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「駐在勤務ってどういうことですか?」
辞令の紙を手に尋ねた僕に、局長のフィリップ・ハミルトンはめんどくさそうに答えた
「どういうって、辞令だよ辞令。きみ、今日付けでヘンキョウ村の駐在員になったから」
「いやだから、その駐在員についてどういうことなのかと尋ねてるんですけど」
僕は混乱していた
重厚で立派な中央省庁の門を期待に胸を膨らませながらくぐったのは、ほんの15分前のことだ
美人の受付嬢に案内を請い、地方管理局の場所を聞き出した僕は、広大な建物の中を歩きに歩いて
、建物の本当に端っこにあった部屋にたどり着いたのである
父には30人から成る大所帯だと聞いていたが、扉を開けてみると書類に埋もれた小さな部屋の中に40絡みの男がひとり、もじゃもじゃとした鳶色の頭を掻きむしりながら書類に目を通しているだけだった
無精髭を生やし薄汚れた服をだらしなく着こなしている様は、とても中央省庁の職員とは見受けられない
「すみません」
「だれ?」
声を掛けると、男は書類から目を上げてこちらを見やる
「今日からこちらでお世話になるマクシミリヤン・クレイマンです。色々と至らないところも多々あるかとは思いますが、よろしくお願いします」
「おぉ、君が期待の新人さんかぁ」
僕がそう言って頭を下げると、男は勢いよく立ち上がって大股で近づいてきた
「俺は局長のフィリップ・ハミルトン。うちは万年人手不足でね」
右手で握手をしながら左手で僕の肩をバシバシと叩く
「ってことで、これ辞令だから」
そう言って無造作に渡してきたのが、件の辞令の用紙だったのである
まだ二言三言しか言葉を交わしていない相手に、突然そんな辞令を突きつけられて平静でいられるわけがない
狼狽える僕に、フィリップ・ハミルトンはめんどくさそうに説明する
「駐在員は駐在員だよ。ヘンキョウ村の駐在員としてヘンキョウ村で生活するの。村の税収を管理したり、街道を整備したり、特産品や名所を発見して観光の促進に務めたり、月に二回ほど報告書をまとめて俺に郵送するのが主な仕事だ。他にも住民が困っていたりしたら手助けをしたり、自分で色々考えて臨機応変にやってくれ」
めんどくさそうな口調とは裏腹に、僕の肩を叩く手は痛いくらいに威勢がいい
「で、でも駐在勤務なんて聞いてませんでしたよ」
「そりゃ、そうだろう、言ってないんだから」
小さな声で告げると、大きな声で返された
「ここは俺だけで足りてるし、現地は人材が少ないんだわ。地方管理局は、俺以外はみーんな駐在勤務!中央部署の奴らの中には『僻地管理局』なんて揶揄する輩もいるが、うちだって大事な仕事だぜ。中央部署の坊ちゃんたちにはとても務まらないような仕事を、うちが請け負ってるんだよ。
俺が集めた精鋭部隊だ。みんな優秀な人材さ、君も含めてな」
フィリップ・ハミルトンは、期待してんだよ、と小さく言って僕の目を真っ直ぐに見つめた
「それとも、地方勤務は嫌かい?」
そう聞かれて、戦争の犠牲になり放置されたままの地方の役に立ちたいと考えたことを思い出した
学校を卒業したての平民の僕に、期待していると言ってくれたことも嬉しかった
「いえ、少しでも現地の人たちの役に立てるのなら、頑張りたいと思います」
僕は、フィリップ・ハミルトンの目を見返してそう答えた
煌びやかな服に身を包み、颯爽と中央省庁に出勤する自分の姿に未練がないわけではなかった
でも、ヘンキョウ村には僕にしかできないことだってあるはずだ
僕は覚悟を決めた
「いやぁ、そうかぁ!行ってくれるかぁ!良かった良かった!」
フィリップ・ハミルトンは、両手で以って僕の肩をバシバシ叩く
