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新・TIKARA  作者: 南の二等星
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第十一話 自分を演じて何が悪いの?


 藤堂渉がいる。夏目真紀がいる。あたしがいる。

 ここまでは大丈夫。

 あたしたちは見つめ合う。腹を探るような視線の投げかけを怠らない。雨音が鼓膜に触れ、廊下に染みついたタバコの悪臭が目に染みる。

 まだ大丈夫。大丈夫。

 藤堂と夏目さんが並んでる。知り合い? 分からない。

 夏目さんの微かな笑み。冷笑? 嘲笑? 分からない。

 朝倉仁との関係は? 秘密の計画って? 分からない。


「お久しぶりです、夏目さん」


 あたしは冷静だった。脈拍も瞬きの回数も正常。物事がいつもより鮮やかに見えた。納得のいく事実とそうでないものとに明瞭なコントラストが帯びて、次第に頭が冴えていく。IQ120な気分だった。

 それでもやっぱり、分からないものは分からない。


「まさか、こういう形で再会することになるなんてね」


 夏目さんは腕を組み、スカートから伸びる長い両脚を肩幅に開いて、あたしを見つめる。熱い眼差し、瞳孔にたぎる自尊心。ずっと見てると尻込みしそう。


「経緯を教えてくれる? 何があなたを駆り立てたの?」


 あたしは負けじと胸を張った。


「昨日、入院中の朝倉から話を聞きました。あいつは漠然とほのめかすばかりだったけど、このアクションでクラスメートを一人救うことになると教えてくれたんです」


 朝倉の言うクラスメート……瀬名くんで間違いない。


「あいつは真相を喋ったわけじゃないさ」


 藤堂が夏目さんに囁く。


「どっちも放っておいて支障はない。何者かの報復を視野に入れるなら尚更だ。あいつはビビって記事を書くどころじゃないんだから」


「骨の一本で懲りるタマじゃない」


 夏目さんの声色が一気に険しくなった。


「柴田さん、朝倉と直に会ったのよね? あいつの様子どうだった?」


「……笑ってました」


「ほらね」


 肩をすくめて笑いかける夏目さん。ずいぶん仲良しね、この二人。


「どのみち関係ない。柴田さんにここまでやらせた以上、朝倉はいずれリークする。身の安全を顧みて逃げ腰になるような奴じゃないって、分かり切ってたでしょ、そんなこと」


「じゃあどうすんだよ」


 軟弱な声色で指示を仰ぐ藤堂。夏目さんの鋭利な視線が眉間に突き刺さって、あたしは身じろぎ一つ出来なくなった。


「教えてあげる。何もかも。知れば、この子は動く。あたしたちのために。瀬名くんのために」


 怒りをはらんで手のひらから滲み出る汗を、あたしは拳を握ることで押しとどめた。何でも見越したような物言いの夏目さんが気に食わなかった。その横で見苦しい疲弊面を浮かべる藤堂が気に食わなかった。

 あたしの知らないものを共有して結託する二人のやり口が気に食わなかった。


「藤堂……ソレ」


 夏目さんはアゴで壁の辺りを指す。藤堂が壁の穴に手を突っ込んで、何やら取り出した。銀色のケータイ……じゃない。もう一回り小さい。


「ボイスレコーダー。朝倉は〝僕の意志〟とかほざいてたけど、ただの盗聴器よ」


 受け取ると、夏目さんは側面のスイッチを押し、満悦そうに胸ポケットへしまいこんだ。


「あいつはこれを幾つも使って情報をかき集め、記事を書いていた。隠し場所の一つがコエダメの壁の中だった。スイッチを入れたのは朝倉の後輩あたりでしょうね」


「じゃあ、ここで決着をつけさせようとしたのは、このやり取りを盗聴して記事にするため……?」


「それが朝倉のやり方だ」


 藤堂がおぼつかなげに歩み出た。


「僕らは加減を知らない朝倉の行動力に惚れ込んでいた。あいつを利用することで、僕らは僕らの計画を遂行しようと試みた」


「……生徒会役員選挙」


 確信があった。

 夏目さんの顔に不敵の笑みが浮かぶ。


「藤堂を生徒会長へ任命させること……それが私たちの目的。一つでも多くの票を得るには、藤堂の〝日頃の行い〟を周知させる必要があった。学校新聞というメディアを使って藤堂の名を広めるため、私たちは朝倉と森下を利用した」


 森下……カッパ? 何で?


