#08 斉明
「じゃあ、これにしようかな」
久篠乃が作業台に立てかけてあるクリアファイルの中から一つを取り出した。手渡された資料に斉明は目を通す。
「……なんですか? これ」
斉明が疑問を呈すと、同じ資料の写しを見ながら、久篠乃は補足する。
「山林とかの場所で裁定にあたる場合に、特定区域に部外者が入ってくるのを妨害する……ようは、人払いね」
なるほど――久篠乃は難解な資料の説明を、斉明にも分かりやすく要約してくれた。とはいえ頼ってばかりもいられない。久篠乃が要約した内容から、いま自分が見て分からなかった資料の、どこが重要なのかを確認する。こういう経験を積んでいけば、いずれ自分も、久篠乃と同じように資料を理解する力を身に着けられるだろう。
「進入を禁止するためなのに『排斥』とかじゃなくて『影落とし』の解創なんですね」
斉明は、資料を見ながら言った。追求者は目的をもって願いを成すが、あえて「ズレた」願いをすることで、追求者同士の戦闘になった際、自分の解創の正体を逆算されないようにする工夫を行う事がよくある。
今回の作成依頼ついても同様だが、道具を使用する対象は追求者ではなく、普通の人間に対してだった。区域から無理矢理力で押し出すのではなく、視界を暗くすることで恐怖心や警戒心を煽り、結果として遠ざける、というものだ。
「こういう、本来の目的と為す解創が違う道具を見るのは、初めて?」
うーん、と斉明は首をかしげる。
「上宮の屋敷には、障子……磨り硝子でしたけど、それにも解創がありました。本来、障子は空間を区切るためのものですけど、あえて『消散』の解創が為されていました。それも、こういう解創の類似でしょうか?」
そうね、と久篠乃は肯定する。
「障子は広義には結界だからね。『区切り』の解創を宿すのは容易でしょうけど、それじゃ追求者を相手にするには単純すぎると上宮家は考えたんでしょう。そもそも結界っていうのは、それを知っているものに対して効果のあるもの……ある意味、そこにいる人が絶対にルールを守ろうとするっていう、性善説に基づいたものだからね」
結界とは、宗教などにおいて僧が規律を犯さないように制限した区域の事、また内が外から隔てられているという意味を示すものだ。聖と俗の区別の意であり、現代社会なら『禁煙席』や『喫煙席』のようなものも、ある種の結界といえるだろう。
結界とは意味を理解し従う者にしか効かない。たとえば事件現場に警察が『立ち入り禁止』のテープを張り巡らせたとしても、日本語が読めなければ分からないし、分かっていても、越えようと思えば越えられる。たとえ喫煙席でなくても、ルールやモラルを無視してタバコをふかすことだってできる。
よって『区切る』という意味では、それを無理やり犯そうという意図に対して弱すぎる。そこで富之は結界としての障子を無視し、防壁として『障子』を考えたのだろう。
「とりあえず作ってみましょうか」
久篠乃は箱から出した黒い糸を、作業台に置きながら言った。
解創の作成とは、自分の考え、思い、願いを現実に再現することに他ならない。つまり『影落とし』という解創を作るにあたって、その作成者である久篠乃と斉明は、『影落とし』という願いを抱かねばならない。
追求のため、作成のため、己の本来の目的を一時的に忘却し、ただ一つの目的を本心にすり替える。それは追求者に必須とされる能力だ。
目的に集中しつつ、実際に作業を進める。『影落とし』の道具は網であり、これが遮光することによって暗がりを作る――というのが、裁定委員会から要求された仕様だった。
解創と言っても、作るのが網のような、用途の違いはあれど普通の道具と同じ形なら、普通の道具と作り方は似通ってくる。これも極細の黒い糸で編み物をするような作業だった。
とはいえ、その作業する光景は常軌を逸していた。なにぶん髪の毛よりずっと細い糸なので、普通の人間なら手作業でやるなど不可能だ。それを久篠乃はピンセットを使うだけで作業していた。これですら異様だが、斉明に至っては素手でやっていた。ピンセットのような普通の道具を使う事すら、斉明にとっては難しい。だが逆に、この程度の細かい作業なら、素手で十分にこなせた。そういう点で斉明の『器用さ』の方向性は、他の人間とはずいぶんと違っていた。
