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新・TIKARA  作者: 南の二等星
15/15

最終話 小さな物語の、末恐ろしい結末

※種明かしアリ

※未読注意


 通りでタクシーを拾い、あたしたちは学校まで戻ってきた。

 花火大会が始まっていた。爆音が宮登の撃った拳銃の発砲音と重なって、あたしの精神は花火が夜空を彩るたびにそわそわした。校内は閑散としていて、先ほどと変わった様子はない。ただ少し、月明かりが眩くなった気がする。


〝瀬名へ会いに行く〟


 車内で鬼山は言った。


〝あいつが待ってる〟


 今日は一度も瀬名くんを見かけていない。それが何を意味するのか、あたしには分からない。鬼山の痣だらけの顔が深刻な表情で遠くを見つめた時さえ、あたしは一言も喋らなかった。

 これが水曜夜九時からのサスペンスドラマだったなら、あたしは律儀な視聴者でいられるはずだった……ポテチをコーラで流し込みながら、暴走ドライブを始める爺さんや大麻を吸う教師に侮蔑の眼差しを見舞ってやれるはずだった。

 けど、あたしは立派な演者の一人だ。大したセリフも貰えない、巻き添えを食うだけの脇役。閉じ込められ髪をむしられ頭をぶっ叩かれ首を絞められる不憫な女子高生役。

 分かってる。そういうことなら、覚悟を決めましょう。

 最後まで演じ切って、最前線で見届けてやる。互いを憎み切った二人の修羅場に立ち会って、あたしはあたしにしか出来ないことをやってのけてやる。ハッピーエンドは渡さない。ラストシーンで思うさま笑ってやるんだから。



 鬼山が二年五組のドアを開けた。あたしは鬼山を盾にした定位置から中を覗き込む。ちょうど、窓の向こうで花火が上がったところだった。教室が仄かに照らされて、窓際に立つ男子生徒を赤く縁取った。学校祭準備期間もあり、教室からは机の一切が取り払われている。空虚な教室で一人、瀬名雄吾は夜空を見上げていた。


「君を倒すことは僕にとっての全てだった」


 瀬名くんは背中で語った。


「妬ましかった……敵わなくて、届かなくて、そのたびに非力な自分を恨んだ」


 いつもなら罵り合いが始まるところなのに、そうはならなかった。鬼山は黙って耳を傾けていた。

 瀬名くんが振り返る。憎悪のような、悲愴のような……血の巡りの悪い顔が闇に映えた。


「君は何者だ?」


 花火が赤く一閃すると、その表情は怒りだった。


「僕は一体何なんだ?」


 花火が青く一閃すると、その表情は悲哀だった。


「僕は努力した。勉強も、選挙も、他の全てを投げ打った。君がタバコを吹かし、喧嘩に明け暮れる間も、ずっとずっとずっと努力した。それなのに……君を倒せない」


「努力したお前を誰も否定しない」


 鬼山の第一声。


「お前を否定してるのは、お前だけだ」


 赤とオレンジの閃光が鋭く明滅した。


「粗大ゴミめ……」


 冷たい声。


「知った風な口をきくな。何も知らないくせに……僕を知らないくせに……」


「知るかよ」


 教室の真ん中まで歩み寄る鬼山。


「お前のことなんか誰も知らねえよ。ガリ勉ってこと以外はな」


 あたしも前へ進み出た。背中にパンチして黙らせてやるつもりだった。瀬名くんのためでもあったし、鬼山のためでもあった。嫌な予感がした。

 あたしは鬼山の脇に突っ立ったまま硬直していた。目尻を拭う瀬名くんの姿が見えた。泣いている。


「僕は……望むなら、周りが思う僕のままでいたかった」


 声が喉にこすれる。


「君を追いかけながら汚れていく自分に気付いた……怖かった。君に近づくどころか、僕は僕自身から遠ざかっていった」


「…………」


「兄を感じた」


 赤い涙がこぼれた。


「この数ヶ月、僕は兄だった。不意に現れては意思を支配した。僕はそのたび、手段を選ばない邪心に身を委ねた……不良共の排除を目論む僕自身が彼ら以上の背徳を示そうとする時、体の中で踊るように血が騒ぐ快感に、何にも勝る強い力を得た気がした」


