第三話 なんて美しい字なの!
学力テストの一件から二日後。
クラス中を漂っていた生徒同士の警戒心(特に鬼山へのそれは野生のゴリラを相手取るのと大差なかったはず)が薄れ始めてきた、そんな朝のこと。朝一番のHRで柏木がこう言った。
「六時限目のHRは委員決めをするから。サクサク進むように、今から自分が何をやりたいのか考えとけよ。内申にも影響してくるぞ」
面白くない。
自慢じゃないけど、あたしは委員会なんてやったことがない。せいぜいカーテン開け閉め係とか、この落し物誰のですか係とか、そんなところ。
こういう委員決めってなかなか決着つかないのよね。去年は途中からジャンケン大会になったし、中学の頃はもっぱらあみだくじだった。恨みっこなし。
あたしが委員を避ける理由は三つ。
「めんどい。だるい。目立つのがイヤ」
休み時間、含み笑いをうっすら浮かべて振り返る神崎に向かって、あたしは言い放った。
「まだ何も言ってないし」
「どうせ、あたしに学級委員をやれって言うんでしょ。去年もそうだったし」
「委員は一度もやったことないって言ってなかった? なんでめんどいって分かるの? すごく楽しいかもよ」
あんたの算段なんかお見通しよ。
この女はね、委員を避けるために一つでも多くの決定枠を潰しておきたいの。去年の後期委員決めの時なんか、クラス中の女子に商談と称して触れ回っていたもの。
「だったら自分がやれば? もしくは、あたし以外の誰かにお願いすることね。去年みたいにさ」
すげない態度で諦めたのか、神崎はそれ以上何も言わず、教室の隅で談笑している女子の輪の中へ突き進んでいった。女子たちの表情から笑顔が消えたところを察するに、さっそく委員会の話題を持ちかけたに違いない。自分が学級委員を回避できるなら、金でも宝石でも差し出してやるといった調子だ。
その日の昼休み。
期限が明日までの数学の宿題を提出しに行こうと、あたしは一人、教室を出た。足取りは重い。次の授業は大嫌いな英語だったし、その後のHRには悪夢が息を潜めてる。
もし、学級委員に選ばれでもしたらどうしよう……たくさんの視線を浴びながら教壇の前に立ち、大勢の前で必死になって声を張り上げる自分の姿を、あたしはなるべく想像しないようにした。
職員室の扉が自動ドアよろしく向こう側から開けられて、あたしは中から威勢良く出てきた女子生徒に豪快な体当たりを食らわされた。
挟んでいた38点が舞う。ノートが床に落ちる。
「ごっめーん。大丈夫? 痛かった?」
痛かった! なんて言えず……。
「大丈夫……です。たぶん」
無駄に強がる。
凛々しい顔立ちの女子生徒だった。同じセーラー服を身にまとっていなければ、その奇妙に大人びた表情とスラリと伸びた長身から、教師と間違ったかもしれない。
「よかった。前にね、部活のランニング中に男の子とぶつかっちゃって、その子、鼻折れちゃったのよね」
「事件ですね」
女子生徒は足元に落ちているノートに気付いたようで、拾い上げようと腰をかがめた。刹那、あたしは目を疑う。なんとこの女、38点を眺めている。
「あら……? こ、これは……これは!」
女子生徒の目玉が飛び出した。
「ああっ!? ダメダメ、見ちゃダメ! おい!」
職員室前でキャットファイト勃発。
無論、あたしに勝機はない。相手は頭一つ大きな体と勇ましい骨格を併せ持つフェザー級。こっちは皮下脂肪装備のエビフライ級だ。
嘲笑を浮かべる観衆が数名、脇を通り過ぎていった。
「なんて、なんて美しい字なの!」
奪還した38点を食い入るように見つめたまま、女子生徒は感銘の声を張り上げた。眼球は飛び出たまま、そっくりポロっと落ちそうだ。
「字? 字って、どの字?」
まさか『38』じゃあるまいな?
「あなたの純粋な心が、答案用紙に刻まれた文字から伝わってくる! 字の鼓動が、私のハートと共鳴している!」
何言ってんのこの人!
