第1話「第一楽章」
───その夜ボクは天使に逢った───
彼の目にその文字は飛び込んできた。
「天使────」
彼は青い部屋で呟いた。
壁は濃い青の壁紙で彩られており、まるで宇宙空間に投げ出されたような錯覚に陥らせる。
「天使に逢った……?」
彼はもう一度呟いた。
青い空間でひじ掛け椅子に座り、何枚もの薄いブルーの便箋にぎっしりと埋められた文字を見つめる。文字は均整の取れた美しい筆跡だった。よほど几帳面な人間が書いたものなのだろう。
「聖夜────」
それは人の名前なのだろうか。それともクリスマスイヴの聖夜のことを彼は言っているのだろうか。
すると突然、彼の目から涙が流れ出した。
歳のころはおよそ三十代後半、少年のころはさぞかし美男子だったことだろう。
やわらかな明るめの茶色の髪には、一筋ふたすじの白いものが混じりだしている。
唇は少し薄く真一文字になって、涙で赤くなった目は文字をよく読もうと細められている。
瞳は永い間に蓄積された苦渋の色が滲んでいる。
それらすべてが、本来もっているだろう彼の顔の柔和さをそこなっていた。
「そんな……」
彼はひどく驚いている。
「いったいどういうことだ」
紙面から目をはなし、彼は放心したように呟く。
「これは私が書いたものなのか?」
しかし、彼の問いに答えるものは誰もいない─────
───その夜ボクは天使に逢った───
ボクは青い顔をしていたにちがいない。
それは確かなことだ。
なぜなら、いっこうによくならない神経性胃炎に悩まされていたのだ。
きりきり痛む胃と、こみ上げてくる吐き気に滅入りそうになりながらも、それらと戦いながらボクはコンサート会場に向かった。
「本日はわたくしの演奏会にお越しくださりありがとうございます。ごゆっくりご鑑賞なさって、あなたにとっての楽しいひとときをお過ごしください」
壇上の彼女が美しいステージ衣装に身をつつみ、優雅にお辞儀をした。
拍手がわきおこる。もちろんボクも興奮した気持ちで拍手を贈った。
次第にやんでいく拍手。それはまるで潮がひいていくように自然な消え方であった。
シン───と静まり返った大ホール。
緊張した時間がほんの少し流れる。
(あ……)
静かに音が流れだす。
ボクはそれを聞いたとたん、目を閉じてしまった。
べートーヴェンの『月光』だ。
詳しく言うと『ピアノ・ソナタ第十四番嬰ハ短調作品27-2 月光』───
このベートーヴェンという作曲家になぜか心惹かれる。それはおそらく、ボクのこの風貌や性質によるものだろう。
学校の音楽室に飾ってある彼の肖像画を見ても、ぼさぼさの髪が粗野で荒々しく感じさせ、とても偉大な作曲家というようには見えない。
それに比べ、ボクはひ弱で幼いころからよく体調を崩していた。男のくせに女のように顔も身体もほっそりとして、いつもクラスのみんなにからかわれたものだ。
「天使さん、天使さん、どこいくの」
みんなはそう言ってボクをからかった。なぜみんながそう呼ぶのかわからなかったけれど、たぶんこの白い肌のせいなのだろう。
ボクは自分のこのなまっちろい肌が大嫌いだった。
同じ男子たちの健康的な浅黒い肌がうらやましくて、夏の日に炎天下で肌を焼いてもう少しで死にかけたこともある。
「なんてことするの」
母はそう言って嘆いた。
泣いて泣いて泣き続けて、そのまま病気になってしまうかと思ったくらいだ。
母のそんな姿を見るのはとても辛かった。だからそれ以来、日が照っている外にはあまり出ないようになってしまった。まるで吸血鬼のようだと自嘲した覚えがある。
さて、話をもとに戻すが、ボクの知るかぎりでは、その風貌に似てベートーヴェンの曲調も、繊細というよりは荒々しく大胆だ。
だから、この『月光』の第一楽章をはじめて聞いたとき、少なからず衝撃を受けた。
「なんて幻想的で美しい曲調なんだろう」
この作品にかぎらないが『月光』という題名は彼がつけたわけではない。
ドイツの詩人ルートヴィヒ・レルシュタープが、湖の静かな水面に映り輝く月の光を想起させるとして命名したそうだ。
湖はルツェルン湖という名だそうだが、ボクはそれがどんな湖なのかは知らない。
