第八話 ご無沙汰でした、〝お前〟です
五月最後の木曜日に行われた書記の会合では、眠気を帯びた顔にムチを入れなければならないような議題が出され、お馴染みだったあたしのあくびはいよいよ封印された。
「六月九日に実施される、今年度の生徒会役員を決める放送演説会、及び投票までの流れを確認するため、本日の委員会を設けました」
書記長が口頭で述べた。
「投票の開示では私たちの中から一名が参加し、経過を書記することになります。生徒会役員への同時立候補は認可されていますので、興味のある方は後で私の所まで来てください。活動内容をまとめたプリントをお渡しします」
「生徒会なんて知ったこっちゃないけど、華世がやりたいっていうなら、応援してあげないこともないよ」
解散後、教室で待ってくれていた美奈子に委員会での内容を話して聞かせると、返ってきた答えがそれだった。あたしたちが互いの名で呼び合い、同じ席で昼食をとり、バス停までの道のりを一緒に下校するようになってから、もう三週間ばかり過ぎていた。
素敵な三週間だった……ってわけじゃない。
美奈子の脳内には分厚い自己恋愛理論があって、時間も場所も問わず語り出そうとする。奥ゆかしさ、和服美人、流行、デートスポット、ダイエット、口説き方、口説かれ方、口説かせ方、身の振り方、尻の振り方。どんな話題も、美奈子が喋り出せば恋愛論フルコースへ集束していく。昨日食べた晩御飯が初めて作る彼への手料理になったり、今注目のお笑い芸人が将来の旦那候補になったりする。
そして隙あらば、会話と会話の繋ぎ目で告白の模擬練習に打って出る。鬼山役のあたしは「あー」とか「うー」とか相槌を打ちながら、早く終わんねえかなと心でぼやく。
けどやっぱり、美奈子といるのが一番楽しい。
「つまり、華世が当選するようにじゃなく、他の人が落選するように呪いをかければいいんでしょ?」
何か言ってる。
「黒魔術なんかのオカルトに詳しい女の子が隣のクラスにいるけど、頼んでみよっか?」
「いいってば。自分の力でやり通さなきゃ意味ないでしょ?」
「それが不安だから提案してるのに」
教室を出て廊下を渡り、一階へと続く階段を下り始めた時、踊り場の陰から小男が一人、ひょいっと飛び出した。以前、学校であたしをナンパし、会議室で鬼山に投げ飛ばされたカッパだった。幸運にも名前は忘れた。
「ねえ君たち。今から俺とゲーセン……どっかで見た顔だな」
美奈子が鼻で笑う。
「鬼山くんに放り投げられるあなたを会議室で見たわ」
「あたしは前にも声をかけられたよ」
カッパの顔が強張ってきた。ボサボサの頭をかきむしる姿は、ひどく当惑しているようにも見えた。折しも、階段を上る足音が近付いてきた。
「また君か、森下くん」
見覚えのあるシチュエーション……現れたのは藤堂渉だった。
「いい加減にしないと……」
目が合った瞬間、口をつぐむ藤堂。決まり悪そうな顔がすこぶるみっともない。
「久しぶり、藤堂くん」
建前の挨拶。露骨に視線を逸らして、ヤな感じ。
今度は何を隠してんのかしら? 会うたび嫌いになるわ、こいつ。
「森下くん。君はもう帰れ」
カッパは何も言わず、藤堂の気迫から逃げるようにして去っていった。残されたのは三人の男女と、言い知れぬ緊迫感だった。
「まさか、華世と藤堂くんって知り合い?」
美奈子が空気を読まずに割って入る。
「前に会議室で話したでしょ、助けてもらったって……」
「藤堂くん、生徒会長に立候補するんでしょ? 応援してるから頑張ってね!」
聞けよ。
「具合はもういいの? 朝倉が君にひどいことしたって……」
「平気! 大丈夫!」
美奈子の声には空元気を思わせる虚ろな響きがあった。〝朝倉〟というタブーが条件反射になってるらしい。
「あいつの目論見を阻止できなかった自分に腹が立つよ……朝倉は退学になるべきだった」
怒ってる……ていうか、不機嫌? 何で?