「申し遅れました。私、三年二組の夏目真紀といいます。次期『選挙管理委員会』を務めさせて頂くつもりです」
「なつめ、まき、さん?」
夏目と乗る女子生徒は呆然と立ち尽くすあたしを廊下の壁際まで引っ張っていった。その顔には出会った時のクールな面持ちが戻っている。
「あ……あたしは、二年五組の……」
「二年五組、出席番号六番、柴田華世さんでしょ?」
ぎょっ。
「そんな顔しないでよ。答案用紙に書いてあったのを見ただけなんだから。そんなことより、柴田さん、あなた生徒会役員の書記に立候補してみない?」
誰が何に、何ですって?
「あなたが、生徒会役員の、書記に、立候補するの」
あたしの動揺をくみ取って歯切れ良く言い切ってくれる夏目さん。眩いほどに輝く笑顔。……そんな顔で期待されても困ります。
「無茶です。できません」
これ一択。選択肢なんか必要ない。
「どうして? 部活で忙しいの? 習い事があるとか?」
「……特にそういうのとは無縁ですけど」
「じゃあ、いいじゃない! やってみなさいよ!」
強引なところは調子のいい神崎にそっくりね。
「委員会でさえ未経験なのに、生徒会の役員なんてできっこない。あたしバカだし、めんどくさがりだし、人前に立つのは苦手だし。それに、それに……」
委員会を避ける理由がたった三つなんて甘かった。あと千個は用意して、ぐうの音も出ないほど面食らわせるべきだった。
「そんなの関係ないない。私たちが求めるのは、柴田さんのような純粋な心の持ち主が書く文字なのよ」
純粋な心? さながら胡散臭い宗教勧誘ね。
「字を見ただけでそんなことが分かるの?」
「文字にはね、書いた人の性格や心が、そのまま映し出されるのよ。さっき見た感じでは、思うに、あなたは様々なことにおいて自分に自信が持てない。違う?」
図星。
「でも今日から違う。あなたは気付いたのよ、自分の才能に。授業中、ノートをとる時や黒板に字を書く時、友達に宿題を見せる時、あなたはその才能をいちいち誇りに思うでしょうね。でもそれでいいの。誰にだって一つくらい、取り柄がなくっちゃ」
結局、まともな返事をすることは出来なかった。
あたしは宿題を提出し、そのまま教室へ戻ってきた。
「……という訳なんだけど、どう思う?」
あたしは瀬名くんの席へ直行し、夏目さんとのやり取りを言って聞かせた。鬼山以外の男子に私的な相談事を持ちかけるのは初めてだった。そんなことが出来たのは、不覚にも、あたしが瀬名くんの悲哀な過去を知ってしまい、そのお陰で互いの距離がグッと縮まったからだ。
二日前のアレに背中を後押しされることで、内なるあたしは、あわよくば恩着せがましく「こっちの相談事にも乗ってくれ。いや乗るべきだ」と主張し始める。
これも友情だって言うなら、その通りだと思わない?
「悩む必要なんかない」
瀬名くんは上機嫌だ。
「やってみようよ。でも確かに、一段飛ばしていきなり生徒会役員っていうのは難しいだろうから、まずはクラスの書記になってみたら? 役員の選挙は六月だし、それまでの準備期間としてさ」
「……準備くらいなら、いっかな」
不用意にボルテージが上がって、物事が全て楽しく見えてくることってない?
あたしにとって今がまさにその時だった。何でもやってやるぞ、って気持ち。けどこの場合、ほぼ間違いなく後悔する羽目になるのよね。そうと分かってたのに、あたしは黒板に文字をつづる自分の姿も満更じゃないなと思い始めてた。
「言うまでもないけど、僕は学級委員に、それから生徒会役員にも立候補するよ。去年は生徒会長に立候補したけど、落選したんだ……」
「生徒会長って役員のトップだよね? それを一年生で立候補って……」
タメ口で会話するのが罪になりそうほどの志。この差は何なのかしら?
