最終話「そして再び第一楽章へ」
「思い出したような気がする……」
彼は途切れた文字を見つめ呟いた。
表情は不安定で混迷しているようだ。
ゆっくりと首を巡らせる。そして彼はあたりを見回した。
青い青い部屋───
「宇宙にだかれている……か」
彼は部屋をいとおしそうに眺めた。
それから手に持っていた便箋を机に置く。
「………」
彼の手がとまる。
机の上には羽賀千鶴のコンサートのパンフレットが置かれてあった。
それは少し前に、白いマントがよく似合うかわいい少女が彼のもとに持ってきたものである。
「あなたのパンフレットよ」
少女はそう言って彼にパンフレットを手渡した。
「あの夜、汽車の座席に忘れていった……」
「………」
パンフレットには、羽賀千鶴のサインと聖夜くんへという文字のほかに天使の絵が描かれてあった。
彼は手渡されたそれと少女の顔を交互に眺めた。
「忘れてしまったのね。なにもかも……」
少女の表情に愁いが浮かぶ。
逢ったこともないはずなのに、彼は彼女のその表情を見たことがあると思った。
(悲しみの表情は似合わない……)
彼の心に引き裂かれそうな痛みが走る。
何かを言おうとして彼は口を開いた。
すると少女は不思議な微笑みを浮かべ、さらに分厚い便箋の束を彼に渡した。
「読んでみて。そしてあなたにとって何が夢で何が現実かを考えてみて……」
「あっ…待って…」
少女はしかし、彼の制止にも耳をかさず、振り返ると歩き去っていったのだ。
「確かに私は一度死にかけたことがある」
青い部屋で椅子に座ったまま、彼は誰にいうともなしに呟いた。
「確かに私はむかし、羽賀千鶴のコンサートに行ったことがある」
だんだんと、彼の口調に確信めいた力強さがあらわれはじめた。
「…………」
同時に彼はそら寒さを感じていた。何か人知を越えたことが起こっている───そう思ったようである。
そう、彼は確かにあの夜ピアノコンサートに赴いた。
コンサートが終わり、最終列車で帰ろうと駅に向かっている途中、路上で倒れたのだ。
音楽の好きな少年『聖夜』は不治の病だった。
それはもう幼いころから定められた運命で、成人することはないであろうと宣告されていた。
父も母も絶望をいだきながら彼とともに十六年間生きてきたのだ。
そしてあの日、とうとう運命の日がやってきてしまった。
「しかし私は死ななかった……」
奇跡としかいいようがなかった。
病がすっかり完治しており、彼は健康体として生まれ変わったのだ。
「ここに書かれたことが真実ならば、私は己の運命に打ち勝ったということか……いや、そうではない……」
彼の目には可憐で清楚な少女の幻が映っていた。それはパンフレットを届けにきたあの少女であった。
「天使だ。アンジェという天使が私を救ってくれたのだ。しかし……」
彼の表情が曇る。彼にはひとつの気がかりがあった。
「もし、このことが……私を助けたことが彼女にとってよいことではなかったら……もし本当に彼女が天使であったなら、彼女は罰を与えられたのではないだろうか。そうだとしたら、もしそんなことになっていたら、私は己を未来永劫許せないだろう。ああ、大丈夫だったのだろうか。苦しみの海の底へと叩き落とされたのではないだろうか。憐れにも翼をもぎ取られて泣いているのではないだろうか、彼女は───アンジェは!」
それは悲痛な想いだった。
魂の叫びだった。
その刹那───
───ガタン!
カーテンを閉めた窓から音がした。
「誰だ!」
鋭く誰何して窓へと急ぐ。
彼は青いカーテンをためらいもなくひきあけた。
「あっ!」
彼の目に吹雪が映った。
外はいつの間にか白い嵐となっていたのだ。
「ずっとやんでいたのに」
窓越しに外をじっと見つめ彼は呟く。
「?」
その彼の首が不思議そうにかしげられた。
誰かの視線を感じる。
「………」
そして、窓に額をつけんばかりに目をこらす。
「!」
彼の目が驚愕に大きく開かれた。慌てて窓を開ける。
───ヒョォォォ───
「うっ……」
とたんに雪まじりの風が吹き込んできた。
それでも彼は必死に窓の下をのぞく。
そこには彼女が立っていた。白いマントを風になびかせながら、りんとした姿で立ちつくし、二階の彼を見つめている。
「………」
しばらく少女を見つめていた彼だが、いきなりさっと身をひるがえした。
そして階下へと急ぐ。
───バタン!
