第九話 くしゃみをしたら死ぬと思いなさい
結局のところ、鬼山のおばちゃんが衝動買いしてきたあの大きな壺が、その妖艶な肢体に触れた者へ絶対の幸福を与えるなんてことは、よほど手の込んだ作り話だと解釈して差し支えなさそうだった。
帰り際、あたしはかなり特別扱いで壺に描かれた赤子の頭を撫でさせてもらった。
「撫でると、どうなるの?」
不慣れな手つきで鶴を折りながら美奈子が聞いた。
「幸せになれるんだって。自分が望むものを手に入れられることが、本当の幸せと呼べるのならね」
翌日の昼休み、あたしと美奈子は机を挟んで向き合いながら、騒々しい教室の真ん中で鶴を折っていた。初めは不承不承だった美奈子も、鬼山の母親と妹のためだと説明してやると、後はずっと己を誇るような笑顔だった。
でも美奈子の場合、尾を引くと翼が動く〝鶴もどき〟ばかり完成させるので、ちょっとでも目を離すことは許されなかった。
「頭をなでなでする前から、華世は幸せ者だったのよ」
美奈子が身を乗り出した分だけのけ反る。
「家に入れてもらえて、おやつまで御馳走になって、更には鬼山くんの部屋であんなことやこんなこと……」
「ねえよ」
美奈子が〝鶴もどき〟ばかり作るのは、過ぎた妄想が手元を狂わせるからだ。あたしはその度に指先をピシッとはたく。だけど美奈子の妄想は止まらない。あたしを見つめるその顔に、映画のラブシーンでも鑑賞するような赤みが差し込んでいく。瞬きも忘れてじっと。じ~っと。まだ見てる。まだ見てる。顔が一段と赤くなる。
今こいつの頭をかち割ったら、あたしと鬼山のラブシーンが際限なく溢れ出して、この教室を埋め尽くすに違いない。マジでやめろ。
「あのね。鬼山とはちょっと会話しただけで、美奈子が妄想してるようなことは絶対に起こってないから。そんなこと考えてると……ほら! また〝もどき〟になってる」
「わざとよ」
購買のメロンパンにかじりつく鬼山をつぶさに観察しながら、美奈子は恍惚げに頬杖をつく。今や身も心も、鬼山勝二に捧げる覚悟ができたとばかりだ。
「ねえ、知りたくない?」
美奈子が囁く。
何を? あたしは素っ気なく返す。
「さっき言ってたじゃない。最近の鬼山くん、学校からの帰りが遅いんでしょ? 放課後に何をやってるのか、知りたくない?」
別に? 手元の鶴に集中しながら、あたしは努めて冷淡に、短く答える。
「嘘よ。ごまかさないで」
「本当だってば」
言いつつも、あたしの口元は心の狡猾さを反映させて、薄汚い笑みを漏らし始めてた。鏡を覗けば、一矢そっくりのニヤニヤ顔がそこに映ったかもしれない。
「どうする? 後をつける?」
あたしはさっそく乗り気だった。こんなに心躍るのは久しぶり。
「それが手っ取り早そうね。今日の放課後なんてどう?」
「おっけー。土曜日は決まって朝帰りらしいし、金曜日の今日は間違いないはず」
鶴そっちのけで始まる作戦会議。体裁は悪いけど、あたしたちは真剣よ。鬼山尾行作戦に昼休みの残り時間を全て費やす覚悟は出来てたし、手つかずだった英語の宿題はこの際あえて忘れた。
「歩行以外は有り得ないわね。バスに乗られたらどうする? 自転車ならアウトね」
熱心に意見する美奈子。
「あいつがバスに乗った時はいさぎよく諦めようよ。でも、チャリの心配はいらないわね。あいつ乗れないから」
「うっそ!? カァワイー!」
持て余していた両手で折鶴作りを再開させながら、美奈子は黄色い声を上げた。
「ずいぶん楽しそうだね」
あたしたちは驚いて顔を上げた。瀬名くんの笑顔がこっちを見下ろしていた。
「楽しいよ。でも、瀬名くんにはちょっと理解できないかもね」