こちとら死に物狂いのジャンケン大会で精根尽きるのが関の山だってのに。
「もし僕が生徒会長に選ばれたら、この学校を変えてやるんだ。ゴミ一つ落ちてない、とてもクリーンで快適な学校にね」
瀬名くんの言う〝ゴミ〟が何を指しているのか、そんなことは聞くまでもなかった。その穏やかな眼差しは二つ前の席に据えられている。
「ありがと、瀬名くん。おかげで自信がついたよ」
この話題はさっさと切り上げた方が良さそうね。
今は昼休み。この二人が火花を散らすにはエキストラが多すぎるもの。
放課後、教室にはあたしと瀬名くん、そして神崎が残っていた。一人は仏頂面、もう一人は眉根を寄せ、残りはほくそ笑んでいる。
あたしたちは日替わり掃除当番の同じグループ。これに他二名と鬼山が加わるんだけど、その二人はもういないし、鬼山は昼休みから消息を絶っている。当然だけど、今さら誰も鬼山なんかに掃除当番を期待しない。あいつが箒でせっせと掃除する姿なんて想像しがたいし、しなくていい。だって気色悪いじゃん?
「おかしい。なんで私が保健委員なわけ?」
下校の支度をしながら、神崎がまたそれを繰り返す。こいつは掃除中もずっとそれを口にしてたけど、すでに誰からも応答がないことを承知の上らしい。恒例のジャンケン大会において、不幸中の幸い、神崎は学級委員を免れたものの、逃げ込んだ先は保健委員というベターなオチだった。
そして、書記の希望者はあたし一人しかおらず、こちらはすんなり決まった。
「ところで、柴田さんが自分から進んで書記になるなんて、どういう風の吹き回し?」
神崎の目は『裏切り者』を見るそれだった。
「気が変わったの」
あたしは素直に答える。机の中身をカバンへ押し込んでる途中だった。神崎が不平をこぼすたび、勝手に笑みが溢れる。
「そんなの嘘。学級委員を逃れようとして、無難な書記にでもなっておこうとしたんでしょ。もしくは、瀬名くんに説得されたかのどちらかね。昼休みに二人が話してるのを見たんだから」
「神崎さん」
あたしは机の奥に溜まっていたキャンディの包み紙をごっそりかき集めながら言う。
「あたしね、気づいちゃったの、自分の才能に」
出会って初めて、神崎美奈子より上の存在になれた気がした。
「ねえ、瀬名くん。柴田さんに何て言ったのよ」
神崎はとことん納得がいかないみたい。自席に座り、大きな手帳に目を通している瀬名くんへ飛び火した。
「なんにも」
瀬名くんは手帳を眺めたまま返す。
「柴田さんがやる気だったから、背中を押してあげたんだ。……そんなことより、二人に聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
瀬名くんの眼差しがようやく手帳から引き剥がされて、あたしたちを交互に見つめる。その表情は神崎と同じ、どこか腑に落ちない、といった調子。
「さっき、自ら進んで『選挙管理委員会』に名を上げた五十嵐くんのことなんだけど」
「ああ……」
僅かな情報で同時に納得するあたしと神崎。珍しいわね、こいつと気持ちがリンクするなんて。
「確かに、おかしな話よね。柴田さんが書記になる以上に」
神崎は努めて嫌味に聞こえるよう気を付けてるらしかった。あたしは無視した。
「こんなこと言っちゃあいつに悪いけど、委員をするってガラじゃないわね。一年生の時だって、委員会とは一切関わってなかったはずだし」
あたしは明確な事実を伝えた。
「五十嵐くんって、鬼山勝二といつも一緒だよね? 彼から何か聞いてない?」
手帳片手に、まるで刑事みたい。
「何にも。まあ鬼山が関わっていたとしても、あたしなんかには話さないと思うけど。そういう奴だし」
「でも、もし本当に関わっていたとして、それが何になるわけ?」
神崎の意見だ。
「選挙管理委員会って、生徒会役員を決める時の選挙を取り締まる委員会でしょ? 鬼山くんが五十嵐にそんなことさせる理由なんて……」
「まさか」