二人は二時間ほど黙々と作業に没頭した。二人は作業をしている間、ただそれだけに集中し、会話も、時間も、互いの存在さえも忘れた。
完成した網は、そうと理解していなければ網には見えない代物だった。糸の細さと目の細かさもあって、黒い半透明のシートのように見える。だが当然、半透明の物体で出来ているわけではない。網を半分また半分と折ると、縞状の斑紋が生まれた。これはモアレという視覚的な現象で、規則正しい繰り返しの模様を重ね合わせる事で発生する、視覚的な『うなり』とでもいうべきものである。
久篠乃は、網を色々な方向に折って、モアレにムラが無いか確認し、デジタルカメラで撮影していった。モアレにムラがなければ、網の目の細かさにもムラがないという裏付けになるからだ。斉明は、直接の作成とは関係ない、そういう細かい技術も学んでいった。
手作業だけで作れる分野に限れば、斉明は久篠乃にすら勝るだろう。だが裁定委員会の参考資本提供者になるためには、求められるのはそれだけではなく、作成した道具の検証したり、その結果を資料にまとめたりといった、斉明にとっては『面倒くさい』作業もこなさないといけない。
斉明にとって、そういう勉強は億劫ではあったが、そうも言ってられないのが現実だった。正直に言えば嫌ではあるが、一応、久篠乃の作業を観察する。……ふと、少し気づいたことがあった。
「それって、もしかして委員会から借りてるんですか?」
斉明はデジタルカメラを指差して言った。カメラには管理番号などが印字されたシールが貼られていて、それを見て気づいたのだった。
「そうよ。提供者が自分で用意した道具だと、検証結果を誤魔化す細工をするかもしれないからね。だから委員会が用意した備品で、検証結果をまとめないといけないの」
まったく面倒な話だが、同時に、委員会のスタンスもはっきりした。参考資本は受け取るが、追求者を信用しているワケではないという事だ。
「意外に面倒な仕事ですね、参考資本の提供って。委員会が要求する仕様が、作る僕らからすると効率が悪いこともあるのに、やり方は向こうの言う通りにしないといけないですし。それに、言い分通りにやったのに検証までこっちに押し付けるって……」
色々不満が募っていたので、つい愚痴っぽい口調になる。久篠乃は斉明の言い分に『気持ちは分かる』といった風に頷きつつも、諦観したような表情を浮かべていた。
「それが組織っていうものなのよ。ちゃんとルールを決めておかないと、人によってやり方が違ったら、管理できないわ。むこうの仕様に従うのも、使う事を考慮しての事なの……あと、検証だけど、検証自体は資材管理部の方でもやるわ」
資材管理部とは、裁定委員会の部署の一つで、提供された参考資本を管理する部署である。
「向こうで検証するなら、提供者が検証する意味なくないですか?」
「資材管理部は、まずこちらの検証結果の資料を確認して、仕様の認識に相違が無いか確認するの。そのうえで自分たちも検証してみて、提供者の検証結果通りか確認する」
一応は理解したが、斉明は作る側びいきだからか、委員会が楽をするための言い訳のように聞こえた。提供者が真面目に検証していれば、自分たちが検証で手抜きをしてもバレる筈がない。検証方法が違うなら、まだ納得のしようがあるが、その辺りはどうなんだろうか? なんて割と本気で思ってみる。
「ま、斉明も色々思うところはあるでしょうけど、とりあえずは納得しときなさいな」
考え込む斉明に、久篠乃が言葉を投げかけるも、その口調はお気楽なものだった。斉明は思わず、むっとして言い返す。
「なんでもかんでも委員会の……たとえば、資材管理部の自分の担当者の言う事に従ってたら、自分たちが損をするだけと思うんですけど。言うこと言わないと、何でもかんでも仕事を押し付けられます」
斉明の強気な言い分を聞いて、久篠乃は苦笑いした。表情を見て取った斉明は、心当たりがあるのかもしれないな、と予想した。