「えっと……気にしないでね。藤堂くんは悪くないんだし」
あの美奈子が引いてる。
藤堂のしかめっ面が少しだけ和らいだ。
「……それじゃ、瀬名くんによろしく。六月の役員選挙、楽しみにしてるからって」
「チョーかっこいいよね! 藤堂くん!」
藤堂が立ち去るや黄色い声を上げる美奈子。
ため息。
「あれ? ……怒ってる?」
「別に……」
怒ってない。呆れてるだけ。
芽生えた友情が美奈子の男ったらしに歯止めを利かせてくれるわけじゃない。そんなことは分かってたけど、現状を目の当たりにするのはつらい。
鬼山に対する美奈子の恋心を推し量るのは難しい。どこまで本気なんだろう? 分からない。
『前々から気にはなってたよ。倉庫で助けてくれた時、それが決定的なものになったのは確かだけど』
吊り橋効果でしょ。あたしは言ったけど、美奈子は首を振った。
『好きだよ。本当に』
あの顔が忘れられない。手の届かないもどかしさ、何もできない非力さ……それが〝恋〟だと心得てる女の顔だった。
けど、美奈子はやっぱり美奈子だ。藤堂と鉢合わせてそれがハッキリした。面食いで、優柔不断。美人にありがちな慢心を余す所なく発揮しようとする。美奈子が言い寄れば大抵の男は心が揺らぐ。こんなに美人で、愛らしいんだもの。
悔しいけど、あたしにそんな力はない。あたしが虚勢を張れるのは、美奈子のメイクがあたしの弱さを隠すからだ。でもあたしは、あたしを内側から照らす美の存在を信じてる。美奈子が気付かせてくれた。
彼女を〝ライバル〟と呼んだあたし。〝負けない〟と気炎を吐いたあたし。みんな本物だ。だから諦めない。あたしも鬼山が好きだから。
バスを降り、家路を辿っていると、通り沿いの公園に女の子を見つけた。砂場に身を屈めて夢中で砂をほじってる。
「沙希ちゃん!」
呼びかけると顔を上げ、子供用スコップを頭の上で振った。
鬼山沙希。鬼山勝二の妹だ。
「久しぶり~!」
あたしは屈み込み、沙希の小さな手とハイタッチした。
「おひた~」
ニッと笑いかける沙希。前歯が上下共に抜けたせいか、サ行が力のこもらないタ行に聞こえる。
「歯抜けたんだね。屋根に投げた?」
「今埋めた」
さすが。
「お姉ちゃん、今まで何ちてたの? ずっと会いたかったんだよ!」
お姉ちゃん。あたしのこと。言葉を覚え始めた頃から、沙希はあたしをそう呼ぶ。当時は妹ができたみたいで嬉しかった。
「ごめんね。最近ちょっと忙しくって……小学校はどう? 楽しい?」
本当は鬼山に避けられてるからなんだけど。とりあえず話題逸らしとこ。
「まあまあね。幼稚園じゃ本の読み聞かてばかりだったから」
ちょっとませたわね、この子。コンビニで調達した少年誌を読み聞かせてたあの頃が懐かしい。
「一人で遊んでたの?」
公園内を見回しながら聞いてみる。あたしたちの他にひと気はない。
「みんな帰っちゃった。あの子たち、つな場あとびがキライみたい。だってね、クツの中につなが入るとつごくイヤな顔つるんだもの」
ツナが何だって?
