第五話 もう俺には近づくな
「うーん……ビデオカメラだね、これ」
ビデオカメラを手に柏木が言った。真顔で言われなくても、それがビデオカメラだってことはみんな分かってる。
カメラ発見後、柏木を呼びに行ったのはあたしと神崎だった。柏木は自分のデスクに座って頬杖をつき、あたかも読み物でもしているかのような姿勢を崩さず、なんと、眠りこけていた。教師としての面目は人並み以下のくせに、喧嘩を止める手際の良さだけは感心に値する男の、ここが見切りの付けどころだった。
「このことは、まだ私以外の誰にも言ってないよね?」
柏木は熱心な面持ちでレンズを見つめていた。あたしたちは額を寄せ合い、同時にうなずく。
「大っぴらにはしない方がいい……こいつは思った以上に深刻な問題だぞ」
どうして? あたしが尋ねる。
「相変わらず鈍いわね」
答えたのは神崎だった。
「明日、ここで何が行われるか忘れたの? 女子の健康診断よ」
「つまり、そういうことだ」
柏木が落ち着き払って言う。
「誰かが明日の健康診断を盗撮しようと企てていたとすれば、只事では済まされない」
「でも、ちょっとおかしくないですか?」
腕を組み、深刻な面持ちから暗い声を出すと、瀬名くんはカメラを指差した。
「柴田さんがカメラを見つけた時、既に撮影は始まっていました。明日の健康診断までには気が早すぎます」
「予行練習だったのよ。写り具合や、位置を確かめておきたかったのかも」
これはあたしの推測。瀬名くんはカメラを睨み付けたままうなった。
「やっぱりおかしい。そもそも、置いてあった場所が安易すぎる。見つけてくれと言ってるようなものだ」
「とにかく再生してみるか」
あっ……柏木の奴、こっちに背向けやがった。
「あたしたちが見つけたのに」
あたしが不平をこぼす。その横で神崎がそうだそうだとか、その通りとか、なんかどうでもいい援護射撃で応戦する。
「しかたない。特別だよ」
柏木は諦めたようにこちらを振り返った。
瀬名くんは顔を背け、「それはいけない」「何が映ってるか分からないんだぞ」と忠告していたものの、結局はあたしたちに混じってディスプレイを覗き込んでいた。
柏木が電源を入れ直し、不慣れな手つきで先ほどの録画記録を再生すると、大きな画面いっぱいに人間の手が映し出された。カメラを設置する時に映り込んだに違いない。顔までは見えなかった。
「時刻は十五時四十五分」
柏木が録画時刻を指さしながら言った。ディスプレイには夕映えの会議室がひっそりと映し出されている。
「二分後に僕が現れる」
背後から瀬名くんが言った。柏木は早送りのボタンを模索し、時間を送った。
「あっ、止めて止めて」
フレームインする瀬名くんらしき人物。柏木は慌てた様子で停止ボタンを押す。
「機械は苦手だ」
柏木が呟く。映像の中の瀬名くんは教室の時計で時刻を確認し、窓辺まで歩みを進めると、たそがれの町並みを眺めたまま動かなくなってしまった。
「学級委員長の藤堂くんに呼び出されて、こうして待っていたんです」
「なぜ会議室だったんだ?」
「分かりません。話があるからって……結局、本人は現れませんでしたけど」
「ふーん……うーん」
声をなびかせる柏木。考えているのか、眠いだけなのか、もうあたしには分からない。直後、画面の向こう側でドアがスライドした。
「瀬名くん?」
カメラの音声があたしの声で言った。
録音された自分の声って何でこんなに気持ち悪いの?
