第七話 あたしを美しくしてよ
欠落した二つの座席は、心に大きく開いた風穴そのものだった。
その一つは鬼山の席だった。停学処分が施行されてから五日が過ぎている。朝倉はともかく、鬼山が停学にされるのは腑に落ちない。
「鬼山の場合、決定的な器物破損と過度の暴行。本人も認めてる。朝倉もそれ相応だが、過失は神崎さんにもある。聞けば、脅迫じみたメールを何通も送っていたらしいじゃないか」
柏木を筆頭に、教員一同が下した判決。腑に落ちない。ちゃんと説明しろと食い下がるあたしを前に、屈託な面構えで応える柏木。〝神崎にも過失がある〟と。腑に落ちない。腑に落ちない。
柏木の教師としての劣悪ぶりがいよいよ目に余る。下手な授業は相も変わらず、廊下を歩けば恍惚な表情を浮かべ、職員室を訪ねればもっぱら居眠りばかり。気だるげに曲がるネクタイ。きつい香水。
腑に落ちない。
「答えろ」
鬼山の謹慎から六日目の朝、登校してきた五十嵐を玄関ホールで捕えた。情けないツラ。何を聞かれるのか、すでに心得てるみたいね。
「あの日、何で鬼山は地下倉庫にいたの? 何で柏木があのタイミングでやって来なきゃならなかったの?」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
朝の慌ただしいホールの真ん中で、五十嵐はかろうじて聞き取れるくらいの小声で答えた。更に間合いを詰める。
「最近あんた変よ。コエダメにも行ってないでしょ? 何隠してんの?」
「隠してなんかない……」
「じゃあ答えろ」
視線が泳ぎ、
「……知ってたんだ。コエダメにいた先輩の一人が」
半ば観念したようにほのめかした。
あたしは睨む。何を知ってたの?
「朝倉と神崎が密会することさ。朝倉はみんなに言い触らしてたらしい……だから、先輩が鬼山くんに教えた」
「じゃあ柏木に告げ口したのは誰?」
「告げ口……何でそうなる?」
「散歩がてら地下倉庫へ立ち寄ったと思う?」
「…………」
「まさかあんたが……」
「違う! なんで僕が鬼山くんを陥れなきゃいけないんだ? 勝手なこと言うな!」
「じゃあ誰がチクったのよ!」
「知らねえよ!」
「クラスメートの一人が登校拒否になってんだ! 真面目に答えろ!」
やば……声が響いて跳ね返ってきた。集まる視線。狼狽と好奇をはらんでる。
「……もういい。せいぜい鬼山の腰巾着にでもなってろ」
吐き捨て、そのままトイレへと向かった。イライラした時はトイレに限る。鬱憤を流してスッキリするために。もう日課になっていた。
今日はとりあえず、手洗い台の前で談笑する数名の女子生徒を脇目に、鏡の中の自分と睨めっこしてみる。つり上がった眉、しわの寄った眉間、への字に曲がった口元、向こうのあたしは文句を言いたげに憤怒している。
かわいくない。怒るとブスに拍車が掛かる。見てると余計に腹が立つ。またブスになる。
ブスの連鎖。ブス、ぶす、BUSU。ほら、ブスが異国語みたいになっていく。ゲシュタルト崩壊して、ブスがブスじゃなくなる。ブスって何だっけ? めでたしめでたし。
制服の胸ポケットから何か顔を出している。いつか神崎からもらった『KANZAKI美容院の無料優待券』だった。
実行はすこぶる早かった。
あっちが来ないなら、こっちから出向くまでのこと。放課後、いつもと別のバス路線へ切り替え、『KANZAKI美容院』のある街中へと向かった。神崎に会えることを期待してた訳じゃない……黙ったまま指をくわえているのが嫌だっただけだ。
神崎美奈子……あんたのいない学校生活が味気ない。視界から色が一つ抜け落ちて、教室がモノクロめいて見える。淡いピンク色。それがあんたの色。摘み立ての桃。セミロングヘアの後ろ姿。笑ってよ……笑って振り向いてよ。けなしてやるから。そうしたら、ね、元通りでしょ?
