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新・TIKARA  作者: 南の二等星
13/15

第十三話 全部この僕だ!


 経験上、学校祭とやらが派手に退屈な代物であることは明白だった。

 去年のあたしは野良犬だった。『ハグして!』と書かれたプラカードを掲げながら、ミュージカル風創作ダンスを舞い踊る。たしか愛に飢えた犬とか、そんな設定だったと思う。これだけならただの可哀想なワンちゃんだけど、畑を荒らす空腹な野良犬は、尻をしこたま蹴られつつステージ上から厄介払いされる悲惨な脇役に過ぎなかった。

 中学生のあたしは一頭身の卵だった。ただし、みんなの人気者ってわけじゃない。その学校での文化祭は仮装パレードが通例になっていて、クラスメートはあたしの顔面を覗き込んでは、「お前の役はハンプティ・ダンプティという一頭身卵男だ」と言って譲らなかった。あたしは〝ハンプティ・ダンプティ♪ 塀から落っこちた♪〟を口ずさみながらパレードに加わり、案の定、一般参加の子供たちを盛大に泣かせる大役を務め切った。

 

「聞いててよ、私の今月の運勢」


 学校祭を五日後に控えた昼休み。美奈子は弁当の上に例のファッション誌を広げ、今月の自分の運勢を読み上げ始めた。深刻な顔で「相談がある」と言うので聞いてみたところ、このザマである。


「やぎ座のあなた……『当たって砕けろ』」


「すげえワイルド」


 美奈子は無視した。


「君が日常で『後悔』と呼んでいるものの実態は、行動していない君自身である。行動した者は決して悔やまない。その失敗は、明日につながる成功だからだ。今月の君は恋愛運にすこぶる強い。当たって砕けろ……大丈夫、当たっても砕けない」


 雑誌越しにあたしを窺う美奈子。瞳をギラギラさせたまま酢豚弁当を頬張っている。


「つまり……当たって砕けてくるってこと? 鬼山に告白して?」


「砕けないわ。書いてあるもの」


「どうかな……」


 占いを信じる人とそうでない人がいるけど、あたしたちはまさしくその両者だった。美奈子は信じる。あたしは信じない。だから意見が食い違う。


「学校祭を一緒に見て回りたいだけよ……でもあわよくば、告白なんかしたいなって……」


 美奈子の紅潮した顔が鬼山の寝ざまを捉える。でかい図体を椅子に沈めて、垂れかかった絨毯みたいになって椅子から滑り落ちそうだった。


「あいつをよく知るあたしから助言できることは、たった一つ。当たったら粉々」


 ゆで卵を粉々にしながら、あたしは半ば脅すように言う。美奈子はひるまなかった。


「それでもいい。だって、これはチャンスだもの。雑誌にも書いてあるし……」


「ただの占いじゃん。そんなものにすがるのやめなよ」


「占いの何が悪いの? 何にすがろうと私の勝手でしょ」


「鬼山だけはやめときなって言ってるの。その雑誌があいつの何を知ってるわけ?」


 言い過ぎた……焦りが、あたしをムキにさせていた。

 美奈子は仏頂面だった。こっちを見向きもせず、酢豚から着々とパイナップルを取り除いていく。そしてこう呟いた。


「応援してくれると思ったのに」


「…………」


 ……したいわよ。大好きなあんたのためだもん。全力でそうしたいって思うわよ……けど……何でよりによって鬼山なのよ。


「ごめん。なんか……ごめん」


 正直な言葉、何一つ浮かばない。


 大丈夫。


 きっとうまくいく。


 あたしがついてるから。


 全部嘘だ。あたしの言葉じゃない。本心じゃない。

 美奈子を思うあたしはどこにもいない。あたしはただ、鬼山を取られたくなくて、当たっても砕けなかった時のことを考える自分に怯えてるだけだ。

 そんな自分がほとほとバカに思えて、恥ずかしかった。


「いつ誘うの?」


 粉々のゆで卵を口へ運びながら、あたしはボソッと尋ねる。さながらふてくされたデカイ子供だった。


「今日の放課後。もう時間ないし」


「そっか……ねえ、あたしの占いも読んでよ。しし座のとこ」


 話題を逸らそうと、あたしはわざと明るい声色で促した。美奈子は嬉しそうに雑誌を持ち直した。


「しし座のあなた……『灯台下暗し』」


「へ?」


 ちんぷんかんぷんだった。美奈子はやれやれと首を振った。


「灯台下暗しっていうのは、身近な物事はかえって分かりにくいことの例えよ。灯台は周りを照らせても、足元は照らせないでしょ? ちなみに、この灯台は屋内照明のことだから。岬のそれじゃないのよ」


