第十話 僕らの秘密
聞きかじった噂を繋ぎ合わせて、学校新聞『春夏秋冬』が多くの生徒から好評を得ていたのは確かだった、なんて結論を導き出すのは誰にでも容易なことだけど、一面を彩るゴシップ記事の数々が、朝倉仁という〝邪悪〟な手だれによって生み落された代物だという事実を知る人は数少ない。
朝倉は天才だ。ある書記局員は豪語する。毎朝放り込まれる退屈な朝刊に彼の記事が掲載されるなら、俺は生まれて初めてテレビ欄と四コマ以外に目を通すだろう。
センスじゃない、努力さ。ある上級生は諭す。あいつはいつもネタを探してる。トイレに籠り、ゴミを漁り、コエダメの不良どもから情報を搾取する。
あいつの書くコラムが月に一度の楽しみだった。ある男子生徒は感傷に浸る。『固有名詞付き何でもランキング』、『教師の鼻を明かすコーナー』。読まない奴は人生の9%を損する。
私は去年、三冠だったよ。あるクラスメートは誇る。スカートの丈が短い女子生徒第一位、女子総合・一週間で最も多くフラれた生徒第一位、一年生の部・最も多く遅刻の理由を思いついた生徒第一位。
そんな記事、先生が黙ってるはずないでしょ。あたしの友人は言う。印刷する直前に記事を差し換えて担当の目をあざむいてるのよ。本人から聞いたことあるわ。
多くの生徒が悲嘆する一方、事故を快く思う者もいる。神崎美奈子は、これにて学校の秩序は守られ、少し遅れて天罰が下ったのだと続ける。
「悪は絶対に裁かれるのよ。あいつが私にした悪行を記事にできないのは残念だわ」
美奈子は悔しそうに地団太を踏んだ。
「一ヶ月は入院するだろうって。すぐそこの総合病院。全治三ヶ月」
あたしはかき集めた情報の最後の一滴まで絞り出す。でもそれ以上、美奈子の関心を引くことはなかった。美奈子にとって一番の問題は、あのウサギの中身が鬼山かどうかであって、階段を転げ落ちたのがオタクだろうがおむすびだろうが、そんなことは甚だ問題にはならない。
その後の鬼山の態度はとても歯がゆかいものだった。あいつは態度にこれといった変化を見せず、いつもどおり熟睡し、いつもどおりタバコを吹かして下校した。
美奈子が朝倉に関心を持たないのと同様、鬼山にとっても、あの日の出来事には無関心なのかもしれない。……まあ、あれが鬼山かどうかは分からないけどね。
六月を迎えた。
窓の向こうはぬるくて湿っぽい、空気が肌に重く感じる季節へ変わった。にび色の曇天が空を覆い、気まぐれに雨をまき散らして街を濡らしてる。
生徒会の役員選挙と前期中間テストがほとんど同時にやって来ることもあり、生徒の多くがピリピリしていた。雨により閉塞された空間と、梅雨特有の蒸し暑さが集中力を奪い、襲いかかる焦燥感に拍車をかけ始める。
選挙を来週に控えた金曜最後の授業は、柏木康人の化学だった。詰まる所、最上の安眠作用をもたらすこの授業は、疲れ切ったあたしたちに至福の時間を提供してくれる。
あくびをしようが、うたた寝をしようが、熟睡しようが、はたまた真面目にノートを取ろうが、柏木は取り分け無反応だった。生徒の多くが、テスト勉強で損なわれた睡眠時間をこのタイミングで補うくらいの理性は備えていたし、またそれが、内申はともかく、テストの点数に何ら影響がないことも知識の一つだった。
柏木は相変わらず授業がヘタだった。
「生徒会に立候補する子が何人かいたよね?」
授業が終わりに近づいた頃、柏木が何やら喋り始めた。
「演説の原稿を渡すから、帰る前に職員室へ寄ってくれ。それと……鬼山」
教科書を閉じる柏木。鬼山は応えない。机の下から大きくはみ出した脚も、胸の上で組まれた腕も、垂れ下がった首も、柏木を完全に無視している。
「お前も後で職員室に来い。……おい、鬼山!」
声は空気をわななかせ、眠気で油断するあたしたちの鼓膜を突き抜けていった。鬼山含め、ほとんど全員が顔を上げた。
「私を最高にイラつかせるのはいつも決まってお前だ」
そら始まった。
「私は知ってる。どの授業でも、お前は寝てなんかいなかった。ずっと耳を傾けて授業を聞いてたんだろ?