バスを降り、目的の場所へと歩いた。目指すは美容院。未踏の領域。
最後に髪を切ったのは、高校へ進学する直前に自分で切った毛先五ミリ。行くことに臆していたわけじゃない。容姿に自信のないあたしが、〝きっかけの美〟を手にする場に美容院を選ばなかっただけのこと。
そして今、あたしは『KANZAKI美容院』の前に立っている。建物は大きな通りに面し、人通りも多い。おしゃれな繁華街。おしゃれな通行人。海外ジュエリー、フレグランス、アパレル、スイーツ、カフェテラス。軒を連ねる。飢えたブランド志向が美のプロセスを巡る街。その中枢に『KANZAKI美容院』は建っている。他の美容院の例に漏れず、外装は店内を見渡せるガラス張り。客を吸い寄せる視覚的商法。白い照明、明るい店内。こんなあたしにも敷居を低く見せてくれる。
……よし!
「いらっしゃいませ」
いざ入店。照明より明るい声。緊張が和らいで、顔がふやけそう。
甘い香り。左手にはソファ仕立ての待合席、右手には壁一面の鏡と皮張りのスタイリングチェアが並ぶ。
「こんにちは」
スタッフの一人がやって来て、笑いかけてきた。シックなTシャツとスキニージーンズというシンプルな出で立ちが、この女性の持ち味をプラスに引き立てている。要するに、何を着ても似合う人種ってわけ。まさに天の恵み。あたしが真似たら惨事になる。世間はあたしがコンビニへ行く以外の理由で外出することを許さないでしょうね。
「お名前は?」
スタッフはレジのそばに立つ銀製のラックから名簿のような物を取り出し、それを覗き込んだ。ラックには他にもKANZAKI社製の美容品が惜しみもなく並べられている。
「名前……柴田華世です」
「予約、されました?」
首を横に振ると、スタッフは至極残念そうな顔をした。
「ごめんなさい。うちは完全予約制なの」
うゎ……恥ず……何……この……場違い感……?
赤面して撤退する他なかった。いっそ穴があったらダイビングヘッドしたい。
「いいのよ。ちょうどキャンセルの電話が入ったから」
回れ右を半分済ませたところだった。どこからかか細い声が聞こえきて、あたしに救いの手を差し伸べた。
振り向くと神崎美奈子が立っていた。この六日間で身長が十センチ伸びたらしい。ダークブラウンの髪が耳元でエレガントな曲線美を描いている。純白のジャケットを着こなし、黒のシックなチョーカー、胸元をバラの造花が彩る。思わず触れたくなるような白い肌。透けて見えそうで、とってもエロティック。
二十年後の神崎美奈子が、上から下まで完璧な美をまとってあたしの前に現れた。
「……こんにちは」
女王でも謁見する気分だった。同時に己の醜さを痛感する。
「こんにちは、柴田さん。こちらへどうぞ」
女王にかかれば緊張してることなんてお見通し。声には突っ張った心を揉みほぐす優しいニュアンスが込められていた。あたしはフラフラと女性の後を追った。
「あの……ここは私が……」
出迎えたスタッフが案じ顔で声をかける。
「大丈夫、やらせて」
「でも……」
「いいから」
女はそれ以上何も言わず、右手奥で他の客の相手をしているスタッフのサポートへ回った。
「荷物はこちらでお預かりしますね」
スラリと長い指が目の前まで伸びてきた。手に持っていたカバンを託す際、ジャケットにきらめく名札が見えた。金箔で施されたそれは踊るようにこう読めた。『神崎幸江』。
鏡の中の女性をまじまじと観察してみる。合点……どうやら神崎美奈子は、母親に宿る美の遺伝子だけを根こそぎ受け継いだみたいね。でなきゃ、性格があそこまでねじけるもんですか。
「ここは初めて?」
彼女が耳元で囁く。女神の息吹。くすぐったい。
「……美容院が初めてなんです」
今度こそ締め出されないことを祈って、とりあえず白状してみる。
「そんなに緊張しなくて大丈夫。うちは赤ちゃんでも大歓迎なんですから」
彼女が笑う。あたしも笑う。その微笑みを見ているだけで、誰よりも幸せになれる気がした。こんな笑顔を、あたしは前にも見たことがある。
「ちょっと痛んでるわね。枝毛も多いみたいだし」
すごい。少し触れただけで見抜いちゃった。