鬼山を尾行する旨を説明したら彼は乗るだろうか? ……だめだめ。あの鬼山が朝まで〝まとも〟なことをやってるわけがない。瀬名くんにそんな現場を目撃させたら、次は停学じゃ済まなくなる。
「こう見えて折り紙は得意なんだ。子供の頃、取り憑かれたようにエリマキトカゲばかり作ってた。そのせいで家の中はいつも爬虫類博物館みたいだった」
あたしたちはひとしきり笑い合った。作戦会議改め、井戸端会議が始まった。
「そういえば、今日は柏木先生の所へ行かないの?」
美奈子が尋ねる。苦笑する瀬名くん。
「やっぱり気付いてた?」
その手にはすでに、一匹のエリマキトカゲが出来上がっていた。
「実は、間近に迫った生徒会役員選挙について話し合ってるんだ。すごく親身になってくれるし、それも兼ねて進路の相談にも乗ってくれるから、とても助かってるんだよ。今日は授業の準備があるから無理みたいだけど」
「あっ、そうそう」
まぶたの内側に藤堂のキザな笑みが浮かび上がった。
「藤堂くんが『選挙楽しみにしてるから』だって。なんかさ、いよいよって感じだよね」
あたしは笑った。瀬名くんは笑わなかった。
「嬉しくはないみたいね」
エリマキトカゲの分解を始めながら美奈子が言う。
「彼の言葉が何を意味するのか、僕には分からない」
瀬名くんは呟いて、白く濁った黒板を眺める。美奈子があたしを見る。あたしは瀬名くんを見た。
「彼がどんな手段に出ようと、僕は正々堂々と戦う。そうすれば、例え選挙で負けたとしても、僕は誰も責めずに済むんだ……」
去っていく。孤高の後ろ姿は数ヶ月前のあたし自身を思わせた。
瀬名くんはもがいてる……暗くて冷たいあの場所で。
放課後、あたしと美奈子はトイレ脇の手洗い場に身を潜め、その時を待っていた。ここなら隠れつつコエダメを見張ることが出来る。拳で穿たれた壁のほくろや、『あかずの間』を仕切る暗幕のシワの一つひとつまで鮮明に。
今回のターゲットは、猿山のボス猿のような出で立ちでタバコを吹かすあの男、鬼山勝二。放課後に起こす謎めいた所業の一部始終を暴くべく、あたしたちはこうして立ち上がった次第である。
「よほど暇よね、あたしたち」
あたしはぶつくさ言う。
「瀬名くんを見習って、柏木に進路相談でも持ちかけようかな」
「ちょっと、ブツブツうるさいよ。向こうの会話が聞こえないじゃない」
美奈子はコエダメから死角となる壁際から額だけ突き出し、バレてないつもりのまま観察を続けていた。鬼山はまだコエダメから離れる気配をみせない。
「不良どもの真ん中で威風堂々とタバコを咥える鬼山くん……なんてダンディなの!」
美奈子の幸せそうな笑顔。恋という名の熱で完全にとろけてる。
「見て……誰か来た」
副担任の武田先生だった。白髪を輝かせながら、タバコの煙の中を臆さず突っ切ってくる。あいつらも慣れているのか、「ちっす」とか言いながら愛想良く手を振っている。武田先生は笑みを絶やさず、生意気な孫を相手取るような物腰で、二言三言、言葉を投げかける。たぶん、タバコを吸うなとか、酒を飲むなとか、その手のお説教だろうけど、これも通例じみているのか、不良どもは歯牙にもかけない様子でヘラヘラしてる。
一端、あたしたちはトイレの中へ身を引いた。この場で先生に話しかけられるのは好ましくない。
「何でこんな所うろついてんのかしら?」
武田先生が手洗い場を通り過ぎた後、あたしは声を潜めながら呟く。
「日課の散歩でしょ。いつもブラブラ歩いてるじゃない」
「放課後も? 休み時間だけのはずじゃ……」
美奈子は聞いていなかった。すでに定位置で待機中だった。
「今さらだけど、五十嵐がいないわね。いつも鬼山の影みたいにまとわりついてるくせに」
指摘すると、美奈子が不快を露わに振り向いた。
