら馬は、クポリを信用したのか、すっかりおとなしくなって首を垂れ、短くて太い首をクポリ擦り付けている。
「それならいいんだけどね。急すぎて、馬車もこれしか残っていなかったらしいし。最近は馬車屋もずいぶん忙しいらしいんだよ。グラニが目が回るって言っててね」
馬車は一頭立ての荷馬車だが、全体を覆う幌も付いた荷台は大きく、娘を迎えに行くだけにしては大げさに見える。だが親子が横たわれるぐらいのゆとりがあるぶん、かえってよかったのかもしれない。船が着く港は結構遠い。
「グラニって、馬車屋の奥さん?」
「そう。持ってきてくれた時、手綱を繰ってたろう。おまえ達の家ではアイマツの馬車は使わないから会ったことなかったかしらねえ。祝い事にはいつも顔出してくれるけど。普段は家で連絡やら予定やら仕切っているから、外へはあまり出ないしね」
「昨日の夜、馬車を頼みに行った時にはいなかったよ。慣れていなさそうな若い男の人だけだった」
「そうかい。そういや、新しく人を雇ったって言ってたねえ」
カラタがサナと話をしている間に、クポリは御者台におさまっていた。
「行こう」
声をかけられ、カラタは慌てて辺りを見回した。なにがあるというわけではない。娘を迎えに行くだけなので、持っていく物も無いのだから忘れ物などあるはずもない。
どこかへ行こうと腰をあげた時など、何度も辺りを見回してしまうのはカラタの癖だ。なにも無いことも、忘れ物などしないこともわかっているのだが、見回すとなにか大切なことを思い出すような気がするのだ。
「ほら、乗って乗って。船が先に着いちゃうよ。誰もいなかったら叔母さん、かわいそう」
サナに急かされて幌を潜り荷台に乗ったものの、カラタはまだきょろきょろと視線を走らせている。そしてどうにか、畑に残る孫娘に言っておかなければならないことを見つけ出した。
「今日は畑にしてやることは、ほとんど無いからね。ざっと見て回るだけでいいよ。出荷するものも無いんだからね」
「わかってる。虫と水、あとはしつこい草ぐらい、でしょう」
「そうそう。じきに雨が来るだろうから、水はそれほど気にしなくていいよ。それに食事の支度なんかもいいんだからね。帰ってからなんとかするから。おまえはなんにもしなくていいんだよ、ほんとにね」
「わかってるって。兄ちゃん、ばあちゃん乗ったよ。もういいよ」
「疲れたら無理しないのよ。まだ慣れてないんだから、すぐに休みなさい。陽に負けないように帽子を忘れないで。雨が降りだしたら、家に入りなさいよ」
馬車が動き始め坂道を下りだしてもなお、ほとんど毎日言っていることばかりを大きな声で言い続けたため、息をついだ時、カラタはむせて咳き込んでしまった。
「ちゃんと座って」
クポリは苦笑しながら、振り返ることなくカラタへ声をかけた。荷台の縁をしっかりと掴みながら、半ば身を乗り出しているに違いない。果たしてまったく彼の思ったとおりの格好で、カラタは小さくなるサナを見つめていた。
兄と同じように苦笑しながら、サナは遠ざかる馬車に手を振っていた。
「毎日、同じことばかり言わなくてもいいのに」
馬車が見えなくなると、サナは空にむかっておもいきり伸びをした。空には白から灰色へと色を移しはじめた雲がぐんぐんと流れてきている。風には雨の匂いも混じりはじめた。今日は雨も早いかもしれない。サナは畑へと走った。
ゼネは崖の端に出てから海岸線を辿る道を選んだ。海獣漁の漁船を止めている村の砂浜には遠回りになるが、近道を行く気はしなかった。
楽に歩けてもっと早く着くルートをとると、グラグラという毒蛇が多い叢を突っ切ることになる。
ゼネは幼い頃、この明るい白と黄色の蛇の尾を踏みつけたことがあったらしい。ゼネ自身はそんなことは全然覚えていない。その時一緒にいた父が、躊躇せずに蛇の頭を踏み潰してくれたおかげでなにごとも無かった。
この些細な事件を、家族や親類、近所の家の誰彼から何度も聞かされたお陰で、グラグラは、いや、あらゆる蛇という名の生き物は、ゼネの頭の中では海獣よりも恐ろしい動物になっている。実際はゼネの腕の長さもないほど短くて細い、信じられないぐらいに緩慢な動きをする蛇で、いまのゼネなら逃げることも、潰すことさえ楽々とできるはずだ。