「生徒会長に最もふさわしい人物が僕であることを広める一番のやり方は、僕に関する善良な記事を朝倉に書かせることだった。だがあいつは、真実しか報道しないプライドの高い奴。そこで僕らは、その真実をでっち上げることにした。森下に女の子を口説かせ、通りかかった僕が叱責する……ぬるい茶番を、誰もが信じていった。助けられた女子は僕の名を知り、やがて噂は広まり、朝倉も僕に注目するようになった。思惑通り、僕の株は右肩上がり。そうして、その時初めて、僕らは朝倉にこの計画のことを打ち明けた」


「学校中を騙してたってこと?」


「悪く言えばそんなところだ」


 あっけらかんと言うな。


「朝倉は頑固で扱いづらい奴だったが、記事のネタをちらつかせれば手なずけるのは容易だった」


「藤堂が選挙で勝つには……」


 語り手がテンポ良く代わる。


「自身の名を広め、同時に、最大のライバルを蹴落とすことにあった。昨年、獲得票が藤堂と僅差だった一人の男子生徒を、私たちは今回の要注意人物の一人として数えた。……瀬名雄吾のスキャンダルが、私たちにはどうしても必要だった」


「僕は瀬名くんの兄が、大麻所持で逮捕されたことを知っていた。そのネタで朝倉を釣り、僕と森下でもう一芝居打とうと画策した」


 藤堂の表情が辛辣に曇る。


「ある日の放課後、僕は瀬名くんを会議室へ呼び出した。直後に森下が現れ、仕掛けられたカメラの前で瀬名大吾のことを暴露させるはずだった。だが……」


「鬼山に邪魔されたんでしょ?」


 ざまあないわ。


「鬼山勝二……会議室の前で待機していた僕にいきなり喰って掛ってきやがった。どこで嗅ぎつけたのか知らないが、会議室での計画を全部知ってるらしかった。僕は森下へ計画失敗のメールを送り、その場から逃げ出した」


「ダサ……」


 言っとくけど、これはあたしの言葉じゃない。

 見ると、夏目さんが冷めた眼差しで藤堂を見据えてた。


「あいつに胸倉掴まれて『前歯折るぞ』なんて言われたら逃げるしかないだろ」


「生徒会長を志す男が言い訳? しゃんとしなさい、藤堂渉」


 夏目さんの風格たるや、藤堂がやんちゃ坊主に見えるほどだった。不平言いたげな藤堂の睨みなんか通用しない。東京タワーに石をぶつけるようなもの。


「敗因は鬼山だけじゃなかった」


 こっちに視線を逃がしながら、藤堂がうつろな声を響かせる。


「僕としたことが、翌日に健康診断が控えていたことを忘れていた。そのせいで君たちがその場に居合わせてしまった。首尾よくいけば、瀬名くんは森下の挑発に乗って瀬名大吾のことを話し、カメラがその一部始終を捉えるはずだった。そうすれば朝倉に記事を書かせることが出来たんだ。だが泣きっ面に蜂……しまいには、朝倉が回収するはずだったカメラが柏木の手に渡った。無論、誰もがそのカメラを、健康診断を盗撮するものだと信じて疑わなかった。そのことが更に事態を悪くさせた」


 雨のノイズが激しさを増す。声がすぼまる。


「カメラを仕掛けたのが朝倉だと知れるのはマズかった。あいつが口を割れば計画が明るみになる……だが、誰も朝倉を疑わなかった。ただ一人、神崎美奈子を除いて」


 視線を上げると二つの顔が見えてきた。ぼんやりと漂って、灰色にくすんでいる。あたしはそれを睨み上げる。怒りを剥き出しにして。


「美奈子は正しいことをしたのよ。あなた方は美奈子の心に傷を残した。癒えない傷を……」


「反省してる」


 コエダメに沈んでいく藤堂の声。


「先週話したとおりだ。彼女にはひどいことをした。心からそう思ってる」


 謝意のこもった眼差し。それは夏目さんも同じだった。


「悪かったわ。同じ女としては、本当に許しがたい行為だものね。でも、あれは朝倉が勝手にしでかしたこと。誰の命令でもない」


 あたしを見つめる瞳に偽りはなさそうだった。


「僕たちが朝倉と縁を切ろうと決めたのは、そんなことが起こったからだ」


 藤堂が続いた。


「朝倉の独断による暴走は、僕らを戦慄させるには十分すぎるほど残忍だった。そんな奴が、いつ僕らの秘密を吹聴しだすか分からない。危険な人物だと、気付くのにかなりの時間がかかってしまった。朝倉を遠巻きにする手段を思案していた矢先……あいつは階段から落ちて入院した」