「一週間前、兄に会ってきた。面会することで、僕は理性を取り戻せると信じてた。兄とは違う自分のままでいられると信じてた……信じてたのに……何も変わらない。目の前にいる男が、終始鏡に映る僕そのものを思わせた」


「兄はその場で手紙を書いた。僕や家族、そして君に関することが書かれていた。逮捕される前、君に渡した鉢植えのことも綴られていた。不明瞭な、鬼山にしか判読できない内容になっていた。五日前、この手紙を柴田さんに読んでもらうつもりだった。だが、直前で先生に呼び止められた。僕は職員室へ行き、促されるままその手紙を読ませた。先生にはよく選挙や進路に関する相談に乗ってもらっていた……彼を信じていた」


 そっか……柏木が鬼山の家に鉢植えがあることを知ったのはその手紙を読んだからだったんだ。


「あいつの正体に気付いてたのか?」


「真相までは掴めなかった。先生の目的が、兄に関する情報を僕に喋らせることだと気付くのに時間を要した。そのせいで随分と動き過ぎてしまった」


「……何をやったの?」


 聞いたけど、すぐに後悔した。答えを知りたくなかった。体中がそれを拒否していた。

 瀬名くんはかぶりを振った。振ったというより、振り払った。


「僕じゃない。兄がやったんだ」


 声が大きくなった。


「兄がしでかした……」


「何……」


「五十嵐を脅迫した」


 心臓が縮こまって、激しく脈打った。


「鬼山をスパイしていた五十嵐に付け込んだ。ある日、朝のコエダメで柏木先生に密告しているところを盗み聞きした。弱みを握ってやった。五十嵐を利用しようと思った。生徒会長になるため、票を改ざんしろと命令した……僕の票数を減らせと」


 は?


「減らしたら負けちゃうんじゃ……」


「言ったろう。〝目には目を〟。藤堂の悪事、目論見、君や夏目とのやり取りは録音機に残っていた。朝倉が仕掛けたものだ。コエダメの壁にその一つが隠されていたことに、僕は去年から気付いていた。一度は藤堂を勝たせ、舞い上がってるところへ録音機を突きつける。不正は暴かれ、僕は繰り上がり当選し、あいつは有頂天から地獄へ落ちる」


 信じられない。信じられない。信じられない。瀬名くんの大バカ大アホ……信じられない!

 五十嵐は瀬名くんの票を減らさなかった。むしろ増やしていた。あれは柏木から瀬名くんを勝たせるよう指示を受けていたせいだ。あいつは算出結果をすぐに提出せず、夏目さんから睨まれてでも最後まで粘らなきゃならなかった。どっちの側につくか、決め兼ねてたんだ……あいつらしい臆病なやり口。票の合計を見て、都合の良い方へ合わせる必要があった。


「……でも、瀬名くんは生徒会長の席を断った」


「僕より先に朝倉が動いてしまった。あのタイミングで退院することは想定外だった。鬼山を潰す上で、朝倉だけが弊害だった。悪行を働く兄の存在を察知できるのはあいつくらいだ。朝倉が退院した朝、彼は柴田さんを教室から連れ出した。僕は後を追った。君たちが何を話すのか、朝倉が何を知っているのかを聞いておかなければならなかった。それらは杞憂だったが、兄の軽率な行動でこれ以上朝倉の気を引くのは危険だと考えた。事実、柴田さんがいなければ藤堂らの悪行を記事にしていただろうし、兄のことを勘ぐっているのもだいたい予想できた。兄が……」