「へえ。〝灯台元暮らし〟って、誰かが灯台に住んでるものかと思ってたよ」


 それギャグ? 美奈子は失笑しながらも続きを読み始めた。


「この月、君は近辺の情理に警戒しなければならない。生活はたやすくなく、本質は筋を通らないだろう。状況の打開には警戒以外ありえない。家族、友人、同僚を別のアングルから観察してみることを薦める。灯台下暗し。足元の石は飛び越えろ」


 聞くんじゃなかったよ。



 六時限目の柏木の授業が終わるや、あたしは自分の席で息を殺した。今まさに、美奈子が学校祭のことで鬼山と接触している。あの二人が一緒にいるところを初めて見た。二人は教室と廊下の境目に立って話していた。声は聞こえないけど、美奈子が身振り手振りで懸命に話す姿が見える。


「柴田さん」


 バッドタイミング。

 視界を遮るようにして現れたのは瀬名くんだった。


「何?」


 テキトーに応えながら、尻をスライドさせて二人が見えるようにした。美奈子の横顔は笑っていた。


「読んでもらいたい物があるんだ」


「……うん」


「こんなこと、君にしか頼めなくて……」


 へ? 何言ってんのか分かんない。頭真っ白じゃん、あたし。脳みそが稼働停止しちゃってる。美奈子はまだ笑ってる。


「瀬名くん!」


 意識の彼方から柏木の大声が聞こえてきた。あたし含め、周囲の生徒たちが驚いて柏木を振り向いた。


「帰りのHRまでに配っておいてほしいプリントがあるんだ。職員室へ取りに来てくれないか? ……今すぐ」


「分かりました……」


 瀬名くんは手に握られていた何かを惜しむようにポケットへ戻し、柏木と一緒に教室を出ていった。美奈子が入れ替わりであたしの前に現れた。真っ赤に染まった顔に潤う、二つの瞳がこっちを見つめてた。


「オッケーだった。学校祭、一緒に歩いてくれるって。なんか、夢みたい」


 どうか夢であってほしい。そう思わずにはいられなかった。



 学校祭当日。

 わざと寝坊してやろうかと思った。わざと腐ったものを食べ、体を内側から破壊してみるのもいい。わざと乗るバスを間違え、わざと道に迷って、今日一日、辿り着いた見ず知らずの街で呆けることが出来たら、心がどれほど救われたか分からない。

 雲一つない快晴が目障りだった。眩い青空を黒雲で覆ってしまいたかった。うなじを焼く熱い陽射しに腹が立った。足取りは重い。学校祭なんか始まらなければいい。

 息の詰まる四日間だった。美奈子が催し物のデートコースを提案してくるたび、あたしは不器用な作り笑いで身構えた。滑稽で、情けなかった。

 あの鬼山が美奈子を受け入れた。そんなの、ありっこないと思ってた。あたしは美奈子と一緒に見て周って、クレープを食べたり、お化け屋敷で悲鳴を上げたり、後夜祭の打ち上げ花火に顔を輝かせたりしながら、今日一日を笑って過ごせるもんだと確信していた。

 退屈な四日間だった。二年五組はステージ発表となるため、一部の生徒が教室の隅でヘンテコなダンスの練習に励んでいればそれでよかった。その間、あたしはトイレの個室にこもっていた。あの二人をセットで視界に入れたくなかった。あたしは作業に勤しむ賑やかな喧騒を遠くに聞きながら、鈍く流れる時間があらぬ妄想を膨らませていく恐怖に身を強張らせた。

 もし、鬼山も美奈子のことを好いてたとしたら? もし、二人がこのまま付き合うことになったら? もし、二人があたしの元から離れていってしまったら?