沙希はもう一度しゃがみ込むと、持っていたスコップを砂の穴へ突き入れた。
「何作ってんの?」
「落とち穴」
まさかの〝落とち穴〟。思わず笑っちゃった。
「みんなにはヒミツなんだよ」
作業を進めながら沙希は言う。
「できるといいね、落とち穴」
「落とち穴じゃなくて〝落とち穴〟だよ!」
「でもここでそんなことしたら、他のみんなに迷惑じゃない?」
「だいじょぶ。この公園を使うのはわたちと、あと、隣のジイジくらいだから。コジロウのたんぽコーツなの」
「ふーん」
ならいっか。
「ねえお姉ちゃん、これからお家来ない? ……手伝ってほちいものがあるの」
立ち上がり、黒いワンピースから砂を払い落としながら、沙希は遠慮がちに言った。
「いいけど、何を手伝うの?」
「お母たんへのプレゼント。お母たん、入院したんだよ」
「うそ……」
「病気なんだって。イッチはつぐ治るって強がってたけど、目が真っ赤だったよ」
黄色いバケツにスコップを投げ入れると、沙希は落ち込んだように黙ってしまった。
「きっと良くなるから、イッチを信じようよ。お母さんへのプレゼント作り、あたしにも手伝わせて」
沙希の表情に笑みが戻った。左手でバケツを持ち、右手であたしの手を握った。
「行こう! 落とち穴はまた今度!」
鬼山宅はあたしの家から三十メートル程しか離れていない。その気になれば窓から窓へキャッチボールができるし、努力すれば紙ヒコーキだって届くかもしれない。
見てくれはごく普通の一戸建て。庭もあるし、花壇もある。物置だってある。小さいけど苺畑もある。敷地を囲むレンガ塀にはすすけた落書きの跡だってある。ガレージには見覚えのない車だって収まってるし……?
「中にちまってくるから、ちょっと待っててね」
沙希はバケツを乱暴に振り回しながらガレージへと消え、すぐ手ぶらになって戻ってきた。あたしたちは一緒に家の中へ入った。
玄関から居間を覗いた時、パジャマ姿の男とバッチリ目が合った。片手に牛乳瓶を持ち、今まさにラッパ飲みしようというところだった。
鬼山一矢。鬼山勝二の兄だ。愛称はイッチ。
「何だ、お前か。おばちゃんかと思ったぜ」
「ご無沙汰でした、〝お前〟です」
低いトーンに憎悪を練り込む。一矢にはよくいじめられたので、これくらいつっけんどんならむしろ調和がとれる。
無精ひげに覆われたアゴをかきむしる一矢。眠たそうな目元と大柄な体格、粗悪な言葉遣いは弟そっくりだけど、性格は言うほどひねくれちゃいない。ただし、一矢はひきこもりだ。あたしの知るところ、高校を半年で中退してからずっと家に閉じこもってる。
今はどうなんだろ? 社会復帰できたのかな? ……聞くまでもないわね。
「おばちゃんって何のこと?」
聞きながらソファーに座る。座るっていうか、くつろぐ。もう無理ってほど脚を伸ばし、背中を預ける。この家で上品な振る舞いは必要ない。手元にリモコンがあればローカル番組でも見始めるとこだけど、おあいにく、テーブルの上には一縷の埃すら乗ってない。
「お袋が倒れたろ。親父も行方不明ときた。俺たちの面倒を見るのはお袋の姉しかいないってわけ。それがおばちゃん」
今『親父も行方不明』って聞こえたけど……。
「嫌味な奴さ。いつもお袋の悪口言ってる。筋金入りの掃除好きで、最近の趣味は俺たちを箒ではたくこと」
「おちりをとうじきでつうんだよ」
憐れっぽい表情で補足する沙希。それを横目で睨む一矢。
「お前はいつも砂だらけで帰ってくるからな。ほら、顔に泥がついてる。今度は雑巾で鼻をゴシゴシされるぞ」
一矢は架空の雑巾を持ち出して鼻をゴシゴシされるジェスチャーをやってみせた。目をひん剥き、歯茎を露出させ、ゾンビ映画のゾンビみたいな呻き声を絞り出しながら、顔の上で表情筋を巧みに動かしまくってる。沙希はそのみにくい生き物に向かって舌を突き出すと、洗面所へ引っ込んでしまった。