「大吾じゃない」


 鬼山が遮る。


「お前だろ」


「違う……」


「全部お前だ」


「黙れ……」


「お前が突き落とした」


「…………」


「だから後を追い、会話を盗み聞きした。朝倉が、自分を殺そうとした奴の正体に気付いていたかもしれなかった」


「やめろ……」


「大吾じゃない。お前が朝倉を突き落としたんだ」


「黙れ!」


 青白い閃光が瀬名くんの手に握られたナイフを照らし出した。記憶に焼き付く、見覚えのある造形だった。

 まただ……体が硬直していく。鼓動が加速して、神経の隅々へ警告のパルスが打ち鳴らされる。あたしは鬼山の袖を掴んだまま、けれどその背中に隠れようとはしなかった。こんなボロボロの鬼山に守ってもらうわけにはいかない。


「朝倉のナイフだ。あいつが神崎さんを襲った時、倉庫で拾ったこいつをずっと忍ばせていた。君を……殺すために」


「今のお前はどっちなんだ?」


 鬼山は顔色ひとつ変えず問うた。


「俺を殺したがってるお前は瀬名雄吾なのか?」


 瀬名くんの瞳はもう揺らがなかった。その焦点は掲げた切っ先と鬼山とを結んで、闇を一直線に貫いていた。


「僕だ」


 銀白色の後光が瀬名くんを包んだ。


「僕が君を殺す」


 殺意じゃない。信念なんだ。道徳に背く不埒な者へ向けた怒り。自分への怒り。

 あたしは鬼山を見た。鬼山もあたしを見ていた。優しい表情だった。


「柴田」


 何……


「俺が死んだら、どうする?」


 何言ってんの……


「どうする?」


 声が出ない。まっすぐな視線が胸をえぐって、悲しみがこみ上げて、あたしは一言も答えられないまま、目に涙を浮かべていた。

 鬼山が死ぬ……イメージするだけで、あたしは世界一不幸な十六歳だった。イメージするだけで、涙が溢れた。あたしの選択が、鬼山の生死を分かつことになるかもしれない。失いたくないから……だからあたしは、濡れた瞳でただ鬼山を見上げていた。

 鬼山は微かに頷いて、もう一度瀬名くんと見つめ合った。


「死んでもいいと思ってた。単純な日常の繰り返しで、生きることに意味を見出せなかったんだ。バスに乗るたび事故に遭えと願った。十年後も同じことを考えてる自分を思うと辟易した。だが……今は違う」


 鬼山……。


「守らなきゃならない奴がいる。そいつは俺たちにないものを信じてる。だから……わりぃ。俺はまだ死ねないんだ。そいつの信じてるものに、賭けてみたくなった」


「……どうして?」


 瀬名くんは聞きながら、一歩近づく。


「どうしていつも君の方が正しいんだ? 頭の良い鬼山、頼りになる鬼山、喧嘩の強い鬼山、カッコイイ鬼山……」


 一歩近づく。


「不良の君に、どうしてそんな力がある? 道義を冒涜する君に、どうして人は憧れる? 正しい道を歩んできた僕が、どうして君に及ばない? どうして……10点足りないんだ……」


 一歩近づく。ナイフが震える。


「君が賭したもの、見せてみろ。それが僕を否定するというなら、見せてみろ。僕はもう戻れない。朝倉を突き落とした時に決心はついていた。君を殺せば……僕の勝ちだ!」


 同時だった。特大の大玉花火、光と音と、ナイフを振りかざす瀬名くん。鬼山の前に飛び込むあたし。

走馬燈さえ追いつかないほど反射的に、あたしはこの命を投げ出していた。そうしようと思ったわけじゃない。あたしの体を突き動かす何かが本能へ働きかけただけだ。

 刹那、あたしは温かい何かに包まれ、固く目を閉じた。痛みはない。ナイフに体を貫かれた感覚もない。目を開けると、胸の前まで伸びる鬼山の左腕が見えた。あたしは後ろから抱き締められ、その腕に守られていた。

 ナイフが鬼山の左腕に突き刺さっている。瀬名くんがハッとした表情で飛び退き、おずおずとこちらを見つめた時も、切っ先は腕に食らいついたまま離れなかった。

 鈍い静寂だった。余韻が鼓膜を震わせていた。幕を閉じた花火大会に代わり、滴る鮮血が床に花を咲かせ始めた。いつまでも散ることのない花だった。あたしは鬼山を振り返って、その表情が苦悶に歪むのを見た。