「大事なのは、お風呂上がりと、寝る前にしっかりケアすること。もしかして、髪の毛をそのままの状態で眠ったりしてない?」
「はい……ダメなんですか?」
「あんまりオススメできないわね。シュシュを使うとか、緩く三つ編みにして寝るとベターね。クシを念入りに通しておくと尚良いわ」
指先が髪の束を上下する度、毛先が治癒されていくのを感じる。
「痛んだ髪の毛を完治させるのは難しいから、毎日のトリートメントを欠かさず、定期的に美容院へ通うこと。納豆や海藻なんかの、ネバっとした食品を摂取するのもいいかもね」
メモ帳でも持ってくるんだった。美意識を向上させるのに、こんなにも簡単なやり方があったとは。意に反して、熱い欲求が沸々と湧き上がってくる。
「あたし、綺麗になれますか?」
こんなセリフ、あたしらしくない。あたしは、女らしく生まれ変わっていくあたし自身に自分らしさを求めたりしない。そうと分かってたはずなのに、彼女にならこの美意識を託せると思った。まだ足元でけぶるようなそれを、彼女ならすくい上げてくれる。そして、笑ってくれる。
「もちろんです。あなたの意志に、私たちは全力でスキルを提供します。今日は痛んだ毛先をカットして、少しすいておきましょう。トリートメントをして、越冬の際に乾燥して痛んだ髪の毛に潤いを与えます。その後はあなた次第です」
クシが髪の上を流れる。ハサミが毛先をかすめる。こうしてあたしは、生まれ変わった自分を忠実にイメージできるようになる。三十分後のあたし。髪に天使の輪を輝かせて、それっぽく羽まで生やして、空へ舞い上がる。家々の屋根を縫って、雲のソファーで横になるの。街を見下ろして、目障りな教科書を放り投げた後、私は働きアリみたいに小さくなった人たちへ向かって言うんだわ。ごきげんよう! ってね……。
……思えば、ここに至るまでのすべてがあの朝に始まっていた。鬼山、神崎、瀬名くん、そして柏木。『幽霊を信じるか?』……時々、あいつの言葉が脳裏をよぎる。
神崎はあたしを信じてくれた。だからもう一歩、踏み出さなきゃならない。それを選択するために、あたしはここへ来たんだから。
「娘と同じ制服ね」
一瞬、肝を潰したような表情を浮かべる自分自身と目が合った。落ち着いて。大丈夫……向こうから切り出されたのが少し意外だっただけ。
「神崎さん、ですよね?」
意を決する。
彼女の手が止まった。
「ええ、神崎美奈子。聞いた話だと、高慢で八方美人で、自分の容姿を鼻に掛けていつも人を見下してるんですって」
「……誰がそんなことを?」
「たまにいるの。聞こえよがしに愚痴をこぼして帰っていく女の子。ここがその神崎の美容院だって、ちゃんと承知の上でね」
繕うような笑顔……見ていられなかった。
「最近は具合が悪いからって、ずっと休んでる」
表情と声色がより落ち込む。
「あんな性格だもの、友達が少ないことは知ってたの……でも、気の強い子だから何とかなるだろうって……考えが安直だったよね。私は母親なのに、あの子に何もしてあげられない……美奈子の悪口を言いふらす子たちに、文句の一つだって言えやしない」
潤んだ目を赤くして、彼女はその場に立ち尽くしていた。ハサミを持つ手は震え、クシは髪の毛を捉えたまま動かない。
事態を一早く察した二人のスタッフが駆け寄ってきた。肩を抱え込み、店の奥へ否応なく引っ張り込もうとする。
「……待って」
彼女が振り向く。鏡越しじゃなく、あたしたちは直に見つめ合った。
「柴田華世さん……美奈子を救える?」
何でもお見通し……やっぱり女王様だ。
「どうして分かったんです? あたしが神崎さんと知り合いだって……」
「『無料優待券』をあなたに渡したって聞いたの。そのうち来るだろうから、うんと綺麗にしてやってね、って」
あいつ……。
「初めてだったのよ……初めてだった。あの子がクラスメートの名前を挙げるの。だから、さっきあなたが名乗った時、もしかしてって思った。ここへ来た本当の理由……美奈子に会いに来たんじゃないかって」
あたしはうなずいた。大きくうなずいて、次の言葉を待った。