生ぬるい悪役を演じ続けて、いざとなったらヒーロー気取りか」
「寝てましたよ。あんたの授業だけは」
優越げな表情から一変、憤怒に歪む柏木の面相。でも、口元にだけは醜悪めいた笑みの形が残ってる。
「……後で職員室に来いよ。話がある」
清掃後、職員室にいる柏木を訪ねたのはあたしと瀬名くんだけだった。
「鬼山は?」
当たり散らすような口調。瀬名くんが肩をすくめる。
「三階の廊下ではないでしょうか? 放課後、あの廊下に不良たちがこぞるのはいつものことですし」
「まあいい。あいつがその気ならこっちにだって考えがある……」
この人、自分が教師だってこと忘れてる。間違いない。目がマジだもん。
荒い鼻息のまま手元のミネラルウォーターを口に運ぶ柏木。眼球が充血し、まぶたは赤く腫れぼったい。半ば夢の中だった授業中には気付かなかった。それに……やっぱり香水くさい。
柏木と目が合う。
顔に何かついてるか? 聞かれて、あたしはとっさに視線をそらした。
「いえ。でも目が……」
声に案じ色が含まれるよう心掛けながら、何気なく指摘してみる。
「軽度のものもらいだよ。たまにあるんだ」
またミネラルウォーターを飲む。もう片方の手で原稿用紙を取り出す。
「放送演説会では、放送室のマイク越しに自分の書いてきたスピーチの原稿を読み上げるだけでいい。その後体育館へ移動し、ステージ上で立会演説となる。教室にて全校生徒が投票し、放課後までに開示だ」
あたしたちはまっさらな原稿用紙を受け取った。
「演説成功のキーは、枠にとらわれず、自分の素直でまっすぐな気持ちをぶつけること。大切なのは個性と発想力。これに尽きるね」
「今年の立候補者の傾向はもう出ましたか?」
瀬名くんが尋ねると、柏木は教材の中に紛れていた赤いファイルを引っ張り出し、机に広げて眺めた。
「立候補者のバランスが良いね。生徒会長への候補者は、瀬名くんと藤堂くん、あとは一年生が二人。書記は柴田さんを含めて三人。いずれも二年生。……そうだ」
柏木は忙しない手つきでファイルをめくり、途中にはさまっていた一枚のプリントをあたしに手渡した。『書記・投票開示の流れ』と書かれている。
「是非、柴田さんにやってほしいと、選挙管理委員会から推薦がかかったんだ」
は?
「これってたしか、選挙の投票結果を書記していく係ですよね? それを何であたしが?」
「さあね。私はあそこの直属じゃないし、詳しいことは分からないよ。だが生徒会立候補への影響はないみたいだし、リアルタイムで自分の投票結果が分かるんだから、やって損はないんじゃないか?」
「はい……やってみます」
まあいっか。断る理由ないし。
「伝えておくよ。では、二人とも、幸運を祈る」
「分からないなあ」
教室へ戻る道すがら、瀬名くんが呟いた。
「あたしも。何書いていいのかさっぱり分かんない」
とりあえず用紙をつまんでプラプラさせてみる。
「いや、スピーチのことじゃなくて……先生のことさ」
暗い声。窓を打つ雨も手伝って、その横顔はより一層深刻そうに見える。
「あの鬼山を嫌う理由は分かる。けど、あそこまで露骨だと近い内問題になるよ」
「前に柏木が『幽霊を信じるか?』って話をした時に、鬼山と一悶着あったでしょ? まるでさ、鬼山に秘密を握られてるみたいだった。だから、柏木にとって鬼山は遠巻きにしておきたい相手なのよ。……そして何より!」
あたしは語気を強めた。
「まさかあいつの狸寝入りが見抜かれるとはね。瀬名くんは気付いてた?」
「結構前からね」
瀬名くんは力なく笑う。恐れ入った、って感じ。
「熟睡の場合もあったんだろうけど、大抵の授業は目を覚ましていたんだと思うよ。鬼山は、今後の自分に必要のある授業か否か、それを分別できる能力に長けているみたいだった。テストでトップの成績を取れたのも、それで納得がいく」