「後味わりいから……」


 あたしたちは見つめ合った。


「俺のために死なないでくれ」


 あたしは鬼山の胸に顔を埋めて、目から体中の水分が溢れ出すのを許した。声を上げて泣いた。胸の深奥からあらゆる感情がせり上がり、涙や声に溶け込むと、緊張がほぐれ、力が抜けていった。今になって膝が震えた。安堵して、また泣いた。

 もう誰も喋らなかった。

 気付くと、瀬名くんはいなくなっていた。



 余りにも色々なことが起こりすぎて、一日が終わらないんじゃないかと思った。

 あの後、あたしは玄関の表階段に座りながら、群れを成すパトカーやら救急車やらが校門前まで押し寄せるのを他人事のように眺めていた。手にはぬるい缶ジュースが握られていた。出店の余り物を鬼山が持ってきてくれた。

 それから、鬼山は救急車に乗って行ってしまった。サイレンの遠音がずっと聞こえていた。憂いに鳴って、夜空に染みて、あたしは一人、それを感じていた。誰かが泣いてるみたいだった。

 あたしは重要参考人として名乗り出て、パトカーへ乗せられた。窓越しに、パトライトが校舎に跳ね返るのを見ていた。表階段には大勢の生徒や教員がいて、後夜祭のハイなテンションを引きずったまま野次馬根性を剥き出している。

 警察が無線で何か伝えるのを聞きながら、それでもやっぱり、あたしは他人事だった。パトカーが動き出しても他人事だった。いや。パトカーが動いたんじゃない。景色がスライドして、野次馬たちをどこか遠くへ連れ去っていっただけだ。あたしは冷静だった。タクシーの匂いがした。



 それでも朝は来る。

 昨日と変わらない快晴に、あたしは目を細めた。陽射しが部屋を横切っている。眩しくて、あったかくて、あたしはベッドの上で寝返りを打ちながら、学校へ行きたくないなと思った。昨夜の災難が鮮度を保ったまま脳内に留まっていた。圧縮されて、滲み出てくる。

 事情聴取で、あたしは瀬名くんのことを話さなかった。あたしがそうしたのは、鬼山もそうすると思ったからだ。あいつの気持ちなんか分からないけど……でも、あたしが鬼山の立場なら、瀬名くんに最後のチャンスを与えたんじゃないかと思う。

 「んなもん痛くねえ」とか言いながら殴り合ったりしたかもしれない。殴られながら彼の気持ちを受け止めていたかもしれない。もっと別のやり方を見つけようとしたかもしれない。

 あたしたちにはそれが出来なかった。だから……まだチャンスはある、そう思いたかった。

 朝食を食べ終わってすぐ、教頭先生から電話がかかってきた。今日は休んで、明日の終業式に登校しなさい、とのことだった。何かしらの配慮らしい。

 とりあえず二度寝した。



 次の日、登校すると表階段に人だかりが出来ていた。マスコミだ。二十人くらいいる。テレビカメラを前に年増の男性リポーターが喋っている。

 ちょっといい? 脇をすり抜けようとすると小型レコーダーを突きつけられる。一眼レフが後を追う。今回の事件に関してインタビューしたいんだけど? 臭い息が顔にかかる。事件に関わった生徒って同じクラス?

 レンズを膝で割ってやりたい衝動にかられるのは二度目だった。一度目は、そう、こいつのせいだった。


「僕が答えるよ」


 どこからか松葉杖をつく金たわしが現れて、朝倉の声でそう言った。あたしはそのまま玄関へと押しやられ、高級広角レンズを割らずに済んだ。靴を履き替え、振り向くと、朝倉が大急ぎでやって来るところだった。


