第十二話 足りない10点
立会演説会には出席しなかった。出なくていいと言われたし、もちろんその気もなかった。マイク越しに思うさま叫び散らしても飽き足らず、挙句ステージにおける演説で頭パッパラパーな様を披露するなんて、考えるだけで五臓六腑が縮み上がった。
正しいことをしたんだ。
これで良かったんだ。
自分に言い聞かせて歩くのは心地良いものじゃない。会議室へ続く廊下を懺悔の道のりにしたくなかった。あの主張を『けじめ』という都合のいい言葉で正当化させるのは簡単だ。偽りもないし、後悔だってしない。
でも、罪悪感だけは拭えなかった。正否を決めるのはあたしじゃない。あたし以外の誰かだ。
あたしは主張した。本心だった。それを否定されたら、あたしの存在は消えてしまうんだろうか? 卒業式で名前を呼び上げられるその時まで、みんなの記憶から放り出されて、美奈子にさえ愛想を尽かされて、あたしは……今のあたしのままでいられるんだろうか? 今までのあたし。アブノーマルなあたし……あたしはあたしのままでいいんだろうか?
答えが欲しい。じれったくて、胸の奥が気持ち悪かった。
会議室に入るや、既に待機していた選挙管理委員の面々に見つめられてしまった。視線の一つひとつに軽蔑がはらんでる。ねっとり絡みついて、思わずうつむいた。ここにいる皆があたしのことを知ってる。夏目さんが書記の代表としてあたしを推薦したからだ。この空間に選挙管理委員以外の生徒が紛れ込んでるとすれば、それは書記代表〝生徒会なんてやりたくない女〟のあたし以外にありえない。
窓際に武田先生が立っている。どうやら選挙管理委員の顧問だったらしい。濡れた窓越しに曇天を仰ぐ姿はどこか物憂げだった。
「演説ご苦労様、柴田さん」
傍らに夏目さんが立っていた。高い鼻の上から嘲りの視線をぶつけてくる。
「票が届くまでの間、あの席で待っていて下さい」
指示された席は五十嵐の隣。夏目さんはあたしを監視役にすることで、徹底的に五十嵐をマークするつもりだ。
五十嵐は何もない長机の上を眺めていた。丸顔に暗い影が落ちている。あたしが隣に座っても無反応。彫像のように固まって、押し黙ってる。
数分後、大きな茶封筒に入れられた票が会議室に届いた。選挙票には立候補者の名前が縦に並べられていて、それぞれ気に入った役員の候補者名に○をつけるシステムになっている。この○をひたすら数えるのが選挙管理委員の役目だ。
あたしは黒板の前まで移動して指示を待った。夏目さんが教壇に手を着き、厳格な面持ちで周囲を見回した。
「六月九日。十四時五十分。開票立会人の下、ここ会議室において、投票の開示を始めます。経過を書記していくのは、二年生の柴田華世さんです。柴田さん、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる夏目さん。あたしは伏し目がちなままそれに続いた。
顔を上げると、教壇に夏目さんの姿はなかった。クラス毎に分けられた票をそれぞれ配布している。窓際に座っていた五十嵐が目も合わせずに最後の束を受け取った。
「では、集計を始めて下さい。先日も説明したとおり、別途配布した用紙に、それぞれの役員候補者名とその集計結果を記入するだけで結構です。役員ごとの集計が終わり次第、用紙を私に手渡しして下さい。柴田さんが黒板にて明記し、最後にまとめて結果を算出します」
作業は黙々と進められた。
武田先生は後ろの方で突っ立ったまま、夏目さんにおおむね任せっきりのようだった。当の夏目さんは黒板の前を往復しながら、ただ五十嵐だけに焦点を絞って監視し続けていた。目には攻撃的な光が湛えられている。
鬼山が瀬名くんを勝たせるために五十嵐を利用する……これが藤堂と夏目さんの見解だ。そして最悪の事態に備え、あたしをここに配置させた。最悪の事態……五十嵐が不正するとは思えない。鬼山が五十嵐に不正を促すなんてもっとありえない。
五十嵐は利用されてるんじゃない。自ら進んで選挙管理委員になったんだ……これがあたしの見解。
「さあ、仕事よ」
