送り指名
突然いつもと違い自分の方からキッチンの中に来る訳でも無く、カウンターに置かれたマイクを通して店長から呼び出しを受けた。
「氷室くん氷室くんリクエスト」
キッチンからカウンターへと続くカーテンの掛かった仕切りから、ひょこりと顔を出すと店長がニヤニヤと笑いながら何か楽しそうな事を見つけたイタズラ好きの少年のような顔でカウンターの向こうから俺に手招きをしてくる。
その顔と仕草に何か嫌な物を瞬時に嗅ぎ取った俺は直ぐにパッとカーテンから顔を引っ込めた。
「ちょ!何で逃げるのよ?」
「いや……何か不吉な予感がしたものでつい……」
店長がニヤニヤ顔のままキッチンの中へと追いかけてきて俺に問い質す。
実に何かしてやったり顔を浮かべたまま店長は俺にこう切り出してきた。
「氷室くん姫からご指名ぃ」
確か前にも同じような事があった事を思い出した俺は、苦虫を噛み潰した顔で。
「当然断って……くれる訳無いか……逆に喜びそうですもんね店長……」
はぁぁっと深い溜め息を吐き諦め顔でどこの席からの指名なんだ?と店長に聞こうとした矢先、店長はとんでもない事を言ってきた。
「氷室くんに【送り指名】が入ったよ」
店長の言ってる事が直ぐに理解できず暫し口を大きく開いたまま呆けた後。
「はあぁぁぁぁぁ!?ちょ……いや……え?……おっ送り?何で?」
自分でもびっくりするぐらいの声を上げて店長に聞き返した。
基本的にキッチンの中にいて、たまに少しだけカウンターへと顔を出すだけの俺に指名が入る事自体が異例なのに今度は、送り指名が入ったと言われたのである。
どうやら今回初めてこのクラブ【EDEN】へと遊びに来た所謂【初回】のお客様が自分の目の前を通り過ぎ、そのまま横のテーブルへと置かれた豪勢なフルーツの盛り合わせに興味を示した事が原因のようだ。
それまでにも他のお店へと遊びに行った事があったであろうお客様は、その時に丁度席に着いていたホストに聞いたそうだ。
「あんな繊細で綺麗なフルーツ盛りを作る人はどんな人なの?」
と。そしてホストは俺の容姿から大体の年齢から実に美味しい賄いを作ってくれて、実に素晴らしい芸術品と見紛うばかりの物を沢山手掛けた、フルーツの魔術師等と盛大にホメ千切ったそうだ。
そして件のお客様が帰られる時に店長が聞いたそうだ。
「誰か【送り】をして欲しいホストは見つかりましたか?」
「キッチンに居る氷室吾朗を【送り指名】したい」
「氷室でございますね?直ぐに準備をさせ連れて来ますのでお待ち下さい」
そんなやり取りがあったそうだ。
その後店長に「姫が席で待っているから」と言う言葉と共に半ば引き摺られるように、お客様が座る席まで連れて来られた俺は内心では物凄く嫌な気持ちではあったが、形式通りに。
「【送り指名】ありがとうございます、氷室吾朗です」
そう言って頭を下げた後に座っている姫の手を取り、立ち上がるのをサポートした後に並んで店内を歩く。
店のエレベーター前に着き俺が呼び出しボタンを押し、エレベーターが到着するまでの少しの時間、俺は何も言えずにいたが姫の方はしきりに話し掛けてきていた。
到着したエレベーターの中へと入った姫は最後に可愛らしい笑顔を俺に向け。
「次は真実にも素敵なフルーツを作ってね吾朗くん、これからもよろしくね」
「【送り】してもらったから、これからは吾朗くんが私の担当だもんね」
言われてから初めてその事実に気付いた俺は、あっ!と彼女を呼び止めようとしたが時すでに遅く、エレベーターのトビラは閉まり表示ランプが1階に向け点滅を繰り返していた。
その後キッチンに戻った俺は、変わらずイヤらしいニヤニヤ顔をしている店長から。
「いやぁ俺もこの業界長いけどさ、キッチン担当のアルバイトに担当の姫が出来る王子を見るのは初めてだよ」
そう言われた。
その後、少し上の空だった俺は数個のフルーツを無駄にして、数回自分の指を切りそうになっていた。
それほどまでにも衝撃的な事が起きた1日であった。