「いい写真が撮れたぞ」


 声が弾む。手にはデジカメが握られている。


「僕をインタビューするカメラマンの写真。プリントアウトして一枚やるよ」


「いらない」


 その薄気味悪い残念顔が面白くて、あたしはつい笑ってしまった。朝倉がシャッターを切った。


「やっと笑ったね。君の笑顔を初めて見た」


 あんまり嬉しそうで、しばらく呆けてしまった。

 変な奴。言って、あたしはまた笑った。


「みんなから言われるよ。誇りに思ってる」


 でしょうね。


「柴田さんと鬼山だろ? 重要参考人って」


「まあ……みんなどれくらい知ってるの?」


「色々。昨日からその話題で持ちきりだ。柏木の大麻所持、栽培、暴行。武田先生も関与してるって」


「瀬名くんは?」


「は?」


「五十嵐は?」


「五十嵐?」


「なんでもない……」


 知らないならそれでいい。


「とにかく、教員が二人も逮捕されて校長は大目玉だ。挙句には校内で大麻が育ってたんだからな。僕としたことが、そのことに全く気付かなかった」


「どうせ勘付いてたんでしょ? 柏木や武田先生のこと」


「柏木はともかく、武田先生は完全ノーマークだ。全く尻尾を出さなかったんだからな。……なあ、これは急遽、今日中に号外を出すべきだと思わないか? 夏休み前にあいつらの悪事を……何その顔」


 この膨れっ面がお気に召さなかったみたい。


「美奈子のことでまだあんたを許したわけじゃないから」


 手っ取り早く突き放しとく。


「そういう自分勝手なとこ、直した方がいいと思う。素敵な文才に恵まれたんでしょ? だったら、もっと楽しい記事を書いてよ。自分のためじゃなく、みんなのために」


「いいよ」


 即答されて、あたしはまた呆けてしまった。去っていく背中を見送りながら、絶対に裏があるぞ、と勘繰った。


「その代わり……」


 そらきた。

 意地汚い笑顔で振り返る。


「また君の記事を書かせてくれ。いいだろ?」


「喜んで」


 断ると思った? 望むところよ。

 あたしは特に訳もなく胸を張って、その場を立ち去った。



「おはよう」


 席について間もなく、登校してきた美奈子が挨拶した。その声に懐かしささえ覚えた。ここ最近、あたしたちは遠く離れ離れだった。最後に会ってから数年は経ったような気がする。美奈子は……ミイラになっていた。


「おはよう……どうしたの? 死体が歩いてるみたい」


「うん。二日前に死んだの」


 真面目に返されちゃった。生気のない声。

 二日前といえば学校祭だ。


「何かあった? ……あいつと?」


 あたしはドアの方に視線を流した。ちょうど、鬼山が教室へ入ってくるところだった。浅黒くなった顔の痣が大きなホクロみたい。美奈子は泣き出しそうだった。


「また後でね……話そ……放課後に」


 机に突っ伏して顔を上げようとしない美奈子。その後ろ姿にかける言葉も見つからない。どうやら鬼山と何かあったみたいだけど……あいつのことだし、どうせ冷たく当たったに違いない。

 五十嵐は登校しなかった。

 瀬名くんも、登校しなかった。

 机の中にあたしのケータイが入っていた。



 終業式において、校長先生から事件のほぼ全容が語られた。〝ほぼ〟っていうのは、もちろん、あたしや鬼山にしか分からないことだ。校長先生が話している間、生徒の多くが額を寄せ合っていた。ひどくざわついたけど、先生たちは誰一人叱責しなかった。

 早口の校長先生はじめ、教員の誰もが事を早く終わらせたがっているようだった。示しのつかない大人の恥を露呈されたからだろう。叱れる立場にないことは誰にだって分かる。


〝僕たちは影で、ごく当たり前のようにルールを犯している〟


 瀬名くんは言った。


〝校則の意義なんて無いに等しいのです。注意してくれる大人がいれば済むことですから〟


 大人がどんな生き物なのか、誤った選択の積み重ねがどんな結果を招くのか……瀬名くんは気付いてたんだと思う。

 瀬名くん……会いたい。会って話がしたい。



 放課後。閑散とした教室の真ん中で、あたしと美奈子は机を挟んで向かい合っていた。明日からワクワクするような夏休みが始まるのに、あたしたちを取り巻く空気は笑みもこぼれぬ哀愁で満たされていた。


「恋って甘くないのね」


 鬼山の席を愛おしげに眺めながら美奈子が切り出した。たぶん、美奈子ほど事件に無関心な奴は他にいなかったと思う。柏木の逮捕などどこ吹く風らしい。ていうか事件のこと知ってんのかしら?