でもこの曲を聞きながら目を閉じると、暗闇のなかに湖が広がる。たぶんいつかどこかで見た映像が思い出されるのだろう。実際には見たこともないその異国の湖が、まるで自分の故郷の湖のように感じられて不思議な気持ちにとらわれてしまう。
そんなに広大というわけではない湖が見える。湖面は鏡のようになめらかで、黒々とその面を空に向けている。
あたりの岸辺にはうっそうと生い茂る森がひろがり、ときおりホーホーとフクロウが遠くで声を上げる。
静かだ───あまりにもシンと静かすぎて怖いくらいだ。
その湖に今、月が映っていく。ゆっくりと雲間から現れいでる月───厳かに、悠然に、月はその姿をあらわしていく。
それにともない、湖はさきほどまでとはちがって真っ暗ではなくなっていくのだ。
仄かに青く光る月に照らされて、辺りは夜とは思えない場所へと変わる。
それは、どこか別の世界に紛れ込んでしまったような、そんな不思議な感覚を見る者に感じさせてやまない。
何も動くものはない。
何の音もいまは聞こえてはこない。
何もかもが静止してしまった世界───
迷夢の中、ピアノの調べは静かに流れている。
ボクは自分の体調の悪さをこの時間だけ忘れてしまっていた。静けさとは裏腹に、自分の心が感動で興奮していたからにちがいない。病は気からとはよく言ったものだ。
ボクの心はこの時、月の映った湖をのびのびと羽ばたいていた───
「お名前は?」
「えっ?」
慌てて目を開ける。
とつぜん声をかけられたからだ。
そこはコンサート会場のロビーであった。
(ああ…ボクはまた夢想していたようだ)
すでに演奏会は終わってしまっていた。
今日の主役であるピアニストのサイン会があるということで、ボクもパンフレットに彼女のサインをしてもらおうとロビーで列に並んでいたのだ。
「すみません。聖夜と書いてもらえますか」
「聖夜? クリスマスイヴの聖夜?」
彼女は首をかしげて聞き返す。
その仕種には少なからず好奇心があらわれていた。
なんとなく恥ずかしくなってきた。きっと顔も赤くなっているにちがいない。
ボクはこの名前が好きではなかった。クリスマスイヴに生まれたと公言しているようなものだから。
でも、母がつけてくれたのだから、表立っていやだとは言えない。だって母が悲しむからね。
「そうです。イヴの聖夜です」
そう答えながら内心ひやひやだった。彼女に笑われたくない。大好きなピアニストである彼女に。
「すてきなお名前ね」
そんなボクの気持ちも吹っ飛ぶような微笑みが返ってきた。少しホッとする。同時に、恥ずかしくて穴があったら入りたい気分になった。
彼女が名前で人を見下すような人に見えるだろうか。否、見えようはずがない。
「………」
そう思いながら彼女の顔に見とれていた。
茶色くふわふわした髪は肩まで伸び、やさしく揺れている。パーマをかけているようにも見えるが、ボクはそれが天然だということを知っている。肌は白く、瞳の色は日本人にしては少し薄い色で、髪の色に合わせたような茶色だ。唇は肉感があって、それが彼女の内なる情熱を感じさせてやまない。
「そういえば……」
薄く化粧がほどこされた彼女の顔を見ていたら、ボクはひとつ思い出したことがある。
「クリスマスイヴは結婚式ですね」
「あら…」
彼女は少し驚いた顔をみせた。
「よく知っているわね」
「だって…あなたの大ファンですから」
少しはにかんだボクの顔を、彼女はなぜか懐かしく見つめている。
「あなた…おいくつ?」
「今度のイヴで十六才になります」
「高校一年生ね」
嬉しそうにうなずきながら彼女は言った。
「彼と出会ったのも高一のときだったわ。あなたと同じように明るい髪のとても背の高い少年だった……」
「でも、その人はきっとボクとはちがって、健康そうで男らしい人でしょうね」
ボクは皮肉っぽくそう言った。
多少なりとも彼女の相手に嫉妬してたかもしれない。彼女が好きだからというよりも、男らしい男という存在がとてもうらやましかったのだ。
でも、そんなボクの心に気づかなかったのか、彼女はにっこりした。
「ええ。憎らしくなるほどね。でも、彼はあなたのように礼儀正しい人じゃないわ。乱暴だし、口は悪いし、目つきは悪いし……背が高いってとこだけかしら、いいところって」