「あたしは小学校からあいつの居眠りを見てきたけど、一度だってそんな風に考えたことなかったよ。あいつが成績良いのは、天才だって信じてたからなんだもの」
「彼は天才だよ、紛れもなく。聴覚だけで学年トップの成績を維持してるんだから」
日曜日。
あたしは自室の机に向かい、まだ真っ白なままの原稿用紙を眺めていた。シャーペンをアゴでノックしてみたり、上の空で鼻歌を口ずさんだり、鏡に向かって最高の微笑みを投げかけたりしたものの、原稿用紙から文字が浮かび上がってくる気配はない。
あたしはそれこそ、用紙に水でも撒いて太陽の下に置いとけば文字が勝手に生えてくるだろうと期待してたので、考えてもらちが明かないものを無闇にほじくるのはよそうと腹を決めていた。まっ、曇ってんだけどね。
とにかくそんなことも相まって、鬼山沙希からの電話が〝グッドタイミング〟となったのは確かだった。
「もしかして、出来た? 千羽鶴」
「うん! お姉ちゃんが手伝ってくれたおかげだよ、ありがとう!」
どういたしまして。
千羽鶴が予定よりずっと早く、ずっと低コストで完成したのは、もちろん、美奈子をおだててこき使った故の賜物だ。
「今からお母たんの病院へ行くんだけど、いっちょに来てくれない? 勝兄は出かけてるち、おばちゃんは忙ちいって言うち。……イッチは論外ね」
「いいけど、あたしなんかがお見舞いに付き添っちゃって迷惑にならない?」
「大丈夫! お母たん、お姉ちゃんに会いたがってたもん。お姉ちゃんのこと話ちたらね、会いたいって言ってたよ!」
「そっか! じゃあ、家まで迎えに行くから、待ってて」
あたしは上機嫌で家を出る。原稿作りを遠ざけるためのおいしい口実ができて、心底嬉しかった。
インターホンを鳴らすと、五秒後には小さな足音が聞こえ、更に五秒後にはドアが開いていた。家を出てからここまで一分。
「待ってて。すぐ戻るから」
言い残し、沙希はすぐに踵を返して引っ込んでしまった。あたしは言われるまま玄関で待ち、そこから居間を覗き込んでみた。以前、おばちゃんが衝動買いしてきた大きな壺が、ソファ脇の電話のない電話台の上に飾られている。おばちゃんの好みにタチの悪さを感じたのは、壷の模様が無数の赤子の顔だったから。奴らの頭を撫でると幸福が舞い込むらしい。
結局、あたしはそれから十分も動けずじまいだった。沙希は髪型が思うように決まらないらしく、たまに顔を出しては「ごめんね、もうちょっと」を繰り返す。髪型は姿を見せる度に変化してったけど、最終的には赤いリボンで結んだツインテールに落ち着いた。
「待たてちゃってごめんね。ちゃんと準備ちないと、お母たんに会う時恥ずかちいから」
沙希は水色のボレロに、プリーツのあしらわれた白いスカートをまとっていた。それを恥と言うなら、あたしのロンT・ジーンズ姿は葉っぱ一枚に等しい。
「あっ、勝兄。お帰りなたい」
外に出ると、ちょうど鬼山が帰宅したところだった。身につけた黒のダウンベストと茶のカーゴパンツは、鬼山が昔から好んでいた外出スタイルだ。
どうやら仕事帰りみたいね。
「どこ行くんだ?」
「お母たんのとこ」
何だか親子みたいで、見てると笑みが漏れてくる。
こんな優しい口調の鬼山、学校じゃ絶対に見られない。
「鶴が出来たからね、お姉ちゃんと渡ちに行くの」
鬼山がじろりとあたしを見る。
「勝兄も行くでちょ?」
「俺は寝る」
鬼山は財布をひっくり返し、小銭をあるだけ沙希に手渡した。
「交通費だ。余ったら花でも買いな」