「じゃあ、ガレージの車はおばちゃんのものなんだ……今家にいないの?」
牛乳をこぼしながらグビグビと飲み続ける一矢に軽蔑の視線をぶつけながら、あたしはさりげなく聞いてみる。
「いねえよ」
ゲップついでに一矢は言う。
「隣町のスーパーまで行ってる。車はほとんど乗らねえんだ。エコ、エコ、エコ。ご愛用のママチャリは俺たちより愛おしいって感じだな。勝二と珍しく意気投合してさ、チャリのブレーキに細工してひと泡吹かせてやろうって計画立ててんだけど、お前も乗るか?」
「バッカみたい。……あっ、沙希ちゃん、プレゼント作ろっか!」
沙希が鼻を赤くさせて戻ってきた。
「わたちの部屋に行こ! イッチ、後でおかち持ってきてよ」
「棚の奥に隠してあったおばちゃんの大福を差し入れてやるよ」
沙希は無視したものの、階段の中腹あたりで振り返った。
「イッチ、あたちの本隠ちたでちょ」
「知るか」
「『おばけのバーベキュー』、隠ちたでちょ」
「知らねえって」
…………。
言えなかった。確かに、あたしと瀬名くんがその本を捨てた。でもあれは鬼山と柏木の些細な争いからとばっちりを食っただけだし……あたし悪くないし……諸悪の根源は鬼山だし。
……今度買ってあげよっと。
手伝ってほしいものが何なのか、部屋へ足を踏み入れた瞬間に察しがついた。真新しい学習机が七色を帯びた千羽鶴で彩られている。一つひとつ丁寧に折られ、鮮やかなグラデーションを奏でながら視界を染めるそれは、虹を透かして見る滝の一筋を連想させた。
一人で作ったの? あたしは素直に驚いた。
「とうだよ。本で作り方をちらべて、わたちがみんな一人で折ったの」
沙希はランドセルから一冊の本を取り出し、それをあたしによこした。『千羽鶴・完全マニュアル』。埃っぽい、色褪せた本だった。
「今のお小遣いだと、一日で十羽が限界なの。学校でもう十羽折ってきたけど、今日はお姉ちゃんがいるからもっとたくたん作っちゃおっと」
「ちなみに、完成まであと何羽?」
「五百羽」
何なのこの子?
一人でしこしこと五百羽……その上これほど綺麗な折り鶴を完璧なグラデーションで五百羽折り続ける、この七歳から逸した精神と器用さの原動力は何?
どうやら鬼山勝二と同じ、先天的に秘められた秀才の血が、ここにきて頭角を露わにし始めたみたいね。あたしより頭良いんじゃないの?
「とにかく、鶴をひたすら折りまくればいいのよね」
笑ってうなずきかける沙希。無垢で可愛らしい。
「お母たんの病気が治りまつようにって、ちゃんとお願いちなきゃダメだよ」
あたしたちは互いの近況を喋りながら鶴を折り続けた。
沙希は熱心に『友達との付き合い方』について尋ねたけど、この手の話は苦手だった。鬼山とは一向にこじれたままだし、美奈子との付き合い方は独特で、きっと参考にはならないだろう。
「相手を思いやることね。あとは、素直に接する。嘘をつかない。いつも笑顔で。休み時間はとにかく遊ぶ……休み時間は何してるの?」
「校長ポイポイゲーム」
よく分からんがまあヨシ。
「学校のこと、お兄ちゃんたちには相談しないの? ……おばちゃんとか?」
二羽目に差し掛かりながらあたしは聞いた。沙希の手が止まった。
「ちないよ。おばちゃんはあたちのこと嫌ってるし、イッチはバカにするから」
「……勝兄はどう? ケンカしてない?」
「勝兄はダイツキだよ。やたちいもんね」
声が弾む。あたしも嬉しかった。
「勝兄はね、勉強もおちえてくれるち、おやつもくれるんだよ。いっちょにモノポリーちてくれるのも勝兄だけだち。……でも、学校から帰ってくるのがおとくなってきてる」
「何で?」
「たあ? 土曜日と日曜日は次の日まで帰ってこないよ」
沙希は作業を再開させたが、すぐに手を止めてしまった。
「おばちゃんは、友達とあとび歩いて悪たちてるんだって言うけど、わたちは違うと思う」