あたしと神崎がカメラの視界に入り込こんできた。神崎は自分自身を観察し、「やっぱり私は横顔の方が綺麗よね」だの、「どうせ映るんだったらもっとモデルさんみたいに歩けばよかった」「だって、他に誰が見るか分からないでしょ?」などと取り越し苦労するのに余念がなかった。カメラの中の本人でさえ取り合わない。
三人のやり取りがしばらく続いた後、ディスプレイの右端から現れたのはカッパだ。といっても、映像に残されているのは突き出た唇の先端だけで、あの猫背を窺うことはできかなった。
「あ? 話が違うじゃねえか」
カッパのセリフ。若干くぐもってはいるけど、はっきりとそう聞こえた。
一時停止し、柏木が顔を上げた。
「これは誰?」
柏木はかろうじて映り込む何者かの唇を指しながら問うた。
「分かりません。いきなり教室に入ってきて、僕に突っかかってきたんです」
「ごめん……あたし、知ってた」
あたしはいよいよ白状した。三人分の視線がもろに集まる。痛い。そんな目で見ないで。
「知り合いだったの?」
瀬名くんがショックを受けたような声色で聞いてきた。あたしは力の限りかぶりを振った。
「委員会の帰りに校内でからまれたの。でもすぐに藤堂くんが助けてくれて、彼とはそれっきりだよ。名前は森下、二年生」
「柴田さんに声かけるなんて、呼吸以外にすることなかったんでしょ」
的を射た神崎の推測。反論の術なし。カッパの興味は瀬名くんただ一人で、あたしなんか眼中になかった。
「続き、早く見ようよ」
あたしは平然を装って促した。みんな黙ったままカメラに視線を落とす。
再生して間もなく、フレームの右端から一本の腕が伸び、カッパを高々と持ち上げると、そのまま画面の外へ放り投げた。カッパのカッパらしい奇怪な悲鳴がおぼろに聞こえてくる。直後、鬼山が会議室に現れ、瀬名くんと向かい合った。
「彼の暴力行為に関しては、今だけ目をつぶっておこう」
柏木はまぶたを閉じながらそう言った。
鬼山と瀬名くんのにべもない会話を聞くのはもううんざりだった。繰り出される言葉の隅々から、相手を呪わんとする憎しみが溢れている。そんなに嫌いなら喋らなければいいのに。ねえ?
やおら、鬼山のいなくなった会議室で三人の会場作りが始まった。
三人の会話は進み、やがて瀬名くんが言った。
「もしかしたら……鬼山は兄の『瀬名大吾』を知ってるかもしれない」
画面の中のあたしが、このカメラをまっすぐに指さしたのはその直後だ。
映像は途絶えたのに、柏木は動かなくなった画面を見つめたまま硬直している。
「先生?」
神崎が声をかける。呼応するように目を瞬かせた。
「どうしたの? もしかしてオバケでも映ってた?」
ちょっとからかったつもりなのに、柏木は怖い顔のままだった。
「何でもないよ。うん。何でもない」
柏木は乱暴な目つきであたしたちを見回した。
「何度も言うようだけど、このことは他言無用だ。念のため、会場の移動を申し出てみる。君たちはもう帰ってよろしい」
次の日、健康診断は何事もなく終了した。何事もなくってのは、四キロ増えたあたしの体重を大参事だとか、悲劇的だとか呼称しない場合の話だけどね。
会場がオーソドックスな保健室に移されたこともあり、本棚ならまだしも、簡易ベッドの下からも、排気口の隙間からも盗撮用のカメラが発見されることはなかった。
それから三日が過ぎた。
会議室での一件は教師の中だけに留まり、生徒でその事件の一端を知る者はあたしと神崎、瀬名くんの三人だけってことになってる。無論、柏木に釘を刺されたとおり、あたしはそのことを誰にも口外していない。おしゃべりの過ぎる神崎が、ある種の栄光と引き換えに今回の件を露呈させていないのも確かだった。どうして分かるのかって? あいつが喋り出したら学校中に拡散するまで止まらないもの。
あたしにとって、四月最後の金曜日は心躍るような一日になるはずだった。
宿題はないし、脳みそが居眠りしそうな退屈な授業もない(実際にそんなことは有り得ないけど、心身ともに健全で、ハッピーで、訳もなくハイな時くらいは、誰でも上質な気分に浸れるものでしょ?)。明日は休みだし、何より、窓の向こう側は春の陽気に包まれた良いお天気。抜けるような青空、風に運ばれていくひつじ雲。朝の慌ただしい人間たちを優雅な時間へと導く風情をかもしてる。
春風に身を任せる雲のように、あたしはゆったりと身支度し、しかし早めに家を出た。閑散とした住宅地の中を、バス停へ向かって歩を進める。停留所に鬼山が立っていた。
「ごきげんよっ」
いつもの調子で挨拶。今日ばかりは、うんざりするほどの悪口を吐き出したい、という気分でもなかった。
「よう」
鬼山がまっすぐ前を見つめたまま言った。
あたしは思わず飛び退いた。
「何? 何で挨拶したの? 気持ち悪っ!」
あたしは男をじっくり観察し、自ら頬をつねり、空を見上げた。大丈夫。男は間違いなく鬼山勝二であり、これは現実であり、空が落っこちてくる心配もなさそうだ。
「あんたが挨拶を返すなんて……きっと今日は、ものすごく良いことがあるか、ものすごく悪いことが起こるかのどちらかね」
「……あのな」
鬼山が不機嫌そうにあたしを睨んだ。
「俺の口は悪態をつくためにあるんじゃないし、この手は人を殴るためにぶら下がってるんじゃないんだぞ」
「そんなの分かってるよ。でもやっぱ、鬼山が素直に挨拶するなんて気味が悪……」
突然だった。鬼山に首根っこを乱暴につかまれ、グイッと引き寄せられた。
近い近い近い! 耳元に鬼山の顔がある。
「じっとしてろ。何か変だ」
確かに変だ。変なことが起きている。耳が熱い。鼓膜が燃えてるみたい。
「いいか……絶対に俺の名を出すな」
そう言って、あたしを突き放す鬼山。青春のドキドキは何事もなく終演。こんなのってアリ?