「存在が邪魔になったから突き落としたってわけ?」


 あたしは悠然と腕を組んだ。

 藤堂と夏目さんが当惑気味に目配せした。


「ずいぶんね。あなた刑事ドラマの見過ぎじゃない?」


 夏目さんはせせら笑ったが、藤堂は違った。プライドを汚された男の表情、まさにそれだった。


「でも朝倉は、誰かに背中を押されたって……背後に人の気配を感じたって、そう言ってた。あなた方じゃないとしたら、一体誰?」


「さあね。朝倉を恨んでた人ならたくさんいるでしょう。あいつが今まで、いくつの犠牲の上でその栄誉を掴んできたと思う? 柴田さんや神崎さんだってその内の一人でしょ。違う?」


 そうだけど……それを声に出して認めるのは癪だった。あいつの悪行に屈して負けを認めてしまうような気がしたから。


「何であたしだったの?」


 答える代わりに尋ねる。二人が訝しげに見つめ返す。


「夏目さんが書記の生徒会に誘ったのが、どうしてあたしだったのかなって……」


「誰でも良かったのよ」


 冷淡な響きがあった。


「正確には、瀬名くんと同じクラスなら誰でも、って意味だけど。柴田さんと出会ったあの日、私は落ちた答案用紙を見て、あなたが二年五組だと知った……絶対のチャンスだと思った。瀬名くんと同じ役員を目指す同志を作らせることで、彼との距離を縮めてほしかった」


「……どうして?」


「あなたをパイプ役にして、瀬名くんの動きを把握しておきたかったからよ。でも、この計画は大失敗だったわね。私たちが予想した以上に、あなたは瀬名くんと親密になってしまった……早々に伝えるべきだった計画の全容も知らないまま」


「どんな仲だろうと、あたしはそんなスパイじみたことしません」


「でしょうね。今の柴田さんを見れば、自分の考えがどれだけ浅はかだったか分かるわ。けど、私たちには違う幸運が巡って来た。あなたが書記になったことで、私は選挙管理委員の特権を活かし、あなたを投票開示における書記役として推薦することができた」


「どういうこと?」


「君のクラスから名乗りを上げた選挙管理委員が誰だったか、覚えてるだろ?」


 ……五十嵐。


「五十嵐の過去も、鬼山との関係も、すべて調査済みだった。何の実績もない、不良の道でも半端者の五十嵐が選挙管理委員をやるなんて、まったくおかしな話だ。だとすると、鬼山が彼に委員をやるよう命令したとしか考えられない。理由は一つ、瀬名くんを選挙で勝たせるためだ」


 そんな自信満々に言われても、意味不明すぎてコメントできない。


「普通ならこうは考えまい。あの鬼山が瀬名くんを助けるいわれはないし、裏で鬼山が絡んでくるとなると、どうしてもマイナスのイメージばかりよぎってしまいがちだ。しかし、鬼山が瀬名くんの落選を企てていたのなら、なぜ会議室で僕たちの計画を邪魔する必要があったんだ? 鬼山が初めから僕らの計画を知っていたとすれば、あながちこの予想も間違いではなさそうだろ」


「話が飛躍してる。だいたい、鬼山が瀬名くんの当選を望んで何になるの? 五十嵐に管理委員をやらせてまで? バカみたい」


「瀬名くんが生徒会長の座を求める理由はただ一つ……コエダメの浄化だ」


 藤堂は力なく両手を広げ、まさにここだとばかりアピールした。


「試案は教職員へ提出済みらしい。不良どもの根絶はコエダメの浄化以外に考えつかないとも漏らしている。校内の治安の悪さを鑑みれば妥当な見解だろう。彼の当選は学校に大きな変化をもたらすかもしれない」