けれどゼネは、そんなことは絶対にしない。友達と遊んでいる時に蛇を見つけても、奇声をあげて逃げ出してしまう。からかわれようと馬鹿にされようと、厭なものは厭なのだ。
だからゼネは蛇のために楽な叢を避け、森の深いところを抜けてから、崖から砂浜へ降りる場所を目指していた。
頭上の木々の枝がざわっと大きく揺れ、茂りあう葉にトストスと当たる音がしたと思った途端、雨は激しい勢いで降り始めた。
今日の雨は早い。びせぎの木からだって、まだいくらも来ていない。濡れるのはどうってことないが、ゼネはなるべく葉陰を選んで進んだ。それでも雨は容赦なく打ちつけてくるし、視界を遮る。
そのせいだろうか、水かさが増えはじめていた小川を避けたせいだろうか。どうやらゼネは曲がる場所を間違えてしまったらしい。
「おっかしいな。なんでこんなところに出るんだ」
ゼネは予想外に高い崖の上から海を見下ろし、それから辺りを見回した。
漆科のナミスミの木が何本もあるところを木肌に触れないようにして通り抜けた時、おかしいなとは思った。森から海へは何度も出たことがあるのに、ナミスミがこれほど沢山あるところを通った覚えはまるで無かった。でもゼネはその時、雨のせいで気がついたんだろうとしか思わなかった。ナミスミは雨にあたると独特の強い匂いを撒き散らす。だからそれ以上深く考えなかった。
――ナミスミのところで引き返せばよかった。
細い獣道は崖で途切れ、視線の下には海しかない。引き返すとしたら、ナミスミのところよりもっと先まで戻らないと方角がわからないだろう。それには馬鹿馬鹿しいほど時間がかかる。それに予定外ではあるが、降りられない高さでもない気がする。
ゼネは腹ばいになると、下へ下へと伸びている手近の蔓をぐいっと引っ張った。頑丈な蔓はびくともせずに、強く崖を這っている。
「大丈夫そうだな」
蔦や蔓は海面近くまで這い降りているし、たいして高い崖でもない。打ちつける雨ではっきりとわからないが、海や森の様子からも、いつもの、もっと簡単に飛び降りることのできる崖からもそれほど遠くなさそうだ。ギザギザと襞に入り組んだ場所が二つか三つ。それぐらいなら引き返すより、海へ降りて泳いだほうがずっと早いだろう。
見上げると雨足は強いが、雲の流れも速い。今日の雨は長く降らなさそうだ。
「ま、いっか」
ゼネは慎重に足場を選ぶと、頑丈に絡み合った蔓を掴んだ。
「よっ」
思ったとおり、必死に岩壁に張りついている蔓は、彼の体重ぐらいではびくともしない。キュッギュッと音をたてながら、慣れた手と足さばきで降りていき、海面に近づくと、ゼネは声もあげずに飛び込んだ。
水面から顔を出し、体を震わせ周囲を見回す。方角を見定め、突き出した岩に気をつけながら水を蹴る。崖から少しだけ離れ、ほぼ平行に泳いでいく。雨足は強いが慣れているし、苦になるほどではない。そして考えていたよりは早く、ゼネの足が柔らかな砂を蹴った。
「ふう」
息をついて立ち上がり水際に向かって歩き出しながら、首筋にはりついた髪をほどき、たっぷり含んだ水を絞った。黒い巻き毛を括り直し、ついでにどこから食いついていたのか、ふっくらと膨らんだヒルをふくらはぎから上手にもぎ取り海へ捨てる。
「さてとっ」
海から出て走り出そうとしたちょうどその時、雨音の合間に聞こえてくる、異質な音に気がついた。
4・環境
高温多湿で「動く」孤島の特性と、森林で覆われた高い山のためか、動植物の種類は豊富で、その多くは島特有の固有種である。それらは国の環境政策によって手厚い保護をうけている。森林の大部分は自然保護区域に指定され、世界自然遺産にも登録されている。現状での自然環境にとって一番の脅威は熱帯低気圧などによる風水害と、時に起こる山林火災である。
財源としての観光産業のための整備が進むにつれ、観光収入は増加傾向にある。しかし観光客の増加に伴う環境破壊も、深刻に懸念される事態になり始めていることは確かで、政策とは裏腹に、政府は数年後にも年間の外国人入国者数を制限する方向で検討中である。
また動植物の不法な採取と輸出も増加傾向にあり、取締りの強化が進んでいる。
土地開発自体は過剰なほどに制限され、特にエネルギー関連の開発は厳しい制限を受けている。