「もう! 何なのよ! 鬼山のバカバカ!」
怒り任せにグーで殴りかかるも、鬼山から本腰の入った睨みを浴びてしまった。その時、はっきりと感じた。じれったい違和感と、鬼山とは別のもう一つの確かな視線。今しがた後ろに並んだ若い男が、こっちをじっと見つめてる。
野暮な身なりが横目にチラと見えた。埃っぽいカーキ色のダボダボズボン、派手な赤パーカー、ださいモヒカン、安っぽいシルバー。チンピラ? ヤクザ? 長身のガリガリで、育ちの悪いバスケット部員みたい。こっちをつぶさに窺ってる。手にはケータイ。メールかしら?
間もなくバスが来た。
「俺から離れるな」
乗り込む間際、鬼山がそっと呟く。促されるまま、あたしは一番前の座席に座った。鬼山はあたしの後ろにピッタリ貼り付いて吊革に掴まる。
あたしがルームミラー越しに見たのは、ズボンを引きずり回す男の足が、あたしたちの位置から少し離れた反対側の席まで進んでいく様子だった。
バスが動き出した。
「何だかヤバそうね……もしかしてあたし、巻き込まれてる?」
三つ目の停留所であたしは聞いた。
「一緒に話してるのを見られた上、お前は俺の名を言った。自業自得だな」
悪かったね、フクロウ。
男が一人、スーツ姿できびきびと乗り込んできた。レザーフレームの洒落たグレーレンズグラサンなんか掛けてなければ、生真面目な日本人労働者に見えたでしょうね。ジェルで塗り固めたオールバック、レンズ越しの冷たい眼差し……残念ながら、今のあたしには〝そっち〟の人にしか見えない。
バスが動き出した。
更に二つ目の停留所でバスが止まると、乗って来たのはスキンヘッドの男だった。ここまできたらもう驚かない。恰幅の良い体つき。強面で、眉毛はハの字、口元はヘの字、眉間にシワを寄せて〝いかにも〟な風体をこしらえてる。
「おい、キョロキョロするな」
怒られちゃった。ったく……誰のせいでこうなってんのよ……。
バスが動き出した。
十分ほど経ち、目的のバス停が大きなフロントガラス越しに確認できた。バスを降りると、それに習うように三人の乗客が続いた。
「今日は特別だ。俺から右斜め前方、一メートルの距離を保って歩き続けろ。道はこっちで指示する」
「ちょっと、冗談でしょ」
信号で立ち止まりながらも一応抗議してみる。
「これが青になったら一目散に逃げてやるんだからね」
「お前は顔を見られてるんだぞ。相手は気取りのチンピラなんかと違う、もっと厄介な奴らだ」
「じゃあどうすんのよ。あんたがぶちのめしてくれるわけ?」
「お前には俺が付いてるってことを思い知らせてやればいい。心配すんな。守ってやる」
カッコつけちゃって……バカ。
自己中で、暴力的で、こっちの気なんか露ほども知らない……いつになく勇敢な表情でこっちばかり見て、何で……何であんたはいつもそうなのよ。自分勝手なくせに、何で自分を犠牲にしようとするの? あたしはあんたが傷つくのも、傷つけるのも見たくない。見たくないのに……。
信号が青に変わった。あたしは言われたとおり、鬼山の右斜め前方を歩いた。信号を渡り、コンビニの前を通り過ぎ、閑静な住宅街へと足を踏み入れた。学校まではまだ五分ほどの距離がある。静かな宅地に、複数人の足音が響いた。
「次を左だ」
指示されるまま、あたしはがちがちに固まった関節をきしませながら次の十字路を曲がる。春の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込みたい思いとは裏腹に、息を殺して歩き続けるのはとてもつらかった。
