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新・TIKARA  作者: 南の二等星
2/15

第二話 言わば、正義と……悪


 男の登場は、ドラマに例えると台本通りで、漫画に例えるとよくある展開で、あたしからたった一つ言葉を贈与するなら「グッドタイミング」だった。殴り合いの喧嘩が開戦されようという只中に、待ったをかけたこの男は一体何者?


「おっと、おはよう!」


 驚き混じりな挨拶。傍から見ればあたしたちは行儀の悪い三体のマネキン。抗争する男たちの中に飛び込まんとする悲哀な表情の乙女……さしずめ演劇部の練習風景か、メロドラマのチープなワンシーンってところね。


「先生!」


 男を振り返るなり瀬名くんが驚嘆した。


「……先生だったの?」


 教室に響くあたしの声。失言だったかな? ついよ、つい。


「新任の柏木康人だ。今年度からこのクラスの担任になったんだよ」


 柏木康人かしわぎやすとの自己紹介。ブスッとした表情で銀縁メガネを押し上げ、忠告も兼ねるように言う。まあ確かに、この柏木という男は教師以外の何者にも見えない。

 地味色の背広とネクタイ。痩身で頬はこけてるけど、身なりは清潔そう。ヒゲは剃ってあるし、黒髪も襟足が揃ってていい感じ。年は四十くらい。法令線がお父さんにそっくり。メガネは高そうな銀縁で、なかなか自己主張的。レンズ越しにプライドを宿した熱い眼差しが窺える。瀬名くんに負けず劣らずってところね。その熱意が悪い方へ転じなければいいけど。


「廊下まで聞こえてたけど、君たち今、一悶着起こしそうな雰囲気じゃなかった?」


 あたしと瀬名くんが決まり悪そうに目配せすると、鬼山が大きな音を立てて席に着いた。ほとんど重力任せだ。


「新任の私をいたわってくれたら嬉しいんだけどね。教師としては長いけど、この学校で教えるのは初めてなんだ。教師と生徒、幸先の良いスタートを望もうじゃないか」


 寛容な笑みで笑う柏木。並びの良い歯がズラリと顔を覗かせた。


「これを、さっき渡し忘れてたんだ。年間行事予定表。配っておいてくれると助かるよ」


「先生、すみませんでした」


 瀬名くんは予定表を受け取りながら頭を下げた。


「鬼山くんを相手に正義を気取ってしまったのは、本当に僕らしくなかったと反省しています。でも、僕は許せません。高校性らしからぬ言動や悪事を繰り返す、こういった社会に不適切な……」


「素直に粗大ゴミって言えよ」


 呟くような鬼山の横やり。寝言かと思った。


「君はゴミ以下だ」


「まあまあ、まあまあ」


 笑顔のまま優雅に割って入る柏木。

 状況が分かってないのかしら、この人。

 呑気なの? ズボラなの?


「そうか、君が鬼山勝二か」


 柏木が鬼山を見下ろし、鬼山はそれを見上げた。


「前の赴任先にまでその名を広めるほどの不良……この立場から言わせれば〝厄介者〟だ。この学校にいるとは聞いてたけどね。まさか私の生徒になるなんて夢にも思わなかった」


 ちょいと待った。


「先生。鬼山は厄介者なんかじゃないよ。そりゃあ、一緒に歩いてもロクなことないし、会話なんかまともに成立しないけど、でも鬼山って、根は良い奴なんだよ」


 フォローのはずが、場の空気をかき乱しただけだった。笑顔の戻った柏木の表情が、まっすぐにこちらを見つめたのはその直後だった。


「確かに、一緒に歩かせてくれるんだから根は良い奴なんだろうね。君は彼にとって特別な存在なんだろう。えっと……」


「柴田です。幼馴染の、柴田華世」


「違う。腐れ縁だ」


 前もって準備していたかのようにすぐさま訂正する。


「どっちでもいいけど、授業内でのいざこざは勘弁しろよ?」


「杞憂だね」


 言葉からはたっぷりと練り込まれた皮肉な感情が溢れていた。柏木はそんな鬼山を嘲るように一瞥すると、瀬名くんに「後はよろしく」とだけ言い残し、教室を出て行った。



 同時に二つの物事を処理するのってセンスが要求されると思わない?