あたしは二枚の用紙とペンを夏目さんから受け取った。
「この集計用紙どおりに黒板へ書き写していって。どんどんくるから急いでね。こっちのシートは、候補者の最終結果を学年別に表記するものだから、最後にこれを仕上げればあなたの仕事は終わりよ」
受け取った用紙は三年二組のものだった。投票結果が数字で記されている。藤堂の欄には『14』、瀬名くんの欄には『12』。この数値の合計で勝敗が決する。
見ると、あたしの欄には『1』と書かれている。とんだ物好きか、ただの悪ふざけかもしれない。けど、素直なあたしの気持ちを認めてもらえたみたいで、少し安心した。この票は無効になるけど、心の糧にはなる。あたしはこの『1』を忘れない。
投票結果が次から次へとやってきた。あたしはそのたびにチョークを握り、黒板に集計値を書き写していった。作業を終えた生徒たちの注目が、あたしが記す数字の羅列へ次第に集まってくるのが分かった。さながらスポーツ観戦だ。決着の瞬間は近い。残るは五十嵐の結果を待つだけだった。
「まだですか?」
夏目さんが荒々しくせっつき始めた。五十嵐は頭を抱えてふさぎ込むような姿勢で作業に取り組んでいる。
皆の注意が五十嵐へ向けられている隙に、黒板の隅で藤堂と瀬名くんの合計値を計算してみた。藤堂の憶測どおり、五十嵐が『瀬名くんを助ける』ための不正に及ぶとすれば、まさに今しかない。
現在の合計値は、藤堂が136、瀬名くんが129。生徒会長候補は他に一年生が二人いるけど、はっきり言って蚊帳の外だった。全校生徒の八割以上の票が藤堂と瀬名くんに集まっている。五十嵐が算出した結果次第で、この二人の勝敗が決まる。名声と肩書きをプライドに乗せて生きる男と、学校の変革を望む男の勝敗だ。
「まだなんですか? 遅すぎます」
夏目さんが近づくと、五十嵐は用紙を守るように身を伏せた。
「あと少しなんだから、邪魔すんなよ」
五十嵐がすごんだ。夏目さんには全く効果がない。
「もう結構です。私がやります」
「やめろ!」
五十嵐の高声が会議室に響き渡った。満場の注目が二人のやり取りに集まっている。夏目さんの荒い嘆息が怒声の余韻をかき消した。
「では、終わったところだけでも口頭でお願いします。生徒会長候補くらいなら済んでるでしょう?」
ふと、五十嵐と目が合った。強く語りかけるような、それでいて芯に怯えを含んだ眼差しだった。
「……分かった」
五十嵐はいよいよ観念した。
「言うぞ……藤堂が10票、瀬名が……瀬名は19票だ」
「投票用紙を貸して」
間髪入れずに夏目さんが言った。
「聞こえただろ! 藤堂が10、瀬名が19だ! 瀬名が勝ったんだよ!」
「もういい。柴田さん、あなたが数えて。同じクラスの柴田さんなら、あなたも安心でしょう?」
「夏目さん」
やり取りをずっと黙視していた武田先生が遂に声をかけた。
「選挙管理委員以外の者が票を数えるのは違反行為です。ここは彼を信じて……」
「できません」
夏目さんがピシャリと言い返した。武田先生は面食らったように目を瞬かせた。
「柴田さんの方がよっぽど信頼できます。私が見込んで推薦したのだから、間違いありません。それに、このことで何か問題が起こった場合、もしくは罰則の発生する場合、全ての責任は私が負います」
夏目さんは憤然と振り返り、あたしをまっすぐに見つめた。
「柴田さん、お願いできる?」
五十嵐の考えは読めないけど、あたしはどちらの片棒も担ぐつもりはない。だから、おあいにく様。五十嵐に助けを乞うような目で見つめられようが、夏目さんに熱い視線を向けられようが、期待に沿えるだけのハッピーエンドを用意してやるつもりはない。
けど、まあ……ここは空気を読んであたしが数えるしかないみたいね。
「……分かりました」
あたしは五十嵐から票の束と鉛筆を受け取ると、生徒会長候補欄に記された○を数えていった。緊張のせいで指先は震えたが、しっとりと滲んだ汗が用紙をうまく掴んでくれた。
結果は、藤堂が12票、瀬名くんが15票だった。その瞬間、五十嵐の嘘が発覚し、同時に……瀬名くんが負けた。