「部屋に閉じこもってるあの子に、会ってあげてほしい。私には無理だった……でもあなたになら、あの子は心を許すかもしれない」
そうじゃない……心を許せなかったのはあたしの方だ。神崎はずっとあたしを求めていたのに、信じてくれていたのに、あたしはそれを拒み続けていた。うざかったから? 目障りだったから? 違う……あたしは、あたしにないものをいっぱい持ってる神崎にただ嫉妬して、怯えて、逃げていた。神崎と並んで歩く自分を想像したくなかった。神崎の姿が余りに眩しくて、あたしはいつも目をすぼめたまま、本当のあいつを直視しようとしなかった……けど、それももうおしまい。
「住所、教えてください。今から会いに行きます」
黄昏は追いやられ、夜の帳が下りはじめていた。
あたしは街の喧騒を抜け、教えてもらった神崎邸の住所目指して宅地へと踏み込む。我ながら果敢な足取り。これから一戦交えるだけあって心も勇む。
神崎を学校へ引き戻すのに、トランクケース満載の宝石をちらつかせたところで何の手応えも無いことは明白だった。一筋縄でいくわけがない。門前払いされなければ御の字ってところね。
高級住宅街のど真ん中、周囲の家々もさることながら、神崎邸の大きさは群を抜いていた。手入れされた生垣の向こうに広がるのは、立派な松の植わった大庭園とそそり立つ邸宅だ。すぐ脇には平屋と見まがうほどのガレージ……五台のリムジンがすっきり収まってしまうくらい大きなガレージがでんと構えている。
あたしは石畳の道をゆっくり進みながら、ふんぞり返る松の大木を見上げたり、優雅に泳ぐ池の鯉を目で追ったりしていた。庭園を歩き始めてからどれだけ経ったか分からない。何もかもが桁外れで尻込みしそう……。
…………。
…………。
……だめだめ! 神崎を見上げてるようじゃ勝ち目はない!
あたしがここへ来たのは、正義感に駆られて独りよがりな熱弁をまくしたてるためじゃない。ドラマの熱血教師よろしく、登校拒否を決め込む生徒の部屋のドアにへばり付きながら、「一緒に心のドアも開いてくれないか?」なんて上手いこと言いに来たつもりもない。
あたしたちは対等なんだ。それを証明してやる。
石畳を踏み込む。石段を登る。ドアを前に一息つく。お膳立てが整う。あとは呼び鈴を押して、神崎をここから引きずり出すだけ……
「変な顔」
どこからか神崎の声が聞こえてきた。
「上よ、上」
仰ぐと、天蓋に設置された防犯用カメラがこちらに焦点を合わせていた。あたしは微かに笑いかけた。
「なんだ。やっぱり生きてるんじゃない。顔出さないから息絶えてるのかと思った」
「……何しに来たの? 冷やかしならお断りよ」
「あんたとお喋りしようと思って。つべこべ言わずにドアを開けて」
「もう開いてるわよ」
言葉どおり、ドアは何の抵抗もなく開いた。押し問答も覚悟の上だったけど、案外すんなり入れたわね。
天窓付きの玄関はとっても明るくて、優しい木の香りで溢れていた。カーペットの上に犬がいる。この邸宅に相応の巨大ゴールデンレトリバー。番犬におあつらえ向きね。あたしに向かってめちゃくちゃ吠えまくってる。
「コーラ!」
神崎が野暮ったいパジャマ姿で立っていた。犬を叱りつけ、奥まで追いやると、あたしと向かい合った。
「コーラって名前? それとも『コラ!』って怒ったの?」
立ち尽くしたまま漠然と尋ねる。そんなことはどうでもよかった。
「名前。オスならペプシだったけどね」
あたしたちは小さく微笑んで、見つめ合った。互いが何を思い、考えているのか、手に取るように分かる気がした。
痩せた? とりあえず話題を振ってみる。
「四キロくらいかな」
神崎が青白い顔で答える。
「上がってよ……私の部屋に来て」
神崎は促し、派手なパジャマの裾を引きずったまま玄関の向こうへ消えて行った。後を追うと、宮殿と思しきリビングの一角が目の前に広がった。
そこはテニスができそうなほど広大で、バレーのスパイクを決めるのに申し分ないほど天井が高く、観客を百人詰め込んでも卓球の公式戦くらいなら事欠かないほど歓声を張り上げられる、そんな空間だった。唯一の不足は、それをするにはここが豪華すぎるということだけ。