「恋って甘くないのね」


 二回言った。


「あんたがそんなこと口にするなんて重症ね。そりゃ死体も歩くわ」


「言い寄って来る男ならたくさんいた」


 毅然と向き直る。


「でも、私が好きになった相手は誰も私を好いてくれなかった。ねえ、どうして?」


 やっぱり……鬼山と何かあったんだ。


「カンタンよ」


 あたしは笑いかけた。


「美奈子はプライドが高すぎるのよ」


「そんなの持ってない」


 あたしはこめかみの上でチッチッと指を振った。


「気付いてないだけ。あんたはね、自分のことを好きな男子には興味がわかないの。しかも、突き放されて、追いかけていたいわけ。〝お前〟とか呼ばれたいわけ。要はマゾね」


「うっ……なんか……当たってる気がする」


「その配役としては、鬼山なんかまさにおあつらえ向きだもんね。美奈子はきっと、振り向いてもらいたかったんだよ。あいつを好きになっちゃうくらい」


 まっ、雑誌の受け売りだけど。


「華世……あたしね、告白してたんだ。学校祭の日に」


 マジか……。


「いつ頃?」


「夕方。後夜祭の始まる前。結果は……分かってると思うけど、フラれちゃった」


「ちょ、ちょっと休憩……」


 鬼山とゴミ捨て場の前で会ったのは、カラオケ大会の始まる直前だった。だとすると、あの時既に、鬼山は美奈子からの告白を断っていたことになる。


「ねえ、聞いてもいい?」


 美奈子の案じ声で我に返った。また泣きそうな顔でこっちを見つめてた。


「いいけど、笑って。そんな顔してると卑屈になるよ」


 美奈子は涙を拭い、儚げに笑った。


「私たち、これからどんなことがあっても親友だよね?」


「……何さ、いきなり」


「どんなに周りの環境が変わっても、私たちの関係は変わらないよね? ずっとそばにいてくれるんだよね?」


 本気らしかった。その瞳の奥深くを、あたしはまっすぐに見つめ返した。


「もちろん。美奈子はあたしにとって最高の親友だよ。美奈子ほど本気で語り合える人間が、この先あたしの前に現れるとは思えないもの」


「それを聞いて安心した!」


 美奈子はいきなり立ち上がって、


「じゃ、私帰るから」


「……はぁ!?」


 あたしは訳が分からないまま、教室を出て行こうとする美奈子を目で追った。


「次は華世の番だよ。結果は後で電話ちょうだい」



 美奈子が何を伝えたかったのか、大体の見当はついていた。

 あたしは掻き集めた勇気を束にして、コエダメへと向かっていった。男が一人、タバコを吹かしてる。


「よう」


 いつもの挨拶。いつもの立ち位置。顔は傷だらけだったけど、その大男は間違いなくあたしの幼馴染だ。


「よう。まだいたのか」


 声と一緒に煙を吐き出す。眠気を帯びた眼差しで遠く青空を眺めてる。


「美奈子と話してたんだ……あんたこそ一人で何やってるの? もしかして、あたしのこと待っててくれたとか?」


「…………」


 あれ……否定されるかと思ったのに、何も答えない。何で?