「つまり、鬼山は瀬名くんを勝たせることでコエダメの浄化を望んでるってこと? どうして?」


「これさ」


 藤堂が肩越しに振り向いて、荒々しく指差した先……『あかずの間』のドア窓の、暗幕に映るあたし自身が、物言わずこっちを見据えていた。


「この春、噂が一人歩きした。暗幕の陰から視線を感じたとか、窓から明かりが漏れていたとか……」


「それが鬼山だったってわけ?」


「辻褄が合う。あいつは『あかずの間』に入る必要があった。故に、たむろする不良どもの存在が邪魔になった。入る姿を見られるのが好ましくなかったからだ。あいつは考えた。五十嵐を使い、瀬名くんを勝たせることは、『あかずの間』における自らの目論見を躍進させる大きな一歩へ繋がる、と」


 破廉恥な名探偵気取りで根拠ナシの憶測をこじつけないでほしいわね。


「鍵は職員室に保管されてる。生徒が簡単に出入り出来るような場所じゃない」


「鍵はない」


「は?」


「教員に確認してもらった。長い間使われなかった鍵だ……失くなっていることに誰も気付かなかった」


「……誰かが持ち去ったってこと?」


「鬼山だったら?」


 だったら? じゃねえよ、弱虫野郎。

 この男は、鬼山を悪者に仕立てて手っ取り早く辻褄を合わせておきたいだけ。逃げ腰の傍観者かぶれ……こういう奴に限って、適度な距離の安全圏から先入観だけで他人の人生を潰しにかかる。窃盗、暴行、殺人、みんな一緒くたに道端へ投げ打って、ヤンキーが躓けばそいつが犯人だ。理由? それっぽいから。


「あいつが中で何をやってるのか知ってるの?」


「そこまでは把握できないし、今さら関係ない。確かなことは、鬼山が僕らの敵だってことさ。そんな奴が瀬名くんの後ろ盾となったのでは僕の身も危うい。そこで、柴田さんを投票開示の書記として推薦した。これが何を意味するのか、君はもう分かってるはずだ」


「五十嵐の不正を阻止するため、でしょ?」


 あたしは即答する。


「でもズルくない? あなたたち自身のことは棚に上げて、五十嵐の不正は許せないだなんて」


「彼が不正するとは限らない。言わば、君は保険みたいなものだ。もしもの時のね」


 答えになってない。


「どうしてここまでするの? 学校中を騙して、人を道具みたいに扱って、どうしてそこまでして生徒会長になりたいの? あなた方にとっての生徒会長って何?」


「愚問だ」


 ここにきて最も生き生きと声を張る藤堂。微笑。心の深奥からおぼろに浮かび上がる、薄い皮膜のような笑み。


「生徒会長の座こそ、僕に最も相応しく、最も高貴な名誉じゃないか。クラスではみんなの人気者で、学校では悪党を退治する英雄だ。成績優秀。皆勤。弓道部では部長を務め、後輩や教師からの人望も厚い。重厚、穏和な性格は、弱い者には味方し、強い者には勇ましい。そんな僕が行きつくべき高みがどこか、言うまでもないだろう」


「…………」


 なんつう胸糞悪い顔してんのよ。

 やっぱヤバいわ、この人。ナルシシズムの極致とその末路。これ以上ないほど登り詰めちゃってる。満悦そうなツラ。高笑いしたいのを押し殺すように、口の端をヒクヒクさせてる。


「何を言っても今のあなたじゃ信憑性に欠けるわね。どこまで本気なのか、あたしには分からない」


「鈍いわね」


「……何が?」


 つい口調が荒ぶる。その一言があたしをイラつかせるのは、美奈子の悪態があたしの思い出をふるいにかけて、数少ない幸福を排除させるからだ。

 気付くと夏目さんを睨んでた。そして睨み返されてた。


「あなただって、ずっと自分を演じていたじゃない」


 その場に突っ立ったまま、核心へ迫る気配に耳を澄ますしかなかった。


「時間には後悔と不安がある。私たちは抗うことも出来ず、避けようのない現実と平行しながら自分自身と対峙しなければならない。その内、無力な自分に気付く。生まれ得なかった境遇に気付く。ないものねだりが板に付いて、他人ばかり憎む卑しい自分に気付く」