素人目でも分かる高級インテリアの数々。シャンデリアに照らされて、命を吹き込まれたように生き生きと輝いてる。カントリー風木製食器棚は様々なアンティークで彩られ、脇のガラス棚にはお馴染みの『KANZAKI化粧品』が軒並み顔を揃えている。
「ママの趣味よ、ぜーんぶ」
神崎が仰々しい手振りでリビングを指す。
「何か飲む? コーラしかないけど」
うなずくと、神崎は小走りして部屋の奥へと消え、ティーカップに並々とコーラを注いで戻ってきた。コーラも一緒だった。
「それティーカップじゃん。新手のギャグなの?」
「これしかないのよ。コーラなんて飲むの私くらいだもの」
コーラが吠えだした。怒った時の鬼山そっくり。
「行こっか。柴田さん嫌われてるみたいだし」
あたしたちはリビングを抜け、階段を上がっていった。
「追ってくるかな?」
「大丈夫。上らないようにしつけてあるから」
「次は無駄吠えしないようにしつけたら?」
「してるわよ。コーラは機嫌を損ねたのよ。ドア開けた時の柴田さんの顔がアホっぽかったから」
踊り場の窓から残照に縁取られた美しい庭園を眺望できた。ここは庭園を心行くまで眺めるためだけのスペースに違いない。
「パパの趣味よ、ぜーんぶ。ママは、パパが死んだら一面フラワーガーデンにしてやるって、こっそり計画を立ててるの。うちのコックはママが食事に毒を盛らないように警戒してる」
「専属の料理人がいるのに昼食がコンビニ弁当ってどういうわけよ」
「コックに任せたら誰にも見られないように机の下で食べることになる。だってあの人たち、三大珍味のどれか一つでも使わないと発狂しちゃうような精神の持ち主なんだから」
他愛の無い会話をしている内、たくさんある部屋の一つへ案内された。
ピンクの壁紙、白いカーテン、ピンクのカーペット、白いベッドカバー、ピンクの化粧台、白いテレビ、ピンクのぬいぐるみ、白いテーブル、ピンクのプレステ。
ここは、ピンクと白のストライプが部屋を横断する空間。一流の高尚な存在に囲まれた高級庭園や高級リビングとは遠く無縁の、ありふれた女子の部屋に相違なかった。
「私の部屋」
ベッドに腰掛けるや、神崎ははにかむように笑って、コーラを少し口に含んだ。
普通ね。あたしは率直な感想を述べてから、雑誌が重ね置きされたテーブルの上にカップを置いて、遠慮がちに腰を下ろした。雑誌はたくさんのファッション誌だった。
「私の趣味よ、ぜーんぶ。小学生の時からほとんど変わってない」
確かに、その手に抱き寄せられるくたびれたテディベアも、ラックに置かれたCDラジカセも、少女漫画も、年季入りなのは確かだった。
「でもまさか、柴田さんが私の家を訪ねてくるなんてね。明日はきっと雨だわ」
「晴れよ。予報じゃ雨だもん」
つい言い返す。
こうじゃない……こんなことを言いに来たんじゃない。
「実はさっき、『KANZAKI美容院』へ行って来たの。神崎さんが学校に来ないから……」
「あんな野蛮人のいる学校なんか行きたくない」
人形ごと膝を抱え込むと、凄惨な過去を振り返るような面持ちで神崎は言う。
「野蛮人って、朝倉のこと?」
その名を口にすると、神崎は突き立てた指先をあたしに向けた。
「あいつの名前は私が死ぬまでタブーよ」
指の先端からレーザーめいたものが射出されそうで、あたしはのけ反りながらも小刻みにうなずく。
「あいつが停学処分になったのは知ってる。心外よね。この私を傷つけといて退学にもならないなんて。死刑でもいいくらいよ」
「じゃあ、もう学校には来ないつもり? お母さんはこのこと知らないんでしょ?」
神崎の睨みが鋭くなった。
「まさか、ママにあいつのこと話してないでしょうね?」
あたしは首を横に振った。言葉でヘタに刺激すると爆発しそうな剣幕だったから。
「ならいいけど……先生にも口止めしてあるの。心配かけたくないし、たぶん聞いたらショック死すると思う」
神崎はカップを傾けると一気に飲みほし、勢い良く(割れない程度に)テーブルへ叩きつけた。
「学校へは行くわ。あいつが卒業したらね」
はぁ……そうなるわよね。