「……あんた、美奈子の告白断ったんだって? どうして教えてくれなかったの?」


「お前には……」


「関係ないもんね」


 してやったり。

 その呆れ顔へ思いっきりほくそ笑んでやった。


「……瀬名」


 鬼山が突然その名を呼んだ。視線の先に、確かに瀬名くんの姿があった。コエダメの向こうから、凛とした表情で突き進んで来る。

 あの夜と同じ……あたしたちはもう一度向かい合った。


「間に合った。君たちを探してたんだ」


 耳を疑った。


「全然間に合ってないよ……もう放課後だよ?」


 瀬名くんは笑った。あたしの知ってる瀬名くんだった。


「転校が決まったんだ。今日をもって、僕はここの生徒じゃなくなる。だからどうしても、君たち二人に会っておきたかった」


「転校……」


 どうして? 続けそうになって、ぐっとこらえた。あたしは……あたしたちは、その理由を誰より分かってるつもりだ。


「決めたんだ。こうしなければならなかった」


 未練はない、そんな口調だった。

 瀬名くんの熱い眼差し……始業式、出会って初めて見交わしたあの熱い眼差しが、鬼山をまっすぐ捉えていた。


「僕と君とを引き離す10点が何なのか、ずっと分からなかった……でも、君を守る柴田さんを見た時、柴田さんを守る君を見た時、答えは出たよ」


「愛……とか言い出すんじゃないだろうな?」


「分かってるじゃないか」


 瀬名くんは心底嬉しそうだったけど、あたしは心底驚いていた。

 鬼山が〝愛〟を口にするなんてありえないと思ってたから。


「僕が守ってきたのは身勝手な世間体だ。一人で気張って、一人で立ち向かうことが君への全てだった。自分を犠牲に出来る君たちとは違う……僕は愛せなかった。だから愛されなかった」


「犠牲はエゴだ。愛じゃない」


 鬼山は言いながら、窓枠でタバコの火をもみ消す。


「分かち合えるものが愛なんだ。信じることで糧になる。俺にはまだ無理だが……こいつは違う」


 アゴで素っ気なくあたしを指す。


「こいつと一緒なら、生きてみるのも悪くないなと思った。俺に足りないものを補ってくれる、気付かせてくれる。瀬名……俺たちは一人じゃないんだ」


「……僕には誰がいる?」


 鬼山は答えなかった。無視してるわけじゃない……こいつ、照れてる。

 あたしはこの巨大な背中を思いっきり引っぱたいた。


「お……俺がいる」


 これでよし。


「あたしもいるよ!」


 あたしは満面の笑みを投げかけた。

 瀬名くんは微笑んで、けれどどこか寂しげな眼差しであたしたちを見た。


「時間を戻せるなら……あの表階段で、僕はもう一度君たちに出会いたい。会って話せるなら、そうしたい。君たちを……鬼山を信じることが出来ていれば、僕の未来は変わっていたかもしれない」


「今からだって遅くないよ。二学期からまた……」


「決めたんだ。もう揺らがない」


 瀬名くんらしい毅然とした振る舞いだった。

 あたしはそれ以上何も言わなかった。


「この学校で君たちに巡り会えたことを、僕は後悔しない。僕にとって、君たちとの出会いは最高のきっかけになった。だから……」


 右手を差し出す瀬名くん。鬼山が無言でそれを受けた時、視界が涙で歪んだ。つらくて、悲しくて……嬉しかった。

 二人は長い長い握手を交わした。終わりと、始まりを予感させる合図のようだった。あたしはこっそり涙を拭った。


「僕を忘れないでくれ」


 瀬名くんは言う。


「君に敗れた僕を思い出してくれ」


「お前は負けちゃいない」


「…………」


「そうだろ?」


「……ああ」


「また会おう」


 瀬名くんはうなずいた。うなずいて、うなずいて、うなずいて、そのたびに大粒の涙がこぼれた。


「ここで待ってる」


「会いに行くよ……必ず」



「ねえ、あんた何でパチンコ屋なんかでバイトしてたの?」


 瀬名くんが去った後、あたしはずっと心の隅に引っ掛かっていた疑問をぶつけてみた。鬼山は二本目に火を着けるところだった。


「おふくろの治療費とか、生活費とか、叔母にばかり頼ってられないからな。ちょうど、三年生でパチンコ屋にコネのある奴がいたんで、そいつに頼んで紹介してもらった」


「奈津美さんはできた息子を持ったね、ほんとに」


 あたしは涙の余波を振り払いながら声を震わせた。


「結局は辞めさせられたんだけどな。五十嵐が柏木にチクったおかげで、みんなダメになっちまった。『自分から辞めないと退学にさせる』とか言い出したんですぐ辞めてやった……ちょうど、役員選挙のあった日だ」