彼女はいたずらっ子のようにくすくす笑いながら言った。その仕種は、とても二十代後半の大人の女性がするようなものではない。
「でも、そんな男と結婚するわたしもわたしよねえ……あら、ごめんなさい。こんな話、あなたにはつまらなかったわね」
「いえ…そんなことありません。あなたとお喋りができて、ボク、よかったと思います。お幸せになってください。羽賀さん」
「ええ。ありがとう。あなたもよいクリスマスイヴが迎えられればいいわね」
渡されたパンフレットに目を落とす。
そこには「聖夜くんへ」という文字と一緒に、なぜか天使の絵が書かれてあった。
夜の町はすっかり暗くなっていた。
駅前通りはもうすぐ訪れるクリスマスの飾りつけで明るい。
様々なイルミネーションのまたたくなかを、ボクは歩きながらさっきの彼女との会話を思い出す。
「雪がわたしたちを巡りあわせた……」
何気なく呟く。
ピアニスト羽賀千鶴と婚約者の出会いは、いつだったかの雑誌に載っていた彼女のエッセイですでに知っていた。
学生のころ、彼女が雪の日すべってころんだところを婚約者が目撃した。それからふたりの間に恋が芽生えたということだ。
ムードもなにもないけれど、雪がふたりを引き合わせたということに、ボクは心惹かれたのだ。
雪───雪がふる。とても好きな情景だ。
灰色の空から絶え間なくふってくる。
静かな時間。
ふり続ける雪だけがこの世でたったひとつの動くもので、それ以外はすべての時が止まってしまったようなそんな情景。
そんな日は空を見つめたまま、ボクはじっとして動かない。そのために、よく首を傷めたものだ。
「ああ。あの時も母さんに泣かれたんだ」
苦笑いを浮かべながら、さらに物思う。
雪の夜、部屋の窓から外を眺めるのも大好きだ。
まるで世界中が、こんもりと積もった雪でおおわれてしまい、何もかも雪の下にうもれて永い眠りについてしまったような、そんな風景をボクに見せてくれる。
目の下の屋根も、遠くまでつづく木々も、すべてが雪でおおいつくされ、夜なのに仄かにそれらが輝いている。それはとても幻想的で、窓を開けたまま風邪をひくまで見つめつづけたものだった。
あれから母は、絶対に夜は窓を開けないとボクに約束させた。だけどボクはこっそりと窓を開けつづけていたんだ。
いつかの夜も雪が積もっていて、空は晴れ渡っていた。ひとつの雲も見あたらないその夜は月夜だった。
炯々と輝く月が、雪を照らしだしていた。
音という音を雪が吸収してしまい、耳にはまったく何も聞こえてこない。
世界中がじっと耳をすましているようなひととき。快い緊張感が身体を支配し、刻々と時間だけが過ぎていく。
この月の光に照らされ、その照り返す雪の青い輝きを身体に取り込めば、まったく違った自分に生まれ変われるような気がして、ボクはいてもたってもいられない気持ちがしたものだ。
このまま、うちを飛び出して、どこまでも歩いていきたいと、いつまでも歩きつづけたいと、切に願った。
願うだけで、けっきょく実行に移せず、小さな自分の王国の、小さな窓から虚しく外を眺めているだけだったけれど───
どうしてボクはこんな自分でしかないのだろう。
おのれの殻を割ることもできずに、これからの永い人生を退屈につまらなく思いながら生きつづけていくのだろうか。
「あ……」
そんな思いにとらわれながら歩いていたら目の前に雪が落ちてきた。
白く螺旋を描いてゆっくり落ちてくる。
ボクは見上げた。
真っ暗だと思っていた空は微かな輝きを見せる雲でおおわれていた。
雪はそんな空から落ちてくる。尽きぬ想いのように、あとからあとから落ちてくる。
「もうすぐでクリスマスイヴがやってくる」
ボクの生まれたイヴ、そして彼女が結婚するイヴ。
彼女は愛する人のもとへ嫁ぐが、自分はどうだろう。いつか本当に愛せる人がみつかるだろうか。
こんなボクでも愛してくれる人がみつかるだろうか───
「ああ。最終がでてしまう。はやく駅に行かなきゃ……」
ボクは駆けだした。
足もとのアスファルトはうっすらと白くなっている。振り向けば足あとが続いているだろう。置き忘れた思い出のように───
駅は静かだった。