「あんなのほっときなさいよ。いないならそれでいいじゃない、あのストーカー」
「今の自分を棚に上げてストーカーはないでしょ」
「だって気味悪いわよ、あいつ。二年になってから特にそう。こう……『鬼山くぅん! 鬼山くぅん!』て」
思うさま笑っちゃった。似過ぎでしょ、あんた。
「そんなに面白い? 『鬼山くぅん、僕もトイレ行くよぉ。鬼山くぅん、一緒にご飯食べようよぉ。鬼山くぅんってばあ、無視しないでよぉ』……あっ!」
不意に走り出した。カバンを引っ掴み、スカートをひるがえす。次には影も形もない。鬼山もいない。
あたしは鬼山を……否、美奈子を追った。廊下を疾走してる。追いつけない。めちゃくちゃ速い。たぶん帰宅部で一番速い。帰宅部のエースだ。
ぜえぜえ言いながら玄関まで辿り着くと、美奈子が下駄箱の陰に身を潜めて『こっちへ来い』と手で合図していた。髪の毛どころか鼻息さえ乱れてない。
「あんた、いつからそんなに歩くのが速くなったの?」
今の美奈子に皮肉は通じない。真剣な眼差しで、玄関扉の向こう側を突っつくように指差してる。表階段に鬼山と思しき生徒の背中が確認できたが、すぐに見えなくなってしまった。
「追うわよ」
これはまさしく、水曜夜九時から始まるサスペンスドラマ。ハイスペック腕利き女刑事とその冴えない助手役が乱舞する、血と狂気のハーモニー。もちろん、あたしは助手役ね。落ち込みかけていたモチベーションを高揚させるには十分な役回り。
「カバン、お持ちします」
校舎前の階段を慎重な足取りで駆け下りながら、あたしは演技たっぷりに美奈子のカバンをもぎ取る。
「あら、気が利くのね。近隣の地図はある? ここらの地理を把握したいんだけど?」
美奈子はノリが良かった。
「地図なら頭の中に詰め込まれてますよ。でも神崎さん、この案件は地図以上に信頼性のある私たちのコンビネーションが試される時ではないでしょうか? 何せ、相手はあの『フクロウ』や『全身ゴキブリアンテナ』の異名を持つ鬼山勝二ですからね」
「確かに……些細な失敗が命取りになりかねないわ。いい、柴田助手? くしゃみをしたら死ぬと思いなさい」
あたしたちは下校生徒に紛れて鬼山を尾行した。車通りの多い幹線道路を渡り、ひと気のない高架下をくぐる。まだ着かない。居酒屋が軒を連ねる繁華街を抜ける。まだ着かない。鬼山は歩き続ける。まだ着かない。
「どこまで歩くつもりよ」
夕刻のアーケード街は買い物客で賑わっている。あたしたちが鬼山を見失わずに済んでいるのは、あの長身にボリューミィなボサボサヘアが乗っかっているお陰だ。
学校を出てから三十分経っている。
「それにしても、あいつがバスやタクシーに乗らなくて良かったですね、神崎さん」
「まだやってたんだ、それ」
美奈子は呆れたように、けれど嬉しそうな笑顔で言った。
「こっちの方が緊迫して面白いじゃん」
あたしは言いながらカバンを突っ返す。
やめてたなら自分のカバンくらい持ちなさいよ。
「ここってどのあたり? 学校出てから結構経つけど」
「たぶん、美奈子ん家の方面じゃないかな。でもここら辺ならバスでも来れるんだけど。バス代ケチってんのかな……?」
美奈子が立ち止まったのが見えた。振り向くや腕を強引に掴まれ、目の前のゲームセンターまで引っ張られていった。
「痛い痛い……痛いってば!」
あたしは腕を振り払わんともがく。この可憐な容姿からは結びつかない凄まじい握力。あの俊足といい、鬼山に対する美奈子の馬鹿力っぷりは常軌を逸してる。役員選挙なんかやってる場合じゃない。人類進化における神秘と新たな可能性を示唆させるものとして、今すぐ学会で発表すべきよ。
「見てなかったの? すぐ隣のパチンコ屋だった。入っていくのが見えたもの!」