 考えたくない……もう疲れちゃった。



 体育館での開会式が終わると、あたしはそそくさとそこを後にし、配布されたパンフレット片手に学校中をうろうろし始めた。そこかしこから絶え間ない笑い声が上がり、楽しげな足音が廊下を包み、出店から食欲を掻き立てる美味な香りが漂ってくる。

 状況は去年と同じ……いや、それ以下だ。何を見ても楽しくない。辺りにあの二人がいるんじゃないかと、そればかり気になって落ち着かない。


「そこのお嬢さん、ワタアメいかが?」


 廊下の一端で声をかけられた。見ると、アニメキャラの刺繍が施された『イタイ』ハッピを着こなす男が一人、金たわしに鉢巻を締め、ニヤニヤ笑ってこっちを見ていた。朝倉だ。


「何やってんの?」


 聞くまでもないけど。


「ワタアメ売ってんだ。なかなか様になってるだろ?」


 質素な作りだった。ベニヤが製造機を囲ってるだけ。ペンキでビーチの雑な絵を塗ったくってある。傍らには『移動式ワタアメ朝倉店 チョーうめえ』と書かれた看板が立っている。よく見ると改造された松葉杖だ。


「女の子を中心にもう五十本は売れてるよ。ワタアメ職人の朝倉って言ったら、ここらじゃ結構有名だぜ」


 ……どうでもいいなあ。


「移動式って、学校中を転々としてるわけ?」


 尋ねると手を差し出された。

 嗚呼、そうだった。こいつはそういう人種だった。


「おいくら?」


 ため息と一緒に言葉が出てきた。


「150円」


「高っ」


「ハーフサイズ70円」


 せこい売り方。端から150円で稼ぐ気ないんだわ、こいつ。

 70円払うと手際良く作り始め、数秒後には顔ほどもある綿飴が出来上がっていた。ズシリと重い。


「こんな機会は滅多にあるもんじゃない」


 急に喋り始めた。


「全校生徒を相手に商売できるんだ。足の生えた記事ネタが学校中をウヨウヨしてるようなもんさ」


「で、何か収穫はあったわけ?」


「そうだな……さっきまで化学実験室の前にいたんだけど、そこであるカップルを見かけた。誰だと思う?」


「……さあ」


 聞きたくなかった。このイライラが際限なく加速するのは、朝倉がその二人を『カップル』と呼んだからだ。


「神崎美奈子と、あの鬼山勝二だ。学校中の不良たちを牛耳る鬼山が、二年生のトップアイドル神崎さんと仲良く歩いてるんだよ? 思わずカメラを向けちゃったね。だって、鬼山と一緒に歩いた女は今までたった一人しかいないって噂されてたのに。しかも、何の取り柄もなさそうな地味女だっていうじゃないか」


「悪かったわね、地味女で」


「何で柴田さんが怒るの? まあいいけど……あっ、そこのお嬢さん。ワタアメいかが?」


 あたしが見ているそばで、朝倉はもう二本、華麗に売りさばいてみせた。


「去年より調子いいぞ。売上がもう三千円を超えた」


 こいつも一人ぼっちのはずなのに……あたしと違ってずいぶん楽しそうだ。


「元気が足りないんじゃないか?」


 朝倉は脇に置いてある椅子を引き寄せ、よっこいせとか言いながらそれに腰掛けた。まだ完治していない脚をかばって、ずっと片脚立ちだったらしい。


「別に……友達とはぐれちゃっただけだし……あんたこそ、一人でこんな所にいて寂しくないの?」


「それが僕さ」


 恥じ入る様子もない。


「僕を知る人は、記事のネタにされることを恐れて近づくことさえしない。でもそれでいいんだ。面白い記事のためならどんなものだって投げ打ってやる。骨の一本くらい安いもんさ」