いきおいよく玄関の扉を押し広げる。まさか消えてはいまいと考えながら。
果して少女は先程の姿のままそこに立っていた。
風が、雪が、まるで彼女を慕う何者かのようにまとわりついている。何かとても幻想めいた眺めである。
「アンジェ……」
彼はそれ以上何も言えずにいた。
「思い出してくれたのね」
彼女は嬉しそうに表情を輝かせた。
「わたしに許されていたのはあなたを見守ること。そして苦痛を取り除いてあげること。それだけだった。でもやっぱりわたしには最後まであなたを見捨てることができなかったのよ。だって、どうすることができて? 目の前で苦しんでいる人がいる。その人はそれまで生きてきた自分の生き方が間違っていたことを悔い、未来に希望を託していたわ。そんな人をむざむざ死に追いやることをいったい誰ができるの?」
いつのまにか彼女の表情は苦悶に歪んでいた。
しかし、すぐに気落ちしたように下を向く。
「わたしにはできない。再び空へと戻れなくなるとしてもわたしにはできなかった」
「アンジェ……」
「でも……」
彼女の声は辛そうだった。
「わたしには運命を変える力は備わっていない……」
彼女は顔を上げた。
泣きそうな、それでいて笑っているような不思議な表情を浮かべている。
「わたしは祈るしかなかった。ひとりの人間の命を救ってと…まるで人が神に祈るようにわたしにはそうするしかすべがなかったの」
「………」
彼女の痛々しいまでの心が彼には感じられて、すでに言葉を失っている。
「わたしは一度おのれの心のおごりから故郷を追われたことがあるの。ここで自分の都合から世界の秩序を乱すようなことをすれば永久に故郷には戻れない。でもわたしはどうしてもあなたを救いたかった……命だけではなく、あなたの傷ついた心も救ってあげたかったのよ」
「キミは還れないのか。その…故郷に…」
おそるおそる彼はそう言った。
そのとき、彼女の顔の表情がみるみるうちに変化していった。それはまるで春の妖精のように晴々としている。
「わたしは故郷に戻ることができるの」
「え……?」
「あなたのおかげよ。救われたのはわたしのほうだった。救いたい気持ちに偽りはないけれど、もしかしたら本当に救われたいと思っていたのはわたし自身だったかもしれない。言ったでしょ。あなたが初めて優しい言葉をかけてくれたって。可哀想な海の底の天使のために、あなたは励ましの言葉をくれたわ。人の痛みのわかる天使になる……わたしはそうなりたいと、本当にそんな天使になろうと決心した。わたしは生まれ変われる。あなたの言葉が、あなたの心が、あなたの存在がわたしにとっての真実だわ。あなたの生は意味のないものではなかった。私だけじゃない。あなたのおとうさまもおかあさまも、そしてお友だちもあなたが生き続けることによって救われているのよ。これからも生きてちょうだいね。生きることは辛いこともあるでしょう。苦しいことも痛いこともたくさんあるでしょう。でもそれは誰でも味わうものなの。自分だけが一番不幸だとは思わないでね」
「アンジェ……」
彼女をさかまく雪がおしつつもうとしていた。
「別れはひとときのこと───」
吹雪にいだかれ、少女の姿は見えなくなりつつあった。
「いつの日かふたたび───」
かすかな声だけが、今や彼のもとに届くのみ。
「めぐる輪のように───」
そして───
荒れ狂う吹雪に隠れてしまったと思った瞬間、再び彼の前に少女の姿が現れた。
「おお……」
立ち尽くす彼の目にもはっきりとそれは見て取れた。
彼の目前いっぱいに大きく広げられた真っ白な翼。それはもう神々しいまでに美しく、まさしく天使の翼であった。
目を閉じ、腕を胸で組んだ彼女は不思議と幼さをその顔に残し、広げられた立派な翼と不自然な対比を見せていた。
未成熟と成熟とが奇妙な形で共存する存在。
よく見れば、少女は少年のようでもあり、幼き者でもあり、また成人にも見え、あるいは老齢なる者にも見えた。それらすべてを内包した神秘なる存在───それが天使というものなのだろう。
彼の見つめる前で、ゆっくり、ゆっくりと閉じられたまぶたが開かれていく。
「………」
彼の心は感動に包まれていた。むさぼるようにこの光景を見つめている。
「あ……」
彼女の目が開かれた。その漆黒の瞳は、かつて彼が何度も見つめた瞳とは似て非なるものであった。
───バサァァァ───
巨大な翼だった。
まるでペガサスがゆっくりと翼を羽ばたかせるように、彼女の翼が大きく動いた。
「ああっ」
そのとき、一陣の風が建物に吹きつけた。
「あれは……」
彼の目に翼の動きに巻き込まれるブルーの紙が見えた。
開け放たれていた二階の窓から風にさらわれたのだろう。あの不思議な物語の書かれた無数の紙が羽根に混じってくるくると螺旋を描いている。
それは白い雲の隙間から見える空のように鮮やかに彼の目に映って見えた。
(ありがとう───)