さびれた小さな公園に辿り着いた。うっそうと生い茂った草地にブランコがたたずみ、砂場はただの荒れ地、小さな山は禿げたコブみたい。
あたしたちは公園の中ほどまで進んだ。ちょうど、小山のふもとに当たるところだった。来た道を振り返ると、静かな朝の宅地に騒々しい足音を響かせる、三人の男の姿があった。それは、バス停で会ったノッポと、途中乗り合わせたスキンヘッド、二人に少し遅れてグラサンスーツ・オールバックだった。
「車を手配してちょうだい。場所は学校前ね、よろしく」
強面のスキンヘッドが電話してる……だみ声のオネエ言葉で。
「なんか用?」
鬼山が尋ねる。いつも通り冷静な声色。あたしは鬼山の背後に回り込んだ。
「用がなきゃなあ、こんな早起きしねえよ!」
ノッポが吠える。近所の犬も吠える。オネエがノッポを睨む。
「知ってる? 睡眠不足はお肌に悪いの。あんたが寝坊してる間に私のお肌は砂漠化待ったなし! 朝の四時から待ったなしなのよ!」
「黙れ」
グラサンスーツ・オールバックが読んで字のごとく割って入り、口論の種火を吹き消した。
あたしにも分かる。両脇の下っ端とは似て非なる冷酷さ、無感情さ。目には光がない。闇を沈めた穴のように、ただ眼窩にはまってこっちを見据えてる。見てると背筋が凍る。悪寒がする。本物。ヤクザ。暴力団。そのテリトリーは法の許容を超える。手段を選ばない、顧みない。従順であり、忠誠を尽くす〝紳士たち〟。
そんな奴らが今、あたしたちの目の前にいる。
「大声出すな。近所迷惑だろ? この子らも怖がる」
「すいません……」
謝るノッポ。
「ごめんなさい、クドさん」
オネエが猫撫で声で続く。巨体がクネクネしてる。
男は無視し、懐に手を入れて何やら取り出した。質素な名刺入れだった。
「驚かせてすまない。我々はこういった者だ」
男は名刺を取り出すとまずは鬼山へ、それから腕をグッと伸ばす形であたしへ差し出した。
小指の第一関節がない。
「くど……ひでき」
鬼山が名刺に書かれた名を読み上げた。
「宮登英樹。二代目・柳葉<やなぎば>一家の二次団体組員だ。以後、お見知り置きを」
笑ってる……?
口元だけは笑みを象って、目は据わったまま。何考えてるのか全然分からない。
あたしは名刺を見なかった。燃やすか埋めるかして処分したかった。出先の営業みたいに渡されて「はい、どうも」なんて受け取れる代物じゃない。持ってると呪われそうだし。
「で、暴力団が俺に何の用? 俺は早く学校行って寝たいんだよ」
ヤクザ煽ってるよ、このバカ。
「悪いね、フクロウ。本名、鬼山勝二だったか? 我々のために少しだけ時間を割いてほしい」
「それで?」
「聞きたいことがある。こちらも穏便に済ませたい。君が協力してくれるなら円滑に進む。第三者が痛い思いをせずに済むだろう」
今、絶対あたしを見た。眼力が心の芯までえぐり取って鷲掴みにした。逃がさないために……最悪のイメージを植え付けるために。
「分かった。答えられる範囲内であれば答えてやる」
言いながらあたしをかくまう鬼山。大きな背中。砦のように頑強で、山のように雄大だった。
「いい心がけだな」
タバコをくゆらせる宮登。律儀にも筒状の携帯灰皿を握りしめて。
「で、聞きたいことって何?」
「瀬名大吾を知ってるか?」
聞くまでもない、といった口調だった。
あたしはその名を知ってる。瀬名くんが兄の名を語った時、『瀬名大吾』と、確かにそう言った。
「今どこで何をしてるのかも把握できてる」
淡々と答える鬼山。
その言葉が事実なら、鬼山は瀬名くんを知ってたことになるんじゃ……?