「心当たりあるの?」
「勝兄は良い子だもん」
そうだね。あたしは頷いて、笑いかけた。
「勝兄は良い子だ」
その時、一矢がノックも無しに部屋へ入ってきた。両手でうやうやしく持つ銀トレーには、グラスに注がれた牛乳と、皿に盛られた大福が乗っている。
「大丈夫だって。さっきのとは別の牛乳だし、大福は勝二の分をくすねたんだ」
あたしたちが無言で睨みつけるのを、さも快感とばかりにほくそ笑む一矢。さながら新手のイタズラを覚えた小賢しい猿みたいな表情だった。
沙希は、猿がわざと牛乳をこぼすのではないかと察したように、テーブルの鶴たちを急いで避難させた。
「沙希、おばちゃんが気味の悪い壺を持って帰ってきたぜ。言うこときかないと、あの中に頭から入れられちまうかもな。でも狭くて暗い場所がお仕置きなら、むしろ勝二にうってつけなんだけど」
「壺って何のことだろね?」
猿が揚々と出て行った後、沙希は好奇心に言葉を乗せて囁いた。
「壺も気になるけど、最後の一言も気になるわね。狭くて暗いお仕置きが勝二にうってつけなんて……」
「イッチの言うことなんか気につるなって、お母たんがよく言ってたよ。意味なんかないんだって」
二人で笑っていると、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。笑顔が引っ込むほどの恐々しい足音だった。再びドアが開くと、隙間から女の顔が突き出した。
「いるんじゃないの。返事くらいしなさいな……あらま」
女の怒った顔が、目が合うなり和らいでいった。
この人がおばちゃんに違いない。目鼻立ちに鬼山母の面影がちらついて、あたしは漠然とした懐かしさを覚えると同時に、この忌まわしい侮蔑的な眼光から直情にのっとった不快さを感じ得ずにはいられなかった。
「初めまして、柴田華世です。勝二くんとは同じクラスで……」
「ああ、はいはい。あのろくでなしの」
鬼山の知人と分かるや、おばちゃんは肉付きの良い顔にしかめっ面を浮かべ、その大きな目であたしをねめつけた。
「あの子の悪友なら、一応忠告しておくけどね。ここは禁煙で、あんたらに出すようなお酒は一滴もないよ。変な騒ぎを起こしてごらん。警察を呼ぶからね」
挨拶代わりの冗談ってわけじゃなさそうね。
「そんなつもりで遊びに来たわけじゃありません」
握られた拳の中で悲鳴を上げる鶴。
おばちゃんの視線があたしから沙希へと横滑りする。
「あんたが上げたのかい? 相変わらず紙ばっか折って、ちょっとは家事の手伝いでもしなさいな。何、その目つきは。え?」
「お姉ちゃんは悪い子じゃないもん!」
沙希は勇ましく言い切ったが、おばちゃんの険相にとうとう顔を逸らし、左の頬だけ物凄く膨らませた。
「聞き分けのない子だね、まったく。まあ、子供たちがこれじゃ妹も病気になっちまうわさ。出来の悪さは、あの甲斐性なしで飲んだくれの血を引いちまったんだろうね。引きこもりに不良……あんたもきっと、これから何かやらかすに決まってる」
あと一言多かったら、あたしの理性は怒りに呑まれていたかもしれない。脳内ではシミュレーションが済んでいる。あたしは体内を突き上げる憤怒によって立ち上がり、丸めた折り紙の束を減らず口へ放り込んでから、〝失せな〟、そう言って、腰を抜かしたおばちゃんに哄笑を飛ばす。鬼山も真っ青ね。望みどおりおばちゃんが警察を呼ぶ間、最高にクールな面持ちで鶴を折り続けてやる。
けど、幸い、おばちゃんは豚みたいに鼻を鳴らして部屋を出て行ったきりだった。
あたしは牛乳を手に取り、垂直に傾けて飲み干した。
「ごめんね、お姉ちゃん」
沙希は言って、鶴の尾をつまんでクルクル回し始めた。
「気にしないで。ほんと、怒ってないから」
ひしゃげた三羽目の残骸が手元に転がっているので、その言葉に説得力はない。作業は再開したものの、やっぱり気分は落ち着かなかった。
