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雪の翼  作者: 谷兼天慈
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第2話「第二楽章」

「わたしアンジェっていうの。あなたは?」

「ボクは聖夜───え? アンジェって、どんな字?」

「カタカナよ。最近じゃあまり珍しくもないでしょ」

 彼女は真っ黒な瞳でじっとボクの目を見つめている。

「お父さまがつけてくださった名前なの。天使という意味があるのよ。他人を救ってあげられる人になりなさいっていう気持ちがこめられているの。それより……」

 天使という名をもつ少女は瞳を輝かせた。

「聖夜という名はもちろんイヴのことよね」

「そうだよ」

 彼女は指を組んで上品に自分のあごをささえた。

 ボクは彼女の一挙一動にくぎづけだ。

「なんだかわたしたちってお似合いだと思わない?」

「え…?」

「アンジェにセイヤなんて……なにかの物語の主人公みたいじゃない」

 彼女はにっこり微笑む。

「まるで運命の出会いみたいだわ」

「………」

 ボクは不愉快な気分になって目を細めた。

 まさか彼女の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。それはまるで異性を誘うときの俗っぽい常套手段ではないか。

 かすかな怒りを感じ、ボクは少し声を荒らげて言った。

「運命なんて言葉、ボクはキライだな」

「どうして?」

「………」

 言ってしまってから後悔した。

 どうして今日はじめて逢った人にこんなことを喋ろうとするのだろう。

 だけど、なぜか無性に話さないではいられなかった。

「そこには神の力がはたらいているみたいでイヤなんだ」

「神を信じていないの?」

 少女の声が少し変化したような気がした。

「わたしは神さまはいると思うわ。いつでもわたしたちを空の上からみつめていて心を痛めておられると思うわ」

「神を信じるとか信じないとか、そういうことじゃないんだ。たとえ本当に神がいるとしても運命は自分自身でつくり、未来は自分自身で切り開いていくことが、ボクらの本来あるべき姿なんじゃないかなって……運命に身を委ねることはあるべき姿じゃないんだ。運命に逆らうことが人間らしさだと、今に甘んじて生きることは人間としてよくないことなんじゃないかって、そう思うんだ」

「………」

 ボクを見つめるアンジェの目がだんだんと変化していく。

 心なしか賞賛がこめられているのは気のせいだろうか。

「それは、神が実際にいたとしても、ボクら人間に望んでいることだと思うよ。神はボクらをいつも試している。悪魔が人間に姿をよく現し、神が現れないのがそのいい証拠だ。運命に逆らおう、今に甘んじない。そういうことはすべて日々を平穏に生きるということとはまったく逆な生き方だ。そこには欲というものがどうしたって関係してくる。悪魔はその欲望に目をつけて人間の心に忍び寄ってくるんだ。そして、その悪魔の誘惑に勝てなかったとき、人々は堕落していく。どん底に落ちると、人はなぜ神は助けてくれなかったかと罵るけど、それって醜いよね。だけど広い意味での欲を持つということはあっていいことだと思う。でも気をつけなければならないのは、その欲を飼い馴らすのは自分自身であって、欲に飼われてしまわないようにしなくてはならないんだ。欲の奴隷になる───それは間違った生き方だよ。だけど、ボクらは間違いを犯しやすいよね。いつも誰かが自分を見ているんだと思えば、きっと人間は間違いなど犯さないだろうに……」

「聖夜くん……」

 アンジェの声はとても耳にここちよい。

「そういう意味では……ボクも神の存在を信じているってことになるかな……いつも誰かの目を気にして、よくあろうと心くだいて生きているから……」

 少し照れくさくなってきた。こんなこと、学校の友人にさえも話したことがない。

 何人か親しくしている友はいるけれど、うわべだけの付き合いしかしていないから。

 ボクも思春期の真っ只中だし、悩みもあるけれど、いつも人の相談役ばかりで、自分自身の相談など誰にもしたことがなかった。

 だって、他人に話したところで、けっきょくは他人は自分とはちがう人間で、ボク自身のほんとうの気持ちなど本質的には理解してもらえないと思うからだ。

 そこまで考えて、なんとなく息苦しくなってきた。ボクは窓に視線を向けた。

 するとアンジェがぽつりと呟いた。

「聖夜くんは強いのね」

「え……」

 窓から目をはなし、アンジェを見る。

「とてもそういうことは言えるものじゃないわ。人間って弱いものよ。とても弱くって、見ててあぶなかしくって、つい手を差し伸べたくなる───そう思っているのじゃないかしら、神さまは。だから、ときどき、この世に奇跡をもたらしてくださるのだわ」