 柏木との〝約束〟ってそれだったのね。


「もう一つ。あんた、何であの時謝ったの? ……ほら、ゴミ捨て場であたしが泣いた時、マジな声で謝ったじゃん。『すまない』って」


「泣くお前を見たくなかった」


「え……」


「お前には笑っていてほしいんだ。俺がこんなだから怒らせてばっかだけど……」


 なんか……


「あんた素直になった?」


 顔を覗き込んでみる。いつもの眠たそうな表情がこっちを見つめ返してた。


「あたしはね、あんたとこうしていられるだけで幸せなんだよ。怒ってても泣いてても関係ない。だからさ、もうあんな声で謝らないでよ。あたしは……」


 あたしは……伝えなきゃいけない。今度こそ、気持ちを言葉に変えなきゃいけない。美奈子が背中を押してくれた。美奈子が勇気をくれた。


「あたしは、またこうしてあんたと過ごせて、本当に良かったと思ってる。この幸せが永遠に続けばいいなって……そういう風に考えちゃ、いけない?」


「ご自由に。それにしても、お前の幸せってのはずいぶんと欲がないんだな」


「……じゃあ、もっと欲張ってもいい?」


「ご自由に」


「……あんたが好き」


 伝えなきゃ。


「大好き」


 全部。


「離れたくない」


 全部伝えなきゃ。


「失いたくない」


 あたしは……


「ずっと……」


 伝えなきゃいけない。


「ずっとそばにいてほしい。あたしだけの鬼山でいてほしい」


 頭真っ白だった。

 声は言葉の重心を射抜き損ねて、四方八方へ飛び散っていた。


「あの美奈子さえ受け入れなかったあんたが、あたしなんかを選んでくれるなんて思わないよ……でも、この欲だけは伝えておこうと思って」


 奇妙にまくしたてる自分が滑稽だった。声が意思に反して押し出されてくる。

 束の間、鬼山は長くなったタバコの灰を眺めていた。


「お前……俺が何て言って断ったか、神崎から聞いてないのか?」


「……何も。何て言ったの?」


 黙る。黙って、露骨に視線を逸らす。


「ねえ、何て言ったのよ。ねえってば……」


「好きな奴がいるって……それは神崎じゃないって……そう言った」


「誰? ねえ、誰なの?」


 また黙る。


「誰なのよ? ねえ! ……ああっ、顔が赤くなってる!」


「……うっせぇ!」


「白状しなさい!」


「お前に決まってんだろ!」


 窓からタバコを放ると、隅に置いてあったカバンを引っ掴み、放心状態のあたしをほったらかして行ってしまった。最後の言葉が頭の中で渦を巻いている。あたしはただ突っ立ったまま、段々と小さくなっていくその背中を目で追うことしか出来ずにいた。

 立ち止まる鬼山の後ろ姿が見えた。ゆっくり、気だるげに振り向く。


「……帰るぞ」


「……うん!」


 鬼山のもとへ。あの不器用な笑みのもとへ。

 あたしは駆けていく。




 ~春夏秋冬~ <号外>

 これは、何の取り柄もない女子高生が登場する小さな物語の、末恐ろしい結末の一部始終である。

 その後に何が起こったかって? それはこの記事を読んでの通りである。

 とにかく二人が去った後、僕は壁の穴に隠された録音機を取り出し、家に帰って再生したわけだ。

 まったく……最悪の夏休みになりそうだ。あんなの聞かされちゃ、独り身の奴は誰だって鬱になる。もっと悪いことに、僕はこの記事を発表できない。こんなノロケ話、誰が読みたがるんだ? 勘弁してくれ。


 まあ、とにかく、お二人さん。末永くお幸せに、ってこった!


 朝倉仁


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