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新・TIKARA  作者: 南の二等星
4/15

第四話 幽霊を信じるか?


「だから、手伝いなさいよ」


 仏頂面のまま神崎が続ける。


「やだね」


 一本調子であしらう。顔の上半分が仁王像の片割れみたいになってたと思う。


「もう一人の保健委員、宮本くんが風邪で休んじゃって、私一人で会場作りしなきゃいけないの。だから、手伝いなさいよ」


 神崎は懲りない。


「やだね。絶対やだね」


 舌の根の乾かぬ内に拒否する。

 それは昼食時の、朝から続く些細な一コマだった。弁当のおかずをひたすら口の中へ運びまくるあたしに、神崎は朝からかなりしつこい。要するに、明日に控えた『健康診断』の会場作りを、今日の放課後、あたしにも手伝えということなのだ。


「もう一人の保健委員、宮本くんが風邪で休んじゃって、私一人で会場作りしなきゃいけないの。だから、手伝いなさいよ」


 目に見えない文字を読み上げるように、神崎はまっすぐ前を見つめたまま機械的に反復する。もちろん、その視界にあたしはいない。


「やだね」


 あたしは繰り返す。冷凍食品の乾き切ったデミグラスオムレツを口へ運ぶ。

 折しも、クラスの喧騒を挟んで沈黙する。冷めた白飯を頬張る。


「もし手伝ってくれたら、うちの新商品、あげちゃうのになあ。まだどこにも売られてない夏の新作」


 いよいよ汚い手に出る。


「そんな口車には乗らないもん」

「今なら大サービス。ママが経営してる美容院の無料優待券も付いてくるのに」

「……あたし、やってみようかな!」


 敗北。恥じらいは無料優待券の影に霞んで消えた。

 この瞬間、あたしたちの視線が交わった。歓喜に潤んだ瞳と、狡猾に輝く瞳が。


「あー良かった。柴田さんがケチなブサイクで」


 この女……ひと思いにビンタして、眉毛を一本残らずむしり取ってやろうか?


「冗談よ」


 神崎はいつになく優しく微笑んで、


「ちゃんとケアしてお化粧の練習をすれば、柴田さんはもっと綺麗になれると思うよ」


「本気で言ってる?」


 嘘でも嬉しかった。

 神崎は何も言わず立ち去ったが、机の上にはKANZAKI美容院の優待券がそっと置き去りにされていた。



 六時限目は化学だ。

 この科目に関して、生徒の一部は早くも見切りをつけ始めている。この科目に関して、あたしたちは闇雲に貪欲である必要はない。それ相応に、あたしたちの見解はいみじくも一致する次第となった。

 なんせ柏木の教えるこの授業は生徒からの評判が悪い。その悪評たるやクラスの隔たりを飛び越える。この手の噂は根も葉もなく広がって、あたしたちに退屈しのぎの笑いを提供してくれる。ごちそうさま。

 宿題が多いとか、怒鳴り散らすとか、あるいは時代遅れの熱血教師を模範して自己満足な熱弁を振るうわけじゃなくって、ただ〝分かりづらい〟。それだけ。

 黒板には汚い字が点々と散らかる。だらしない。あたしの部屋よりだらしない。心なしかノートの字もたわむ。『れ』が『わ』に見えたり、『あ』が『お』に化けていたりする。

 テキストなぞりの教え方は念仏という名の安眠療法ね。文字が傾げば頭も傾ぐ。この授業では教室が斜め10度西へ傾く。教科書に沿いたいだけなら電話帳でも読んでればいい。水漏れ修理の委託先を案じてる方がよっぽど有意義だ。

 この授業ではノートに絵を描く。実験器具とか、水の電気分解とか、とにかく柏木が描けと言ったものを描く。そして柏木も描く。期待は裏切らない。黒板は壁面いっぱいのキャンバスと化し、予想に違わず失笑が漏れる。ひしゃげた実験器具の数々。目を瞑って描いたんでしょ? 柏木の描くそれらは全てがん作だ。この世にそんなものは存在しない。


「俺があそこに立って、チョークを握ってやるよ」


 男子たちが楽しそうに話すのを小耳に入れながら、あたしはポンとあくびを放つ。男子の会話も、これから始まる授業も、退屈に相違ない。


「学校新聞で柏木を取り上げりゃいいのに。きっと話題になるぞ」


「やめろ」


 立ち上がる瀬名くん。果敢な歩調で突き進んでいく。下品な笑い声が徐々に縮こまっていった。


「何か言った?」


 男子の一人が振り向きざまに尋ねた。名前は……何だっけ?