広い構内には駅員がひとりしかおらず、いつもの駅とはまるで雰囲気がちがっている。
ボクはめったに最終列車を利用することはないが、まったく人けがないというのも不思議だ。ひとりやふたりの人がいてもいいような気がする。
この町で一番の大きさである駅にしてはなんだか変だ。
「………」
切符を差し出すと、帽子を目深におろした駅員が無言のまま切ってくれた。不気味なくらいに人間らしさのない男だ。
薄気味悪さを感じながら、改札を抜けてホームに足を踏み入れる。
「雪のため、たしょう発車が遅れるかもしれません……」
抑揚のない声にちらりと後ろを振り返る。
それは駅員の声だったのだろうか。
ボクの目に映る彼は、じっとうつむいたままで、微動だにしない。
「………」
知らずパンフレットを持つ手に力が入る。
───サァァァァ───
そのとき、ボクの後ろで風が吹いた。
はっとして振り返る。
「あ……」
ホームの端っこのゼロ番乗り場に列車がとまっている。
いつもの見覚えのある茶色の車体にボクは心から安堵した。
ボクの住む町まで三十分の道のりを走る列車である。
畑と田んぼとが続く素朴な風景。
ボクは列車から眺める故郷の景色がとても好きだ。
高校生になってから何度か汽車に乗るようになったが、それまで一度も乗ったことはなかった。
同じ年頃の少年たちは、それこそ小学生のころから乗っていたというのに───ボクはほとんど外出というものをしたことがなかったのだ。
ただ幼いころ、たった一度だけ父に連れられて汽車に乗ったことがある。たぶん、今夜コンサートが開かれたこの町へ出かけてきたんだろうけど、今ではそのとき何をしに父と外出したのか覚えがない。それほど幼いときだったと思われる。
揺れる車内、古ぼけた椅子、てんてんと座る人々───そんな光景が、白く薄い膜を通して見るように眼前に広がっていく。
「───」
父が窓際の椅子に座って、ボクを呼んでいる。
心がとてもうきうきしていて、踊りだしそうな気分で父に顔を向ける。
「───」
もう一度父がボクを呼ぶ。
心もとない足つきで一歩、また一歩と慎重に歩いていく。揺れる車内を歩くことは、幼い子供には意外と難しいものなのだ。
そして、手を伸ばす父にぽっちゃりとした自分の手を差し伸べた───
───ヒュゥゥゥ───
「………」
寒さにはっと我に返った。
そこは雪の吹き込むプラットホーム。
いつのまにか幼いころの迷夢にとらわれていたみたいだ。
「なにがなんだか……」
どこからが現実で、どこまでが夢想なのかわからなくなってきた。
今夜はどうもおかしい───
ボクはゆっくりと歩きだす。ゼロ番乗り場に向かって───
車内は明るかった。
「だれもいない……」
ボクはあたりををさっと見渡した。
田舎の汽車である。しかも最終ときたらやはり一両だけだ。
車体の色と同じ古ぼけた茶色の腰掛け椅子が、座る者もなく目に映る。座席は一見ビロウド風の紫っぽいカバーでおおわれ、古びてさえなければ、王侯貴族が御用達しそうな荘厳さを感じさせた。
ボクはゆっくりと歩をすすめた。
入口ちかくの右側、ホームが見渡せる座席に近づき、進行方向にむかって座る。
「………」
黙ったまま、天井のあかりに目を向けた。
蛍光灯のあかりが眩しい。
「つ……」
目にかるい痛みを感じ、ボクは視線をそらした。
せわしなくまぶたをしばたたかせる。
「……?」
ふと、何かの気配を感じた。
窓へ目を向けると、ガラスに車内の様子が映っている。ボクの顔もはっきりと見える。それに重なる形でホームも見えた。
「!」
誰かがボクを見つめてる。
白いマントをはおった少女だ。
窓に映る彼女は無表情な顔をこちらに向けていた。
「うしろっ?」
慌てて振り返った。
でもそこには誰もいない。
「?」
ボクは首をかしげた。確かに白いコートの少女が窓に映っていたのに───
「また夢想か……?」
ふたたびゆっくりと振り返り、窓に顔を向けた。
「………」
やはり少女がガラスに映っている。じっとボクを見ている。
よく見ようと、ボクは窓ガラスに顔を近づけた。息がかかり、うっすらと窓がくもる。
「ああ……」
知らずため息がでる。
「そうか……」
ボクはあることに気がついた。