雨が降り出した時、コアツァは船の上、横に広げて屋根の形に張った帆の下で酒を飲んでいた。細かいことにやたらとうるさいクポリがいないのをこれ幸いと、雨をつまみにのんびりと椀を空けているところだった。
――ちょっとぐらい酒が入った方が調子がいいって、なんであいつはわからないかねえ。あれだから、俺に似て男前だってのに、嫁が来ないんだな。
サナがクポリを連れ出してくれたお陰で、コアツァは誰に邪魔されることなく酒を飲みながら、じっくり道具を点検できる。クポリがコアツァに似ていることも、男前であることも事実だが、自分にも嫁のきてが無かったことは棚に上げている。
そこへモンランが、ひょいっと顔を覗かせた。
「また酒か。年寄りが飲みすぎるのは感心しないな」
「おまえが他人のことを言えんのか」
「そりゃ、そうだ」
モンランは豪快な笑い声をたてた。とりあえず顰め面をして見せたのはクポリに対する付き合いだったので、帆の下にその堅物がいないことに気がつくと、「クポリはどうした」と尋ねた。
「張り足は直してあったけど、下にはいなかったな」
海獣漁の船は、普通の漁船とは構造が異なる。獲物が大きいので、それに合わせた工夫が必要になるからだ。海獣漁は、二艘以上で組んで漁をする。船にはそれぞれの側面に、棒と縄でできた綱が出る穴が数個空いている。二艘から出された綱を海上で組み合わせて大型の網にし、そこへ獲物を乗せる。その綱を張り足と呼んでいる。船から張り出した足のようだからだ。海獣漁師にとってはまさしく命綱で、いつでもきちんと補修をしておかなければならない。クポリは今朝早くから張り足にかかりきりだった。
「サナが連れて行った。馬車を繰って欲しいって言うから、とっとと連れてけって追い出してやった」
「それで酒か」
モンランはクポリがいないとわかると聞きもしないで酒瓶の蓋代わりの小さな椀に酒を注いだ。ぐっと一杯空けてから、
「サナは馬車でどこへ行くつもりだ」
「サナじゃねえ。カラタが港まで行くんだってよ。ウラカンが戻って来るんだ」
「へええ。今回は長かったよな。どれぐらい行ってた。半年か」
「そんなに行ってられるか、たしか三ヶ月ぐらいだったな」
「三ヶ月ね。どっちにしても物好きだよな」
モンランの言葉に機嫌を損ね、コアツァは彼が掴んでいた酒瓶を取り返した。
「物好きってのは、誰のことだ。おまえの方がよっぽどじゃねえか」
モンランは「違いない」と言うと、へへへと笑った。
モンランはコアツァの船と組んで漁をするもう一艘の船の船長で、コアツァとは年が四つばかり違う。モンランは率直で、声が大きくて、好奇心旺盛だ。モンラン自身、何回か大陸へ行ったことがある。そのうちの一回だけ、漁期が始まる時期に重なったことがあった。いまとなってはお笑い種だが、その時の大喧嘩とその後の顛末は、ふたりとも絶対に忘れることは無いだろう。
「もっともだ。悪かったな」
モンランの性格に、裏表はまったく無い。腹の中に含むものがこれっぽっちも無いことをよく知っているから、コアツァもそれ以上はなにも言わなかった。モンランもさっさと酒瓶を取り返し、椀になみなみと注ぎこむ。
「ま、元気で帰ってこれりゃ、それにこしたことはないしな」
上を向いてぐっと酒を空けた後、「さて」と言いながらコアツァに向き直った黒くて大きな顔には、「困ったことになった」と書いてあった。コアツァは口元に椀をあてたままモンランの言葉を待った。
モンランは少しだけ躊躇った後、しかしどう言ったところでなにが変わるわけでもないので、いつもどおり、事実そのままを口にした。
「チアンドが脚を折った。今年の漁は無理だ」
――なんの音だろう。
崖の向こうから聞こえてくる。泳いで通り過ぎたばかりの、目の前にある崖の裏、形ばかりある小さな砂浜に、なにかが打ち寄せられているようだ。そして波に揺られては崖にあたり、こんな奇妙な音をたてているのだ。
そこまではなんとなくわかるのだが、それが「なにか」まではわからない。
聞き慣れない音だ。海岸に打ち寄せられる雑多な物のどれを思い浮かべても、音の正体に思い至らない。木材よりずっと高い音だ。ドコーン、ドコーンと、砂浜に乗り上げようともがいているような音だ。
こうしていても仕方がないので、ゼネは踵を返すと、再び海へ入っていった。
――あれ?