 例えばこの状況。あたしはプリントを配る瀬名くんを手伝う傍ら、二人がまた言葉の暴力で互いを叩き潰そうと腹案するのを阻止しなくちゃならなかった。瀬名くんが鬼山の席へ近づくたび、険悪なオーラが教室を圧迫する。

 あたしは歩きつつ足首の準備運動を欠かさない。これは仲裁の気構え。大丈夫。鬼山の扱いには慣れてるんだから。瀬名くんを転ばせようと足を突き出したら、あたしが代わりに転んであげる。瀬名くんが鬼山のプリントで紙飛行機を折り始めたら、あたしも加わって……じゃなくて、それはいけないことだよと注意する。完璧でしょ?


 心配をよそに、プリント配りは何事もなく終わった。

 その後は長い静寂。鬼山は大人しく眠りこけてるし、瀬名くんはプリントを黙読するのに熱心だった。

 配布されたのは『学校新聞〝春夏秋冬〟』『図書通信』『年間行事予定表』『PTAから保護者様への通知』『健康診断について』『進学・就職のススメ』……などなど。

 あたしは『年間行事予定表』に目を通し、ゴールデンウィークの連休数や夏休みの日数を数えることにしばし専念した。



 間もなく、教室はクラスメートの笑顔(一部案じ顔)と声で満たされ始めた。

 教室に入って来た生徒たちは鬼山の姿を見て驚きおののき、卒業までの二年間を案じるような眼でどこか遠くを見据える。可哀想だけど、ちょっと見ものね。

 中には、玄関に貼られた名簿で鬼山勝二の名をすでに見つけていて、大方の緊急事態を把握しきった顔つきで入ってくる子もいる。その場合、あえて鬼山の方を見ない生徒が大半だった。あたしには、鬼山がどういう生き物なのか、骨の髄まで心得た者にしか成せない虚しい抵抗に見えて、やっぱりちょっと可笑しかった。だって、互いの視線が正面からぶつかれば、数秒後の自分がどうなってるのか見当さえつかないもの。

もちろん、例外もいる。例外っていうか、論外?


「鬼山くん!」


 叫びながら教室へ飛び込んでくる。脇目も振らず声を張り上げて、ツルツルの丸顔を輝かせて。自称、〝鬼山勝二の友人〟。名は『五十嵐亮いがらしりょう』。童顔に笑みを広げ、鬼山の右隣の席へ華麗にダイブ。


「また同じクラスだね! ねえ鬼山くん、起きてる? 僕だよ、五十嵐だよ!」


 癇に障る声。「せっかく眠ってるのに余計なことすんな!」と言いたげな周囲の冷たい眼差し。もちろん、五十嵐にはお構いなし。


「ねえ、鬼山くんってば!」


 あたしは、迷惑極まりないといった表情で二人のやり取りを見つめる瀬名くんをチラと窺ってから、眠そうな眼をすぼめがてら五十嵐の笑顔を覗き見る鬼山の横顔へ視線を流す。睡眠不足の顔色が不快な暗褐色に染まっていく一部始終を、あたしは確かに見届けた。


「また同じクラスだね! 僕だよ、五十嵐だよ!」


 機械的に繰り返される高声は、今や教室のどの声より響いてやかましい。一年生の時から五十嵐はいつもこの調子。あたしよりチビ、誰よりも間抜け。いつだって鬼山の腰巾着で、見てくれは虎の威を借る狐……もとい狸みたい。ご覧の通り聴覚を不快にさせる小僧で、不良共のうんこ座り集団に混じっては死語待ったなしのヤンキー言葉を不慣れに連呼しようとする。