 誇らしい笑み。眩しすぎて直視できない。何の取り柄もない地味女の肩書が、惨めに思えてならなかった。


「……もう行くね。綿飴ありがとう」


 いたたまれなくって、あたしは階段の方へ向かって歩き始めた。


「あっ、そうそう」


 朝倉が白々しく呼び止めた。振り向くと、その笑顔にはいつもの狡猾さが戻っていた。


「僕は藤堂や夏目のことをボスと呼んだけど、真の悪はあいつらじゃない。用心しろよ。いいか、〝灯台下暗し〟だ」


「……それ流行ってんの?」


 もう振り返らなかった。あたしは逃げるような足取りでその場を離れ、階段を駆け上がった。

真の悪……そんな奴がいたとして、あたしに何が出来るわけ? 心労ばかり重なって、精神が叩き潰されそうになっても尚、〝灯台下暗し〟とかいう暗号めいたことわざに踊らされて奮戦しなきゃならないあたしって何なの? 話し相手が金たわしってどういうことなの? なんで……


「なんで隠れなきゃいけないのよ……」


 二階の廊下に鬼山と美奈子の姿があった。かき氷のカップを手に持ちながら、廊下に展示された美術部員の制作品を眺めている。あたしは防火扉の陰に隠れ、息を潜めていた。惨めだった。

 三階へ上りながら瀬名くんのことを考える。五日前に話しかけられたのを最後に、顔さえ合わせていない。あの時の瀬名くんは様子がおかしかった……気がする。あんな状況じゃなかったら、もっと親身になって話を聞いてあげれたのに。

 読んでもらいたかったもの……何だったのかな。

 コエダメから聞こえる下品な奴らの下品なバカ笑いを尻目に廊下を渡っていると、それにかぶせて黄色い声が飛び交い始めた。見ると、ウサギの着ぐるみが廊下を闊歩していた。わらわらと女子生徒が集まってくる。抱き付きながら、あるいは〝派手に退屈な行事〟にありがちなハイテンション笑い声をハウリングさせながら、ピース片手にウサギと記念撮影している。

 無愛想な笑み、黄ばんだ毛並み……理由は分からないけど、ゲーセンの前で会ったあのウサギがそこにいる。

 あたしは距離を詰め、ウサギに横付けした。ふと目が合う。ウサギは硬直したかと思うや、いきなり回れ右して歩き出した。

 まただ。間違いない。あたしを見て逃げ出した。

 中身は鬼山じゃない。一体誰? あたしを知ってる人。あたしを見て逃げ出す人……誰?



 答えは出なかった。

 あたしは体育館で行われる有志のパフォーマンスステージを見物しながら時間を潰した。バンド演奏や特技自慢や漫才が繰り広げられる、別名『自己満集会』だ。この広くて薄暗い空間なら、ぼっちでいるあたしを誰も見つけられないし、美奈子らと鉢合わせても気付かれにくいだろう、と読んでのことだった。

 夕刻が迫ると、学校全体が後夜祭の準備で慌ただしくなった。後夜祭は校庭で行われるクラス対抗の『カラオケ大会』に始まり、あらゆる予算を大幅に削って催される盛大な『花火大会』で締めくくられるのが習わしだ。生徒たちは冷めやらぬ興奮を蓄えたまま校庭へ歩いていく。

 あたしも流れに乗って外へと出たが、表階段を下りたところで五十嵐に呼び止められた。この楽しい雰囲気を台無しにするような暗い顔つき……それを言うならあたしそっくりな顔つきに、ただならぬ嫌悪のオーラを感じ取った。


「鬼山くんがお前を探してたぞ」


「……何で?」


 美奈子と一緒のはずなのに……危うく付け加えそうになる。


「理由なんか知らない。でも急いだ方がいいぞ。駐車場のゴミ捨て場で待ってるってよ」


 言い残し、人波に混じって姿を消した。

 駐車場は校庭の反対側にある。あたしは流れに逆らいながら足早に歩いた。ひと気のない庭園を抜けると駐車場はすぐそこだ。このゴミ捨て場には以前、瀬名くんと来たことがある。移動式ワタアメ屋も顔負けの乱雑な造りは、相変わらず鉄板を張り合わせただけの粗末なものに違いなかった。