「奇跡……」

 なんとなく心があたたかい。

 他人の言葉でこんなに安らかな気持ちになれるなんて、今までなかった。

 奇跡───たしかにそうかもしれない。ほんとうにこの世には奇跡が多い。心ない者は偶然だと片づけてしまうが、ボクはそうは思いたくない。ほんとうに奇跡は存在するのだ。

「だから、ね。わたしたちがここでこうやって出逢えたのも、運命という言葉がいやなら奇跡であると思ってもらえないかしら。偶然だなんて思わないわよね。あなたなら」

 ボクは彼女にうなずいていた。それにはなんのためらいもない。

 そう、人と人の出逢いなんて奇跡のようなものだ。

 このボクたちの出逢いが、これからどんなふうになっていくのか、それは今は知ることはできないが、きっとよい出逢いだったと思えることだろう。そう信じたい。



───ガタゴト、ガタゴト───

 汽車はゆれる。ここちよいリズムで小刻みにゆれている。

 窓にはボクと少女のほか誰もいない車内が映っていて、斜め前の座席にはやさしく微笑む天使のような彼女が座っている。

 むかし読んだ小説のように、自分のことを理解してくれる人間が、まるで親友のように一緒にこうして汽車に乗ってくれてることはとても心強い。

 あるいは、いつか見た映画のように汽車は星の海を走り、このまま永遠にずっと彼女とともに旅をつづけるとしたら、どんなによいだろう。

「つ……」

 なぜか、おさまっていた胃痛がしだした。

「どこか具合が悪いの?」

 アンジェが心配そうにボクのひざに手をそえた。

「だい…じょうぶ。持病の神経性胃炎さ」

 ボクは無理やり微笑んでみせた。

 彼女には心配させたくない。男の意地ってやつだ。

「顔が真っ青だわ。ほんとうに大丈夫?」

「大丈夫。すぐにおさまるよ」

 ひざにそえられた彼女の細く白い手をそっと握る。

(あたたかい……)

 彼女の手はほんとうにあたたかだった。

 なんだか握った手から身体全体に、そのあたたかさが広がっていくようだ。

 ボクは思わず目を閉じた。

 そうすることによって、身体だけでなく心にまであたたかさを取り込もうとする。

「きれいな手だわ」

 彼女はため息をついてそう言った。

 ボクはそっと目をあけた。

(?)

 その瞬間、胃痛が消えた。きれいさっぱり消えている。

 不思議だ。まるで魔法をかけられたような気持ちだ。

 ボクはアンジェを見つめた。彼女はボクの手をしげしげと見つめている。

 その彼女が呟く。

「白くて細くて…でも男の人の手らしい立派な骨格だから、もっと大人になったらきっとすてきな手になるでしょうね。ピアニスト向きかもしれない」

「アンジェ……」

 ボクは握っていた手に力を入れた。

 彼女の手だって誰にも負けないくらいに白い。

「あら」

 気に障ったのか、彼女はそっと手を引き抜いた。

「………」

 見ると少し表情が強張っているようだ。彼女のそんな態度にボクは落胆した。

「ごめん…」

 ボクは小さい声で謝った。なんだかきまりわるい。怒ってしまっただろうか。

 彼女はボクのほうを見ずに、真っ暗な窓へと目を向けた。でもその目は穏やかだった。

(よかった……)

 彼女の頬は今まで青白かったが、まるでバラの花びらのように少しピンク色になっている。

 憤慨して赤くなっているというわけではなさそうだ。

 その彼女がうっすらと微笑みながら言った。

「この闇の向こうには海があるのよね」

「え?」

 彼女の視線を追って、ボクも窓へと視線を移した。

 相変わらず窓には車内が映っている。

 でも、目をこらしてみると、それに重なるように窓の外の風景が見えてくる。

 真っ暗な闇にまるで星の光のように見える家々のあかりや道路の街灯。遠くに連なっているのは海のそばを走る国道の脇に植えられた松の林だ。

 そう、彼女の言うとおり、その林の向こうには荒ぶる波の日本海があるのだ。

「うみ……」

 思わず呟く。ここから見えなくとも確かにボクには見えていた。

 真っ暗な冬の日本海。そして空から浜辺へと降りしきる雪。

 湾曲した向こうの岸辺にはここで一番の高さをほこる霊山がそそり立っている。

 仄かに光る雲は山の姿を映して、闇色に染まった海の波をやさしく際立たせている。山の対岸には山脈が連なっており、先端の岬には灯台が暗い空にすっくと立って、沖合へと細長い光を伸ばしている───