「やめろ……そう言った」


 学級委員としてのプライドと責任感が、瀬名くんを突き動かしているように見えた。


「そりゃ悪かったね、学級委員」


「何で僕をそう呼ぶ? 僕は一個人として注意したんだ」


「よく言うぜ」


 別の男子がぼそっと呟く。

 何だって? 言いながら瀬名くんが間合いを詰める。男子が一斉に瀬名くんをねめつけた。


「うっせえよ、おせっかい野郎。偽善者のくせに」


「……どういうことだ?」


 不穏な空気が立ち込め始めた。それは、霧のようにゆっくりと、幽かに広がっていく。周囲の生徒たちも何事かと目を見張り始めた。


「知ってんだぜ。お前の兄貴のこと」


 教室の一角がピリっと張り詰めた。あたしにはそれが分かったし、当人にも反論の余地がなかったように見える。瀬名くんの表情は凍り付いていた。


「知ってたか? 二年くらい前にこいつの兄貴、逮……」


 あたしが席を立つのと男子が口をつぐんだのは同時だった。眠っていたはずの鬼山が男子の脇に立ち、殺気を孕んだまさに鬼の形相で見下ろしている。


「ええっと……何でしょう……?」


 おずおずと見上げながら男子が尋ねる。

 ああ、こいつ半殺しだ。病院送りか。生きて帰れよ。短い付き合いだったな。南無。南無。南無。

 これを見守るクラスメートの慈愛と同情の眼差しが事態の全てを物語っている。誰にだって未来を見通せたはず。鬼の眠りを妨げた者の末路と裁きを。

 チャイムが……六時限目の授業開始の合図が、この男子に救いの手を差し伸べた。折しも柏木が教室へ入ってきて、また面倒なことになってるな、という風に顔をしかめた。


「なになに、この空気? 面倒事なら放課後にやってよね」


 重たそうに教材を抱えながら、柏木はだらだらと言う。ふと、柏木と鬼山の目が合った。


「君が目を覚ましてるなんて珍しいね。今日はいいことありそうだ」


 教え子たちが席に戻っていく様子を眺めながら、柏木は一人、とても楽しそうだった。


「せっかくだし、今日はちょっとお話でもしようか」


 号令が終わると、柏木は揚々と言った。教室に喜びと安堵の波紋が広がっていき、息の詰まるような重たい空気を廊下へ締め出した。

 何の話? 五十嵐がせっつく。


「そうだな……君たちは幽霊を信じるか?」


 柏木はやぶから棒に切り出した。


「まあ信じようが信じまいが、それは個人の勝手だけどね。要は、そのどちらにしても、多くの人が幽霊を見たことがない」


 柏木の視線が教室を横切った。もったいぶるような仕草だった。


「これは難しい話じゃない。敏感なひらめきと、鈍感な単純さによる選択……幽霊を信じるか信じないかの選択だ。そして今、君たちはその境地に立っている。高校二年生。ここが大きな分岐点になるだろう。君たちは選択を迫られている」


「例えば、君たちが百年生きたとして、過去の自分を振り返ってみる。すると百年分の分岐点が見えてくる。君たちはそこで、常に何かを選び、何かを選ばなかった。その積み重ねが、百年後の自分自身につながってくる」


 へえ。ちょっと感心。

 あの柏木でも、教師風を吹かせるだけの器量はあるみたいね。見てくれはいかにも真面目そうだけど、中身はどこか抜け落ちた肩すかし教師だったもの。


「話を戻そうか」


 柏木は続ける。


「幽霊を信じるか? ということだけど……瀬名くん、君は?」


「信じません」


 しっかりとした語調。問題集の問いかけにでも答えるような調子だった。


「それはなぜ?」


「確信につながらないからです。僕は迷信家じゃありませんし、漠然とした物事に首を突っ込むのは暇潰しの時だけで十分です。それに幽霊や死後の世界なんて存在しません。それらは人間の否定と逃避によるしがない産物に過ぎない」