確かに、鬼山はそこにいた。一人だけだ。


「何か用? 待たせてる人がいるなら、さっさと済ませた方がいいんじゃない?」


 そんなつもりじゃなかったのに……冷たい言葉ばかり口を突く。


「お前が呼んだんだろ。話があるからって」


「え……違うわよ。あんたこそ、あたしを探してたんでしょ」


 ぎこちない沈黙が流れていった。噛み合わない二つの歯車が時間を壊してしまったようだった。遠くから、カラオケ大会の開催を告げる花火の音が聞こえてくる。


「今日は美奈子と一緒にいたんだよね?」


 あたしは喉から絞り出した声で沈黙を押しのける。花火の余韻が、耳の奥で鈍く響いていた。


「だったら?」


「デート楽しかった?」


 言いながら、バカな自分に嫌気が差す。不本意な嫉妬の言葉で首が絞まっていく。


「何でそんなこと報告しなきゃいけないんだ? お前には関係ないだろ」


「美奈子の気持ちを、あたしはあんた以上に理解してるつもりだよ。ていうか、美奈子はどこなの? さっさと戻った方がいいんじゃない?」


「もういいんだ」


「何でもういいのよ! ……あんた、美奈子の気持ち全然分かってない!」


「こっちは遊びでやってるんじゃねえんだ。俺の気も知らねえくせに……」


「分かんないよ……あんたのことなんかさっぱり分かんないよ! 何でも一人で抱え込んじゃって! 分かってほしいことなんか一つもないくせに!」


「……どうした?」


 答えられなかった。

 涙が溢れてくる。頬を伝う。今まで堪えてきたものの全てだった。

 泣いてる自分が嫌いだった。涙に甘んじた醜態が弱い女の代表みたいで、気に食わなかった。


「……何で泣く?」


 答えられなかった。

 困惑を隠せない鬼山の表情に罪悪感を覚えた。この身勝手な嗚咽が、世界中を不幸に陥れてるような気さえした。拭っても拭っても、涙は止まらなかった。

 伝えなきゃいけない。

 涙に訴えるのは簡単だ。泣くだけでボディランゲージは成立してしまう。でも、そんなものは表面のサラサラした部分を引っ掻いたに過ぎない。

 伝えなきゃいけない。伝えなきゃいけない。

 あたしの奥深くにあるもの……鬼山が好きだってこと。ずっとそばにいたいってこと。ずっとそばにいてほしいってこと。伝えなきゃ……


「……すまない」


 涙が引っ込んだ。

 鬼山が謝った。視線は明後日の方を向いてたけど、その声には揺るぎない慈悲の響きがあって、あたしは泣くのも忘れてただ呆けていた。それはいつもの「スマン」とか「わりぃ」とか、心ここに在らずな謝意とは似て非なる感情表現……鬼山勝二から遠く遠くかけ離れた感情表現の一つだった。


「あんた……今……」


 どうして謝ったのか知りたかった。鬼山がどう言葉を続けてくれるのか知りたかった。ついでに、何があたしを待ち受けるのかも知りたかったけど、その答えはすぐそこだった。鬼山の背後に五十嵐が立っている。手には角材が握られている。

 あたしが叫ぶより早く、それは振り下ろされていた。鈍い重低音が一回、二回、三回と続くたび、あたしはより固く目を閉じ、顔を背けた。鼓膜が痺れる。それは耳の奥深くでドッと低く鳴ったかと思うと、小刻みに震えながら頭蓋に触れ、背骨を伝って身をすくませた。