「勿論そうだけどね。けどまだ理解しきってないのに、自分の意見だけ押し通しちゃダメよ、斉明。私たち追求者にも、追求者なりの考えがあるように、裁定委員会にだって、裁定委員会なりの考えがあるの。相手が『楽をしよう』とか、そういう悪意を持ってるかは、まず相手の言ってる事と、やってる事に食い違いや違和感がないか……そこを照らし合わせてから判断しないとね。自分の意見と違ってるからって、悪意があるのを前提にしちゃいけないわ」
委員会なりの考えがある――そのフレーズで斉明は、自分の考えが足りていないのを自覚した。だがそれを言うのは少し悔しくて、かわりに別の事を訊く。
「じゃあ、照らし合わせて、悪意がありそうだったら、言っていいんですか?」
「照らし合わせて違ってたら『~と仰る割に、こういう風にされていますけど、これはどういうことなんですか?』っていうふうに訊くのよ。直接言うと角が立つでしょ? まぁ、斉明にそういう事を言うのは早いかもしれにけど……」
どこまでも下手な態度に、斉明は苛立ちを隠せなかった。久篠乃の言い方だと、まるで委員会の方が偉いような気がしたからだ。
「でも担当者に悪意があるなら、こっちも強気に出て牽制しないと、向こうは頭に乗るでしょう?」
それは生理的な拒否感だった。自分が作るものを他人に提供する……そこまでは、百歩譲って良しとしよう。だが、委員会の指示に従って解創を作り、ただそれを献上するのでは、まるで作り手は、ただの下請け業者ではないか――作り手の追求者である斉明にとって、それは屈辱だった。あくまで提供者、取引する対等な立場であるという一線は譲れない。
おそらく久篠乃はそこまで分かった上で、斉明の言い分に応じる。
「そいつ個人はね。けど裁定委員会だって、みんながそうってわけじゃないわ。私たち追求者は、あくまで個人だから、面と向かって組織に歯向かっても見放されるだけ。一担当者ごときと喧嘩したって仕方ないでしょ? ……これから多分、斉明が言うような事もあると思うから、その時は、やりようを見て覚えればいいわ」
それは、委員会との渡り合い方、処世術についても、後見人として教えるという意味だった。確かに、ここで話だけされても分かりにくい。
久篠乃は一通り検証を終えると、網を箱にしまった。
「ところで斉明、ちょっと手を出してもらっていい?」
「? どうぞ」
差し出した斉明の両手を、久篠乃は掴んで観察し始めた。突然何かと、どぎまぎする。当然、久篠乃にとっては何か意味にある行為に違いないが……説明が無いと変に勘ぐってしまう。
「手、乾いてるけど、いっつもこんな?」
「さぁ……気にしたことが無いので」
そう言われて、斉明は久篠乃の手を意識する……細長い指は、けれど、しっとりとした温もりがあって、どきりとする。思わず手が硬直した。早く放して欲しい、でも放さないでほしい……そんな相反した思いが溢れ返って、くらくらする。
やがて手を放すと、溢れ返りそうな混乱の波は、嘘のように引いていった。肩の力が抜けるが、なぜか少し物寂しくもあった。
「よくもまぁ、素手で作業ができるわね」
「それはまぁ……」
斉明からしてみれば、逆に道具という物を使って作業する方が難しい。何か別の道具を使って道具を作ろうとすると、自分のやろうとしている意思を邪魔されるような感じがしてならない。
手を見てきたのは、久篠乃なりに気になる事があったのかもしれないが……そういう事ならちゃんと言ってくれればいいのに、と思う。
ふと久篠乃は時計を見上げる。
「まだ時間あるわね。もう一つ行こっか」
「夕ご飯の準備、大丈夫なんですか?」
いつも夕ご飯を作るのは、久篠乃任せだった。調理で道具を使うのは必然なので、斉明が手伝えないのは仕方が無かった。
「まぁ大丈夫よ。今日は楽する日だし」
という事は冷食やインスタントがメインか。斉明は落胆したが、しかし作って貰っている身なので、贅沢も言えない。
久篠乃から次の資料を手渡され、その表題を読み上げる。
「剪定バサミ……ですね」
片手で扱う小さいものではなく、刃渡りは二十センチほどもあり、柄もそれに倍するほど長い代物だった。