 柏木は満足気な表情だった。悦に入ったようにも見えた。


「それじゃあ瀬名くんは、君の思い描く自身の未来を、信じてる?」


「信じるって言い方は好きじゃないです。ただ今を一所懸命になってるだけですから。結果はその後からついてくるものです」


「じゃあ質問を変えよう。君はたしか、大学への進学を希望してたはずだ」


「……はい」


「どうして大学へ行きたいんだ?」


「将来のため、家族のためです」


「自信を持ってそう言える? 進学することが、本当に自分や家族のためになると?」


「もちろんです。でなければ進学する意味なんてありません」


「だが不明瞭な未来へ思いを馳せることと、不明瞭な幽霊を信じることは類似してる。そうも思わないか?」


 瀬名くんは答えられなかった。それでも諦め切れなくて、食らいつくような眼差しだった。

 柏木は教壇の上に両手をつき、曲がりなりにも教師らしい風情で(あたしにはそう見えたのよ)ぐるりと教室を見渡した。


「信じる意味は人の持つ何かしらの力だと、私は考える。その先にあるのが最悪の不幸だったとしても、人は選んだ道を戻れない。今を精一杯生きるなとは言わない。ただ、目の前のことばかり気にしていては盲目になるだけだ。だが漠然とした未来に頼っていては、何もできないまま今の自分を滅ぼしてしまうのも然り、だ」


「繰り返すが、君たちは今、大きな分岐点に立っている。それは進学や就職なんかよりもっと重要な、信じるか否かの選択だ。ちなみに、この選択肢に正解はない。今を生きるか、未来に望むか……いずれにしても、大切なのは思う力だ。君たちが思い、願えば、それは生きる糧となる。浅はかな志で選択を誤るな……だがそれ以上に、自分の選んだ道を信じてほしい」


 束の間、静まり返った教室の中を柏木の視線が泳いだ。辿り着いた先はあいつの席だった。


「起きてるんだろ、鬼山? 顔を上げてごらんよ」


 また不吉な雰囲気が戻ってきた。

 黙って首をもたげる鬼山。その目つきはいつにも増して憎々しげだ。


「おぉ、怖い怖い」


 白々しくおどけては苦笑する柏木。


「せっかく学校へ来てるんだから、授業に参加しないともったいないだろ。え?」


「これを授業と呼べるならな」


「呼べるさ。マニュアル通りだがね」


 どっちも嫌な感じ。愚弄と軽蔑を織り交ぜて、泥臭いったらありゃしない。


「どうだ、鬼山? 君は幽霊を信じるか?」


 静寂……好奇心の賜物ね。クラスのみんなが鬼山の答えに関心を寄せている。あたしもその一人。

 やおら鬼山は言った。


「信じる」


 柔和な声色。それとは裏腹に意表を突く驚異。あたしは驚いた。たぶん、あたしだけじゃなかったと思う。それが証拠に、柏木の顔に嬉々とした笑みが浮かび上がった。


「意外だね。『信じない』、そう答えると踏んでたのに」


「まずは信じる。疑うのはその後でいい」


 柏木がせきを切ったように笑い出した。


「ずいぶん達観した物言いだな。嫌いだよ、お前のそういうところ」


 おいおい……。


「勘違いしないでほしい」


 鬼山に睨みつけられながらも、柏木は朗らかな……というよりは、余裕そのものの物腰を崩さない。


「君にはいいところもある。頭が切れるし、勘も鋭い。今の生き方では何もプラスにならないことを、おおよそ把握できてるはずだ。違うか?」


「さあ?」


「犬みたいに嗅ぎ回るのはやめろ。その胸糞悪い態度もだ」


 立ち上がる鬼山。ガンを飛ばしつつ教壇の前まで歩いていく。

 もし、拳で語り合ってたなら、柏木には一縷の勝機もなかったでしょうね。二人が向き合うとその体躯の差は歴然。柏木の方が遥かに小さい。さながらモアイを見上げる観光客の風貌だった。