 もっと我を持ってよ、五十嵐くん。あなたは長い物に巻かれてフラフラと漂ってるだけ。


「俺が寝てる時は話しかけるな」


 鬼山も遂に音を上げる。


「耳障りなんだよ、その声。犬の遠吠えじゃあるまいし」


「遠慮しないで! もっと素直に喜んでも……」


「俺さ、お前嫌いなんだよ」


 鬼山は不快げに吐き捨てたけど、こんなことでひるまない五十嵐の根性っぷりは、さすが自称〝鬼山勝二の友人〟といったところね。


「そんなこと言わずにさ、またなんでも命令してよ。何か欲しい物はある? すぐに調達してくるよ!」


「じゃあ、ツナサンドとコーヒー牛乳」


 憐れ、五十嵐。さようなら。入って来た時と同様、勢いよく教室を飛び出していった。


「どっちも購買で扱ってないじゃないか」


 鬼山の二つ後ろの席から、瀬名くんが独り言のように呟く。視線は手元のプリントに据えられたまま。


「厄介払いできて清々したね。しかも昼飯に困らなくて一石二鳥だ」


 やはり独り言のように鬼山が言う。その静けさに包まれたやり取りの中に、今にも火の着きそうな爆薬が仕込まれていることを、あたしだけは知っていた。


「あんなに君を慕ってるのに、君には情のかけらもないのか」


 鬼山は答えない。すでに目を閉じ、浅い眠りに入ってる。この会話を耳にした多くの生徒が、鬼山と対等に……いやむしろ、優勢を収める体裁で言い連ねるこの勇敢な紳士に疑問を抱いたことだろう。「一体何者なんだ?」と。

 みなさん、彼は正義の味方ですよ。二つ名は〝命知らず〟。


「おっはよー、柴田さん」


 おっと……遂におでましね。名簿でチラっと名前だけは見えていた。あの時、歓喜と興奮がこいつの存在を脳内から抹殺してくれると期待してたけど……虫が良すぎたようね。

 だってこいつの……神崎美奈子かんざきみなこの濃厚で苦味を含む記憶思念が、脳みそはおろか、細胞を構築する染色体の一つひとつから潔く撤退してくれるだけの理由を、一体どこから見出せっていうの?  土足でズカズカと踏み込んでくるこの女のどの部位から?

 いい? 皆無なのよ。みんなあたしのことなんかすぐに忘れちゃうけど、神崎美奈子のことは死病に伏しても思い出せるでしょうよ。

 脇を颯爽と通り過ぎ、前の席に腰を下ろす神崎。あたしの陰鬱な表情にも満足げな笑みを返す。

 神崎美奈子。化粧品の大手ブランド『KANZAKIコスメティック』社長の一人娘。あたしとは一年生からの付き合い。付き合いと言っても華々しいものじゃない。例えば、放課後にブティックのウィンドウショッピングに勤しんだり、プリクラで互いの鼻をつまみ合って変顔させたり、一つのパフェを仲良くつつき合って、チェリーは誰のとか、このクッキーは半分にしようとか、そういうキュートな会話をしたりする付き合い方じゃない。

 例えばそうね……。


「ごきげんよう、神崎さん」


「頭打った?」


「だって春だもん。ごきげんよう」


「鼻毛出てるよ」


「うそ……?」


「うっそ~! 今の顔傑作! 超ブサイクゥ~!」


「しね」


 笑いながらケータイをこちらに向け、「今のブサ顔もっかいやって」とせがむ神崎。あたしたちはマウンドで罵詈雑言のキャッチボールを繰り返す、そんな関係。茶飯事ね。扱いには慣れたけど、甚だうっとうしいわ。

 この淡白かつ邪悪な関係が、誰かが望んだ末の産物じゃないことは確かね。出会いなんてちんけなものだった。

 一年前、そう、ちょうど今みたいなポジショニングであたしたちは出会った。神崎の『か』、柴田の『し』。あたしたちは出席番号という生まれ持った不可抗力において前後に並んでしまった。もし神崎の名前が『ウラジロチチコグサ美奈子』とかいう雑草めいた名前だったなら、あたしたちの間に陳腐な友情ならぬ〝幽情〟が芽生えることはなかったでしょうね。