そっか……ずっと忘れてたけど、鬼山はこういう奴だった。不器用な優しさを粗暴な振る舞いで誤魔化そうとする。誤魔化しきれなくて、声の端々が柔らかく響くと、それがあたしの知ってる鬼山だ。そうして、こいつはたまにこんな慈悲めいた顔をする。
「何?」
鬼山がその顔のままあたしを見る。何か言いたげに。
「柴田……何でもない」
言いかけて、鬼山は逃げるように家の中へ引っ込んでしまった。
「沙希ちゃん、真似しちゃダメよ。入れるお湯が足りなくなったカップラーメンみたいだから」
「後味悪いってことでちょ?」
その通り。
「けど、余ったお金で花を買えだなんて、息子らしいとこあるじゃない」
「でも見て……十円玉ばっかり」
あたしたちはバスに乗り、学校近くにある総合病院へやって来た。何の因果か、ここは朝倉が入院している病院だ。
あんな奴に病室とベッドをあてがうなんて贅沢よ……膨れっ面の美奈子が脳裏に浮かぶ。そしてこう続けるだろう。廊下にでも転がしときゃその内元気になるでしょ。
沙希は花屋で買ったフラワーアレンジと千羽鶴の入ったエコバッグを手に、駆け出したい気持ちを抑え込むような足取りであたしの前を歩いている。ロビーは順番待ちの患者で溢れ、看護師が忙しなく行ったり来たりする。すれ違うたび、病院特有の消毒薬のにおいが嗅覚を刺激する。
このにおいが苦手だった。あたしは階段を上りながら、予防注射の恐怖で泣き喚いた子供の頃を思い出す。散々思い出して、忘れようとする。沙希は泣かないんだろうな……そんな風に考えて、そしてやっぱり思い出す。
「こっちこっち」
沙希は手招きし、数ある病室の一つへ入っていった。ドアの傍らには四人の患者名が記されていて、その中に『鬼山奈津美』という名があった。部屋を覗くと、白いカーテンで仕切られた手前のベッドに、一人の女性が半身を起こして座っていた。沙希を抱きしめている。
「来てくれたんだ。ありがとう」
抱きしめたまま女性が言った。鬼山奈津美、その人だ。美しく印象的だった長い黒髪は頭頂部が薄くなり、体は痩せ衰えたものの、笑顔の似合う顔立ちも、そこに映えるえくぼも、最後に見た時のまま変わっていない。
「プレゼント作ってきたんだよ。お姉ちゃんにも手伝ってもらった」
沙希はまともに喋れないほど強く抱き寄せられていたけど、苦痛で笑顔を絶やすことはしなかった。奈津美さんの蒼白な顔が入口に突っ立ったままのあたしを振り返った。
「久しぶりだね、華世。おいで」
あたしはただ頷いて、奈津美さんの元へ歩いていった。お腹のあたりを、そっと抱擁してくれた。細い腕が、きゃしゃな体が、その温もりが、あたしを包み込んで、心を包み込んで、勉強と宿題と、まっさらな原稿用紙のしがらみから解放してくれる。
ここには愛がある。カーテンによる間仕切りの、この一角が暖かくて、心地いい。励まさなきゃいけないのに、あたしはすっかり励まされていた。
「病気のことは勝二から聞きました。具合はどうですか?」
奈津美さんはあたしを見上げ、束の間キョトンとしていたかと思うと、平気だよ、言いながら弱々しく笑いだした。
あたしは訳が分からないまま来客用の丸椅子に腰かけた。
沙希がフラワーアレンジを奈津美さんへ手渡す。
「お花、勝兄からだよ」
「勝二から? そっか……」
カーネーションに鼻翼を押しつけて、奈津美さんはその細い体いっぱいに香りを吸い込んだ。たちまち、顔色に生気が戻ったように見えた。
「わたちのも見て!」
足元で紙袋を開くと、沙希は自分の背丈よりも大きく仕上がった千羽鶴を掲げてみせた。あたしは奈津美さんと一緒に称賛の声を上げた。完成品を見るのは初めてだった。七色を帯びたグラデーション。生き生きと輝いて、窓から飛び立ってしまいそう。
「これ……本当に沙希が作ったの?」