ベッドに倒れ込む神崎。同時に、鈍い時の流れが沈黙を運んできた。あたしは底から湧き立つ炭酸の気泡を眺めながら、神崎は天井を眺めながら、互いに耽り込み、じっと押し黙っていた。
何分も過ぎたと思う。
あたしはテーブルの上に一枚の紙切れを落とし、神崎に注目させた。
「それ……この前あげた優待券よね? さっきママの所へ行ったんでしょ?」
「使わなかったの。あなたに使おうと思って。これであたしを美しくしてよ」
本気だった。
神崎の訝しげな表情が物言わず見つめ返す。
「前に言ってくれたよね? あたしはもっと綺麗になれるって。その言葉を証明してみせて」
イジワルでもトンチでもない。これが、あたしにできることのすべて。そして神崎にしてもらえることのすべて。互いに求めていたものを具現化できる象徴が、今、あたしたちの間に横たわっている。あとは彼女が応えるだけ……。
「……ちょっと待ってて」
毅然と立ち上がる神崎。クローゼットを開けると、円柱状のシャレたボックスを引っ張り出した。テーブルの上から雑誌を払い落とし、花柄のボックスをその空いたスペースに置く。留め金を外して上蓋を持ち上げると鏡が現れ、更に真ん中を両サイドへ開くとたくさんの化粧品が顔を覗かせる。初めてお目にかかる品々ばかり。あたしを見上げて澄ましてる。
「本当ならおやつ一年分と言いたいところだけど、この優待券に免じて無償でお化粧してあげる」
女の肌は剥き出しにされた心だと神崎は言った。とてもデリケートで、痛みやすい。ストレスをもろに反映させて、睡眠不足と糖分の過重摂取から成る〝荒廃〟を引き起こす。
紫外線は降り注ぐニキビだとも言った。UVは肌を殺し、ニキビの種を植え付ける。時を経て、厚くなった古い角質の下から毛穴を根城に芽を出し始める。毛穴が詰まると皮脂が貯まる。皮脂が酸化して肌を攻撃すればニキビの出来上がり。簡単でしょ?
皮下に蓄えられたUVはシミとなり、肌をたるませ、女性による女性のための尊厳の一つを破壊する。それゆえUVカット保湿ローションは欠かせない。三度の食事は忘れてもこれだけは肌身離さず持ち歩きなさい。神崎は念を押した。
ベースメイクは化粧下地から始まる。BBクリーム、CCクリーム、コンシーラー、ファンデーションはパウダータイプとリキッドタイプ。これらは肝となり、怠ると時間の経過と共に顔面が崩壊する。日頃のケアも大切よ。神崎は繰り返す。うぶ毛を剃れば化粧ノリが冴える。豪語しながら、化粧水、乳液、保湿クリームをやたらに塗ったくろうとする。そしてそれらを押し付ける。貸したがる。
チーク、アイメイク、ノーズシャドウ、マスカラ、リップ、眉メイク。小顔効果も忘れない。顔が重たくなりそうな段取りも、神崎にかかればナチュラルに仕上がる。
魔法みたい。感嘆を漏らすあたしに神崎は言う。
「メイクアップアーティストを志す私に向かって、そんな軽率な感想は不適切よ」
「そうだったんだ。初耳」
マスカラがまつ毛を上下しているにも関わらず、あたしはつい神崎の方を向いてしまう。
「ちょっと、動かないで。次やったら額に〝肉〟よ」
「すまん……でも、神崎さんに夢があったなんてチョー意外」
「毎日をボーっと生きてる柴田さんとは違うんだから。私はね、いつか大物のモデルや、俳優のメイクを手掛けるプロのアーティストになりたいの。だから、ママの助手として店に行くこともあるし、そのための勉強だって始めてるのよ」
自分の夢を語れる神崎が羨ましかった。あたしには夢なんてない。あるのは陳腐な理想論だけ。
「柴田さんって、顔のパーツが凄く整ってるわね。肌も綺麗だし」
おや……神崎があたしを褒めてる。
「じゃあ、あたしはアイドルでも目指さそうかな。テヘッ!」
最高に可愛いと思えるアングルで神崎に微笑みかける。
「プッ。甘いわね。問題はパーツの位置よ。ピカソの最高傑作じゃあるまいし……冗談だって」
拳を握ると、神崎は慌てて言い添えた。
「しまいにゃ殴るぞ」
「ほらほら。そんな怖い顔したら、メイクが崩れちゃうよ」
口角を引っ張られてでたらめな笑顔にさせられた。
「化粧は欠点を隠す道具じゃないし、私はそういうメイクに縛られて道を見失いたくない。私の本望は美を引き出すことよ。誰の中にもそれはある。私にしかできないメイクも、同じ数だけある」