「私たちは、私たちに足りないものを補おうとした。自分を本質以上に強く見せることで、もう一つの自分を演じ続けた。故に誰かが泣いた……傷つけて、傷つけて、それでも私たちは役者で在り続けようとした。藤堂が……渉が生徒会長に選ばれるなら、私は悪役になったって構わない。誰にだって、あなたにだって、決断しなければならない時が来る。選択を重ねて、私たちは安息へ向かうプロセスを踏み越えていく。自分を演じることでしか見えないものがあるとしたら、柴田さん……その時、あなたなら何を選択できる?」


『幽霊を信じるか?』


 もしあの時、柏木があたしを指差してそれを問うていたら、あたしは何て答えただろう? 幽霊を信じるか否かの〝選択〟……あたしはそこに何を見出しただろう?

 あたしは美奈子を信じた。目に見えない友情がその証明だとしたら、あたしは柏木の問いにイエスと答えたはずだ。美奈子がいなかったら……あたしは何も選択できなかった。何事にも知らん顔で、他人事で、目に見えるものだけを真に受けながら、ポンコツ思考停止女子の代表として青春を棒に振っただろう。

 柏木の哲学に則るなら、この二人は紛れもなく幽霊だ。霧を透かし見るように浮かび上がりながらも、理解を超えた信念をぴったりまとってる。それが人の姿に縁取られ、何か訴えるような視線を放つと、さながらデートに勤しむ地縛霊のカップルだった。


「僕が僕以上の存在であるには、こうするしかなかった」


 開き直ったような口調で藤堂は言う。


「自分のため、受験のため、将来のため。そして夏目のためなら、僕は手段を選ばない。プライドの許す限りどこまでも這いつくばってやる……話はここまでだ」


 二人の視線はあたしの背後に据えられていた。

 振り向くと瀬名くんが立っていた。


「おはよう、藤堂くん」


 床から湧いて出たみたいだった。藤堂に負けず劣らず、瀬名くんの顔も蒼白い。血が暗紫色に染まって、毛細血管の隅々にまで行き渡っているように見えた。


「おはよう、瀬名くん……調子はどう?」


「問題ないよ。全て順調だ」


 藤堂のハツラツとした声、瀬名くんの満悦な笑み。どっちも無機質で、嘘くさい。


「藤堂くんこそ、何かやり残したことはない? 今までの努力が無駄にならなきゃいいけど」


 藤堂の顔から感情の一切が掻き消えて、凹凸のないのっぺらな表情がまるでカカシの顔の落書きのようだった。

 怒りか、困惑か。それが意味するものを、あたしは推量できない。


「お互い様だろ? 僕も、瀬名くんも、ここまできたら精一杯やるだけさ……後腐れなくね」


「そうなればいいけど」


「……そんな物言いはよせ」


「これが僕だ。君に対する僕のすべてだ」


「……何言ってる?」


「すぐに分かるさ」


 両者に挟まれて、あたしは廊下にこびりつくタバコの悪臭も同然だった。あたしは何食わぬ顔で佇立しながら、彼らの鼻がバカになっていく過程をただ静観していた。

 夏目さんが笑いかけた。


「いい選挙になるといいわね、瀬名くん」


 言って、藤堂の肩にそっと手を触れると、それが何かの合図だったかのように身を翻し、この場から去っていった。

 二人は動かなかった。束の間、呪い合うような睨みをぶつけていたが、不意に回れ右をし、互いに背を向けたまま去っていった。あたしは一人取り残されて、意味もなくその場に突っ立っていた。濡れた窓の向こうに透けた自分の姿が見えた。



 翌日も雨だった。雨足は昨日より幾分落ち着いて、けれどひどく蒸し暑かった。

 昨夜は寝付けなかった。藤堂と夏目さんのこと、瀬名くんのこと、鬼山と五十嵐のこと、放送演説会……おおよそ尽きることのない懸念の数々は天然カフェイン入りでスペシャルブレンドされた挙句、ラテアートまがいの抽象イメージと化して脳を刺激し続けた。寝不足ではあったけど、お陰で目は冴えていた。


 午後の授業に演説会を控えた昼休み。あたしはいつものように美奈子とお弁当を食べていた。いや、食べていた、って表現は贅沢かもしれない。箱詰めの固形物を舌の上に乗せる作業……うん、この方がしっくりくる。咀嚼して、食道へ放り込む。咀嚼して、食道へ放り込む。繰り返しを繰り返す作業。