 色彩の無い自然という題名の絵画のなか、まるで空を切り取ったかのように、山は見る者の目に映ることだろう。

 それは寒い、寒い光景だ。

 浜にある海浜公園にはこの時期、今のようなこんな夜遅くに訪れる者はいない。いや、酔狂なアベックが車で夜の海を眺めているかもしれないが。

 彼らは吹きすさぶ雪が、真っ暗な海に消えていくのをあたたかい車内で見つめているのだ。

「海に降り注ぐ雪はどうなると思う?」

「えっ?」

 訝しく思い彼女に顔を向けた。あかりに照らされた白い顔は、いまだに窓の外に向けられている。

「天から降り注ぐ雪は暗い海の底でゆっくりと積もっていくのよ───」

「………」

 ボクは何も喋ることができずに、ただ彼女を見つめていた。

 不思議な気持ちだ。相変わらず彼女は暗い窓を見つめている。

 そして静かに静かに語りかけてくる。

「深い海の底には遠い昔に天から追放された天使がいて、いつか許されて天上へ帰る日を夢見て泣いているの。雪は天上にいる彼女の姉妹たちの羽根でできていて、可哀想な彼女を忘れていないあかしとして天から降ってくるのよ。だから海に降る雪は決して溶けないの。だって海の底にいる天使のところまでとどかなくちゃならないから……」

(なんて悲しい物語なんだろう………)

 心が悲しみに満ちていく。なぜかその天使の気持ちがわかるような気がする。

 永遠ともいえる時を、真っ暗な海の底で泣き暮らさなくてはならないなんて、どんな人だってがまんできないと思う。

 人間のように限られた命だったら、命果つるまでの一瞬のできごとかもしれない。でも天使といったらやはり命には終わりなどないのだろうから、たぶんきっと永遠の時間が彼女を待っているのではないだろうか。

 もっともボクごときのちっぽけな人間には本当のところはわからないだろうけれど───

(なんて苛酷な罰だろう)

 見たこともない憐れな天使の姿を想像してみる。

 海の底は冷たいだろうか。

 そこには魚はいないのだろうか。

 きっと昼間でも光はとどかないにちがいない。海草もなく、ただ砂だけが天使を取り巻き、どこまでも砂漠のように広がっているだけなのだろう。

 一年のこの時期だけ、やさしかった姉妹たちの雪にかわった白い羽根がとどくだけの、孤独と虚無に満ちた海のしとね───

「とても悲しい話だね……」

 感極まってぽそりと呟く。

 すると、悲しみの色に目を染めていたアンジェがボクの顔を見つめた。その目は少なからず驚いているようである。

「?」

 不思議に思い、ボクは首をかしげた。

「ありがとう」

 彼女はなぜかボクに礼を言った。なんだかとても嬉しそうな表情になっている。

「わたしのこの話を聞くと、みんな変な顔をするのよ。今まで共感してくれた人はだれもいなかったわ…あなたがはじめてよ」

 そう言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。

 それは彼女と出逢ってから初めて見る極上の微笑みであったと思う。

「そ…そう…?」

 彼女のその微笑みを見ていると、無性に心がはずんでくる。

「その…その天使は今でも海の底で泣いているのかな。ずっとそのままなんて可哀想だよね。きっと天に戻れるよね」

 アンジェの関心をかいたくて、ボクは天使の話をつづけた。

「いつかは許されるわ。もうすぐなの」

 彼女はとても嬉しそうだ。

「天使は罰を受けて羽根をもがれてしまったのよ。彼女のまわりを取り囲む、姉妹の羽根である雪が降り積もって、いつかそれが彼女の新しい羽根となるの。真っ白で美しい純粋無垢な天使の羽根……」