五十嵐の行為は夏目さんに〝数え間違い〟だと判断され、事がそれ以上大きくなることはなかった。藤堂の勝利が確定した今、あんな小者が何を腹案しようがもう関係ない。でも、二人+カッパの巧妙な悪知恵がこういう形で実を結んだことには納得がいかないし、コエダメの浄化に精を出す瀬名くんの雄姿を見られないのはとっても残念だ。
ちなみに、あたしの獲得票は8。いくら集まったって誇れるもんじゃないけど、あの雄叫びが心八つ分の置き土産になったのは確かみたいね……奈津美さんが聞いたら喜ぶだろうな。
その日の内に瀬名くんと話すことはできなかった。放課後、投票結果が柏木の口から報告されると、瀬名くんは誰とも顔を合わせずに教室を出ていってしまった。
「ほっとけ」
後を追いかけようとするあたしの背中に声がかかった。振り向くと鬼山が立っていた。薄っぺらいカバンを肩に引っ掛け、ドアの前に立つあたしを邪魔者でも見るような目で睨んでる。あたしはその場を動かなかった。
「だって、可哀想じゃん」
「同情か? あいつがそれを望むのか?」
ムカッ。
「あんたに瀬名くんの何が分かるの……」
「必要なのは時間だ。安っぽい慰めの言葉じゃない」
何こいつ。
帰りのHRに珍しく出席してると思ったら、大嫌いな瀬名くんの肩なんか持っちゃって。
……まさか?
「あんたが何を企んでたのか、あたし知ってるよ。瀬名くんを助けようとするなんて、一体どういう風の吹き回し?」
カマかけてみた。でも……
「何で俺があいつを助ける? 冗談はさっきの演説だけにしてくれ」
忘れてた。何を言ってもノーリアクションの鬼山に小細工なんか通用しないってこと。
「おい、鬼山」
教壇越しに柏木が呼んだ。気だるそうに振り向く鬼山。何を言われるのか、把握しきった表情だった。
「あの約束、どうなった? え?」
約束って……男同士で大っぴらに秘め事かよ。悪趣味な盗み聞きに精を出す(あたしみたいな)生徒へ、めいっぱい配慮するようなやり口ね。
「守りましたとも」
鬼山がうやうやしく返す。
「向こうに確認の電話を入れるぞ」
「ご自由に」
鬼山は大股で教室を出ていった。
「ねえ、今の聞いた?」
柏木が教室を後にすると、あたしはさっそく美奈子の席へ歩み寄った。美奈子は教科書をカバンに押し込んでる最中だった。
「聞いてたよ。でもそんなことより、私に何か言うことがなくって?」
美奈子は教科書を一冊カバンへ放り込むたび、目を上げてこっちを睨んだ。ずいぶんご立腹のようだ。心当たりは一つしかない。
「選挙のことは悪いと思ってるよ。一言も言わなかったし……」
「どうして? 相談乗るのに」
意外だった。美奈子のことだから、満足いくまで笑われて、せいぜい向こう一週間は思い出し笑いの発作に駆られるだろうと思っていた。
あたしは今、あたしを思う美奈子の本気をかいま見た。
「そうしようと思ったよ。だから念押したでしょ? 誰とも比較しないあたしを受け止めてくれるか、って」
「あんなの相談になってない」
「しなかったんじゃなくて、出来なかったんだもん。誰よりも、まず美奈子に認めてもらいたかったから……ああするしかなかった」
膨れっ面のまま目を背ける美奈子。
「届いたよ、華世の声。体に響いて、耳が痺れてた。みんな驚いて笑ったりしてたけど、私は……華世は凄いと思った。それを選択したあなたを凄いと思った。おばあちゃんになっても変わらないんだろうなって、こうと決めた道を突き進んでいくんだろうなって、あの演説にはそう感じさせるパワーがあって、だから私はあなたに票を入れた。もっと華世に頼られたい、もっと華世を頼りたい……私はそんな関係でいたいのに……」
美奈子……大好き。
恥ずかしいから口に出さないけど。
「なんか……ごめんね、へへ」
感謝の気持ちが伝わるように、あたしは精いっぱい笑いかけた。
美奈子の膨れっ面が和らいでいった。頬が桃色に熟していく。おいしそう。
「許してあげる……パフェおごってくれたらね」
それからの一週間はあっという間だった。