 味わいもせず、会話もせず、気付くと箸の動きは止まってる。あたしはハッとして、ハンバーグ弁当を頬張る美奈子の顔を覗いては、ホッとする。いつもと何ら変わらない美奈子の体裁は、あたしをこっち側へ引き戻すリアルだった。いつも通りの美奈子がいる、だからいつも通りのあたしでいられる。シンプル・イズ・ベスト。シンプル・イズ・あたし。故に、あたし・イズ・あたし、ってわけ。


「今ヘンなこと考えてたでしょ?」


 見抜かれて、誤魔化すようにまた作業へ戻る。繰り返しを繰り返す作業を繰り返す。


「考察してたのよ……地球の未来について」


「やめて。人類が滅んじゃう」


「地球の未来に学校の行く末を掛け合わせて、ダイナミックな演説を夢想中だったのに……」


「それ本当?」


 あたしは肩をすくめた。


「冗談よ。もうやめたの、そうやって背伸びすんの」


「ふーん。色々努力してるんだね、華世も」


「……ねえ、やっぱあたし、ヘン?」


 野暮な質問だったみたい。美奈子は運びかけのハンバーグを食べ損ねて、口半開きのまま何とも形容しがたい表情になった。


「顔が、ってこと?」


「……顔以外に」


「大体ヘンよ。やっと気付いたの?」


「もっと具体的に」


「ドM?」


「いいから」


「華世みたいなのが〝普通〟だったら、普通の女の子が可哀想よ。私とか」


「…………」


「つまりね、誰かと比較して初めて、華世はヘンに見えるのよ。物事ってそんなもんでしょ」


「じゃあ、午後の演説会であたしが何を喋っても、それを受け止めてくれる? 誰とも比較しないで、ありのままのあたしを受け止めてくれる?」


「いつもそうしてたじゃん」


 当然でしょ、って顔。頬を赤く染めて、ハンバーグの残りを頬張ってる。

 ありがと、美奈子。お陰で踏ん切りがついたわ。



「スピーチはうまく書けた?」


 あたしは瀬名くんと並んで放送室へ向かいながら尋ねる。緊張からか、足には廊下を踏みしめる感覚がない。数センチ浮かんでる気分だった。


「書けたよ……バッチリね」


 一日で三歳は老け込んでいく瀬名くん。頬がこけて、血相も悪い。


「来週は中間テストだし、勉強にも注力しなきゃいけなかったから、なんだかとても疲れたよ」


 笑ったつもりらしいが、瞳は輝きを失ったままだった。そのせいで、取ってつけたような笑顔になった。



 放送室に入るのは初めてだった。

 狭い空間に人が密集しているため、中は少し暑かった。壁際に並べられたパイプ椅子に十人弱の候補者が座っている。どれも緊張した面持ちで、蛍光灯を仰いだり、スピーチの原稿に目を通したり、機材から伸びるコードの一本一本がどこに繋がっているのかを目で追跡したりしている。


「お名前は? 何年何組?」


 右のこめかみ辺りから声が聞こえてきた。あたしの背丈ほどしかないふくよかな女の先生が、すぐそばに立ってこっちを見ていた。


「二年五組の瀬名雄吾です」


 瀬名くんが歯切れ良く答えた。その瞳にはわずかだが、いつもの熱い輝きが戻っていた。


「同じクラスの、柴田華世です」


 気を抜くと歯がぜんぶ震えだしそうだった。先生は名簿らしきものを手元に広げ、赤ペンでチェックを入れた。


「はい。じゃあ、座って待っててくれる? 瀬名くんはあそこ、柴田さんはこっちね」


 優しい、澄んだ声。動作の一つひとつが柔らかくて、清純を帯びてる。名簿をめくる時、指定の椅子を赤ペンで指す時……こんなに緊張してなければ義務的な動作にしか映らなかったはず。白くて小さな指先がいかにも愛らしく見えるのは、あたし自身がこの緊張から脱するための手段と可能性を欲していたからだ。