 こいつはまず、誰がどう見ても『鬼山くんのせいで友達のいない柴田さんに、仕方なく付き添ってあげているだけ』という感覚が丸出しの、上辺だけの友人気取りであるのは火を見るより明らかで、しかも、誰に対しても優越な態度でさげすみ、男子生徒と教師に対しては八方美人で振る舞った。

 同じ女子としては遠巻きにしておきたい手合いね。でも、神崎美奈子が本物の美人であることは証明済みだし、時折見せる箱入り娘の純な性格も、彼女を憎み切れない確固たる理由の一つだった。

 何より決定的なのは、神崎美奈子もあたし同様、友人が一人もいないということ。〝類は友を呼ぶ〟なんて嘘っぱちね。変な奴しか来ないもの。

 鬼山にとって五十嵐が耳障りなら、あたしにとって神崎は目障りそのもの。ただでさえ美人のくせに、その自慢の顔に化粧を乗せてくるものだから、あたし含め、嫉妬にまみれた女子からの敵視は日に日にその力を増していく。ええ……認めるわ。これはただの嫉妬なのよ。


「またあなたと同じクラスになれるなんて、神様の粋な計らいに感謝しなきゃね」


 発声に添って滑らかに動く表情を恨めしく見つめながら、あたしは「へいへい」と相槌を打つ。ありがとう、神様。神崎のおまけ付きだったってわけね。


「明日は学力テストだけど、復習は大丈夫? 成績に関係ないからって手抜いちゃダメよ」


「分かってますって」


 専属の家庭教師じゃあるまいし。

 神崎はこう見えて成績も良い。頭が良いんじゃなくて、成績が良いだけ。一夜漬けの詰め込み作業。脳みその出来とテストの点は比例しない。


「鬼山くんも同じクラスだったんだ」


 鬼山の横顔をまっすぐに眺めながら神埼が言う。そんな神崎の瞳が、鬼山の二つ後ろの席へとスライドしていく。


「まさか、鬼山くんとあの瀬名雄吾が同じクラスになっちゃうなんて……」


「瀬名くんを知ってるの?」


 驚いたけど、次の一言で納得した。


「学校の男はみーんな調査済み。でも瀬名くんは例外ね。中学が一緒だから」


 すげえドヤ顔。


「なんで鬼山と瀬名くんが同じクラスだと〝まさか〟なの?」


「正反対だから。言わば、黒と白。表と裏。北と南。犬と猫。正義と……悪」


 熱のこもった『悪』を言い切る神崎。頬がピンクに染まって、摘み立ての桃みたい。

 あたしは小首をかしいで、言葉の真意を尋ねる。


「鈍いわね。要するに、あの二人が一緒になったらマズイのよ。瀬名くんは中学の時から不良って類の人種を嫌ってる。理由は分からないけど、とにかく、視界に入るのさえ苦痛って感じね。瀬名くんって度が過ぎるくらい正義感の強い人間だから、道徳に背く鬼山くんの存在は徹底的に眼中の邪魔者ってわけ。決まり文句は『不良は粗大ゴミだ』」


 なるほどね。


「でも、瀬名くんが不良を嫌う理由って何?」


 疑問は朝一番のチャイムによってかき消された。鼓膜を震わすチャイムの余韻が消える前に、威勢良く開かれたドアの向こうから再び柏木の姿が現れた。いや、もう一人いる。

 あれはたしか、古文の男性教諭、武田先生。休み時間になるといつもニコニコしながら廊下を散歩してる変わったお爺ちゃん……じゃなくて、初老の朗らかな先生だ。教室の中を見渡す顔には優しい笑みが含まれている。光沢のある綺麗な白髪が実に好印象だ。