少女は窓の外、ホームに立っていたのだ。
音もなく降りつづける雪の中、少女は寒そうでもなく立ちつくしている。
どうしてこんな簡単なことがわからなかったのだろう。
「あ……」
それに気がついたとき、少女が微笑んだ。
そのとき───
───ザザザァァァ───
突風が雪を舞い上げた。
白いマントも風にあおられ、降りしきる雪とともに少女の身体にまといつく。
「天使……」
ボクは呟いていた。
風にあおられた少女のマントが、まるで大きく広げられた白い翼のように見える。
羽ばたく翼から、はらはらと落ちゆく幾本もの羽根───その羽根がまとわりつくように雪は少女を白く取り巻いている。
「なんてきれいなんだろう……」
ボクは少女から目が放せなかった。
いつのまにか胃痛もすっかり消え失せていた。こころよい陶酔感が身体全体をおおっている。心が軽い。まるで地上から解放され、大空を飛び回る天使のようだ。
───ザザザァァァ───
ふたたび疾風が少女をおそった。
「あっ……」
一瞬、ボクの目から少女の姿が消えた。さかまく雪にかき消されたようだった。
そのとき───
「ここ…いいですか?」
「えっ?」
ボクはびっくりして振り返った。
「あ……」
そこにはさっきまでホームに立っていた少女がいた。
夢じゃないようだ。彼女は確かな存在としてそこに立っている。
かすかに微笑みを浮かべた少女は、かわいらしく頭をかたむけていた。
「ど…どうぞ…」
ぎこちなくそう答えると、彼女はにっこりと笑った。
「ありがとう」
少女はボクの斜め前に座った。
まじまじと見たい欲求をおさえて、ちらちらと少女に視線を向ける。彼女は心持ちボクから視線を外していた。
「………」
ボクは床に目を落とし考えた。
やはりさきほどの少女のようだ。白いマントも少女の顔もさっきの天使と同じだ。
「………」
心を決め、ボクは顔を上げた。そして遠慮がちに少女を注視する。
かわいらしい少女だ。白く透き通るような肌、ぱっちりとした目は黒くて瞳が大きい。
くちびるはほんのりピンクで、ぬれたようにつやつやしている。でも変に官能的というわけでもなく、少女らしいかわいらしさを感じさせていた。
髪の毛も瞳と同じで黒々としていて、車内を照らすあかりの下、つややかに濡れ羽色だ。歳のころはボクと同じくらいだろうか───
「なにか……?」
「え……?」
いきなり声をかけられて、どきっとした。
ボクの心はすっかり好奇心のかたまりと化して、いつのまにか不躾に少女を見つめていたらしい。
少女はこちらをじっと見つめて首をかしげている。
「ご、ごめん……」
顔が赤くなっていくのがわかる。
「ふふ…そうよね。変に思うわよね」
すると少女は意外にもひとなつっこく笑ってくれた。なんてステキな声なんだろう。
「こんな夜に女の子がひとりで何してるんだろうって…思われてもしかたないわよね」
「べっ…べつにボクは…そんな…」
「いいのよ」
彼女はやさしく言葉をつづける。
「わたし、ピアノコンサートの帰りなの」
「えっ…」
「あなたのこと会場で見かけたわ。よかったわ。あなたも同じ最終で」
「え…?」
彼女の言葉に胸が高鳴る。
「ちょっとね。怖かったのよ。こんな夜おそくにひとりで帰るのは。あなたが一緒にいてくれたら心強いわ」
彼女はにっこりした。
「そんな……ボクだっていちおう男だよ。ボクは怖くないの?」
「え? あなたを? わたしが?」
少女は少し声を上げて笑った。
「………」
少し自尊心が傷ついて、ボクは唇をぐっとかむ。
「あら。ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりはなかったのよ」
ボクの心がわかったのか、彼女は謝った。
「そうじゃなくて、同じコンサートを聞いたもの同士、あなたなら大丈夫って思っただけなの。決してあなたが男らしくないっていってるんじゃないわ。信じて」
彼女は両手をあわせ、首をかしげてボクの目をのぞきこんできた。
とてもその仕種はかわいらしくて、思わず抱きしめたくなるほどだ。
なんとなく気分がよくなってきてボクは言った。
「信じるよ」
そして、少女の笑顔があれば何もいらないとまで思うようになっていった。