「うん! お姉ちゃんと、お姉ちゃんの友達と、あと、勝兄にも一羽折ってもらったよ。お母たんの病気が良くなりまつようにって」
沙希はもう一度抱きしめられていた。鶴が潰れないように、片方の手を高々と掲げながら。
「お母たん……いたい」
「死んでも離さないよ、沙希」
喜びに震え、悲しみに歪むような声。
「誰もちなないんだよ? だから泣かないで」
奈津美さんは鼻をすすり、惜しむようにゆっくりと沙希から離れた。
何だか涙もろくなったわね……あたしはこっそり目尻をぬぐった。
「勝兄とおんなじ、沙希も優しい子に育ってくれて、お母さん嬉しいよ」
それから小一時間、あたしたちはたくさんのことを話した。
奈津美さんは、食事の時間がここ一番の楽しみであることや、カッコイイ先生を選別することが今の生き甲斐だと話してくれた。
沙希は母親の前で、その姉であるおばちゃんの悪口をまくしたてるのに何のためらいもないようだった。そんな奈津美さんも、昔からごう慢で自分勝手な姉を好いていなかったらしく、むしろ姉のせいで苦しい生活を強いられている沙希に同情していた。
最後に『友達との付き合い方』を尋ねると、沙希は奈津美さんの膝の上に頭を置いてぐっすり眠り込んでしまった。
「ありがとう、華世。沙希のワガママ聞いてくれて」
奈津美さんが改まったように礼を言う。しゃべり疲れたせいか、表情には疲労の色が窺える。沙希の前髪を掻き上げ、額を愛撫する光景は、どこかの美麗な絵画を思わせた。
「いいえ、そんな……大事な親子の時間に立ち入っちゃって、申し訳なく思ってるくらいです」
……あれ? また笑われちゃった。
「もうすっかり大人だね」
奈津美さんは笑顔のまま言う。
「勝二と幼稚園で出会ったあの頃から、あなたは私たち家族の一員だったんだよ。私も、沙希も、勝二も、それにイッチだって、あなたのことをずっと兄妹のように感じてた。だから、私の前では大人にならないで……ね?」
あたしはただ頷くばかりだった。胸の奥から喉を塞ぐように込み上げてくる熱い感情を、唇を噛み締めることで抑え込んだ。
一人っ子で、両親が共働きのあたしの家はいつも静かだった。どこか寒々しくて、窓をこする風の唸りがテレビで観た怪獣の鼻息さながらにおどろおどろしかったのを覚えてる。
あたしは下校しても家には帰らず、ランドセルを背負ったまま鬼山と遊んだ。会えるだけで嬉しくて、楽しくて、あたしは意味もなくはしゃいでは、レンガ塀に落書きし、おやつを頬張り、またはしゃいだ。日が暮れると、あたしはよく泣いていた。たった三十メートル向こう側がカラッポなことを知ってたから。
そばにはいつも奈津美さんがいて、あたしたちに微笑んでくれていた。鬼山の家で、あたしは兄妹に混じって平等だった。おやつも一緒。ビスケットが三枚、プリンが一個、ジュースはお代わり自由。ご機嫌な父親が大盛りチャーハンを人数分取り分けると、あたしたちは録画したアニメを観ながらそれをかっ込んだ。
奈津美さんはあたしを知ってる。あたしの背伸びを見抜いて、だから笑ったんだ。あたしらしくもない、取って付けた丁寧な言葉遣いが滑稽じみていたんだと思う。だって、今までそんな風に話しかけたことなんてなかったから。これが大人になるってことなら、奈津美さんはきっと、あたしにそれを求めないだろう。
「やっぱダメだね、あたし。つい周りに流されて、自分を見失っちゃう」
「学校で何かあった?」
「上級生に誘われて書記の生徒会に立候補したんだけど……」
「けど?」
「演説会で読み上げる原稿が真っ白なままなんだ。言いたいこと、やってみたいこと、何にも浮かんでこなくて。勢い任せで見栄を張るもんじゃないよね……生半可だった」
「華世らしいね」