「あいつは服役中だ。シャバにはいない」
煙と一緒に言葉を吐き出す。
「それなら、瀬名大吾が我々柳葉一家の組員だったことも知ってるよな?」
鬼山が口をつぐんだ。チャンスとばかり、ノッポが枯れ枝みたいな腕を振り上げる。
「知らないとは言わせないぜ? てめえはウチらのブラックリストに入ってるからなあ。身に覚えあるだろーが?」
「まあな……あの人が柳葉一家と深く関与していたことも」
「関与どころじゃない、一味だった。知らなかったのか?」
「あの人は俺に多くを語らなかった」
「まあいい。最後の質問だ。瀬名大吾が隠した売上金の2500万だが、今も行方が知れない。鬼山、もしかしてあいつは、お前にその金を預けたんじゃないか?」
「……何の売上金だって?」
宮登が睨んでる……めっちゃ睨んでる。殺気をはらんで、鬼山の図体ごとあたしを串刺しにしてる。
誤魔化しや小細工の通用する相手じゃない。鬼山の微かな動揺をくみ取ったんだ。宮登は嘘を見抜く。そのことに長けてる。
「お嬢さんに気を使ってるのか? 分かってんだろ、ドラッグの売上金だ」
やっぱり……鬼山は間接的にでも、麻薬の売買経路に関わっていたんだ。あの噂は事実だった。
鬼山……知らないと言って。首を縦に振らないで。
「俺は一切関与していない。本当だ。あの人が大麻の栽培に関っていたのは認めるが」
少しホッとした。鬼山がドラッグ売買に携わっていたら……いやそれどころか、もし万が一、それを使用していたなんてことになったら……あたしは鬼山を失う。この世界から鬼山が切り離される。闇に堕ちて、二度と戻ってこれなくなる。
オネエが一歩踏み出した。
「瀬名大吾と接触のあった外部の人間がいるって噂を聞いてね。最近になってあんたの名が浮上してきたのよ。でも身に覚えがないとすると、また振り出しになっちゃうわね」
ノッポが苛立たしげに舌打ちした。
「信じるのか? どう考えたってこいつが一番怪しいじゃねえか」
「いや。彼の言ってることは本当だ」
宮登が蚊を払うような手つきでノッポを黙らせた。
「こいつは場数を踏んでる。お前らより肝が据わり、俺より頭が切れる。あの目を見ろ。あの眠たそうな目。俺たちを前に虚言を吐くなんざ狂気の沙汰だ。普通なら黒目がひっくり返る」
ひっくり返れるものならいっそひっくり返って、そのまま気絶したかった。
宮登が怖い。ここから逃げ出したい。意識を失って、気付けば保健室のベッドで横たわってる。そうだったらいいのに。あたしは誰かが傍らに添えたジャスミンの花束の香りで目を覚ますの。春のそよ風が純白のカーテンに触れて、よく頑張ったねって、あたしの頭を撫でていく。辛酸な思い出の一切を浄化してくれる。そうだったらいいのに。
……鬼山、約束は守ってよね?
「終いにしよう」
宮登は言って、短くなったタバコの最後の一口を楽しんだ。
心臓が痛いほど早く脈を打ち始めた。
「指令があった。お前を殺さない程度に痛めつけなきゃならない」
「売上金のことは知らないと言ったはずだ」
「関係ねえよ。お前はでしゃばり過ぎた。潮時だ」
「誰の差し金だ?」
「知ってどうする」
「てめえが来い。そう伝えとけ」
「言うねえ」
宮登の笑み。あたしたちの概念では推し量れない感情の一つ。こいつにとっての笑みは喜怒哀楽に縛られるあたしたちとイコールじゃない。もっと別の何か……狂気にも似たそれを連想させる。感情の隅々に乾き切らない血のシミを滲ませて、指で押すとジッと染み出す具合に、それは姿を現す。
その狂気が何なのか、あたしには分からない。推量できない。
「もうやっちゃっていいんですよね、コイツ」
鬼山がポケットから両手を取り出し、ノッポが子供だましのファイティングポーズを構えるまで、大して時間はかからなかった。
「弱いくせに見栄張っちゃってさ。……ヤダからね、気絶したあんたを運ぶの」
顔をしかめるオネエの横で、悠々と二本目に火を着ける宮登。
「気をつけろ。こいつはゲーセンのパンチングマシンを素手でぶっ壊してる。アゴ引かねえと顔が砕けるぞ」
そんなことまで調べがついてるなら、鬼山の喧嘩の強さも認知できてるはず。あの二人が、噛ませキャラのお手本みたいなその男に何か期待しているとも思えない。それは宮登だって同じ。ノッポほどガリガリじゃないけど、たくましい体つきってわけでもない。三人の中では一番背が低いし。
それじゃあ一体、この自信は何?