すっかり興奮状態だった。ゲーセンの入り口は大きくガラス張りになっているので、外の様子が鮮明に窺える。隣の店は確かに大手のパチンコ屋だ。
「学ランでパチンコなんて自殺行為よ」
あたしは大声で言う。店内は街中の雑踏より不快で騒々しい。
「正面じゃなくて、裏手のドアからよ。ほら、ここからギリギリ見えるじゃない?」
美奈子が突き刺すような勢いで路地を指差すので、あたしは寸でのところでかわさなければならなかった。
「落ち着いて、よく考えてみよ。本当に裏口から入っていったんなら、鬼山はほぼ間違いなくあそこで働いてるってことになる。でしょ? でも校則でアルバイトは禁止になってるし、そうでなくても、高校生がパチンコ屋を出入りするなんて厄介な事実よ。でしょ? つまり、どういうことか分かるよね?」
「つまり……みんなには内緒ってことでしょ」
「まあ、いい線いってる」
あたしは認めた。
「これからどうする?」
裏口をしきりに観察し続ける美奈子に向かって声を投げかける。数人の男子学生が脇を通り、店内へ入っていった。
「……ちょっと寄ってかない? このまま見張ってたって、あいつ出てこないかもよ?」
「寄っていくって……まさか、ここに?」
店内を眺める美奈子の目つきは道端の汚物を見るそれだった。
「野蛮よ、こんなとこ。うるさいし……なんか臭いし。バカしか来ないわ」
「バカでもいいじゃん。おごるからさ、ね。ハイ、決まり!」
手を取って力ずくで引きずり込む。よく見ると、何度か来たことのあるゲーセンだった。
「これやろうよ」
呼びかけながら、あたしは美奈子が見せる挙動不審めいたリアクションの数々を楽しんだ。美奈子は、どのメロディがどの機械から発せられているのか全て突き止めてやろうとばかりに首を動かし、色とりどりのイルミネーションに瞳を輝かせていた。
「ねえ、これやろう」
あたしはもう一度その手を引いた。美奈子はレーシングゲームに熱中する少年たちを見て、少し驚いているようだった。
「あれは交通事故を防止するためのシミュレーションゲームか何かなの?」
どうやら本気みたいね。少年たちが無免許でハンドルを握り、アクセルを踏み込む姿が不思議でしょうがないらしい。
「ゲームに理屈なんか求めないでよ。あるのはシンプルなルールだけ」
言いながら、あたしは美奈子の手にバチを押しつける。その顔が怪訝に歪むのを、あたしは笑顔で無視した。
「これやろう。太鼓のゲーム! ルールはね、ひたすらブッ叩けばいいのよ!」
手始めにこれを選んだのは正解だった。音楽に合わせてリズム良く太鼓を叩くこのゲームは、うまく美奈子のツボにはまってくれたらしい。あたしたちはまるまる三十分もその場を独占し、手に豆ができるほど太鼓を叩きまくった。
「パパに頼んでこの機械を買い取ってもらわなくちゃ」
次の百円玉を握りしめる美奈子。今度はあたしが困惑する番。
「ちょっと待った……次は違うヤツやろうよ。ね? ね!」
渋々と受け入れる美奈子を引っ張り歩いていたのは最初だけ。その足取りは徐々に快活さを取り戻し、やがては自分を待ち受けるであろう新たなゲームマシンを求めてあたしを追い抜くまでになった。
「見て! 壊れてる!」
壊されたパンチングマシンを見てはしゃぐ美奈子。動物園で動物を見る度に狂喜する子供みたい。
「噂は本当だったのね……」
可哀想なパンチングマシン。鬼山に痛めつけられて、根元からポッキリ折れちゃってる。
「これ壊したの、鬼山らしいよ。素手で殴ったんだとか」
この話題は美奈子の恋心をときめかせる興奮材料にしかならないわね。今に黄色い声を上げて、頬を赤らめるに違いない……そう懸念してたけど、美奈子の反応は薄かった。ていうか、何でしかめっ面?