 武田先生があたしのお爺ちゃんだったら、お年玉いっぱいくれるんだろうな。


「起立!」


 声を張り上げる柏木。鬼山以外、その場にいた全員が一斉に立ち上がった。


「おはよう、諸君!」


 まばらに挨拶をする生徒たちの中でも、一際大きな声で返したのは瀬名くんだった。


「元気があってよろしい……はいはい、着席ね」


 いきなりテンション下がった。まるでワンマン軍隊ね。白っぽい顔色を見るに余力は乏しそう。


「進級おめでとう。目の前に見知らぬ男がいて、戸惑っている生徒も多いだろう。そんな人のための自己紹介」


 柏木はチョークを手に取り、黒板に歪んだ文字をつづっていった。あたしたちは千鳥足の軌跡を目で追った。


「柏木康人。ルビもふっておこうか? 〝かしわぎやすと〟だ」


 縦に書かれた文字はいびつで、情けなかった。


「今年度、このクラスを受け持つことになった。担当科目は化学。四十一歳。血液型はO型。趣味は……観葉植物の栽培かな」


 この男、それから二十分もの間、自分のことをペラペラと喋りまくった。九州出身だの、その生い立ちだの、内気だった少年時代だの、初めて彼女ができた高校時代だの、教師になったいきさつだのだのだの。この奇妙に冗舌な男は、この日、この瞬間のために学校へやって来たとばかりの勢いでまくし立てた。

 あたしを含めた多くの生徒が、眠り続ける鬼山を羨ましげに眺めていたのは事実だったし、結局のところ際立って役立つ話はなく、柏木に投げかけられる視線が時間を追う毎に冷たいものへと変化していったことを、恐らく当人は知らない。


「おはようございます」


 その一声で空気が入れ替わった。

 柏木のダルい自己紹介が続く間、穏やかな仏像と化していた武田先生。唐突に一歩踏み出し、年不相応に滑舌の良い口調と鮮明な声色であたしたちに挨拶した。


「武田です」


 改まった自己紹介にあちこちから笑いが漏れる。


「副担任、という形で皆さんと過ごすことになりました。よろしくね」


 終わり……らしい。武田先生は満足の印に一歩引いて、あとはずっと笑顔だった。



 学力テストは次の日の午前中に実施された。当然、復習なんて追いつかない。春休みはテレビの前で食っちゃ寝してる間に溶けて消えた。残念だけど、これがあたし。残念なあたし。

 試験には二年五組の生徒全員が出席した。無論、鬼山が目を開いて試験に臨んだことを前提としての話。試験科目は国語、数学、英語。範囲は一年生で習った総まとめ。成績には関係ないけど、ここで点を取れなきゃ『あたし去年何やってたの? 死んでたの?』、そんな虚しさに苛まれかねない。

 試験結果は答案用紙に赤ペンが入れられた状態で、その日のHRの終わりに返却された。名前のすぐ脇に、銘々の脳みその強さが数字になって記されている……。


「あらら。お気の毒」


 神崎だ。あたしの答案用紙を頭上高く見下ろしながら、いかにも無関心な声色を落とす。


「勝手に見ないでくれる?」


 油断も隙もない。ほっといたらスカートの中まで覗かれちゃう。

 あたしは答案を机の奥まで押し込んで、怒り任せに丸め込んだ。


「家に帰ったらちゃんとご両親に見せるんだよ」


 柏木が騒々しい教室の中で声を張り上げる。


「破いて捨てたり、燃やしたり、ヤギに食わせようとしたって無駄だぞ。点数と偏差値は通知書として家庭に送付するからね。ちなみに、どうでもいいけど、今回の上位三名ね。三位、神崎美奈子。300点中272点」


 神崎美奈子という響きが教室の隅から隅へと伝わった時、本人の優越そうな表情に拍車が掛かる瞬間を、あたしはついうっかり見てしまった。その姿はまるで、優勝という華やかなスポットライトから少し外れた、ミス・ユニバースの出場者ってところね。


「二位、瀬名雄吾。285点」


 瀬名くんは嬉しいやら悔しいやら何やら、珍妙な表情をこしらえて顔を上げた。きっと、本人は自分がクラスで一番だと思ってたに違いない。でも、その上をいく何者かが自分を蹴落としていった。

 誰が一位なのか、あたしには大体の見立てが整っていた。案の定、柏木の口から発せられた名前は、あいつのそれだった。


「一位、鬼山勝二。299点」


 騒がしかった教室が水を打ったように静まり返った。この表現には僅かの誇張もなくって、まさに完璧、乾いた呼気さえ聞こえない。みんな息を呑んだまま、吐き出すのも忘れて立ち尽くしてる。