「離れてろ」
鬼山の大きな手があたしの肩に触れる。百戦錬磨の右腕が、この男の多くを物語っていた。この腕にすがるしかない。すがりまくって、信じるしかない。
「いっくぜえ! ヒュッ! シュッ!」
ノッポはいきなり叫んだかと思うと、間髪入れずに拳を繰り出した。必殺〝連続パンチ〟ってところね。拳は体をかすめるも、あたりはしなかった。鬼山が全て避けている。あの運動オンチからは結びつかない足さばき、身のこなし。無様に空を切る拳の乱打。
攻撃手が鬼山に移ったのは、ノッポが草地の禿げた部分に足を取られ、隙だらけの攻撃に更に隙が加わった、その一瞬だった。
鬼山は顔めがけて飛んできたノッポの左手を掴むと、そのまま中腰になり、すばやく足払いをかけた。金髪の体が宙に浮き、背中から地面に叩きつけられるまでほんの数秒。
鬼山が拳を振り上げた。あたしの顔ほどもある、鈍器と見まがうくらい巨大な鉄拳だった。
でも、鬼山はその拳を放たなかった。それこそ、あたしたち傍観者が想定できた悲惨な事態……ノッポのアゴが木端微塵に粉砕されるとか、殴られた拍子に顔から鼻が吹っ飛んでいくとか、そういう事態には至らなかった。むしろ勢いはまだノッポにあった。
鬼山が飛び退いた。左の頬から血が流れている。ノッポが立ち上がり、鬼山と向き合う。その手には折り畳みナイフが握られていた。
「サイコーだろ? こいつの切れ味」
切っ先に舌を這わせるや、ゾッとするような笑みを浮かべるノッポ。
鬼山は顔色一つ変えない。やせ我慢か、あるいは痛覚が死んでいるのか……その冷静さたるや、止めどない血をぬぐうことで傷の深さを確かめているようにさえ見えた。
「ナイフってのはこう使うんだ」
言って、鬼山がポケットから取り出したのは小型のナイフだった。覆っていたカバーが外されると、あらわになった鋭い刃先が光を浴びて一閃した。
駆け出す鬼山。ノッポがナイフを構え直し、薙いだ。鬼山が前傾でそれをかわす。そして……
「ダメ!」
思わず叫んだ。
鬼山のナイフが鈍い音を立ててノッポの腹部を捉えていた。
青ざめた顔のまま呆然と立ち尽くすノッポに向かって、鬼山は今しがた突き立てたはずのナイフを……血の一滴も見当たらないナイフの刃を、眼前に掲げてみせた。
「押したら引っ込むギミックナイフだ。命拾いしたな」
安堵の表情を浮かべるノッポ。生を実感するように瞬きを繰り返すも、次にはもう大の字に倒れていた。
利き腕なら即死だったでしょうね……鬼山は僅かな踏み込みから左の拳を放ち、ノッポのきゃしゃな体を数メートル向こうへ吹っ飛ばした。この見るも憐れな男はそれきり動かなくなった。
「選べ」
心を落ち着けていられたのは束の間だった。宮登が鬼山のこめかみに何やら突きつけている。
「死ぬか、いさぎよく退くか、どうする?」
「……死なない程度に痛めつけるんじゃなかったのか?」
「生殺しはチンピラの所業だ。俺は殺しがしてえんだよ」
撃鉄の起こされる、独特の金属音。漆黒の鉄塊。人が人を破壊する兵器。宮登が手にしているのは紛れもなく拳銃だった。たまに見かけるピストル型ライターでもなければ、花束の飛び出すマジックの小道具でもない。だってそうでしょ? 例え彼が善人に生まれ変わったとしても、そんなものを持ち歩くユーモアが宿るとは思えないもの。
鬼山は相変わらず顔色一つ変えやしない。横目で銃身を睨んで、隙あらば奪い取ってやろうと腹案しているかのように、ただじっと押し黙っていた。
「怖いか? 怖がれよ、鬼山」
「上に逆らってまでやることか? 自制心の利かない奴は必ずヘマするぞ」
鬼山は言いながら、宮登の欠けた小指に嘲弄の一瞥を見舞った。
「俺は粋がってる奴の怯えた目が好きなんだ。目を覗きながらそいつを殺すと、開き切った瞳孔がゼロの形へ縮んでいくのがよく見える」