こんな時はトイレよ、トイレ。
「トイレ借りるね」
そそくさと部屋を出てそこを目指す。イライラを便に混ぜて流すのはもう辞めにするつもりだったのに……妙な癖がついちゃったわね。
途中、半分ほど開いたドアが視界の隅を横切った。あいつの部屋だ。
何となく……本当に突然、あたしは思い立った。振り返り、誰も見ていないことを確認すると、ドアノブに手をかけた。
「お邪魔しま~す」
誰もいない。部屋は静寂をはらんだまま夕闇に染まってる。
ここに入るのは久し振りだったけど、これといった変化は見られなかった。カラッポ同然の空間には机とベッドしかない。幼い頃は「広~い」とか言いながら鬼山と一緒に駆け回ってたけど、今となっちゃ八畳一間の独房にしか見えない。
ただ唯一、興味を引いた物を挙げるなら、それは窓際に置かれた大きな植木鉢だった。
「アサガオでも育ててんの?」
よく見かける茶色の土鉢。質の良さそうな土でたっぷり満たされてる。でも、何も植わってない。教材の積み上げられた机の上に、ミニサイズのじょうろが置かれてる。
「おい」
驚いて心臓が跳ね上がった。その拍子にバックギアが入り、あたしは無様な格好で部屋をたっぷり後進しつつ、フローリングに焦げ目が残りそうなほどのスピンターンを決めた後、足をつった。
「何やってんだ……」
「ダンスの……練習」
ベッドで悶えるあたしを呆れ顔で見下ろしながら、鬼山が部屋に入ってきた。机にカバンを放り、窓を開けると、タバコを吸い始めた。
「怒らないの? 部屋に入ったのに……」
あんたをこんなに間近で見上げてるのに……。
「もういいんだ。俺以外にお前を救ってくれる奴がいる。ずっとお前に必要だったものだ」
「……美奈子のこと?」
鬼山は返事代わりにタバコをくゆらせ、残照に目を細めた。
コエダメでそうするように、あたしはこの大男の横に並んで、窓越しに夕陽を望みながら感傷に浸る。
戻ってきた……小さな幸せ……あたしにとっての幸せ。
「帰りに沙希ちゃんと公園で会ってさ。久しぶりに来てみたのよ。なんだか、ここも色々変わっちゃったわね。時の流れを感じないのはこの部屋くらいよ」
「そうだな」
テキトーな返事。いつも通りで、安心した。
「ずっと聞きたかったんだけど……あんたもしかして、瀬名くんのこと知ってたんじゃない? 瀬名大吾と知り合いだったんでしょ?」
「話に聞いてただけだ。あんな馬鹿丸出しじゃなかったら、もっとかわいがってやったのに」
「あそ……」
「この鉢植えを、あの人が逮捕される前日に譲り受けた。毎日必ず水をやってくれと……まだ芽は出ない」
そんな淋しそうな声出さないでよ、気持ち悪い。
「こういうことあんまり知りたくないんだけどさ……」
あたしは声量を抑えた。
「瀬名大吾は大麻を所持してたんだよね? この鉢植えの中身って、もしかして大麻なんじゃない……?」
「否めない」
「否めない……じゃないわよ。共犯者にでもなりたいわけ?」
「どっちにしろ、大麻を育てるにはそれなりの環境と道具が必要なんだ。アサガオみたいに、ただ水と肥料を撒けばいいわけじゃない」
「芽が出るとか出ないとか、そういう問題じゃないでしょうに」
呆れながらも、鬼山が土に水をやる姿は見ていて楽しかった。こんな人相の悪い世話役なら、芽が顔を出せないのも納得ね。
「聞いたけど、お母さん病気なんだって? 具合はどうなの?」
「ガンだ」
束の間、頭が真っ白になった。
「発見が早かった。手術も終わってる。これから経過を見て……?」
あれ……あたし泣いてる……歪んだ視界の向こうで鬼山が唖然としてる。
「泣いてんのか?」
「泣いてないよ……」
「死にやしない」
「でも……万が一……」
「あんな掃除婦を残して逝かれたんじゃ、俺たちには居場所がなくなる」
「お父さんは? お父さんはどうしたの?」
鬼山は舌打ちし、荒っぽく煙を吐き出した。