夏休み前に控えた期末テストはあたしたちを一方的に苦しめたけど、降り続ける雨がその疲れを洗い流してくれるわけじゃなかった。それどころか、湿った空気が肌をベトつかせ、毛穴から集中力を吸い取っていく。でもまあ、あたしの勉学意欲なんか大昔から欠落してたし、今頃になって梅雨特有の蒸し暑さに難癖をつけるつもりはないけどね。
日毎に増していく試験勉強の疲れを目に見える形で観察でき、それに見合うだけの模範的な生徒を挙げるとすれば、うってつけなのはまさしく瀬名くんだった。
選挙前から始まっていた瀬名くんの衰弱っぷりが、ここにきてピークを迎えつつあった。目のクマは青白い顔の中で不気味に映え、覆いかぶさるような前髪の奥から憔悴した鈍い輝きが見え隠れしている。寝ずに勉強してるのかな? 学力テストで辛酸を嘗めたあの敗北が、瀬名くんを突き動かすエネルギーになっているのかもしれない。
期末テストが終わるのと一緒に、例年より一週間も早い梅雨明けが発表された。
クラスのみんなが笑顔だった。あの瀬名くんでさえ、笑顔だった。
「おはよう、柴田さん。今日は天気がいいね」
教室での第一声がこれ。外は曇り空だった。
「おはよう。すっかり元気だね」
瀬名くんとまともな会話をするのは久しぶりだ。
「なんだか心配かけちゃったみたいで、申し訳ない。役員選挙の落選も相まって、心身ともに疲弊しきってた。昨日はね、うん、まるで三十時間は寝たんじゃないかってくらい、ぐっすり眠れたよ」
けど、瀬名くんの陽気は束の間だった。
各授業の始めに答案用紙が返され続けると、四日目の帰りのHRには成績上位者の名が柏木の口から放たれることになった。
「はい。恒例の成績優秀者の発表ね」
柏木は相変わらず気だるげだった。瀬名くんが机の上で、祈るように指をからませた。
「三位、田中京子。メイン五科目・500点中466点。はい、よく頑張りました」
柏木の乾いた拍手が空しく響いた。
「二位、瀬名雄吾。500点中487点。学年では三位の成績でした。おめでとう」
瀬名くんの横顔が落胆に沈んでいった。学年で三位……普通なら喜ぶとこだけど、彼にとっちゃそうもいかない。次に呼ばれる名があいつのものなら尚更だ。
「一位、鬼山勝二。500点中497点。学年でもトップです。みんなも、あいつの良い所だけを手本とするように。狸寝入りしろと言ってるわけじゃないからね」
放課後、瀬名くんは掃除の終えたひと気のない教室で、高得点の連なる答案用紙を眺めていた。たまに首をもたげては鬼山の席に視線を走らせている。あたしと美奈子は心配で帰るに帰れず、元気付かせてあげようと近づいていった。
「また負けた……鬼山勝二に……」
声をかける前に、瀬名くんはもう喋りはじめていた。あの日とまったくおんなじ。
「気にすることないよ。あたしなんか数学43点だよ?」
慰めのテンプレート。手応えなし。
「10点……たったの10点差だ」
また嘆き始めた。
「僕と鬼山とを引き離すこの10点は何だ? 僕に足りない10点って何なんだ?」
あたしたちは顔を見合わせたまま、その場に突っ立っていた。同情の余地はいくらでもあった。選挙では藤堂に敗れ、テストでは鬼山に連敗だ。今の瀬名くんを勇気づける言葉なんかこの世のどこにもありはしない。
美奈子がおもむろにカバンを下ろし、中をまさぐり始めた。取り出したのは真新しいファッション誌だった。
「瀬名くん、誕生日は?」
美奈子がやぶから棒に聞いた。瀬名くんの視線が答案用紙から引き剥がされ、ゆっくりと、這うようにこっちへ移動してくる。その光輝を欠いた二つの瞳が、静かに美奈子を捉えていた。
「十一月……二十日……」
美奈子の雑誌をめくる手の動きが止まり、空咳がコホンと飛び出した。
「さそり座のあなた。『果報は寝て待て』。……占いよ」
美奈子が言った。
「野望に挑むなら、敵の衰退を待て。幸福を望むなら、君は自らの非力を認め、辛苦を乗り越えろ。やがて訪れる選択肢が、君に与えられた七の月最後のチャンスである。果報は寝て待て。時間に逆らうな」
「それ信用できるの?」