奈津美さんは嬉しそうに声を弾ませた。
「ありのままでいいじゃん。ぶつけちゃいなよ、素直な気持ち」
「それやったら学校が大パニックだよ」
「いいね、やってみせてよ」
嗚呼……あたしの知ってる奈津美さんだ。病床で弱っていても、持ち前の快活さで引っ張ってくれる芯の強さがある。ポジティブで、負けず嫌い。事によっちゃ鬼山だって頭が上がらない。
「勝二は元気?」
「うん。元気すぎるくらい。でも、ちょっと悲しそうだったかな。病気のこと、未だに受け入れられないって……」
「勝二にはいつも苦しい思いをさせてたわね……嫌な役回りはいつもあの子だった。父親のことだって、あの子には本当に悪いことしたと思ってる。私には何もできなかった」
「お父さん、行方不明になってるって……あいつは何とも思ってないみたいだったけど……」
奈津美さんの目の焦点は院内の白い壁を見透かして、濁った空の遥か向こうに据えられたまま、段々と暗い影を落としていった。
「ある時期にね、虐待が続いたのよ。それ以来、あの子は変わってしまった」
奈津美さんがおもむろに切り出す。弱々しくも、毅然とした語調だった。
「勝二が『フクロウ』と呼ばれ、恐れられるのは、あの子が自分の弱さを隠すために、あえて自分にその通り名をつけたからなの」
「弱さ? 運動オンチとチャリに乗れないこと以外の?」
「父親は……あの人は、酒の勢いで勝二をよく叱責した。ほとんど虐待だった。暴言を浴びせて、殴って、家の外に締め出した。目つきが気に入らないとか、態度が悪いとか……勝二もあんな性格だから、いつもあの人に反抗して、余計に逆上されて……私はあの人を止めることができなかった。……ある日、勝二の生活は昼夜が逆転した」
「……どういうこと?」
「いつものように理不尽な説教が始まるとね、勝二は外まで引きずり出されて、庭にある物置に閉じ込められた。ずっと、あの子の助けを呼ぶ声が聞こえてた。近所の人たちも不審に思ったでしょうね……それでも私は、あの人の前では何も言えなかった」
そんな話、聞いたことない。
「勝二は真っ暗な物置で夜を明かした。出てきた時は別人みたいだった。げっそり痩せて、爪が剥がれてた。喉が腫れて数日は声が出なかった。そして、あの子は夜に眠れなくなった……勝二はね、重度の暗所恐怖症だったのよ」
重い病名を宣告された気分だった。
鬼山のことになると、あたしはいつもあたし自身をあいつに重ね合わせる。そうすることで共有したつもりになる。喜びも、苦痛も、悲しみも。全部ひっくるめて、あたしはあいつになる。
でも今度ばかりは……どこまでも落ちていく気がして、あたしはもがくことしか出来なかった。
「外が暗くなるとね、あの子は今でも不安になるのよ。目を開けてないと生きた心地がしないって、本人から聞いたことがある。だから勝二がぐっすり眠れるのは、昼間の時間帯だけなの」
「…………」
鬼山……あたしがそばにいてあげる。あんたが眠れるまで付き添ってあげる。夜じゃない……あんたは一人になるのが怖いんでしょ? あたしは孤独がどんな場所かを知ってる。暗くて、冷たい所……あたしなら、道案内してあげられる。手を引いて、光の差す方へ導いてあげられる。あたしが、あんたを照らす光になってあげられる。抱き締めて、温めてあげられる。
だから……話してよ、鬼山。もっとあたしを頼ってよ。あたしがそうしてきたように、すがってよ。自分ばっか犠牲にしないでよ……鬼山……。
「ごめんね。こんなこと話すつもりなかったんだけど……あの子、自分のことは話さないし、私もこんな状態だから、華世にだけはどうしても知っておいてほしかった」