 指示された席へ向かう際、先生がそっと背中を押してくれたのはありがたかった。緊張の断片がスーッと腰から抜けて、それはもう、あたしのものじゃなくなっていた。


 席に着くと、その位置から大体の候補者を観察することができた。生徒会長候補の先頭には藤堂渉が座っている。脚を組み、腕を組む、そして脚を組み替える。鼻につくふてぶてしい風貌もさることながら、その横顔には確信めいた勝利の含み笑いがちらついていた。すぐ背後に瀬名くんが座っている。衰弱しながらも、雄々しい顔つきは崩れない。

 藤堂が目論んだ悪行の数々に、瀬名くんは気付いているんだろうか? それを承知の上で真っ向勝負に挑もうと? コエダメでのやり取りにはそう思わせる節があり、同時に、瀬名くんの言動からは挑発にも似た〝余裕〟が感じ取れた。あの見るも無残な疲弊色の元凶はその反動かもしれない。


「時間です」


 自分の腕時計と放送室の掛け時計とを見比べながら先生が言った。淀んだ空気がより張り詰めた。


「生徒会長候補の生徒から演説を始めます。呼ばれた生徒はこちらのマイクを使って演説して下さい。機材のランプが赤く点灯している間は放送中です。私語や物音は控えて下さい。その他の注意事項は……」


 顔が火照り、頭がボーっとしてきた。ただでさえ拙いあたしの脳みそから理解力が損なわれていく。説明を反芻すればするほど、言葉の羅列は次第に形を失って、意識の外側へとこぼれていった。

 あたしは緊張していた。たぶん、生きてきた中で一番緊張していたと思う。手の中で原稿用紙がふやけて、しけった味のりみたいになっても構わず、あたしはそれにしがみついていた。手を離すと椅子ごとひっくり返りそうだった。

 美奈子の顔が浮かんだ。今のあたしを見て、散々笑ってほしかった。笑われて、楽になりたかった。美奈子が笑えば心のタガが外れて、いつものあたしを取り戻せる気がした。気付くと、マイクの立てかけられたデスクへ向かう藤堂渉を目で追っている。あたしは目いっぱい息を吸い込み、吐き出した。

 藤堂が席に着き、手元のスイッチに手を触れた。ランプが赤く点灯する。

 詰まる所、藤堂の演説は〝普通〟だった。まさにマイクを駆使した派手な独り言。良くも悪くもない。これといったクライマックスもない。平坦な道をごろごろ転がって、お望み通り、後腐れなく去っていった。満足げな表情……周知された名声が最高の味方でいてくれる限り、あのナルシストから笑みは潰えまい。


「瀬名雄吾くん、お願いします」


 先生が遂にその名を呼んだ。悠然と立ち上がる瀬名くん。藤堂にその貫禄を見せつけるように、ゆっくりと前進していく。鬼山とは似て非なる背中……孤高とプライドを刻んだ雄々しくも勇ましい背中に闘志の炎が宿る瞬間を、あたしはこの目で見た。

 瀬名くんが原稿用紙を広げ、マイクのスイッチを入れた。


「全校の皆さん、初めまして。次期生徒会長に立候補した、二年五組の瀬名雄吾です」


 廊下に反響する声。深呼吸二つ分の間を置くと、瀬名くんは続けた。


「僕が生徒会長を望む理由は一つ。指導、指揮していく場に立ち、意識と規則の変革を促すためです。由緒ある校訓に傷をつけようというのではありません。軸としてきた校則よりも更に根幹となる指針があるとすれば、それは生徒を取り巻く環境と意識そのものです。法律や校則なんてものは、みな人の下で創られ、人の上に成り立つ、不透明で頼りないものに過ぎなかった」


「生徒手帳に記されている校則を一から十まで読んだことのある方はいますか? 僕はありません。今後もないでしょう。意識しなくてもルールは成り立つからです。携帯電話の持ち込み、制服の乱れ、居眠り、アルバイト、パーマ、脱色……赤信号を無視して渡るように、僕たちは影で、ごく当たり前のようにルールを犯している。校則の意義なんて無いに等しいのです。注意してくれる大人がいれば済むことですから。しかし、規則がなければ人は堕落し、本当の自由を見失ってしまう。僕たちは規則に則った上で変わらなければならない」