 目を開けると、鬼山の大きな体がうつ伏せに投げ出されていた。


「僕の勝ちだ」


 視界の隅に五十嵐が立っていた。両手で角材を構えたまま、夕闇に同化して鬼山を見下ろしている。童顔に刻まれる笑み……その冷たい笑みが事態の全てを物語っていた。

 あたしは屈み込み、鬼山へ呼び掛けた。応答はない。でも出血は見られないし、ちゃんと息もある。あたしは脇に立つ小男を睨み上げた。


「どういうこと? どういうことなんだよ! 五十嵐!」


 声を上げて笑い始めた。縦に開いた口が顔を裂いてしまいそうだった。甲高い哄笑が質量をまとって体に突き刺さってくる。

 やおら、角材の先端があたしたちへ据えられた。笑い声はやんでいた。


「僕の勝ちだ」


 まだ言ってる。


「計画があった。僕の役目は、弊害となり得るお前たちをゴミ捨て場に監禁することだ」


 反論は許されなかった。口を開くと眼前に角材を突きつけられた。

 五十嵐はあたしをゴミ捨て場まで追い立てた後、ぜえぜえ喘ぎながら鬼山の体を引きずり、中へ運び入れた。


「こんなことして、あんた退学じゃすまないわよ」


「望むところさ。鬼山とお前のケータイをよこせ……早くしろ! 頭を割られたいのか?」


 あたしはそれを投げ渡し、ゴミの密集する奥の方まで後ずさりした。五十嵐はポケットから取り出した鍵をこめかみ辺りでちらつかせると、そのままドアをスライドさせ、外から鍵をかけた。


「見張ってるからな。抵抗したら殺してやる」


 くぐもった声が外壁を通して伝わってきた。

 中は真っ暗だった。息苦しい。空気が薄く感じる。

 完璧な暗闇が恐怖や不安に作用することを初めて知った。今目を閉じてるのか開いてるのか、何が前で何が後ろなのか、精神のジャイロが損壊してあらゆるものの均衡が崩れていくのを感じた。立っていられなかった。あたしは膝を抱えて目を瞑り、次第に落ち着きを取り戻していく呼気の音を聞いていた。目を開けるのが怖かった。目を開けると『死』に触れてしまう気がした。あたしは未だ意識のない鬼山の傍らで丸くなりながら、ゆっくりと過ぎていく時間に身を委ねるほかなかった。



 どれくらい閉じ込められたんだろう?

 時間が知りたかった。カラオケのくすんだ遠音が内耳に触れる以外、この空間から得られる情報は皆無だった。鬼山はまだ意識を失ったままだ。

 何でこんなことに?

 考えるだけ無駄だった。この世に五十嵐の言動を理解できる奴なんかいない。鬼山の腰巾着だった五十嵐。投票開示で不正を働いた五十嵐。その目はいつも何かに怯えていて、小柄な体躯に相応のゴマ粒みたいな肝っ玉でよく威勢を張っていた五十嵐。

 それがあたしの知ってる五十嵐なら、さっきの小男は一体何? 鬼山の頭をスイカ割りの要領で殴打しなきゃいけなかった理由って何? 誰が答えを知ってるの? 誰が答えを教えてくれるの?