音からはわからなかったのに、見てみればそれがなにかはすぐにわかった。
崖の間の砂浜に打ち寄せられ、波に押されてはグオン、グオンと鈍い音をたてているのは、樽だ。それも、さっきすぐ傍を泳いだ時に気がつかなかったのが不思議なぐらいに大きい樽だ。
やたらと大きくて、雨と波に洗われ、そして光っている。そんな樽を、ゼネはいままでに一度も見たことが無い。船や家で使っている樽は、密度の濃い、よくしまった木材で作られているから、水を含むと重く暗い色になる。水に濡れてぴかぴか光る樽なんて、聞いたことだって無い。
ゼネは樽に近づきながら、少なくとも樽に見えるそれに向かって泳ぎながら、にやりと笑った。
――誰だか知らないけど、こんなに立派な樽を失くしちゃったらさ、きっとすっごい悔しがっているだろうな。
見える限り、持ち主を示す印はなにも書かれていないようだ。樽のようにあちらこちらと人手に渡りながら使われる持ち物には、うるさいぐらいに持ち主の名前や、店や船の個別の模様を書いておくのがあたり前だ。それが無い物は拾った者に限らず、所有を主張した誰に持っていかれても、文句ひとつ言えない決まりになっている。
――大陸から持ってきたばかりなのかもしれない。
せっかく運んできたのに、たとえば海が荒れて船から投げ出されたのだとしたら、持ち主は地団駄を踏んで悔しがっていることだろう。だがゼネにとっては、海からのすばらしい贈り物だ。
テラテラと光る樽は、近づくにつれ銅色にも、深い緑にも濃紺にも見えてゼネを困惑させた。いま緑色に見えたと思えば、次の瞬間には金の混じったぱっとした赤にも見える。なにで作られているのか、なにに使うのか、想像がつかない。
――どうやって持って帰ろうかなあ。
浮いているし、この程度の波に大きく押されているぐらいだから、見かけによらず軽いのかもしれない。それなら船まで押しながら泳いでいくか、波打ち際を浮かべたり引きずったりしながら持っていけるかもしれない。この樽を船に載せたらどれだけ格好いいか、考えただけで笑ってしまう。でもこれだけ大きいと、コアツァの船に乗せるのがひと苦労かもしれない。
――きっと兄ちゃんがなんとかしてくれるな。
けれども泳ぎ着き、ぴかぴかの丸い底へ手をかけた途端、ゼネの顔からにやにや笑いが消えた。
――あれ?
音がする。樽自体が揺れて起こす音以外の音が、樽の中から聞こえてくる。中でなにかが動いている気配もする。
伸ばした手を引っ込めると、砂へかけた足を海へ戻した。引いた波がゼネを樽から一瞬遠ざけたが、また押し戻し、慌ててついた手が樽をぐらりと揺らした。樽の中でさっきよりも大きく、なにかが動いた。
「な、なんだよ。驚かすなよ」
変な獣だったら厭だ。殊に蛇だったら我慢できない。だがこんなに立派な樽を見過ごすのはあまりに惜しい。中に入っているのも、たいしたものでは無いかもしれない。魚とか、もしかしたら海獣の子供とか。
ゼネはふうっと息を吐いた。
わかっている。どっちにしても中身を見ずには戻れない。ゼネは樽の口の側へと回り込み、そっと中を覗きこんだ。