瀬名くんがそんな顔をしてたので、あたしが代弁した。
「結構当たるよ、この雑誌の占い。つまり、瀬名くんの七月はまだまだこれからってことよ」
美奈子は揚々としてたけど、当の瀬名くんは浮かない顔のままだった。
「占いに頼るやり方は好きじゃないけど……でも、ありがとう」
瀬名くんの表情に恥じるような笑みが漏れた。
「何だか、カッコ悪いとこ見せちゃったね。たかが10点くらいで……待ってみるよ。そのチャンスってやつを」
チャンスは週明けに突然やってきた。
朝の教室に早々と登校すると、柏木と瀬名くんが深刻な顔つきで向かい合っていた。二人は教壇を挟んで突っ立ち、あたしが教室へ入って来たことに気付いてないみたいだった。
「そういうわけだから、もし君さえよければ、代わりに生徒会長の席を担ってもらいたいんだ」
「急な話ですね……分かりました、時間をください。明日までに必ず返事をします」
「待ってるよ」
瀬名くんがあたしの存在に気付いたのは、教室を出ていく柏木の後ろ姿を見届けてからだった。
「あっ、おはよう。……どこらへんから聞いてたの?」
「瀬名くんに生徒会長の席を担ってもらいたいって、そこらへんから……一体何事なの?」
うん、まあね、うん……瀬名くんは自分の席に腰を下ろし、漠然と黒板の方を見つめながら声をなびかせた。
「……藤堂先輩の不正が発覚したらしいんだ」
鼓動のリズムが一気に加速した。選挙前日、コエダメで藤堂と夏目さんの二人から秘密の計画を教えてもらったのは、あたし一人だけのはず。壁の中に仕込まれていた朝倉の盗聴器は、夏目さんがその電源を切って回収済みだ。
「告発者が出たんだ」
瀬名くんは続けた。
「名前は朝倉仁。倉庫で神崎さんを襲ったあいつだ。新聞局長で、学校新聞の毒舌記事を手掛けてる。階段から落ちて入院してたけど、昨日退院したらしい。今日朝一番で職員室に駆け込んだ」
「みんなあの人の話を信じたの? 証拠は?」
「そのやり取りを録音したテープがあったらしいんだ。朝倉が自分で持ってきた」
「だってあれは……」
……やば。
「柏木先生が教えてくれたよ」
瀬名くんの怪訝な眼差しがあたしを捉えた。
「録音された内容は、藤堂くんと管理委員の夏目先輩、そして柴田さんの三人のやり取りだったって。選挙前日の朝、僕は確かに、君たち三人をコエダメで見てる。柴田さんはずっとこのことを知ってたんだろう?」
「それは……」
「いや、いいんだ。責めてるわけじゃない。僕も同じだったからね」
「同じって、何が?」
「知ってたんだ。藤堂くんが陰で何をやっているのか。森下と計画について話してる姿を見たことがあった。僕が彼らを警戒するようになったのは、会議室で森下に兄のことを指摘されたあの日からだ」
「あいつらの手口を承知で選挙に挑んだってこと?」
瀬名くんがあたしを見た。沈み切った表情から一気に笑みが溢れ出した。下卑たそれだった。冷たくて、虚ろで、慢心をはらんでる。鳥肌が立つ。不相応の笑み……瀬名くんから最も程遠い笑みだった。
「目には目を……僕だって、勝つためなら手段を選ばなかったさ」
折しも、ドアが大きな音を立てて開いた。振り向くと、まず視界に入ったのは金たわしだった。その下に、底意地の悪い笑顔が貼り付いてる。
「見っけ」
紛れもなく朝倉仁だった。手に抱えた松葉杖をもてあそびながら、ドア枠にもたれかかってこっちを見つめてる。
「柴田さん、ちょっと来てよ。……ここじゃあ話しづらいし」
瀬名くんを一瞥すると、朝倉は杖で促した。
「行きなよ」
瀬名くんは言いつつ、警戒するような視線の投げかけを怠らない。相手がナイフで美奈子を襲った張本人となれば当然だ。
あたしはため息した。
「……いいけど、ヘンなこと始めたらその杖へし折るよ」
あたしたちは静ひつな廊下を渡り、一階にある第一美術室に足を踏み入れた。朝倉は杖を机の上に投げ出し、椅子に座った。
「どうして報告しに来てくれなかったんだよ?」
あたしが向かいの机に腰かけるや出し抜けに問う。
「病院で言ったろ。藤堂とのバトル結果を報告しに来てくれって」
そうだっけ?