 焦燥の中で時間ばかり過ぎていき、夜の静けさが辺りをひんやりと満たし始めた頃……鬼山が微かに呻いた。苦しそうだった。あたしは鬼山のいる方を覗き込んだ。


「鬼山? 気付いたの? 痛くない?」


 囁くと、鬼山は呼応するように悶えた。


「……何だ……ここ……?」


 しゃがれ声が虚ろに響いた。荒い息遣いが聞こえる。ゴミのこすれ合う音が聞こえる。


「鬼山、鬼山! 大丈夫だから……痛っ」


 腕がぶつかってきた。


「見えない……見えない見えない見えない……見えない……見えない!」


 暴れる鬼山。吐息がわななく。

 あたしはどうすることも出来ず、ただ闇に目を凝らすばかりだった。

 動きが激しくなってきた。もがくように腕を振り回し、壁を蹴破ろうと足を振り上げているのが分かる。ゴミ袋がなだれになって降り注いできた。


「やめろ……やめろ! 出せ! 出せ! 出せ! 出せ!」


 けたたましい絶叫で体中がすくみ上がった。

 同時に、奈津美さんの言葉が記憶のビジョンと共に甦った。

 病室の一角。ビジョンは言う。


『勝二はね、重度の暗所恐怖症だったのよ』


 静かになった。もう何も動かなかった。鬼山が瞬間移動か何かして、あたしは一人置き去りにされてしまったんだと思った……そうじゃなかった。


「……父さん」


 鬼山の声。いたいけで、儚い。十年前に発せられた声が長い旅路の果てにようやくあたしの耳へ届いた……そんな声だった。


「鬼山?」


 声をかけたが、返事はなかった。


「父さん、誓うから……悪いことしない……口答えもしない。ここから出して……一人にしないで……」


『今までのあなたに、お願いがあります』


 ビジョンには続きがあった。

 ビジョンは言った。


『勝二のそばにいて。見守って、笑ってあげて』


 ビジョンは言った。


『信じてる、華世にしか出来ないこと。あなたには、誰にも劣らない負けん気がある。笑える明るさと、怒れる素直さと、涙を流せる優しさに溢れてる」


 ビジョンは言った。


『誰かのために走る力がある』


 あたしは、手探りで鬼山の体に触れる。震える体を支えて、そっと寄り添って、大丈夫だよ、そう声をかける。

 暗くて、冷たい所。

 あたしは、ここがどこかを知ってる。

 暗くて、冷たい所。

 ここは孤独だ。いや、孤独だった。

 鬼山の胸ポケットからライターを取り出し、火を灯した。あたしたちは光輝を挟んで見つめ合った。


「一人じゃないよ」


 笑いかけると、怯えきっていた鬼山の目に微かな力が戻った。


「華世……?」


 鬼山の指先が頬に触れた。くすぐったかった。声をかけたり、触れたり出来る事実が、鬼山の目に映る〝あたし〟を確かな存在へ変化させていくのが分かった。それが証拠に、鬼山の顔つきは勇壮に満ちていた。自分が何者なのか、何をすべきなのか、把握しきった表情だった。


「どこにいたんだ?」


 鬼山が問う。


「ずっと探してたんだぞ」


「ここにいたよ」


 あたしは笑む。


「あんたを待ってた。そうすべきだって、分かってたから……ここを出よう。五十嵐と決着をつけなくちゃ」


 立ち上がった拍子に明かりが消えた。鬼山はもう取り乱さなかった。


「一緒に体当たりだ」


 いつもの声色だった。あたしは闇へ向かってうなずきかけ、声を合わせて肩から体当たりした。ドアは破れなかったが、手応えはあった。


「もう一度」


 「せーの」の掛け声でぶちかました瞬間、スライド式のドアが枠から吹っ飛び、あたしたちを乗せたままアスファルトの上に投げ出された。

 顔を上げると、月光を従えた五十嵐の顔が見えた。感情のない顔だった。


「言ったろう。抵抗したら殺すって」


 角材の先端が眼前を漂う。あたしは四つん這いのまま後退しつつ、鬼山の腕を借りて立ち上がった。


「お前が何をするって?」


 鬼山が詰め寄る。五十嵐ご自慢の武器などオモチャの積み木くらいにしか見えないらしい。あたしは少し離れた所から二人の様子を窺った。意外にも、五十嵐は退かなかった。武器が角材なら、防具は威厳をかもす風格に相違なかった。凄まれようが、睨まれようが、惰弱を極めつつあった日常の彼が剥き出しにされることはなく、むしろ、非日常の面相に余勢を感じさせるほどだった。


「抵抗したら殺す、そう言った。僕はお前より強いんだ」


「何吹き込まれたか知らないが、さっさと目を覚ませ」


「これ以上僕に指図するな!」


 校舎に当たって反響した声が降り注いできた。


「いつもコケにしやがって……」


 痰の絡む声。


「僕は強いんだぞ……強いんだ。お前にだって負けないくらい。僕は強いんだ」


「どう強い?」


「誰も真似出来ないことをやった。僕にしか出来ないこと……僕は〝あの人〟に見込まれ、指示を受けていた」


 〝あの人〟……誰?


「この春、あの人の指示で『選挙管理委員』になったのは僕だ。朝倉が地下倉庫で神崎を襲った時、お前の次にアクションを起こしたのは僕だ。お前を停学に追い込むため、あの人にその犯行現場を教えたのは僕だ。お前を尾行し、パチ屋で働いてることを突き止め、あの人へ告げ口したのは僕だ。この数ヶ月、お前をスパイしていたのは僕だ。お前たちをここへ呼び出し、監禁したのは僕だ」


 声が淡々と響くたび、曖昧だった記憶がハリのある輪郭を形作っていった。

 あたしたちは確かに、『選挙管理委員』に名乗りを上げた五十嵐を訝った。鬼山の腰巾着だった五十嵐を訝った。美奈子とゲーセンで見かけた五十嵐を訝った。そして、地下倉庫に現れた〝あの人〟を訝ったんだ。