「あたしにそんな器量ない……あたしは、自己中で、何でも知った顔して、いつも何かに怯えてる。あいつのことは誰より知ったつもりでいたのに……そうじゃなかった」
「言ったでしょ、大人にならなくていいんだって」
奈津美さんの骨ばった手のひらが固く握られたあたしの手に触れた途端、がんじがらめの指先から力が抜け落ちていった。
「私は、華世に華世らしくあってほしい。背伸びしないで。悲観しないで。ありのままで。未熟なあなたにしか見えないものがある。あなたにしか感じ取れないものがある。だから、今のあなたに……今までのあなたに、お願いがあります」
今までのあたしに……。
「勝二のそばにいて。見守って、笑ってあげて」
あたしが……。
「信じてる、華世にしか出来ないこと。あなたには、誰にも劣らない負けん気がある。笑える明るさと、怒れる素直さと、涙を流せる優しさに溢れてる」
知らない……あたしはそんな人知らない。
「誰かのために走る力がある」
…………。
「口癖だったよね。〝普通が一番〟、〝普通でいいじゃん〟って。華世は自分のことを無個性の凡人だってよく言ってたけど、誰がどう見たってあなたは普通じゃない。ほんと、全く。目を疑うくらい普通じゃないよ。こんな女の子見たことない」
言って、奈津美さんは笑いながら問いかけた。
「今のあなたにしか出来ないこと、何だと思う?」
あたしは立ち上がった。立ち上がらなければならないと思った。思い立って、いざそうしてみると、くらむほどの興奮が体躯を突き抜けていった。血が巡る。熱を帯びて。
「ありがとう」
あたしも笑った。
決然とした笑み、奈津美さんの目にそう映ってたら嬉しい。それがあたしの今だから。
「カッコつけるの、やめる。自分の弱さを誰かのせいにしたり、苦痛を受け流したりしない。鬼山が大事。友達が大事。それがあたし。今までと、これからのあたし。だから行かなきゃ。友達を傷つけたひどい奴がここに入院してる……きっちりケリをつけてやるんだ」
鬼山があいつをぶちのめした。今度はあたし。美奈子に代わって、あたしがこの気持ちをぶっつける番。
あたしは背中に声援を受けながら病室を後にし、ロビーへ引き返すと、受付のお姉さんに奴のいる病室を訪ね、三階へ向かった。四人室の一角で眠りこける男……朝倉仁。
「お見舞いに来てやったわよ」
見舞い品は腹に詰め込んだ憎悪と悪態よ。
声に反応して、身悶えするように寝返りを打つ。この男が少なからず健全だと思えるのは、ここが病院の立派な一室だからでしょうね。このフカフカのベッドが刑務所の冷たい敷布団だったら、ほとんど虫の息に見えたはず。
ターバンまがいの包帯は特徴的だった金たわしを覆い、右脚はギブスに覆われ、かろうじて無事だった両腕はベッドの上に投げ出されている(痣まみれで全然無事とは思えないけど、そう感じるのは他が余りにも痛々しく見えるせいね)。
あたしは友人を襲った男の成れの果てを……はたまた、かろうじて人の形を留めた罪深き残骸を、意識が戻るその時まで見下ろし続けた。
「……柴田」
第一声があたしの名前? どうやら脳みそは正常みたいね。転げ落ちた拍子に定位置からズレれば良かったのに。
「柴田……覚えてる……廊下で会った」
おぼつかない口調。抑揚のない声。貧弱で、かすれてる。残り僅かな生気まで一緒に吐き出しちゃってるみたい。
「意外ね、あたしのこと覚えてるなんて」
「……忘れるもんか」
「忘れろ」
「神崎さんと一緒にいた。神崎さんと同じクラスメ-ト」
「あんたが襲った……美奈子の心に深い傷をつけた」
朝倉は決まり悪そうに目をすがめた。
「つい、だよ。美人って罪だよな……ヘヘ」
生まれて初めて、本気で拳を握った。振りかざし、歯を食いしばった。
ギブスを叩き割って、トドメを刺してやる……!