「皆さんは、三階にある〝ふしだらな生徒〟が集まる廊下を御存知でしょうか? そこでは毎日がお祭り騒ぎ。タバコを吸い、酒を飲み、喧嘩をし、通ろうとする生徒にはツバを吐きかける、まさに無法地帯と呼称すべき空間です。知る人は恐れ、近づくことさえ出来ない。僕はそれが許せません。ルールを冒涜する者が我が物顔でいて、自己を満足させるために好き勝手しているのです。何故こんなことが起こるのか、その理由は知れませんし、人間の深層心理を考察するのは僕たちのすべきことではありません。一つ確かなことは、歪曲された個人の思想が廊下にはびこる〝ふしだらな生徒〟の心に根差していることでしょう。環境によって人は変わり、人がルールを曖昧にしていく」


「生徒会長に任命された暁には、この廊下の改善案を真っ先に提出するつもりです。あそこをどうにかしなければ何も始まらない……僕たちにはまだ時間があります。僕たちは変われる。変わることで実感できる手応えがある。ルールは創れるんです。より良い学校生活を共に考えましょう。あなたが考えれば、それが意識変革の初めの一歩となる」


「長くなりましたが、僕のスピーチはこれで終わりです。皆さんの清き一票、よろしくお願いします」


 強張った両肩に丸みが帯びていった。マイクが切れると同時に、瀬名くんの中で張り詰めていた緊張の糸も切れたようだった。席へ戻る足取りがおぼつかない。閉じかけのまぶたはその重さに耐え切れず、瀬名くんを深い眠りの底へいざなうかに見えた。

 瀬名くんのスピーチにはとにかく感服だった。こんな空気じゃなかったら、一人スタンディングオベーションとかこつけて拍手の連打を浴びせ、肩を貸すのにスキップで駆け寄っていたに違いなかった。



 さて……この位置からして予想はしてたけど、大トリはあたしみたいね。一つ前に座ってた男子がマイクスイッチを切り、他の生徒同様、緊張から脱した際の儚い安堵の表情で戻ってくる様子を見ながら……否、見たつもりでいながら、あたしは、あの澄んだ声があたしの名前を呼び上げるその時まで、ただじっと待ち続けた。


「柴田華世さん、お願いします」


 数瞬、顔を上げたまま硬直していた。あたしは、あたし以外の誰かが威勢の良い返事と共に立ち上がるのを待っていた。時間にして二、三秒。この空間に、同姓同名の『柴田華世』がいるかもしれない……取り越し苦労に余念がなかった。緊張が度を越えたせいか、輪を掛けてバカになりつつあった。

 あたしはいさぎよく立ち上がり、椅子と椅子の間を縫って移動していった。左脚で踏ん張って、右脚を前に出す、右脚で踏ん張って、左脚を前に出す……当たり前の動作が複雑怪奇に思えてならなかった。何かの拍子に手足の関節がバラバラに外れて、床にくずおれてしまいそうな気がした。

 実際にそんなことはなくて、あたしはマイクの待つデスクへと辿り着いた。大きなスタンドマイクだった。近くで見ると威厳がある。鎌首をもたげて睨みを利かせる黒々しい蛇のようなボディラインだった。


 いいの?


 あたしは自分に問う。


 いいの? ここに座っても?


 構わない。


 あたしは答える。


 投げやりじゃない。これがあたしだ。そうと決めたら揺るがない、あたしがあたしであるべき答えなんだ。

 呼吸のリズムが乱れる。深呼吸できない。恐怖が緊張を呑み込んで、肺が萎縮していく、勢威が萎縮していく……これもあたし。弱いあたし。全部ひっくるめて、叫んでやる。

 あたしは原稿用紙を……何も書かれていない白紙の原稿用紙を広げた。


「華世らしいね」


 記憶の片隅で、奈津美さんが笑った。


「ありのままでいいじゃん。ぶつけちゃいなよ、素直な気持ち」


「それやったら学校が大パニックだよ」


「いいね、やってみせてよ」


 あたしはマイクのスイッチを押した。


「皆さん、初めまして。生徒会書記に立候補した、二年五組の柴田華世です」


 いきなり冷静だった。頭の中で空気がすっかり入れ替わっていた。

 心音が聞こえる。廊下に反響する声が聞こえる。そして、学校全体がどよめく数秒後の未来が聞こえる。


「綺麗事は抜きにして、どうしても伝えておきたいことを一つだけ、叫ばせていただきます」


 至高の舞台ね。

 お膳立ては整った。


「あたしは! 生徒会なんてやりたくない! 以上!」



 今日から、あたしは元通りだ。


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