「罰って…天使は何をしたの?」

 ボクは少し気になって聞いてみた。

「………」

 すると彼女の顔が少し曇る。

「あ…ごめん…聞いちゃいけなかったかな」

 ボクは慌てた。アンジェに悲しそうな顔は似合わない。

「……人間を傷つけてしまったの……」

 囁くように彼女はそう言った。とてもつらそうな声だった。

 胸がちくりちくりと痛む。彼女にあんな声を出させたのはこのボクだ。どうしたらまた笑ってくれるだろう。

「………」

 そんなとき、ふいっと頭に去来するものがあった。それは不思議とボクに確信を与えてくれた。

「きっと…きっとその天使は、どの天使よりもよい天使になるよ……」

「え……?」

 うつむいていた彼女の顔がボクに向けられた。なんてかわいい顔だろう。

「だって、人を傷つけて自分も傷ついたんだろう? それってだれよりも傷ついた人の気持ちがわかるんじゃないかな。傷つけて、そして傷ついて、他の天使にはできなかった経験をしたんだ。他人の痛みのわかる、よい天使になるとボクは思うな」

「聖夜くん……」

「えっ…アンジェ…?」

 とたんに彼女が泣きだした。ボクは情けないくらいにおろおろした。

 どうして彼女は泣くんだろう。何か変なことを言ってしまったのだろうか。

「ありがとう…ありがとう…」

 彼女は礼を繰り返すだけで泣きつづける。

「アンジェ……」

 うつむき、いつまでもむせび泣く彼女。それをボクは、ただじっと見つめることしかできずにいた。



「また逢えるかな」

 短いようで、思いのほかずっと一緒に過ごした三十分だった。

 降り立った町の駅は無人で、もうしわけ程度の屋根しかない。降りしきる雪はホームに立つボクへと容赦なく吹きつけてくる。

「逢えるよね」

 ボクはホームに積もった雪を踏んで立っていた。そして昇降口に立つアンジェを心持ち顔を上げて見つめる。

「ええ。必ず」

 彼女はとても神妙な表情を浮かべていた。

「よかった……」

 ほっとした。彼女のいらえは、この次に逢うときまでの支えになる。またいつか彼女に逢いまみえる時を夢見ながらしっかりと生きていけるのだ。

 ボクの心は幸せな気分でいっぱいだった。その幸せな気持ちのまま汽車から離れる。

 ───ポォォォォ───

 見計らったように、ゆっくりと汽車が動きだした。だんだんとホームから離れていく。

「………」

 ボクたちは無言のまま見つめあった。

 いつ、どこで───ボクらは約束などしなかった。

 でもボクにはなぜかわかっていた。きっと彼女に逢える、と。

 そして、それもそんなに遠い未来のことではなく、またすぐに逢うことになるだろうとも。

「………」

 どんどんスピードを上げてボクから離れていく茶色の列車。天使のような少女は、今度は座席の窓を開けて顔をのぞかせている。

(ああ……そんなに顔を出しては……)

 危ないだけではない。まだ雪はあとからあとから降ってくる。冷えきった空気、そして冷たく凍るような雪が、走る汽車の開いた窓から車内に入り込むだろう。

 あたたかい手を持つ彼女の身体が冷えてしまう。お願いだからもう窓を閉めてほしい。

 ボクはそう思いながら、降りしきる雪のなか、いつまでもホームに立ちつづけた。



 その夜からボクは熱を出して何日も寝込んでしまった。

「だから反対したんです」

 階下で母が声高に叫んでいた。

「コンサートなど、あの子には無理だったんです。見てごらんなさい。あんなに熱を出してしまって……」

「…………」

 声は夢のなかで聞こえているようだった。

 母は父に不満をぶちまけていた。でもボクは熱にうかされながら父に感謝していた。

 そう、確かにあの夜、コンサートに行くのを母は強く反対した。ボクの身体を気づかってのことだ。

 でも、こうなるとわかっていてもコンサートに行ったことだろう。そしてボクは行ってよかったと思っている。だって彼女に逢うことができたから。

「彼ももう子供ではないのだ。コンサートでもなんでも行ってみればいい」

 父のそのひとことでボクはコンサートに行くことを許された。それは今までにないことだった。

 父はいつだって何も言わず、ただ黙って母の言うとおりにしていた。でもこのところ父はよく母に口を出すようになった。それもボクのことに関してはとくにだ。

 母は昔からそうだったけれど、最近は神経質に拍車がかかったようである。何かとボクのすることに口出しをしてくるようになったからだ。

 ボクは父の言うとおり、もう子供ではないのだ。母は確かに大好きだったが、お願いだからもうほっといてほしいと思っていた。

 そんなボクの心をまるで見透かしたように父は気づかってくれている。

 だからとても感謝していたのだ。

「でも……」

 そうはいってもやはり自分の身体はどうしようもない。

「この身体がうらめしい……」

 思わず口走った。まるで女のようだと苦笑する。

(胸が苦しい……)