理性が働きかけるまで、復讐に名を借りた私怨に取り憑かれていた。朝倉は咄嗟に装った防御姿勢のまま、宙に留まる拳の行き先を見守り続けていた。
「つい、殴ってやろうか?」
声が震えた。怒りか、武者震いか……自分でも分からない。
「ごめん、悪かった、もうしない。絶対だ。話しかけないし、近づかない。誓うよ、誓う、誓う!」
腕を下ろすと、朝倉は包帯まみれの乾き切ったミイラみたいになって天井を仰いだ。要するに、死んでんだか生きてんだか分かんないってこと。
「教えて」
あたしは語勢を緩めた。
「あんたの行動が理解できない。真意が分からないの。会議室のカメラだってそう。あれって、女子の健康診断を盗撮するために仕掛けたわけじゃないんでしょ?」
「へえ」
いかにも〝感心した〟、って顔つき。
「思ったよりキレるね。推察どおり、あのカメラにはもっと別の意味があった」
損なわれていた朝倉の力が、ここにきて戻りつつあるように見えた。笑顔で覗き返す表情も、ギョロった目つきも、胃がムカムカしてくるような喋り方も、従来のこいつの姿だ。
「別の意味って?」
「前に言ったはずだ。学校を徘徊する影に、君たちはまだ気付いちゃいない。ザコキャラである僕に指示を送っていた、真のボスキャラが誰なのかをね。僕がこうしてここにいるのは、その得体の知れない者の手によって学校から追放されたからだ」
「あんたのボスに階段から突き落とされたってこと?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。僕は人の気配を背後に感じたし、背中に手が触れた感触をはっきり覚えてる」
被害妄想だ。こいつの全てがバカげてる。
「信じてないだろ?」
「当然でしょ。あんたのことなんて根本から信じてないわよ」
自分で言っといてなんだけど、かなりグサッと来る言葉ね。攻撃本能が思わず剥き出しになっちゃった……でももちろん、この男には全く効果がない。むしろ笑ってる。
「生徒会役員を決める選挙がもうすぐだったよね?」
目輝かせてんじゃねえよ。
「……あさっての火曜日」
「その日、息を潜めていたボスキャラは必ず動く。誰かがアクションを起こさないと、君のクラスメートが一人泣くことになる」
「だいたい、そのボスって誰よ」
こいつ……まだ笑ってる。
「校内に散在する僕の意志たちが教えてくれたよ。柴田さんはボスキャラと何度か接触してるみたいだ。だから、攻略のヒントのために、この名前だけは教えてあげる。『藤堂渉』だ」
情報を整理したかった。でも、朝倉はそんなこと気に留めない。
「ただし、藤堂は〝真〟のボスキャラじゃない。それが誰を指すのかは、君自身の目で確かめてくれ。でなきゃ、ゲームは面白くないだろ?」
「こっちは遊びでやってんじゃないんだよ……」
「あーあ。また目くじら立てる」
朝倉は後頭部を枕へこすりつけるようにして顔を振り、深いため息を吐き散らした。
「いいか? クラスメートを救いたいなら、チャンスは明日の一度きりだ。朝のコエダメに藤堂を呼び出して、こう言うんだ。『朝倉から、あなたが生徒会役員選挙で企てている秘密の計画を聞いた』ってね。あいつはそれだけでビックリするだろうよ。うまく追い詰めれば、真のボスキャラ打倒はすぐ目の前だ。……彼の連絡先を教えとくよ。上手く使ってくれ」
朝倉は動かせる方の手足を可能な限り素早くじたばたさせた。どうやら興奮してるらしい。
「結果は後で教えてくれよ。退院したらすぐに記事を書いてやるんだ……ディヒヒ」
激しい雨が月曜の朝を打った。雨は虚無に染み入って、ほとんど空気詰めのこの体を満たした。あたしは一人、コエダメの静寂に佇んでいる。
隙間風が皮膚に触れ、鳥肌を誘った。まるで、殴られて開いた壁の穴が呼吸してるみたいだった。穴は闇を放ち、不安を煽る。
折しも、複数の足音が廊下に響き渡った。一人の男がコエダメに姿を現す……藤堂渉。あたしたちは静寂を挟んで向かい合った。
「こんな日が来るんじゃないかと、警戒していた」
その顔に、いつもの優美さは一かけらも窺えない。蒼白く、目にはクマが出来ている。唇は仄かに紫がかっていた。
「確信しています……朝倉の話を信じた自分が愚かだった、と」
あたしは必要以上に大きな声を出すことで勇気を奮い起こす。
「だって有り得ないでしょう? あの藤堂くんが今回の役員選挙で、ある秘密の計画を企ててるなんて」
朝倉から教わった必殺のセリフ。藤堂がどんなリアクションをするか見ものだったけど、
「否定はしない」
こっちをまっすぐ見つめたまま、たじろぎもしなかった。
「君が朝倉に何を吹き込まれたかは知らない。ただ僕は、こうなるもっと前から、鬼山勝二と深く関りのあった君に警戒の目を向けていた。そして予想通り、君は突き止めた。僕の秘密……いや……僕らの秘密を」
もう一つの足音が近づく。藤堂の背後から、誰かがゆっくりと歩み寄ってくる。
「久しぶりね。二年五組、出席番号六番、柴田華世さん」
凛々しくも優雅に、夏目真紀が姿を現した。