「言いたいことがあるならはっきり言えよ」


 鬼山が仕掛ける。柏木は笑ってる。笑ってるが、無感情だ。


「……悪かった、私の負けだ」


 降参の印に肩をすくめる柏木。まだ笑ってる。粘土細工みたいな、形だけの笑み。


「だからほら、席に戻れよ。そんなこええ顔すんなって」


 席をアゴで指す柏木。

 鬼山はそのまま教室を出て行った。



「何? さっきのアレ」


 放課後の喧騒に負けじと声を張り上げる神崎。あたしたちは健康診断の会場となる会議室へ向かっている途中だった。

 まあ落ち着いて、話を聞きなさい。あたしは物知り顔で言う。


「あれが鬼山流なのよ。去年、鬼山の暴挙で辞めさせられた先生は全部で三人。みんな鬼山に弱みを握られてた。柏木だって例外じゃない」


「柏木の弱みって何さ?」


 知らんわ。


「一つ確かなのは、柏木が今までの教師とは違うってことね。あのツラ……見た? ヘラヘラしてたよ」


 神崎がうなずく。


「前の三人なら泣いて詫びてるよね」


「〝悪かった。私の負けだ〟。子供でもあやすみたいにさ。なんか……慣れてる感じ?」


 そういえば……鬼山と瀬名くんの間で小競り合いが起こった時もそうだった。柏木の言動には余裕をまとった貫禄があって、そのくせ笑ってた。強がりじゃない。鬼山の悪行なんて屁とも思わない笑み。


「……やばいなあ」


 神崎が呟く。何がやばいのか、聞くまでもなさそうだった。会議室へと続く廊下に差し掛かった時、前方から歩いて来る一人の男子生徒にあたしの関心は吸い寄せられていた。

 それは泡立ちの良さそうな強烈天パ。まさに歩く金たわし。向こうもこちらに気付いたらしく、時速50キロのオタク歩きで急接近してくる。


「神崎さん、みーっけた!」


 うるさっ!


「久しぶりー! 元気だった? 元気だった?」


 凄い気迫。凄いチリチリ。分厚い黒縁メガネの奥で目玉がギョロギョロ動き回って、寄生虫に眼窩を乗っ取られてるみたい。なんかフーフーいってるし、鼻の下が汗で光ってる。脂っこい顔に無精ひげ。膨らんだ腹回り。学ランのボタンが残らず弾け飛びそう。


「気持ち悪いでしょ、この人。全然知らない人だから気にしないで」


 神崎は冷然としながらも、焦点の定まらない男の瞳と絶対に目を合わせないよう気を付けてるみたいだった。


「それ何かの冗談? 朝倉だよ、朝倉仁あさくらじん。今年から新聞局長になったんだ。今後ともよろしく」


 この朝倉という男、近くで見るとより一層気味が悪い。

 見てくれはオタク。オタク100パーセント。巨大な黄色いリュックを背負い、首からは一眼レフカメラをぶら下げてる。左手には某アニメキャラの紙袋。女の子が裸同然のハレンチな衣装でウインクしている。乳が顔の五倍はある。中から丸められたポスターが覗いている。


「まさかあの約束、忘れてないよね?」


「えっと……何だっけ?」


 朝倉のただでさえ巨大な目玉が更に大きくなった。


「約束したじゃないか! 学校新聞の特集でアニメのコスプレをやってくれるって! 僕は何のためにこのカメラを買っちゃったんだよ!」


 廊下を駆け抜ける大声。ほとんど狂ってる。


「そうだった! アニメのコスプレ! 今思い出した!」


 大音声の応酬。


「なら話は早い。撮影日はいつにする? いや、それより衣装決めからだね。キャラクターから決めるってのもアリだけど。カワイイ神崎さんなら何でも似合うと思うよ、うん」


 掴みどころがないわね。がなり立てたかと思えば、次には鼻の下を伸ばして流暢にまくし立ててる。


「ところで、君は誰?」


 ぅわ、こっち見た……。


「……柴田です。神崎さんと同じクラスの……」


 にじり寄ってくる……覗き込んでくる……鼻毛の一本一本が……潰れたニキビの痕が見える。

 そして……


「興味ないや」


 そっぽを向く朝倉。鼻で笑う神崎。あと一言多かったらカメラのレンズにひざ蹴りしてた……ね? 構わないでしょ?


「じゃあ、今後の予定は追って連絡するから。都合の良い日をメールで教えてね。アドレスは……はい、これ」


 朝倉は胸ポケットから紙切れをつまみ上げると、それを神崎の手に押しつけ、意気揚々と立ち去って行った。姿が見えなくなると、神崎はグーにした手の中でそれを握り潰した。


「ウザイ……キモイ……オタク……アサクラ……オタクラ……」


 神崎は窓を開け放ち、丸めた紙切れを外へ放り投げた。憎しみが込められたそれは理想的な放物線を描き、校庭のじめりとした草っ原に落ちて姿を消した。


「何、あの生き物?」


「去年から私に付きまとってくる変態、三年生の朝倉仁。柴田さんも知ってるでしょ、学校新聞の〝春夏秋冬〟。あれを手掛けてる新聞局の一人よ。まあ、今年から局長になったみたいだけど……」


