7・勇者は女子会のためのウフフレア食材のための尊い犠牲になったのだ
宗教観なんてどこの国でも違うし、何だったら日本に至っては地域でも違えば一族で違うと言う事もザラだった。
サトルの父方祖父母は仏教の寺の檀家だったし、会社の社長は所謂地方の土着信仰に近い物を祭る家の出身で、親会社の顧問に至っては別の国の宗教の偉い人だったとも聞く。
だから今更宗教のことで頭を悩ます事は無い。
宗教は問題じゃない。
ただ……一時期宗教という物に傾倒したことのあるサトルにとって、宗教というのは人が望んだ救いの姿なんだよな、と感じることがたびたびあるわけで……。
「千手観音っていうさあ……神様に近い存在がいるとされてるだよ、俺の国」
サトルは両の手に、ホップとオーツを掴み、食いしばった歯の隙間から絞り出すように溢す。
そのサトルの腰にはニゲラがしがみつき、ニゲラのシャツをタイムが掴んで引っ張っている。
「助けるために手がいっぱいある……今その手が欲しい」
そうしたら、もうちょっとしかっかり二人を引き上げることが出来るかもしれないのに。サトルはそう思いながら痛みに耐える。
場所は岩を削ったような崖の縁、ほぼ垂直になったその場所で、高さはざっと二十メートル以上あった。
足場は頁岩状の岩場で、不用意な力がかかると、本の頁をめくるように薄く岩が剥落する。下手に踏ん張れば余計に岩が崩れる可能性がある。
ニゲラもとっさにサトルを掴んだはいいが、足場の脆さに気が付き、普段の力が出せないでいた。
サトルを握りつぶしかけた前科がある通り、竜は力の加減が不器用なのだ。
サトルは呻く。
「肩、肩抜けそう」
というか、たぶんすでに抜けている。
腕と言わず背中と言わず、人二人分の体重の掛けられた体が、骨がぎしぎしと痛み、腕にはほぼ握力が無い。その状態でサトルはほとんど手を伸ばしているだけだ。
今日サトルの着ていたた服がたまたま新調したばかりの、特殊な魔物の毛を織って作られたという、鎧にも匹敵する強度を持っている防具、という宣伝文句の服だったのが幸いして、二人はサトルの手というよりも、その服にしがみついている状態だった。
痛みに意識を失いそうになりながら、サトルは布の材料であるグリードボアって、すごいなあと思った。これならいっそワイヤーにして持ってきておけばよかった。
元の世界での仕事でも、ワイヤーを使う事はあったのだし、次からは必要なアイテムとして携帯していようと心に誓うサトル。
このままでは二人が自分の体を支えきれずに落ちるか、自分たちの足場が崩れる。
何かないかと考えサトルは思いつく。
足場が無いなら作ればいいじゃない。
「ウワバミ! ベルナルド! 頼む二人に足場を! それと岩を包み込んで引き締めてくれ!」
サトルの声に応えて、滲むように現れた水が頁岩の表面を覆い、凍り付く。そこから伸びる氷の蔓が、絡め取るようにホップとオーツの足元に伸び、足場を形成していく。
サトルの手にかかっていた重さが消え、サトルは体から力を抜いた。
「登ってこい」
「父さん、大丈夫ですか?」
「急げ! 何か来るぞ!」
サトルが足場を作ったことに気がついて、ニゲラから手を離す。
不意にタイムが叫ぶ。
ザガガ、と音がした。
針葉樹林の湿った下生えを重く揺らす音だ。
タイムが音の方に振り向くと、そこには巨大な鹿がいた。
距離にして十メートルほど離れた、針葉樹林と頁岩状の岩場との境。
大きさで言うなら一トントラックほどの鹿が、興奮した様子で、見つけたばかりのサトルたちを睨みつけていた。
巨大な角から雄だと分かる。縄張りを侵されたと思ったのだろうか。
ザカリザカリと巨大な蹄で頁岩を抉る様にしている。
もしあの巨体が足場の脆いこちらに向かって来よう物なら……サトルたちの脳裏に嫌な想像が駆け巡る。
「うそだろ! こんな時にかよ!」