 鬼山本人は不在だったが(帰りのHRに出席しないのはいつものこと)、自称〝鬼山の友人〟が自分のことのように喜んだのを皮切りに、また教室中がざわめき始めた。昨日、初顔合わせとなった生徒たちが、額を寄せ合ってこの一大事件についての討論をかわしている。

 「カンニング」「前々から問題を知っていたんだ」「誰かを恐喝して答案用紙をすり替えたに違いない」……信用のない者がどんな陰口を叩かれるのか、それがはっきり露呈されている。


「鬼山くんを知らない子たちは驚くよね」


 口が半開いたままの瀬名くんを眺めながら、神崎が愉快げに話しかけてきた。鼓膜を突き抜けていった『鬼山勝二』という名の衝撃波は、瀬名雄吾という男の意識と活力を、その原動力ごと破壊してしまったらしい。チーン。ご愁傷様。



 この校舎の一部は暗黒面に触れていて、そこには誰も近寄ろうとしない……〝自分の然るべき居場所をわきまえた人間なら誰も〟ってこと前提だけど。

 三階にある、西から東へ伸びる長い廊下の末端がそれ。そこはまさにコエダメ。流れつく糞尿のどん詰まり。不良どもがこぞっては、酒を飲み、タバコを吹かし、愚かな下ネタや喧嘩武勇伝に華を咲かせる、まさに前人未到……否、善人未到の終着点。

 現状は野放し状態。あいつらにはまともな分別なんかなくって、先生は漏れなく仇にされる。叱責なんかどこ吹く風。滑稽な自己主張とプライドをかざして、的外れな信念で徒党を組んでる。こんな話を聞いてると、ほら、小者の五十嵐がしつけの行き届いたトイプードルか何かに見えるでしょ?

 ちょうど一年前。既に不良たちの溜まり場となっていたこの廊下を〝コエダメ〟と名付けたのは鬼山だった。入学して間もなく、この学び舎に巣食う三年の番長をワンパンしたことから、鬼山が強引に新たな番長として選ばれた。名付けたのはその時って話。

 だけど、不良共がわらわらと集まってくる昼間の時間帯以外でも、コエダメには誰も近寄ろうとしなかった。例えば、まだひと気のない朝。どんなに腹が痛くても、ショートカットのためだけにこの廊下を渡ろうとは思わない。理由は『あかずの間』があるからだ。


 怪談話によくある〝いわくつき〟物件ってわけじゃない。そこでは誰も首を吊ってないし、墓地を埋め立てたわけでも、夜中の二時に霊道が開くわけでもない。

 そこは何の変哲もない理科準備室であり、入室するための鍵だって職員室にしっかり保管されている。理科実験室が一階へ移ったために使われなくなった、ただの空き教室だ。そんな一室が『あかずの間』なんて呼称されるのは、もちろん、そこがコエダメの一部と化してるから。ほんと、それだけ。

 だけど、信憑性のない不気味な噂話は多い。特にこの春休み、部活動で登校する生徒の間では噂が飛び交った。ドア窓の暗幕から誰かが覗いてたとか、窓越しに明かりが動き回るのをグラウンドから見たとか……これを聞いた大半の生徒は『不良共のイタズラ』で方をつけようとする。その方が合理的だろ、ってね。


「ういっす」


 放課後の閑散とした廊下。あたしは窓辺に立つ男に向かって声をかける。

 ひび割れた窓から射る暖かな夕陽を浴びるのは、長身の、明るい茶の前髪で重そうなまぶたを見え隠れさせる鬼山だった。

 ここはコエダメ。今は鬼山とあたしの二人きり。たそがれが目に染みる間だけは、鬼山をあたしだけのものにできる、そんな特別な時間。


「やっぱりここだったんだ。好きだよね、あんた」


 あたしは一緒に並んで夕陽に目を細めた。

 朝と一緒、鬼山はやっぱり何も答えなかった。でも、これでいい。鬼山とこうして立っていられるだけで、心が満たされて、満たされて、あたしにとっての幸せが何だったかを思い出せる。