「人間はエゴで殺せるほど単純じゃない」
「単純さ。引き金を絞ればお前は死ぬ……あの子も例外じゃない」
全身がすくみ上がった。背後から毛むくじゃらの腕が伸びてきて、首根っこにがっちり絡みついた。既にビクともしない。背後からオネエの息遣いが聞こえる。飛び出た腹の膨張と収縮が全身にまとわりつき、同時に、胃の腑から恐怖と吐き気がせり上がってきた。
最悪。
言葉の綾じゃない。これが正真正銘の最悪……オカマの腕の中で、あたしは立派な人質だった。脇腹のそばをナイフの刃がちらつく。ノッポが振り回していたナイフだ。
反射した陽の光が刃の形そのままに網膜へ焼き付いた。死ぬまで消えない火傷跡みたいになって視界を焦がし続けるんだろうな……あたしはどうでもいいことを考えていた。死が初めて他人事じゃなくなった今、そうやって自分を達観するのも、客観的に見つめるのも、ただ恐怖でしかなかった。
同時に腹が立ってきた。これが焦燥ってやつなら、まさにその通りだったと思う。道理もなくこんな境遇に置かされる非力なあたしがムカツク。首根っこに巻き付く毛の生えたチャーシューがムカツク。あたしのせいで何も出来ず、ただ突っ立ってるしかない鬼山がムカツク。
鬼山……いつまで突っ立ってんだよ……鬼山、鬼山、鬼山鬼山鬼山……鬼山!
「ぶっ飛ばせ! 鬼山!」
怒り任せに声が射出した。
呆気にとられる宮登を尻目に、鬼山がポケットから別のナイフを取り出し、間髪入れずに振り落とした。 刃が宮登の左大腿に食らい込む。血しぶきが舞う。面食らう宮登。初めて見せる苦痛の表情。体勢を立て直すもとうに遅く、鬼山のハイキックが銃を弾き飛ばす。すかさずその足で踏み込み、豪快に顔面を蹴り上げる。弧を描くサングラス。よろめく宮登……次にはもう、ノッポに折り重なるようにして気を失っていた。
「降参! 降参よ!」
オネエがあたしを解放し、白旗を上げたのは、おそらく、血まみれのナイフを引き抜く鬼山の姿態に冷酷非道の〝鬼〟を見たからだろう。
「もう……やんなっちゃうわね」
地面に伸びる二人の男をおっくうげに眺めるオネエ。あたしが鬼山の元へ駆け寄ると、ケータイを取り出し、電話をかけ始めた。
「失敗よ。車を寄こして。近くの公園。あと、大の男二人を担げるだけの男手もヨロシク」
こちらを振り向くオネエ。苛立ちと、いくばくかの同情を孕んだ眼差し……。
「自分が何をやったか、分かってるんでしょうね? 宮登さんって手段を選ばないし、狙った獲物は地の果てまで追いかける人よ。命が惜しいなら、その子連れてさっさと逃げることね」
「今日のことは誰にも言うな」
教室に誰もいないことを確認すると、鬼山は声を低くして言った。頬からの出血は止まっていた。
あたしは自分の席に崩れ落ちた。
「言わないよ。言わないけど……」
声が震える。ナイフの残忍な感触が、制服を通して肌に伝わるあの感覚を、また思い出してしまった。
「……鬼山、ずっと一緒にいてよ。今回のことだって、あんたは巻き込まれただけなんでしょ? 最後まであたしを守ってよ。ねえ、鬼山……」
「もう俺には近づくな」
静かで、深みのある声だった。鬼山はあたしを見ていなかった。
「知り過ぎてしまうことを、俺は予測できなかった。お前はさっきの一件で首を突っ込みすぎた。これ以上お前を巻き込みたくない。だから……もう俺には近づくな」
泣き顔を見られたくなくて、あたしは咄嗟に廊下へと飛び出した。
どうしようもなく不安で、怖くて、突然知らない地に放り出された気分だった。涙が頬を伝う。拠り所がない。ただ立ち尽くすしかない。
ここは孤独だった……暗くて、冷たい所。
そこで、あたしは生まれて初めて迷子になった。