「そ。と言っても、普通に剪定するための物じゃないわよ」
それはそうだろうなと思いながら、斉明は資料に読みふける――主な使用担当:……性別:男性。身長:182センチ。体格:筋肉質。用途……――どうやら普通ではないが、基本的には同じようだ。
「用途は……対象の追求者が立てこもった場合に使う……ってなってますね?」
「ええ。日本の家屋は開放的な作りが多いからね。庭木で外を囲んでることも多い。そこに付け込む為の道具ってワケ」
だが追求者だ。馬鹿ではあるまい。そういう庭木にも何か手を加えていることだろう。たとえば上宮富之が自宅の庭に『庭園の眼』という監視の解創を施していたようなことだ。
「この剪定バサミは、その解創に穴を開けるのが目的ってことですか?」
「そうよ。鍵になるのは侵入ってところね。ただ入りたいだけなら、破城槌とかで力ずくで破れば事足りるわ。この剪定バサミがあれば、綺麗に穴を開けられるってこと。これで開けた穴から、監視とかする別の道具を敷地に入れるわ」
持ち主にバレないような最低限の破壊工作――庭木に対してのみという特定の条件の道具であれば、持ち主の程度によってはバレずに済むという事だ。
だが斉明は、趣旨を理解すればするほど、この剪定バサミの存在意義は薄いと思えてならなかった。そもそも大した追求者ではないのなら、こんな慎重な手を取って状況を把握する必要性はないだろうし、逆に慎重に手を下さなければいけない手ごわい追求者が相手では、自分の道具の管理を怠っているとは思えない。いくら専用の道具で破壊しても、気づかれるに決まっている。
とはいえ、今の自分は文句を言えるような立場ではないし、久篠乃に文句を言ってもしょうがない。言われたとおりにやるだけだ。
「どこから作ればいいんですか?」
「刃自体は、大方できてるんだけど……それ用に研ぐ必要があるわね……研げる?」
「刃物の扱いは、やったことが無いので……」
道具を使う才能が決定的に欠けている斉明は、事故を防止する意味でも、富之から刃物は扱うなと厳重に注意されていた。何度か破って怪我して見透かされるたびに、自分の使う才能の無さを自覚すると同時に、富之の炯眼さに恐れ入った。
「そう……じゃあ、締めるところだけやってもらおうかな」
そういって久篠乃は、小さな箱から要ネジと留め具を出す。
「リベットじゃないんですか?」
「大量生産品じゃないんだから……安くて大量に生産するものは機械で作るのでいいけど、こういうものはね、全部、手で作った方が長持ちするのよ」
そういうものだろうか? 斉明はネジと留め具を受け取り、つぶさに観察する。すぐに普通のネジと違うなと思った。硬い……ネジそのものも、なにか工夫がある……追求者の作ったもののような気がした。同時に、このネジを作った製作者に感心した。ネジ一つでも、これほど違うものが作れるのか……。
要ネジの工夫が顕著にみられるのは、理髪店で使うハサミだと聞いた事があった。理容師がハサミで『切る』回数は、他の職業と非ではない。日に何千何万と切るため、よく切れながらも、スムーズに動くことが求められるからだ。
要ネジは、よく締めれば切れ味は良くなるが、逆に動きが悪くなる。単純に締めればいいという話ではないわけだと斉明は理解した。だからこそ、この要ネジにも工夫がある。ガタが起きにくい構造になっているはずだ……なら、それほど硬く締める必要はあるまい。
久篠乃から研ぎ終わった刃を受け取り、斉明は要ネジを穴に入れて締め始める。
「道具が無くても締められるのね……」
「ええ、なにか?」
「いや、それなりに力のいる作業でしょう? よくまぁ、すんなりやるなって」
そうなのだろうか? あまり自覚が無かった。斉明の様子を見て、久篠乃が言った。
「もうちょっと硬めに締めて。あんまり緩いと、切りにくいでしょう?」
むっとした。斉明にだって自分なりの考えがあって、緩めに締めていたからだ。とはいえ久篠乃の意見を否定しても、話がこじれるだけだ。
「すみません……」
「…………」
何か久篠乃は言いたそうだったが、聞きたくなかったので斉明は作業に戻って、要ネジを硬めに締める。