「あたしにも〝美〟はあるわけ?」
「当たり前でしょ。ほら」
鏡を正面に向ける神崎。そこに映るあたしを、あたしはよく知ってる。でも、初めまして。とっても華やかで、艶美な人。いささか笑みを含んでこっちを見返して、けれど端々にはどこかあたしの面影があって、それがなんだか面映ゆかった。
「どう?」
神崎が一緒に鏡を覗き込む。あたしは満足の印にうなずく。
「美は努力なのよ。私は、私自身の美を親の七光りだなんて言わせない。私は努力した。これからも……そしたらきっと誰かを笑顔にできる」
「でも、化粧は落とさなきゃならないでしょ? ちょっと淋しいね……」
「ほんの一瞬でもいい、誰より美しくありたいと願うのが女の性なのよ。それに、美を求めることは罪じゃないわ」
「なんであたしたちは美を求めるの?」
「愚問ね」
言って、神崎は指を三本立てる。
「理由は三つ。一つ、今の自分に満足してないから。二つ、今の自分に満足してるから。三つ、…………」
「何?」
言葉を詰まらせる神崎。頬が天然のチークで赤く染まっていく。
「あんたいつ化粧したの?」
「つまり……恋心よ。異性を思う熱い気持ちが、女に最も強く美を求めさせるのよ」
はは~ん、なるほどね。
「さては好きな人がおりますな? しかも身近な人間とみた」
思いのほか的を射ているようだった。神崎は否定もせず、その後は神妙な面持ちでメイクの仕上げに取りかかるだけだった。
帰る時分、月明かりの淡いベールに包まれる静寂の庭園を、あたしたちは並んで歩いていた。神崎の横顔は来た時よりどこか吹っ切れたように見えて、あたしは少しホッとした。
「……ありがとう、来てくれて」
中ほどまで来た時、神崎が矢庭にそう言った。体の左半分に寒気を覚えた。
「伝わったよ、その気持ち。寒気がするくらいにね」
いつもの嫌味も、今の神崎には応えない。顔を逸らして小さく笑ってる。
「あたしこそ……今日はありがと。おかげで、あたしはあたしがちょっと好きになれたよ」
あたしたちは向かい合うと、別れを惜しむように沈黙し、その場に突っ立っていた。苦手な雰囲気……神崎と共有するような雰囲気じゃない。
「……まあ、気が向いたら学校おいでよ」
話題をひねり出す。
「やっぱ、神崎さんがいないと退屈なんだよね。溜まった鬱憤のはけ口が見つからないっていうか……いないことが鬱憤っていうか……だから待ってるよ、あの席で。……じゃあ、またね」
「鬼山くんなんだ……好きな人」
あたしは振った手を空に留めたまま神崎を見据えた。
神崎には似合わない、とても小さく儚い声が、夜の静けさとあたしの心を貫いて、激しくかき乱していった。
あたしはおもむろに笑いかけた。
「ライバルってわけね」
言いながら、平常心を取り戻していった。普段のあたしなら、流れ星が脳天に直撃するのと大差ないインパクトで卒倒していたに違いなかった。
けど、今のあたしはむしろ自信に溢れてる。
「負けない。このメイクは見せかけの仮面じゃないもの……でしょ?」
うなずく神崎。月明かりに照らされて、とても気高く、誇らしい。
「私も、もう逃げないよ。あなたが私の勇気になってくれたから。あの席で待ってて。今度は私が会いに行く……そしたら……お弁当、また一緒に食べよ?」
あたしたちは友達だ。
それは例えば、放課後にブティックのウィンドウショッピングに勤しんだり、プリクラで互いの鼻をつまみ合って変顔させたり、一つのパフェを仲良くつつき合って、チェリーは誰のとか、このクッキーは半分にしようとか、そういうキュートな会話をしたりする、そんな関係だ。
世間ではこういうのを友達って呼ぶんでしょ? ……って、あなたにこうして言葉を投げかけるのも、これでおしまいね。あたしにはけなし合える友人ができたから……要は、トイレにこもって便器を話し相手にする必要もなくなったってこと。
翌日、神崎美奈子は登校した。
いつもの挨拶、いつものやり取り。いつもの教室、いつもの席。
至って変わらない。ただちょっぴり、二人で過ごす時間が長くなった。
空は抜けるような青空だった。