「関係ない。これは俺たち兄妹とお袋の問題だ」
「イッチが行方不明だって言ってたよ。どういうことなの?」
「そのまま、そういうことさ」
じょうろを机に戻すと、鬼山は椅子を引いてドカッと座り込んだ。背もたれが軋んでのけ反った。
「失踪したんだ。この春にな。お袋が入院してすぐのことだ」
「捜索届は?」
「出してる。だが手がかりも、足取りもつかめない」
「どうなってんのよ、この家は……」
「いなくなって清々するね。あっちからいなくならなけりゃ、いつか俺が殺してた」
鬼山の父親のことを、あたしはよく知ってる。
酒乱な男は暴力にものを言わせてこの家に君臨し、パチンコと競馬に金を浪費させる凶悪なごくつぶしだ。奴が居間で酒を仰いでる時は公園で遊ぶよう心掛けていた。
それでも面倒見は良く、シラフでご機嫌な時はお昼にチャーハンを作ってくれた。鬼山ほど大柄じゃないけど、豪快な笑顔が似合う男だった。
「……なんで?」
あたしは重たい沈黙を押しのけた。
「なんで何も教えてくれなかったの? そうやってみんな抱え込んじゃってさ……あたしって、あんたにとって何なの? あたしとあんたの仲って何だったの?」
鬼山は答えなかった。かたくなに視線を逸らし、植木鉢の方を見つめたまま押し黙ってる。
「あたしには何もできなかったかもしれないよ。でも、何も知らないまま一緒に登校して、授業受けて、こうやって会話して……あたしアホみたいじゃん。あんたの気持ちなんかちっとも知らないで……」
「誰も悪くない」
鬼山は静かにそう言って、眠たげに細めた目であたしを見た。
「両親のことを話さなかったのは、俺自身がその事実を受け入れられなかったからだ。俺だって人間だ……お袋がガンだと知って、どうしていいか分からなくなった」
「……それで、あんたは何を選択したの?」
「…………」
「昔っから弱虫だよね、そういうとこ」
はっきり言ってやった。
「『病気なんて俺が治してやる』とか言って、机の上に医学書でも広げてればマシだったのにさ。立ち向かってよ。ヤクザをぶっ飛ばした時みたいに、美奈子を助けた時みたいに。強がりでいいから、現実と向き合う力を証明してみせてよ。鬼山勝二のそんな姿、あたしにはもう見せないでちょうだい」
「お前は良い奴だな」
「ぅ……?」
順番待ちのセリフ、ぜんぶ忘れちゃった。
良い奴……その単語が体中を巡って、しまいには頭の中で旋回してる。
夕方で良かった。真っ赤になった耳を夕陽で誤魔化せるから。
「なにさ、やぶから棒に……あたしの話聞いてたの?」
鬼山はおもむろに立ち上がると、再び窓を開け、二本目に火をつけた。煙はたそがれの微かな風に舞い、西日に溶けて消えた。
「お前の話……聞いてなかった。わりぃ」
吐き出される煙みたいに、不明瞭でちぐはぐな言葉。
鬼山なりの照れ隠しかしら? ちょっと面白いかも。
「……もう戻るね。沙希ちゃん待たせてるんだ」
「柴田」
振り向くと、鬼山は大きくも寂しげな背中で語り始めた。
「たまに、沙希と遊んでやってくれないか? あいつが誰かを必要とした時、お前がそばにいてやってほしい。俺も兄貴も、沙希が望むとおりにしてやれなかった。だから、頼む」
「そんなこと、言われるまでもなかったよ」
肩越しに振り返る鬼山。その表情が笑みを象って見えたのは、逆光の魅せた幻があたしの心を惑わせたからなのかもしれない……けど、それで構わなかった。いつからか笑みを失くしたその顔に、然るべき感情の一つが宿るのをあたしは見たんだ。
見たんだ……そう自分に言い聞かせるのがつらくて、切なくて……気付くと、あたしは笑ってた。
「沙希ちゃんのことは任せて。それより、あんたはどうなの? もし誰かが恋しくなったら、あたしがハグしてあげる!」
「いらん。さっさと帰れ」
「つれない奴……じゃあね」
あたしは急いで沙希の部屋へと戻っていった。