「準備もあるだろうし、出発は3日後な。ヘンキョウ村までは馬車で4日かかるから向こうで仕事を始めるのは一週間後の4月7日からだな。これは、向こうの役場の鍵。寝室も炊事場も揃ってるから寝泊まりはそこでして。出発の見送りには行けたら行くわ。じゃ、俺は、忙しいんで今日は帰っていいよ。お疲れさん」
怒涛の勢いでそれだけ言うと、フィリップ・ハミルトンは僕の手に鍵を握らせ、僕を部屋の外に押し出すとバタンと扉を閉めてしまった
「ちょ、ちょっと…」
声を掛けるも虚しく響くガチャンという鍵を閉める音
どうやら、彼はもうこれ以上、僕に何か説明する気はなさそうだった
登庁してから約30分、僕は初めの意気込みも何処へやら、しおしおと自宅に帰る羽目になったのである
「な〜んにもないとこだけど良いところだから、そんなに心配しなさなんな」
リヤカーを引きながらカラカラと笑うマルゴさんに、すっかり息が上がってしまった僕は返事を返すことができない
ついに来てしまったヘンキョウ村
というか、実際にはまだついていないのだが
行商のマルゴさんの案内で、ヘンキョウ村へと続く山道を登り続けること1時間
僕の体力は今にも尽き果てそうだった
荷物の整理や友人知人への挨拶に追われた3日間、心配顔の母や励ますような顔をした父と兄たち、名残惜しそうな友人たちに見送られ、王都を旅立ったのは5日前のことだ
行けたら行くわと行ったくせに、フィリップ・ハミルトンは来なかった
と言うか、出発までの間に顔を合わせることすらなかった
一応、出発するまでは毎日のように中央省庁に顔を出してはいたのだが、いつ行っても何度行っても扉には鍵がかかっていて、中に入ることすらできなかったのである
託されたものは役場の鍵と辞令だけ、事前情報も何にもなしであった
そこで僕は、せめてヘンキョウ村なる村がどんなところなのか、王立図書館で調べてみようともしたのだけれど、残念なことに村についての記載はほとんどなかった
分かったことはアズルーとの国境にあること、海と山に囲まれていること、戦前はアズルー領だったことの三つだけである
しかも、その情報も地図から得たもので、何かの文献に書いてあったというわけではない
仕方がないので、ヘンキョウ村から一番近いモルムという町の情報も調べておくことにした
モルムは、ヘンキョウ村に行くための乗合馬車の終着駅であり、逆に言えばここを通らなければヘンキョウ村に行くことはできないという、村にとって交通の要とも言える町であった
一年を通して寒暖差が激しく、夏場は酷暑で冬場はタラスティンでも屈指の豪雪地帯
これと言った特産品や名所があるわけではないが、モルム杉で作った炭が細々と売れているらしい
立地的にそこまで離れているわけではないので、ヘンキョウ村の気候はモルムの町と大差ないだろう
夏暑くて冬寒いというのは些か心配ではあるが、王都育ちで散らつくくらいの雪しか見た事がない僕には、わくわくする気持ちもないわけではなかった
また、モルムの町で炭が売れているなら、ヘンキョウ村にも炭窯がある可能性もある
結局、図書館ではそれだけの情報しか得られなかったのだけれど、まったくの何にもなしであった最初に比べると、幾分かは心を落ち着けることができたのである
乗合馬車に揺られている間も、少しでもヘンキョウ村の情報が欲しかった僕は、同乗者にヘンキョウ村について何か知っていることはないか、片っ端から尋ねてみた
もしかしたら、ヘンキョウ村とは言わずともモルムに行く人がいるのではないかと考えたからだ
しかし、そんな人は皆無だった
ヘンキョウ村どころか、モルムすら知らない人もいた
あまりの情報量の少なさに再度不安になったが、馬車はまだ王都を出たばかり
もっとモルムに近づけば、詳しく知っている人もいるに違いないと、自分で自分を慰めながら、僕は馬車の座席に深く腰を沈めたのだった
そして、王都を出てから3日目の朝、待ち望んでいたモルムへの同乗者が、ついに現れたのである
それが行商をしているマルゴさんだった