「あの人にとってお前は疫病神だったんだよ、鬼山。だからあの人は、お前を停学にさせるための口実探しを、僕にスパイさせることで見つけ出そうとした。お前さえいなけりゃ、あの人の計画はとどこおりなく進んでたんだ」


「それで?」


「僕は指示があるまで足止めするよう命令された。計画を完遂させる最もふさわしいタイミングが今日だった……どうせ勘付いていたんだろう? お前は今日一日ずっと、神崎と歩きながらあの人の近辺を探っていた。怪しまれないためには、神崎と一緒にいる方が好都合だったってわけだ。でなきゃあの日、お前が神崎からの誘いをOKするはずがない」


「まくしたててんじゃねえよ」


 大儀そうに呟く。


「それがどうした? やっぱ弱いよ、お前」


 怒りと憎しみの混沌が五十嵐の顔面を覆っていった。

 角材を攻撃的に構えようが、鬼山にはどこ吹く風だった。


「お前はいつもそうだ。権力者の言いなりで、度胸もないくせに強がって、上の者にはへつらい続けてきた」


「…………」


「お前は、ただ服従してるだけの弱虫だ」


「黙れ!」


 角材が闇を切った。薙ぎ払われ、鬼山の右腕を捉えた。折れた角材が五十嵐の手から吹っ飛ぶ。微動だにしない鬼山。それを見上げる五十嵐……悲愴をはらんだその表情が、重大な何かを悟った男の顔に見えた。


「お前は? お前自身はどうしたいんだ?」


 問いかける鬼山。腕を殴打されたにも関わらず、顔色一つ変わらない。

 あたしなんかには、五十嵐が秘める思いを推し量ることができない。でも、鬼山の目はそれを見透かせていたんだと思う。鬼山の口調にはそう感じさせる同情の響きがあった。

 五十嵐は……泣いている。


「僕は……君になりたかった」


 頬を伝う涙が月明かりを照り返した。


「憧れだった。君と一緒にいるだけで強くなれると思った。けど……何も変わらなかった」


 そりゃそうだ。って、言ってやりたかった。散々なじって、蹴りの一発でもお見舞いしてやりたかった。

 男子ってみんなこうなわけ? 呆れちゃった。

 五十嵐の言動は、貰い物のタバコを吸って粋がる中学生とさして変わりがない。そんな男が鬼山を目標にしたところでたかが知れる。チョコになるのを夢見た粒あんがこしあんへ変化するようなもの。

 けれど気持ちは分からなくもない。背伸びしていたあたしも似た者同士だった……でも、瀬名くんっていう立派な模範生をないがしろにしないでほしいわね。


「お前の口から教えてくれ。陰でお前に指示を送っていたのは誰だ? 〝あの人〟って誰だ?」


 刹那、五十嵐はためらいの挙動を見せたものの、やがて口を開いた。


「……柏木だ」


 その名が何を意味するのか、見当もつかなかった。

 柏木が五十嵐を扇動していた……どうして?


「柏木の居場所、分かるか?」


「知らない……昼頃、瀬名と職員室にいるのを見たきりだ」


 瀬名くん……。


「俺たちは柏木を探しに行く」


 あたしを一瞥すると、鬼山が言った。


「お前は、お前の意思で行動するんだ。何をすべきか、分からなくたっていい。自分を信じろ」


 〝自分を信じろ〟……あの口からそんなセリフが出てくるなんて意外だった。鬼山が言うと現実味のない言葉に聞こえた。幽霊を〝信じてる〟と発言した時もそうだった。日頃の粗暴な振る舞いからは結びつかない、目に見えないものを信じるその体裁が、どこか滑稽じみていたんだと思う。サンタを信じる子供がタバコ吹かしながらプレゼントを待ちわびるようなもの……そんなクソガキ、どう転んだって滑稽でしょ。

 五十嵐をその場に残し、あたしたちは正面玄関の方へ走り出した。


「どこを探すの?」


 聞くと、鬼山は振り向きざま答えた。


「『あかずの間』だ」


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