 神崎が身震いする。体中にまとわりつく朝倉菌を振り払わんとばかり。


「何でコスプレなのさ?」


 あたしはニヤついていた。

 まさに他人事。むしろ歓喜。他人の不幸は蜜の味。


「あのオタクがコスプレを撮影させろってあまりにしつこいから、一回だけならって返事しちゃったのよ。……あーん、もう! 憎い! 憎いぞ、朝倉!」


 あたしは口には出さなかったけど、神崎のコスプレ特集が新聞の大見出しを飾ることに関しては賛成だった。だって考えてもみて? 美少女・神崎美奈子のコスプレ写真が、あたしたち読者にどれほどの希望を与えてくれると思う? 男子はこっそり額に飾る。女子は明け透けに清々する。生意気な八方美人に……それも、持ち前の美貌で学校中の男たちをたらし込む神崎に、こういう形で羞恥を下した朝倉へ、女子はただただ感謝することになるでしょうね。

 女って女のことになると怖いのよ。

 


 この学校の会議室は広い。普段使ってる教室の倍はある。中へ入ると、長方形に大きく並べられた長机とパイプ椅子が出迎える。端から端までみっちり詰め込まれて、少し息苦しい。後ろの壁際、つまり黒板と向かい合わせになる形でガラス戸式の書棚が並んでる。って言っても、小難しい本が整列してるわけじゃない。年度別の資料ファイルやトロフィー、卒業アルバム、卒業文集、型の古いプロジェクターが埃をかぶったままそこに押し込められていて、そして忘れ去られようとしてる。

 窓際に見覚えのある後ろ姿が立っていた。


「瀬名くん?」


 どこか物憂げな横顔。夕陽の逆光を浴びて、その表情に影を落としている。


「何してんの、こんな所で?」


 神崎が尋ねる。


「藤堂くんに呼び出されたんだ。放課後ここへ来いって。君たちは?」


「明日の健康診断の会場づくり。私、保健委員だから。柴田さんは物に釣られたお手伝い」


「あんたが釣ったんでしょ、伊勢海老で」


「イワシが釣れたわ」


「イワシおいしいじゃん」


「勘違いしないで。私イワシ好きよ」


「……あ、そう」


 宇宙一どうでもいい。

 瀬名くんが笑い出した。たぶん「仲が良いなあ」とかそんなことを言ったんだと思うけど、はっきりとは聞き取れなかった。その時ちょうど、背後のドアが大きな音を立てて開いたから。

 踏み込んで来たのはカッパだった。猫背の、がに股の、一目惚れしたとかほざきやがった、あの妖怪カッパ男だ。


「あ? 話が違うじゃねえか」


 何か言ってる。あたしは咄嗟に神崎の後ろへ隠れた。


「あんたが瀬名雄吾?」


 無造作なボサボサ頭をかきむしりながらカッパが尋ねる。


「そうだけど……」


 瀬名くんの目に警戒の光が差し込んだ。


「あなたはどちら様?」


「俺のことはどうだっていい。お前に話がある」


「僕にはない」


「お前の兄貴に関することだ」


 瀬名くんは動じなかった。何も言い返さないし、表情にも変化がない。ただじっとカッパを見つめてる。

 このカッパ……どうやらハッタリじゃなさそうね。どこから仕入れたか知れないけど、こいつも瀬名くんの秘密を握ってる。カッパのくせに……。

 折しも、ケータイの着信音が鳴り響いた。カッパのそれだった。


「え、失敗?」


 どうやらメールらしい。ケータイを覗きながら怪訝な声を上げるカッパ。直後、開けっ放しのドアの向こうに人影が見えた。本当に、一瞬だけ。ドア枠に縁取られた廊下の一端を、右から左へ猛スピードで駆け抜けていった。足音が遠ざかる。聞こえなくなるや、会議室へ入ってきたのはあいつだった。