「おかげで記事が手つかずだ」
「色々あってね、無理だったのよ。テストも間近だったし。だいたい、そんな醜悪じみた記事なんかに手貸すわけないでしょ」
「失礼だな。立派な真実じゃないか」
朝倉はズボンのポケットから、コエダメに隠してあったものと同じ形体の録音機を取り出し、誇らしく掲げてみせた。
「こいつは音しか拾えない。君の目で何を見たのか、そいつを知りたかったんだ」
「先生たちに盗聴した内容を聞かせたみたいだけど、一体どういうこと? あの時確かに、藤堂は壁の穴からそれを取り出したのに……」
「二つ入ってた」
あ……なるほど。
「こいつの能力を最大まで活かす環境として、コエダメの右に出るものはない」
録音機に頬ずりする朝倉。
「環境が荒めば心も荒む。生徒や教師は、コエダメでは半ば理性を失い、心の内を明かした。藤堂をコエダメに呼び出せと助言したのも、あの廊下にそれだけの力があったからさ。だから後輩には、僕が入院してる間もコエダメにだけはこいつを仕掛けておくよう強く言い聞かせてた。だが、本当に重要なのはそんなことじゃない」
朝倉は心躍らせるように息を弾ませた。
「毎日のように町内中をまわってバカ騒ぎし、校内の裏事情にも図抜けて詳しい不良たちは、僕にとってネタの宝庫だった。彼らが三人も集まれば、耳寄りな情報を盗み出すのに十分だった。会話内容をまとめて本にして、金儲けできるくらい濃厚だろうね。そうでなけりゃ、僕が藤堂と夏目の関係を知ることなんてなかっただろうよ」
「気にはなってたんだけど、まさかあの二人って……?」
「ご想像どおりさ」
歯茎が見えるほどニンマリ微笑む。
「誰もが羨むお似合いのカップル。かなり異質な雰囲気をかもしてたけど、あの二人が特別な絆で結ばれていたのは確かだよ。夏目の一途な愛が、藤堂のプライドに火をつけさせたんだろうな。そんな二人が、選挙に関する秘密の計画を打ち明け、協力してくれと頼み込んできた。僕がどういう人間なのか、気付くのにかなりの時間を要したみたいだけど」
「じゃあ、あんた初めから……」
「そうさ。あいつらを裏切って、計画のことを全部記事にするつもりだった」
絶句した。
記事のためにここまで悪に染まれる奴がいるなんて……学校中の不良たちを束にしたってこれ程ねじけやしないわよ。こういう奴に限って出世すんのよね。
「そんな顔するなよ。君がいなけりゃ、あの二人の不正を決定的なものに出来なかった。瀬名くんも泣き寝入りするしかなかっただろう。こう見えて、柴田さんには感謝してるんだ」
「あんたの片棒をかつぐつもりじゃなかった」
後悔の念に押し潰されそうだった。
「あたしはただ、瀬名くんを助けたかっただけだもん。藤堂がやってきたことは確かに間違ってるけど、あんたがこれ以上あの二人を追い詰める理由なんかどこにもないじゃない。そっとしといてあげなよ」
「ん~……君がそこまで言うなら……」
朝倉の大きな目玉がギョロンとあたしを見上げた。舐めるような視線だった。あたしは思わず目を逸らした。
「交換条件だ。君のことを記事に書かせてくれ。そしたら、藤堂と夏目のことにはこんりんざい関らない。どう?」
「やだ」
即答した……にも関わらず、ほくそ笑んでやがる。
「いいじゃないか。君が承諾すれば、あの二人の悪事が大っぴらになることはないんだぜ? 悪いようには書かないからさ」
逃げられない。あの美奈子でさえ手こずったんだ。