今度は瀬名くんとリンクする番だった。あたしたちは顔を見合わせ、驚嘆した。
「もしさっきの昼休み、僕たちの会話を彼が聞いていたとしたら、その可能性は十分に考えられる。あの時、僕は生徒会長に立候補するって、確かにそう言った」
「……でもあいつに限って、まさか」
「僕は彼を嫌ってる。彼が僕を好いてるとは思えない」
瀬名くんはどこかで聞き耳を立てている何者かへ配慮するように、声量を落としていった。
「でも、やっぱり考え過ぎだよ」
あたしは頑として譲らない。いや、こればかりは譲れない。
「あいつがそんな手段に出るとは思えない。もし本当に瀬名くんの邪魔をしようとするなら、あいつは自分一人で行動に出るはずだよ」
絶対に。そしてこうも続ける。
鬼山にだってプライドがある。よりによって五十嵐みたいな雑魚をけしかけて高みの見物なんて鬼山らしくない。鬼山のやり方じゃない。
分かった。笑いかける瀬名くん。
「柴田さんがそこまで言うなら信じるよ」
各委員会の初顔合わせは金曜の放課後だった。書記は三年六組が本部になる。
「二年五組、柴田華世です。よろしくお願いします」
起立し、頭を下げながら、あたしは今自分が目立ちまくりなことに気付いていた。自己紹介が終わった後は脱け殻も同然。何でこんなことになったのか……振り返っては後悔し、浅はかだった過去の己を叱咤するのに、今なら少しの時間があれば十分だった。
昨日までの余裕に溢れた笑みは消えた。夏目さんから自分の書いた字を褒めちぎられ、瀬名くんからは背中を押された。身にまとった自信と勇気が自分を大きく変えてくれたと思ったのに、やっぱり、それはただの勘違いだったみたい。気の弱い自分は何も変わっていなかった。
この日は書記長と副書記長を決め(どちらも三年生が選ばれた)、そのまま解散となった。教室を後にする際、カバンが一段と重く感じた。
玄関へ向かって歩いていると、同じく委員会を終えた五十嵐とバッタリ出くわした。いつもの元気な様子は微塵も感じ取れなかった。
「一つ聞きたいんだけど」
前置きはこれだけ。
「あんた、鬼山に何か言われたの? 選挙管理委員をやれって……」
期待はしない。とりあえず聞いてみる。
「違う。自分から進んで申し出たんだ……先生が内申にも影響するって言ってたし」
女々しい声色。こっちを見ようともしない。その視線の先は窓の向こう、曇天の遥か彼方だった。
「真実を知りたいの」
あたしは迫った。一歩前進すると、五十嵐は三歩後退した。
「変な言い掛かりはやめろ……鬼山くんに言いつけるぞ!」
これ以上は無駄ね。こいつは鬼山の忠犬。こんなところで口を割るはずがない。
あたしは踵を返してその場を去った。今は鬼山と五十嵐の両者を信じたい。どっちを疑おうと誰も得しない……きっとそうよね?
一階へ下りると、廊下と階段をしきる壁の死角から男子生徒が飛び出した。褐色に染まったボサボサの頭髪にきつい香水を振りまき、小柄な体つきはあたしとさほど変わらない。すぼまった口元がカッパみたいで、しきりに変な鳴き声を発してそう。
この妖怪とは関わっちゃダメ。そんな気がした。
「ちょっと待ってよ」
スルーしたら声をかけられた。黙ったまま振り向く。薄気味の悪い笑顔が宙に浮いていた。
「君、どこのクラス? 結構かわいいね。これから一緒にゲーセン行かない?」
ハァ!?
あたしに言ってるの? あたしの後ろに誰かいる?
「校内でナンパするなら、もっと相手を選んだ方がいいと思うよ」
あたしは努めて冷静な素振りだった。もちろん、散々キョドりたかったし、心臓はパニクっていた。けど動揺を露出させたら負けだとも思った。男の顔がグッと近づく。
「俺の目を見てよ。ほら、君を見てるだろ? というより、君しか見えてない。一目惚れってやつだな、きっと」
おぇっ! 吐き気がする! 忘れたい! 忘れたい! 顔も声も全部!
これが青春? ロマンス? ギャグは顔だけにして! 慰謝料払って!