 例え、この陰惨な空間でも……鬼山はここでなら起きていてくれる。あたしの声に耳を傾けて、不器用な優しさで触れてくれる。くすぐったくて、くせになる。鬼山とここへ来れるなら、あたしは世界一のバカになれる。


「三年生がいなくなって、ここも静かになっちゃったね。どうせあの人たち、コエダメの意味なんか分かっちゃいなかったよね。結局、カッコイイ英単語か何かと勘違いしたまま卒業しちゃったんじゃない?」


 あたしは笑いの発作に駆られながら言ってやった。


「そうだな」


 鬼山は無愛想に応えるや、ポケットからおもむろにタバコを取り出し、ライターで火を点けた。


「タバコやめなって。百害あって一利なしよ。ていうかさ、どうやってタバコ手に入れてんの? TASPO持ってるの?」


 手でタバコの火を扇ぎながらあたしは聞いた。


「ここは嫌いじゃない。灰が焦がした黒ずみや、殴って壊れた壁を見てると、気持ちが落ち着く」


 聞いちゃいない。


「それじゃあ最近は落ち着かなかったってわけ? もしかして、瀬名くんのせい?」


 ちょっとからかってみよっかな。その程度の思惑だったのに、鬼山は咥えたタバコの先端を見つめたまま物思いに耽ってしまった。立ち昇る煙があたしと鬼山の間を覆っていく。


「瀬名くんをどう思ってるか知らないけど、いじめたりしたらダメよ」


「あいつが俺をいじめてんだろ」


「だったら尚更だよ。パンチで仕返ししようだなんて、絶対に考えないでよね」


 鬼山が睨みつけてきた。それを目の当たりにした瞬間、おへそが二段腹のミゾ奥深くへ引っ張り込まれるのを感じた。


「お前も瀬名と一緒だな。間に立って、仲裁して、それで保護者のつもりか? 何も知らない奴は黙って見てりゃいいんだ。それ以上でしゃばんな」


 鬼山の暴言には慣れていた。でも、心の芯までえぐり通すあの目には今も寒気を覚える。とても悪いことをしちゃったんだな、って気持ちになる。それがどこか後ろめたくて、いたたまれなかった。


「分かった……もう行くね。教室に忘れ物を取りに行く途中だったんだ」


 あたしはあえて鬼山を見ず、壁際まで伸びる男の大きな影を踏み越えて、廊下の暗がりへと歩いていった。


「……柴田」


 あたしはハッっとして、自分でも驚くほど俊敏に振り向いた。その先には、いつもの眠たそうな眼でこち

らを見つめる鬼山の姿があった。


「もうこの廊下は渡るな。ここはお前みたいな奴が来ていい場所じゃない」


 タバコをくゆらせ、物静かにこう付け加える。


「お前は、お前にふさわしい廊下を歩け」


「…………」


 これが鬼山だ。こいつなりの不器用な優しさをかいま見るたび、あたしは鬼山が好きになる。そして、鬼山にもそんな一面があったことを思い出す。嬉しくなって、次第に笑みが溢れてきたら、それがあたしにとっての幸せだ。


「ありがとう」


 去っていく鬼山の背中に、あたしは想いを投げかけた。



 教室のドアを開けてまず視界に飛び込んできたのは、瀬名くんが一人、さっき返却された答案用紙を眺めている姿だった。


「まだいたんだね。その……」


 こういう時、何て声をかけるんだっけ?