 ボクは青い天上を見つめた。膜が張ったように、視界に映る天井はゆらゆらと曇っている。

 ボクの部屋は二階の南側にあって、室内は青色一色で統一されていた。少し紺に近い、深みのある青色だ。

 青い天井、青い壁紙、青いカーテン、青い絨毯と何もかも青づくめである。いま寝ているベッドのカバーさえも青で、おまけに着ているパジャマまでもが青色だ。

 ボクは青い色が大好きだ。

 以前、友人をこの部屋に招き入れたとき、「お前は異常だよ」と言われた。それ以来、だれもこの部屋には入れたことがない。

「………」

 目だけを動かして自分の室内を見回す。

 こうやって青色に包まれていると、とてもいい気分がしてくる。まるで自分が宇宙の真空にいだかれているようだ。心が軽やかになり、どこまでも横たわったまま、隣の星雲まで漂っていけそうで雄大な気持ちになれる。

「こんな冷たい部屋、みたことない」

 以前、好きだと言ってくれた女の子が初めてこの部屋に訪れたとき、そう言っていた。

 どうしてこの部屋の良さをだれもわかってくれないんだろう。ボクは悲しくなったけれど、何も言い返すことができなかった。

「もう少し暖かい色にしてみない?」

 母でさえもこの色をいやがり、そう言ってカーテンを変えようとした。

 でも頑としてゆずらなかった。たとえ大好きな母でさえも、ボクの好きな色だけは変えることはできない。

 だれもボクのことを理解してくれない。

 それは、やっと心がつながりそうな気配のする父でさえもわからない境地だと思う。

 ボクはいつもこの世界でひとりぼっちだった。自分は本当にこの世界の人間なんだろうか。もしかしたら宇宙人なのではと、本気で考えたこともある。

「アンジェ……」

 思考がだんだんと眠りの泉に沈もうとしていた。そこではただ、あの天使のような少女の姿しか見えない。たったひとりボクを理解してくれる少女のことしか───



 何日かたって、ようやく熱が下がり登校した。

 まだあまり本調子というわけではなかったが、ボクは家にいたくなかった。父は仕事に出ているし、家に母とたったふたりでいるのが息苦しかったのだ。

「まだ登校するのは無理よ」

 この日の朝もそう言われて、ボクは飛び出すように家を出てきたのだ。

「やっと出てきたか」

 背中をばしんと叩くやつがいる。

「………」

 ボクは何も答えず、じっとその男を見つめた。

「まだおうちでネンネしてたほうがよかったんじゃねーの。天使くん」

「うるさいっ!」

 ボクは怒鳴った。にらみつける。

「おーこわ…ご機嫌ななめですねー」

「………」

 クラスメートの男だ。

 彼は男らしい見上げるような体格の持ち主で、ボクより二十センチは背が高い。

 がっしりとした肩に筋肉質の身体が、制服を身につけていてもありありと見て取れる。横幅はそんなにあるというわけではないが、ボクのようなやわな体格の男のそばに立てば話は別だ。しかし、ボクの憧れでもある。

「………」

「なんだよ」

 彼が変な顔をしている。ボクはいつのまにか羨望のまなざしを向けていたようだ。

 慌てて表情をひきしめる。

「あ……」

 その時、ボクの目があるものをとらえた。

「アンジェ…」

 彼の身体ごしに彼女がいた。教室の入口ちかく、みんなと同じ紺の制服に身をつつみ、驚くほどにそれが似合っている。

「おい…待てよ。何だよ、アンジェって」

 ただならぬ様子をしていたのだろうか。ふらふらと歩きだしたボクに向かって彼が叫んだ。

「どこいくんだよ。授業はじまっちまうぜ」

 そういう彼の声も、ボクはもう気にもならなかった。

(やっと逢えた……)

 ボクは彼女に逢えるときをずっと待ちつづけていたのだ。

 熱に浮かされて、苦しくて、つらくて、うなされながら夢を見つづけていた。

 たゆたうような、ぬるま湯のような、そんな心地よい夢の世界には、ただボクとアンジェしか存在しなくて限りなく幸せだった。

 夢を見ているときだけがつらさを感じない瞬間だった。いつまでもいつまでも醒めない夢であってほしかった。

「アンジェ…」

 ボクの足は一歩、また一歩と彼女へと近づいていく。夢の世界へと足を踏み入れていくように───

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