「帰らなきゃ……具合悪いし」
一目惚れ……一生に一度と訪れない奇跡。せめて人間からされたかった。神崎が聞いたら死ぬまで笑い種にされるわね。
退かない内に誰かがやって来た。二階から下りてくる。また男子……でも、このカッパとは両極端な風格。
こいつが沙悟浄なら、彼は世にあまねく三蔵法師。
こいつが下衆なら、彼は絵に描いたような紳士。
あたしが囚われの姫なら、彼は白馬に乗った騎士にでも見えたでしょうね。
気品に溢れた歩き方。その道のりにレッドカーペットの幻想が浮かんで見える。生まれ持った高貴なオーラはその顔に美を与え、漆黒の瞳は宇宙を閉じ込めた黒曜石のよう。
「森下くん、やっぱり君か」
白馬の騎士が呆れた調子で言う。口元を彩る美麗な歯は、真珠のネックレスを入れ歯にした具合だった。
「やべっ! 藤堂さん!」
カッパが大げさに見えるほど上半身をのけ反らせた。前髪を優雅にかき上げる騎士……じゃなくて藤堂さん。こっちへ近づいてくる。
「大丈夫ですか? 不快な言動や卑猥な行為はありませんでしたか?」
甘いマスク。黄金比を湛えた輪郭線。まさに美の極致。吐き気も失せる。胸を突き破って心臓が飛び出そう。
「何でも……ただ、ちょっと声をかけられただけだから」
「そうなんですよお」
躍り出るカッパ。不快感が吐き気と手を繋いで舞い戻る。
「だから今回は見逃してくださいよ、このとおり」
手を合わせ、深々と頭を下げるカッパの表情には、まだ狡猾な笑みが貼り付いたままだった。
「しょうがない。今日だけは見逃してあげよう。用が無いならさっさと帰りなさい」
無様ながに股で反対方向へ走って行くカッパを、あたしたちはしばらく眺めていた。小柄な男の背中は奇妙に猫背で、廊下の突き当たりで姿を消した。
「困った奴なんです」
遠くに見える廊下の暗がりを見つめたまま藤堂さんは言った。
「いつも女子生徒に声をかけては迷惑ばかり。彼が同じ二年生だと思うと、僕は後輩たちにあわせる顔がない」
なんだ……タメだったのね。
「ありがとう、助かっちゃった。その……藤堂さん」
「藤堂くん、でいいですよ」
五臓六腑がとろけてしまいそうな笑顔。まばたきするのがもったいない。
「あたし、二年五組の柴田華世。委員会からの帰りだったの」
不慣れな乙女の声色で自己紹介。それでも彼は笑顔だった。
「僕は藤堂渉。実はついさっき、学級委員長に選ばれたばかりなんです。お互いしっかり頑張ろうね。それじゃあ、僕はこれで失礼します」
眼福。カッパの直後だと拍車が掛かるわね。
でも、何だろう……納得いかない。藤堂をカッコいいと思っちゃう自分が許せない。
月曜の朝。
早めに登校すると教室にはすでに鬼山がいて、不格好のまま熟睡していた。偉そうに腕を組み、足を放り出し、寝息を立てている。教室には鬼山と、あたしが突っ立っているだけ。
「変な顔しちゃってさ」
あたしは大声で言う。鬼山を眠りの底から叩き起こすつもりで。
返事はない。イラつく。
「いても寝てばっかで、何しに来てんの?」
寝息が途絶えた。
「ほんと、あんたって何考えてんのか全然分かんないよ」
「うるっせーんだよ!」
前の座席を蹴り上げながら吠える鬼山。声には眠気が残ってる。
「何のつもりだ?」
目を合わせなかった。合わせたくなかったし、そうするのが怖かった。鋭利な視線がこめかみに突き刺さるのを感じた。
「ただの独り言」
うそぶく。そうやって、パンと割れてしまいそうなくらい頬を膨らませる。
「だったら便座にでも言ってろ」
歯がゆくて、泣きたかった。
あたしは足音で怒りを象徴するように、頑張って床を踏み鳴らしながら教室を出ていった。閉めたドアは静かな廊下に爆音のごとく響き渡り、学校中を駆け巡った。
本当にトイレへ行ってやろうと思った。個室に引きこもって便器と向き合い、日がな一日愚痴でも吐いてやろうか、吐き出すたび『大』で流してやろうか、そんな気分だった。
結局トイレへは行かなかった。辿り着いたのは『コエダメ』だった。鬼山に来るなと言われたが、気分が荒れた時ほどここを通るに限る。照明も、陽光も行き届かないこのじめっとした空間は、なぜか心が落ち着く。
「こんなつもりじゃなかったのに」
声はかすれていた。低くて、生気がなくて、自分の声じゃないみたいだった。