マルゴさんはモルム在住で、商いを終えて帰るために馬車に乗ったらしい
逞しい二の腕とふくよかなお腹まわり
よく日焼けした顔に、いかにも善良で働き者でございますとアピールするかのような笑い皺が刻まれた、50代くらいの人好きのする女性だ
僕が駐在員としてモルム経由でヘンキョウ村へ行くと伝えると、彼女はすごく喜んでくれた
「うちの地方は、中央から忘れられてこのまま寂れていくもんだとばかり思ってたけど、こんなに若くて立派なお役人さまを寄越してくれるなんてねぇ。中央は、私らを忘れたわけじゃなかったんだね」
ほんのり目の縁を赤くしながら何度もそんな事を言うマルゴさんに、いえまだ就職して6日目ですとは口が裂けても言えない
また、世間話中に僕の家が王都で商売をしていることを話すと、王都で店を構えているということが彼女の中では素晴らしい偉業であったらしく、大店の坊ちゃんで良い学校を卒業した後に中央省庁に就職したエリート役人という、どこの誰だと言いたくなるような人物像を押し付けられてしまったのである
目一杯歪曲すればそう取れないこともないかも知れないが、僕は自分がそんな大した人間ではないことをよく知っている
身体が弱くて、要領も悪くて、そんなつもりはなかったのにいつのまにか貧乏くじを引かされているような、そんな人間なのである
だから、マルゴさんに買いかぶりですよと伝えることができれば良かったのだが、あまりにも喜んでいる彼女にそれを伝えるのは難しかった
結局、エリート中央役人の誤解は解けぬまま、乗合馬車はモルムの町に着いてしまった
「ヘンキョウ村に行くなら明日におしよ。明日だったら、私が村まで案内してあげるよ」
行商の荷物を降ろすのを手伝っていると、マルゴさんがそう提案してくれた
「いいんですか?」
「もちろんさね。どの道、私は明日ヘンキョウ村に行く予定なのさ。一週間に一度、村に生活品を売りに行って、ちょっとした仕入れをしているもんでね」
そう言えば、道中マルゴさんはヘンキョウ村では珍しい調味料やお茶が名産だと言っていた
作り手が少ないためほんの少ししか仕入れることができないらしく、大口のお得意さんにだけ内緒で卸している希少品らしい
「この国であの調味料を扱っているのは私だけさね!」
そう言って胸を張った彼女を、どんなものなのかと問い詰めたのだが、企業秘密だからと教えてくれなかった
乗合馬車という、人目があるところでは話したくなかったらしい
どうせヘンキョウ村に行けばその調味料にお目にかかれるんだからと言われ、僕はなんとか好奇心を押さえ込んだのである
だから、モルムに着いたら一目散にヘンキョウ村へ向かおうと、最初はそう考えていた
しかしマルゴさんの提案は、僕にとってはとても有難いことだった
身体が弱く、王都から出たことがなかったので山歩きなどしたこともなく、しかも大量の荷物を抱えている身である
単独で山登りをするよりも、道案内をしてくれる人がいてくれた方が安全だし、もしかしたらポーターも紹介してもらえるかも知れない
局長には本日7日から勤務するように言われていたが、ヘンキョウ村だけでなく近隣の様子を知ることも仕事と言えなくもないだろう
そう思った僕は、マルゴさんの提案を受け入れて本日はモルムに宿泊し、翌日ヘンキョウ村へ向かうことにしたのである
自分の家に泊まってくれたらいい、と言ってくれたマルゴさんの申し出を辞退して、町の宿に宿泊する
流石にそこまでお世話になるのは申し訳なかった
宿に荷物を運んでポーターの手配を頼んだが、この町にはポーターという職業の人はいなかった
ヘンキョウ村へ向かう人など皆無のため、そんな仕事で生計を立てることなどできないからだ
だが、貴重品はともかく、全ての荷物を自力で運ぶには、文字通り荷が重すぎた
結局、マルゴさんが行商に使うリヤカーを貸してくれることになったので、荷物をリヤカーに乗せてえっちらおっちら運んでいくことになったのである