「帰らないの? お腹減らない?」


 半ばやけくそに尋ねる。

 瀬名くんの虚ろな瞳が初めてこちらを捉えた。


「僕は敗北したんだ。あいつに……」


 何を言いたいのか、あたしにははっきりと分かる。


「テストのこと、まだ気にしてるの?」


 瀬名くんの視線の先は手元の答案用紙へ引き戻されていた。あたしは机の奥でくしゃくしゃに丸まっている〝忘れ物〟を引っ張り出した。


「瀬名くんの悩みなんて贅沢すぎるよ。ほら、あたしなんか数学38点だよ?」


 得意になって答案を掲げるも、見向きもしない瀬名くんの前では空回りだった。答案はボロボロで、輪を掛けて虚しい。


「僕が納得できないのはテストの点数じゃない。あいつに負けたことなんだよ」


 点数じゃん。


「教えてくれないか、柴田さん。あいつは……鬼山勝二は、一体何者なんだ?」


 すごい気迫ね。ぐるっと周ってギャグに思えてきた。これは鬼山が苛立つのもうなずける。


「あいつはね、少なくとも、瀬名くんが思ってるような奴じゃないよ。ただ、不器用で、無口で、無愛想だから、そう見えちゃうかもしれないけど」


 鬼山は根っから悪い奴じゃない。脚色なしに、ただそれを伝えたかった。


「鬼山って、学校に来ても寝てばっかりなんだよ。小学生の頃から昼夜の生活が逆転しちゃってて、夜起きて、昼に寝るタイプなのね。そのせいで、あいつに付いた通り名が〝フクロウ〟。夜の街に出歩いて狩りをする鬼山を、不良たちはいつしかそう呼び始めたの」


「でもそれじゃあ、ますます納得いかないな。どうして授業中眠ってるにも関わらず、あれだけの点を取れるんだ?」


 あたしは肩をすくめた。


「ただの天才なのよ。あいつの脳みそは小学生の頃からほとんど完璧だったもの。でもあいつ、体育だけは苦手なのよね」


「へえ、意外だな。運動オンチには見えないけど」


「喧嘩の腕っ節は確かなんだけど、スポーツになるとからっきしでさ。運動会のかけっこはいつもビリだったし、跳び箱は三段までしか飛べなかった。ボールを持たせたら、まるで爆弾でも抱えるみたいに怯えてたっけ……あれは笑えたなあ」


 気付くと一人で笑ってた。一緒に笑ってよ、瀬名くん。


「柴田さんって、本当に彼のことが好きなんだね」


「えっ!? 違う違う。好きとか嫌いとか、そんなんじゃなくって……」


「悪いけど、僕は彼のことを好きになれそうにない。絶対に」


 頑固ね……まあ、好きになれって方が無理か。


「どうしてなの? 神崎さんから聞いたよ。瀬名くんは中学の頃から不良たちをひどく嫌ってたって。……そりゃあ、好きな人なんていないだろうけど」


「僕には……二つ年上の兄がいた」


 夕日に染まる瀬名くんの面相に、目には見えない暗い影が落ちた気がした。

 嫌な予感がした。


「俗に不良と呼ばれる道を歩いていた兄は、中学生の時から暴力団と関わりを持っていて、家に警察が来ることもしょっちゅうだった」


 …………。


「義務教育を終えた兄は高校へは進学せず、そのまま家を出た。連絡先どころか、何をやっているのかさえ分からなかった。家族みんなが兄を忌み嫌ってた。名前さえ口にするのをためらうほどにね。……兄が逮捕されたという知らせが届いたのは先々月のことだ」


 重い……内容が重い、荷が重い!


「兄は乾燥大麻を所持していた」


 大麻……!


「詳しいことは分からないが、誰かが通報し、発覚した。最低な話だろ? だから、僕だけはしっかりしなきゃって、立派な人間になろうって、自分にそう誓った。もうこれ以上、両親を悲しませたくなかったから」


 いい話……? いやいや、語り上手な瀬名くんが丸く収めてくれただけ。

 それにしても、確かにこれは〝最低な話〟ね。いかに辛辣で因果応報なおとぎ話でも、聞き手の人生に影響を及ぼすような代物ってなかなかないと思うの。その類に関して、あたしたちはいつだって他人行儀でいられたんだもの。

 もし、昔々あるところに住んでいたお爺さんやお婆さんが遠い親戚のことだったとしても、あたしたちは蚊帳の外でいられたでしょうよ。

 だからこれは〝最低な話〟。聞き手に影響を及ぼしかねない危険物。瀬名雄吾という男子生徒と共有した一つの物語ってわけ。


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