「あいつ……五十嵐がいる」
マジだった。十メートルほど離れた所にあるプリクラ機の間を、忙しなく行ったり来たりしている。まだあたしたちには気付いてない。
「あいつも鬼山くんをつけて来たのよ。絶対そうに決まってる」
あたしたちは一旦その場を離れた。美奈子は憤慨している。カバンを振り回し、踏みつける足音は騒音だらけの店内でもはっきり聞こえた。
「偶然かもよ? コエダメにはいなかったんだしさ」
「どっかで待ち伏せしてたのよ。気味悪い……あいつホモよ」
異議なし。五十嵐のホモ疑惑にはかなり以前から注目していたし、それに関して否定してやるつもりもない。ここまできたら、アイドルの追っかけファンも顔負けね。
「もう帰ろう。鬼山のことも気になるけど、五十嵐がいたんじゃ落ち着かないしさ」
美奈子は素直に了承してくれた。
外へ出ると、風船を持ったウサギの着ぐるみとバッタリ出くわした。不釣り合いな四頭身にヤニ臭い黄ばんだ毛並みをまとってる。あんまりかわいくない。あたしにつぶらな瞳を向けたまま、営業目的だけの無愛想な笑みを刻んで硬直している。
美奈子の息を呑むような悲鳴が上がったのはその直後だった。あたしはウサギの顔を覗き込んだ。
「華世!」
美奈子が声を殺して叫んだ。
「え……?」
まさかこの中身……。
逃げ出すウサギ。ぎこちなさそうに足を引きずりながら、パチンコ屋の裏手に入っていく。
って、またかよ……美奈子が不意に走り出した。
「待ってよ!」
向かってくる通行人をかわしながら叫ぶ。
「待てない!」
美奈子は手で顔を覆ったまま危なっかしく走り続けてる。赤信号の交差点が目の前に迫った時、あたしはギリギリのところで美奈子のカバンを掴んだ。
「死にたいの? そんな走り方して……」
「死にたい!」
声は手の中でくぐもっていた。体が前へ前へと傾いていく。力を抜くと、あたしを道連れに赤信号の真っ只中へ飛び込んでいってしまいそうだった。
こうなったら奥の手……あたしは美奈子の肩を後ろから抱き寄せ、両手で優しく包み込む。首回りにそっと腕を絡める。美奈子の強張った体が少しずつほぐれていった。
「あの着ぐるみの中身が鬼山だって、自信を持ってそう言える? まだ何も分からないじゃない」
あたしは耳元で諭す。柔らかい髪の毛が頬に触れて、くすぐったい。信号が青に変わる。あたしたちは肩と腕を連結させたまま横断歩道を渡った。
「でもでも、タイミングもバッチリだったし、あのウサギは華世を見て固まってた。それで……それで……逃げてった!」
美奈子は今にも泣き出しそうだった。あたしは美奈子の真っ赤な顔と向き合った。
「どうしよう……もう学校で会えないよ」
「美奈子が怯えたりするからじゃない。いい? 鬼山はあたしたちが偶然、あのゲーセンにいたと、そう思うはずだったんだよ? まあ、あれが鬼山かどうかは分からないけどね」
「あぁ……そっか、そっかそっか! 自然に風船をもらっておけば良かったのよ。たまたまあの場にいたことにすれば、万事解決だったのに!」
自分に腹を立てる美奈子。
かける言葉も見つからず、ただ黙って寄り添うしかなかった。
月曜の朝、あたしと美奈子は女子トイレの手洗い台の前で、深刻な顔を見合わせていた。
「電話で話したでしょ? 鬼山が見たのはあたしだけ。美奈子のことは見えてない」
「うん……でも、華世の名前を呼んだわよ」
「聞こえてないって。あっちもビックリしてて、それどころじゃなかったんだから。まあ、あれが鬼山かどうかは分からないけどね」
最後にそれを言い添えるのはお決まりになっていた。
その言葉どおり、あたしは美奈子ほど気にはしてなかったけど、やっぱり鬼山と顔を合わせるのは気が進まない。あいつがパチンコ屋で働いてる事実は拭い切れそうにないし。
女子トイレに二人の生徒が入って来た。静まり返ったトイレに会話が響く。
「さっきさ、男子が階段から落ちたんだって。今救急車向かってるらしいよ」
「マジ!? 誰!?」
「新聞局長の朝倉仁! さすがのあいつも、傷ついた自分は記事に出来ないよね」
あたしたちは顔を見合わせた。
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。段々と大きくなる。