「鬼山……」


 瀬名くんが呟く。その名を聞いた瞬間、真っ青になったカッパの顔が夕陽を浴びて紫紺を帯び、恐怖に引きつった。西日の斜光を受け、鬼山の瞳孔は真っ赤に燃え上がっていた。


「何でお前……ぐぇぅ」


 鬼山はカッパの胸倉を掴み上げると、その小柄な男の肢体を軽々と投げ飛ばした。カッパは悲鳴にも似た甲高い鳴き声を上げながら床を転がり、机の脚に頭をぶつけて止まった。


「失せろ」


 よろよろと立ち上がるカッパへ鬼山が言い放った。


「なんで……俺が……こんな目に」


 カッパはしゃくり上げながら呟くと、情けない泣きっ面のまま会議室を飛び出していった。


「何が起きてんのかサッパリ分かんないよ」


 神崎が誰にともなく訴える。

 確かに何がなんだかサッパリ。サッパリだけど、スッキリした。ありがとう、鬼山。


「何しに来た?」


 瀬名くんが噛みつく。

 状況は良くなるどころか、カッパが残していった不穏な空気に、辛さと苦味のある味付けが惜しみもなく施されるばかりだった。

 お前には関係ない。そう言って瀬名くんとは目も合わせようとしない鬼山。何か隠してる……言動の端々からそう思わせるニュアンスが滲み出ていた。


「君がここを訪ねる理由なんてなかったはずだ。それとも、たまたま通りかかったとでも?」


「そんなところだ」


「あいつを知ってるんだろ? 答えろ」


「知らないな……今初めて会った」


「君は顔も知らない相手をいきなり投げ飛ばすのか?」


「挨拶代わりさ」


「真面目に答えろ」


「至って真面目だよ、俺は。あんなアブラムシみたいな奴に、名刺を差し出す義理がどこにある?」


 あーやだやだ。表情筋を失った人間同士で睨めっこしてるみたい。どっちも頭の回転が速いくせに、相手を憎み落とす語調も、その冗舌な口元も、無駄な争いを終わらせようなんて考えつかないみたいね。


「子供のケンカじゃないんだから、もっと落ち着いて話してみようよ。ね?」


 あたしが仲裁に入る。

 当然、無視される。


「何を隠してるんだ?」


「隠してなんかない。お前には教える必要がないと、そう判断しただけだ」


「さっきの柏木先生とのやり取りは何だ? あの会話の意味するものは?」


「警告だ。深い意味なんかない」


「じゃあどうして……」


「くどい!」


 バッカでかい声。

 間違いない。背後で窓が軋んだ。


「言ったはずだ。詮索好きの向こう見ずはいつか墓穴を掘る。何も知らない奴は大人しくしてりゃいいんだ」


 立ち去る鬼山。が、すぐ振り返った。


「気をつけろ」


 慈悲めいた声。


「信用を乞う奴らはたくさんいる。まずは信じろ。相手がボロを出すまで」


「……それからどうなる?」


「お前次第だ」



 結局、呼び出したはずの藤堂は姿を見せず、女の子二人では心配だからと、瀬名くんも一緒に会場づくりを手伝うことになった。


「ずっと疑問だった」


 最後の長机を運び終えると瀬名くんは言った。


「何のこと?」


 見取り図を広げ、あれはこっち、それはあっち、ただ指図するだけの神崎が上の空で相槌を打つ。


「さっきの休み時間、教室で僕の兄のことを指摘されそうになった時の、鬼山の態度のこと」


 たしかに。あたしが同意する。


「いくら睡眠を妨害されたからって、立ち上がってガン飛ばさなくたっていいのに。休み時間に教室が騒がしいのはあいつも承知の上だろうし」


「……こんなこと認めたくはないけど、僕をかばってくれたような気がしてならないんだ」


 んなアホな。あたしは笑ったけど、あながち瀬名くんの推論もハズレではないかもしれない。


「あいつ不器用だからさ。根はいい奴なんだけど、感情を表に出すのがヘタなのよね」


「そうだとしても、鬼山くんが瀬名くんを助ける理由なんかあるの? 二人って犬猿の仲なんでしょ?」


「でも……もしかしたら……鬼山は兄の『瀬名大吾』を知ってるかもしれない」


 あたしは瀬名くんを見ていなかった。何か重要なワードを発した気がするけど、鼓膜に触れただけで雲散してしまった。その時、確かに何かがおかしかった。


「ちょっと……何あれ」


 あたしは書棚の一つ、ガラス戸の奥で不自然に倒れる本の下で赤く明滅するそれを指差した。

 二人が指先の向こうを凝視する。勇ましい足取りで書棚に近づいていく瀬名くん。

 やがてこう言った。


「ビデオカメラだ。どうやら、ずっとコイツに見られてたらしい」


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