彼女の口は動かなかった。だが彼の耳にははっきりと聞こえていた。
(いつの日か───)
黒く、闇よりも黒く見開かれた天使の瞳が彼を見つめている。
(常磐の彼方で逢うことができるでしょう)
ゆっくりと彼女の白い身体が持ち上がり、上昇していく。
瞳はじっと彼を見つめたままだ。
彼女の身体のまわりには、あの便箋が取り巻き、まるで白いドレスにブルーのリボンを飾りつけたように見える。
そして、それは彼女とともに天へとのぼっていく。
「………」
すでに彼は言葉を失っていた。あまりの感動に心が麻痺してしまっていた。
どんどん、どんどん、彼女は灰色の空へとのぼっていく。そして───
「行ってしまった───」
とうとう姿は見えなくなった。
しかし、天使の翼から抜け落ちる羽根は未だにあとからあとから降り注ぐ。それは彼女が羽ばたいた残骸ともいえる。
「………」
彼は手のひらを伸ばした。すぐ目の前に一本の羽根が落ちてきたのだ。
それは螺旋を描いてゆっくりと落ちてくる。
そして、ふんわりと手のひらに到着した。その瞬間───
「あ……」
彼は驚いて声をもらした。手のひらを凝視する。
羽根はひとかけらの雪に変わっていた。
彼の手の上で白く冷たく溶けていこうとしている。まるで手品のようだと、彼は妙なことを考えていた。
彼は空を見上げた。
白いものはあとからあとから地上へと降り注いでくる。彼の目にはすでにそれは羽根には見えていなかった。
雪であった。羽根だと思っていた白いものは雪だったのだ。
「なんと……」
彼は押し黙ってしまった。空を見上げたまま困惑する。
(夢だったのだろうか……)
彼は身体を動かすこともできずにそう思った。だが、すぐに首を振る。
「いや、夢ではなかったのだ」
彼の目の前に一枚の紙が落ちてきた。それはあのブルーの便箋であった。
「その夜ボクは天使に逢った───」
紙に目を落とし、そう呟く。
それから彼はしっかりとその紙を持ったまま顔を上げた。
彼は見つめる。世界が雪でおおいつくされていくのを。
「父さん」
その時、彼を呼ぶ声が背後から聞こえた。
ゆっくりと彼は振り返る。そこにはひとりの少年が立っていた。
「………」
いまだに夢見るまなざしの彼は、その少年をじっと見つめる。
「どうしたの?」
怪訝そうな顔の少年が首をかしげる。
少年は『聖夜』とまったく同じ顔をしてそこに立っていた。
懐かしいまでのその顔を見つめながら、彼はゆっくりと現実の世界へと自分の意識が戻りつつあるのを感じていた。
「父さん……?」
「ああ。なんでもない」
彼は自分の息子にしっかりとした声で答えた。
「雪がな。降ってきたんだよ」
「やあ。ほんとうだ。ボク、先に行くね。母さんにも知らせなきゃ」
少年はきびすを返した。
すると、思いなおしたように自分の父を振り返る。
「今夜はホワイトイヴだね」
「そうだな」
彼のいらえはどこか無感動だった。
「………」
少年は一瞬、神妙な顔つきを見せ呟く。
「父さんのバースデーだよ」
「………」
父は黙ったまま息子の顔を見つめたが、おもむろに答えた。
「おまえのバースデーでもあるだろ」
彼の言葉に少年はぱっと顔を輝かせた。
「夕食だよ。はやく来てね」
「ああ…」
彼は息子にうなずいた。
「そのあとで父さんのピアノ聞かせてよ」
「ピアノか…」
にこにこ顔でそう言う息子に、彼は一瞬とおくを見るような眼差しをみせた。
だが、すぐにいたずらっぽい口調で答えた。
「父さんの演奏料は高くつくぞ」
「だったら、ピアニストとして最高の演奏をしてみせてよね。父さんの十八番のあの曲でかまわないからさ」
「月光か……」
彼は呟いた。
なつかしい情景を思い出しているのか、息子をみつめる目は限りなくやさしい。
「じゃあ、もういくよ。待ってるからね」
「………」
笑いながら走り去る息子を、押し黙って見送る父であった。
それから彼は、もう一度背後を振り返る。
玄関から見える風景はいつもと変わらぬものだった。静かに雪が降ってくる。どんどん降り積もっていく。
「………」
彼はもう一度空を見上げた。
そこにはもう灰色の空しか見えない。
すっかり日は暮れてしまったが、空の雲は仄かな光をたたえていて、ひっきりなしに雪を降らせている。
もうどこにも彼女の姿はない。
白い立派な翼をもった少女は空へと還っていってしまった。
「………」
手にブルーの便箋を握りしめたまま、彼は再び見つめる。
世界が雪でおおいつくされるのをじっと見つめる。
その顔にはようやく手に入れることのできた安堵の表情が浮かんでいた。
永い、とても永い間、心の底で時々うかび上がってはおのれを苦しめた何かが、少女とともに浄化していく。
「雪の翼の御手にいだかれ、我の真実、天へと還りゆく」
彼の口から知らず言葉が呟かれた。
そして彼はいつまでも雪降る空を見つめつづけた。見つめる空とは裏腹に、晴々とした表情で───