気付くと、誰かが殴って開けた壁の穴をじっと見据えていた。鈍感な鬼山と空回りした自分の言動で、猛烈に腹が立ってきた。
「あたしはただ、あんたの方がカッコいい奴なんだって、証明したかったんだよ」
それ以上考えないことにした。涙が溢れそうだった。
「…………!?」
咄嗟に振り返った。視線を感じた。目の前には『あかずの間』のドアが佇んでいる。今確かに、窓を塞ぐ暗幕の陰に人の気配があった。
あたしは真相を突き止めようと、ドアに手を伸ばした。
「……ああ。この調子でいけば今年もバッチリだ」
暗がりから聞き覚えのある声が聞こえてきて、あたしは思わず手を引っ込めた。防火扉の手前に階段があり、声はその階下から聞こえてくる。段々大きくなる。
「作業は快調だ。大丈夫、抜かりはない……」
姿を現したのは藤堂だった。向こうがあたしを見つけると、慌てた様子でケータイをポケットに押し込んだ。校則で禁止されているソレを。
「また会ったね。えっと……柴田さん」
取って付けたような笑みだった。記憶との差異。今目の前にいる藤堂、先週会った藤堂。
何か違う。
「今ケータイで話してなかった?」
こんなにささくれ立ってなきゃ、間違いなく見なかったことにしてたでしょうね。今のあたしはどっちかっていうとルールをぶっ壊したい側にいるんだけど、それが他人の所業なら話は別。ねちねち咎めまくって、最後には余すとこなくチクってやるわ、って、まさにドSな性分。相手がカッパだろうがイケメンだろうが、そんなのお構いなし。
「ここだけの話、委員長の僕だけは特別なんですよ」
何か言い出した。
「校長先生から許可だってもらってるんです……」
「そんなわけないでしょ? みんな平等じゃなきゃ校則の意味がないもの」
藤堂自慢の笑顔がはっきりと歪んだ。もしかして怒らせちゃった?
にじり寄る藤堂。この人ヤバイ……目がヤバイ。確かな危機感。脈拍が加速する。
「おはよう、柴田さん」
心臓が飛び上がって肋骨をぶっ叩いた。背後に瀬名くんが立っていた。宿題ノートの束を両腕に抱え、その頂から目だけ覗かせてこっちを見ている。
あたしは藤堂から逃げるようにして瀬名くんの背後へ回り込んだ。その際、手元からノートの束を半分、受け取ることを忘れなかった。
「誰かと思えば藤堂くんじゃないか」
何も知らない瀬名くんの快活な声。廊下によく響く。
バツの悪そうな藤堂の顔に弱々しい笑みが広がっていく。
「おはよう、瀬名くん……調子どう?」
「まあまあだね」
そして沈黙。
何なの、この二人。嘘っぽい笑顔で見つめ合って、居心地悪っ。
「ところで……」
不意に瀬名くんが切り出す。
「二人とも、あまりここへは近づかない方がいい。今はともかく、昼間になると学校中のゴミたちが集まってくるみたいだから。要するにここはゴミ捨て場。毎日が可燃ゴミの日ってわけだ。……じゃあ、僕はこれで。行こう、柴田さん」
早口で吐き尽くすと、瀬名くんは得意の華麗な回れ右を披露し、そのままの足取りで教室へと歩いていった。
「二人はどういう関係なの?」
ノートを返す作業を一緒に手伝いながらあたしは聞いた。教室にはあたしと瀬名くんと、あとはやっぱり鬼山が寝てるだけ。
「去年から委員会が一緒なんだ」
瀬名くんは慣れた手さばきでノートを返しながら答える。
「そして藤堂くんは僕のライバルでもある。一年生で生徒会長へ立候補したのは僕だけじゃなかった」
「そうだったんだ」
「知らなくても無理ないよ。演説会に放送システムを採用してる学校だし、興味の無い人なら顔も名前も分からなくて当然」
険しい表情で振り向く瀬名くん。手元にもうノートはなかった。
「噂じゃ、藤堂くんは今年も生徒会長へ立候補するみたいだ。僕は正々堂々、本気でやり合う覚悟は出来てるよ」
先ほどの出来事を言ってしまおうか? 藤堂が面を汚せばそれだけ瀬名くんが有利になる。でも、瀬名くんはその結果を望むだろうか?
それに真意は分からずじまい。藤堂に限って本当にケータイを許可されてるのかもしれないし(十中八九ないと思うけど)、怖い顔で近付いてきたのも、あたしの肩にとまった巨大な蚊を手で払おうとしただけかもしれない。
そもそも、あの電話相手は誰? 『あかずの間』に感じた視線の正体は?
冷たい気配。
不吉な予感がする。