この執念。がめつさ……抵抗するだけ時間の浪費ね。
「……好きにすれば」
あたしは不承不承言った。
「決まり!」
朝倉はギブスに覆われた足を思い切り振り上げた。
「一体あたしの何を記事に……」
寒気がした。
薄暗い廊下からこっちを窺う強い視線と気配を感じた。反射的にドアの向こう側へ視線を走らせる。何者かの影が半分開いたままのドアの後ろでうごめき、遠ざかっていく足音が聞こえた。
「誰かいた! 聞かれてた!」
気付くと立ち上がってた。
「顔見た?」
朝倉はバカみたいに冷静だった。
「見えなかった。でも、男子だった気がする」
「別にいいじゃないか。僕だっていつも聞いてる」
録音機を耳元でユラユラさせながら、朝倉は誇らしげに言った。
もううんざりだった。
「あんたといるとロクなことない……さいなら」
「学校新聞の配布は第二水曜日だぜ!」
教室を出ると、朝倉の声が追いかけてきた。
第二水曜日はすぐにやってきた。朝倉がどんな記事を書くのか、あたしはまだ知らなかった。
朝のHR。柏木が学校新聞『春夏秋冬』を配り始める。
新聞は『藤堂渉 生徒会長を辞退』の大見出しで始まり、『瀬名雄吾 繰り上がり当選……しかし拒否』の記事で終わっていた。結局、瀬名くんは生徒会長の座を蹴ったのだ。理由は「最初からフェアじゃなかった。いらない。けどコエダメの改善案は提出するよ」だそうだ。
隅の方を見てみると、どこか覚えのあるセリフが綴られていた。
『生徒会なんてやりたくない!』
血の気が引いた。両肩に変な力がこもって、二の腕のたるみがプルプルした。吸い寄せられるように、眼球がその文面をなぞり始めた。
こう書かれている。
『今ホットな話題をピックアップだ。先日行われた生徒会役員・放送演説会において、湿った緊張感の中、こんな言葉を残した生徒がいる。「あたしは生徒会なんてやりたくない!」。学校創立以来の珍事だ。しかし、「だったら立候補すんなよ」なんてツッコミは御法度である。なぜなら、今このセリフが密かなブームを巻き起こしているからだ』
『生徒はみな、退屈で嫌いな授業が始まると口を揃えて「授業なんてやりたくない!」と悲鳴を上げる。はたまた、掃除当番がやたら面倒な時、「掃除なんてやりたくない!」と集団でのボイコットが始まる』
『土壇場でこんな自己主張をやってみせたのは、二年五組の柴田華世である。その気迫に根負けして、ついうっかり、やる気のない彼女に票を入れてしまった者もいるだろう』
『我々は、もっと強く自己主張すべきである。胸の内に留めておくだけの意思に価値はない。見出したいのなら、言葉に変換し、実行しなければならない。ただし、ここでは嘘も強がりも遠慮願いたい。主張とは知ったかぶりによる嘘つき大会ではない。浅知恵を鼻に掛けた物知り顔は引っぺがされるのがオチだ』
『主張とは鎧である。身に着けることで自己は確立され、活路が築かれる。しかし、筋の通らないそれはただのわがままであり、自身を評価する点では意味を成さない。前述のボイコットなどその良い例である。見苦しい自己満足で徒党を組みたいなら、外へ繰り出して世界平和のために叫び散らしてくればいい』
『孤高の中、独りで戦える者はより強い。再び称賛しよう。勇気を示した柴田華世に。生徒会へ立候補した生徒一人ひとりに』
『さて、今年の学校祭、あなたなら何を主張する?』