タイムはサトルたちにすぐに逃げられるかと確認するも、サトルは凍り付いた岩破の上に手を投げ出して倒れ伏したまま。ホップとオーツはひいひい言いながら崖の上に身を乗り上げているところ。
とてもではないがすぐに動けるようには見えない。
「サトル!」
「動けない……体が、動かない」
タイムの確認に、サトルは無理だと答える。
やはり肩が外れているようで、痛いだけでなくそもそも力が入らない。
キンちゃんたち妖精の力で治そうとするも、何故かうまく治せない。
このままでは揃って崖下に突き落とされるか、それとも巨大な鹿と一緒に崖ごと落ちるかだ。
「クソ、やってやるぞうらあああ!」
完全に体格差で気おされながらも、タイムは何とか武器を構える。
せめてこちらに寄ってくる事は無いようにと、精いっぱいの威嚇だ。
うおおおおおおお、と吼えるタイムの横を、ニゲラが駆ける。
「任せてください! 僕が皆さんを守ります!」
巨大な鹿はただ威嚇しているタイムよりも、自分に向けて突進してくるニゲラを警戒してか、角を誇示するように激しく頭を振った。
ニゲラはその角に手を伸ばし、両手で捕まえ受け止める。
頁岩状の岩場から、足場のしっかりした場所へと移動したからこそできた行為だ。
これ以上巨大鹿が崖の方へ寄って行かないようにと、人間ならざる膂力を持って森の方へと押し返そうとする。
今のうちにと、タイムは倒れたサトルを抱え起こしにいく。
「大丈夫かサトル!」
崖から何とか這い上がってきたホップとオーツも、サトルへと這い寄り、身体を支え起そうとするが、肩が抜けた状態で二人分の体重を支えていたサトルの体は、触れられるだけでも激痛が走る状態だった。
無理やり引き延ばされた筋繊維がズタズタになっていたのを、キンちゃんたちが治しはしたが、骨は外れたまま、どうやら元ある位置に戻さないままでは、骨周りの炎症を治せないらしい。
「す、すみませんんんんん」
「うわあああああ、サトルさんすみません、本当にすみません!」
文字にするならバキバキバキバキバキズシャアアア、ズズン、といったような、激音がした。
四人は一斉に音の方を見る。
数本の針葉樹が倒れ、その上に横倒しになった巨大鹿がいた。
それをしたであろうニゲラが、一仕事終えた後の様なさわやかな笑顔で宣言する。
「倒しましたー、父さん大丈夫ですか?」
ほめてほめてと尻尾を振る犬のように、笑顔で戻ってくるニゲラに、サトルは震える声で答える。
「……ごめん、動けない」
「あー……ですよね、はい、分かりました」
何が分かったのか、サトルが問うよりも先に、ニゲラはサトルの体をがしりと掴んで抱え起こした。
激痛に悲鳴も出ないサトル。
ニゲラはそのままサトルの肩と二の腕を掴むと、外れた骨を無理やりはめ込んだ。
ゴリっと骨に直接響く振動が、肩回りだけでなく頭蓋や腰にまで痛みを感じさせ、サトルの顔から血の気が引く。
「……ぅ」
歯をくいしばって耐えるサトル。額にはびっしりと脂汗が浮いていた。
見ているだけでも痛いと、ホップとオーツは目を逸らしてしまうほど。
「こっちも行きますよー」
またもゴリっと激痛。
サトルは息も絶え絶えだ。
「っ…………死にそう」
左手の勇者の証、九曜紋が発光し、妖精たちがサトルの傷を癒す。
「……ありがとう、キンちゃん」
傷は癒え、痛みはすっかり良くなったが、一度引いた血の気は戻らず、サトルは貧血のような状態になっていた。
そんなサトルを支えるニゲラは、ワクワクと期待に満ちた目。
きっと自分の活躍に、父と慕うサトルは褒めてくれるに違いない、そう顔に書いてあるようだ。
「ありがとう、ニゲラ」
お礼は言うべきだろう。分かっている、分かってはいたが、サトルは何となく腑に落ちない気持ちだった。
サトルからのお礼に無邪気に喜ぶニゲラ。
人の体は丁寧に扱いましょう、ってそのうち教えよう。サトルはそう思いながら静かに意識を手放した。