「こんなもんですか?」
硬すぎるくらいかと思ったが、久篠乃は「うん、こんなもんでしょ」と言った。あまりに納得できず、斉明は堪えられなかった。
「あの……もっと緩めに締めた方が良かったんじゃないですか?」
「どうして?」
「あんまり締めが硬いと、動きが悪くなるじゃないですか。今回の場合、切った後に、敷地に別の道具を入れるって作業があるんですよね? 硬く締め過ぎて切るのに時間がかかったら、マズいと思うんですけど……」
ふむふむと、久篠乃は斉明の言い分を聞き入れる姿勢を見せた。
「なるほどね……斉明なりに考えてるってことは分かった。けどあくまで今回の場合はだけど、硬く締めた方がいいわ。なぜかっていうと、この剪定バサミは、枝とかの比較的、硬いものを切るのに使われるから。要ネジが緩い場合、硬い枝に刃が食い込んだ上で力を加えると、刃と刃の間に切るものが挟まる事があるのよ。締めが緩いと刃と刃の間に幅が出来ちゃうからね、そうなったら、挟まったものを取るロスこそ、重大な問題になるわ。だから硬く締めるように言ったの」
それは斉明の考えていないことだったが、かといって自分の意見を否定されるほどではないと思った。剪定バサミを一瞥して、久篠乃の言い分の否定材料を見つける。
「確かに無理に力を入れれば、挟まる事もあるかもしれませんけど……だからって、硬く締めなくてもいいんじゃないですか?」
「……まぁ、普通の剪定バサミなら、それほど考慮しなくてもいい問題かもしれないわね。けど切る物は追求者の道具なんだから、普通に切るものよりも硬いかもしれないってことを、考慮しないといけないわ。締め直すのは面倒だから、最初から硬めに締めておけば、締め直す手間も減るでしょう?」
久篠乃の言い分は正論のようだったが、斉明は聞くごとに不快になる一方だった。自分の考えには、それなりに自信があったからだ。
「けど、刃が立つかも分からないものを切断するって、最悪の状況でしょう? そんなに硬い物を相手にするなら、別の道具を使うべきじゃないんですか?」
斉明が、なおも自分の意見を主張するので、久篠乃は自分の意見の説明から、斉明の意見の否定に転じた。
「多少は無茶に使っても切れた方がいいでしょう? それに緩くする理由も、それほどないわ。主な使用者って項目があるの、見た?」
また新しい要素を指摘をされて、斉明は慌てて資料を見直す。
「主な使用担当……性別:男性。身長:182センチ。体格:筋肉質……使う人は比較的、大柄ね。女の人や小柄な人なら別だけど、この人なら体格的に力もあるってことが想像できるわ。だから多少硬めに締めても、この人なら手間取ることなく使うことができる。どう?」
「……主な担当ってことは、この人だけが使うわけじゃ、ないんじゃないですか?」
「そういうことなら、それこそ使用者に合った、別の道具を使うべきじゃない?」
自分でも苦し言い分だと思ったが、こうも即座に否定されると苛々した。そもそもなんで自分は、こんな苦しい状況に自分を追い込んでしまったのか――こらえ性なく自分の意見を押し通そうとして、返り討ちにあっているという現状……我ながら幼稚に過ぎる愚行だった。
「まぁ……斉明の考えを否定するわけじゃないわ。けど今回の場合は違うってだけ。それだけ覚えててくれればいいわ」
配慮のつもりらしい久篠乃のセリフも、それが言えるのは余裕があるからだ。今の斉明には、むしろ勝利宣言のように聞こえて、苛立ちに拍車を掛ける結果にしかならない。
「まぁ、しいて言う事があるとすれば……斉明も、使う事を考えれば、こういう事にも気付けるようになるんじゃない? センスはあるんだし……」
センスはある。上宮の神童と言われたほどの作る才能……だが、斉明には皮肉にしか聞こえない――自分にあるのは、作る方だけだ。
「使う人の気持ちなんて、わかりませんよ。使ったことなんてないし、使えても下手糞なんですから……分からないのは、仕方ないじゃないですか……」
斉明の消極的で意気地のないセリフが気に入らなかったのか、眼光を鋭くした久篠乃は、ピシャリと言い放つ。
「でも、分かろうとしないと、分かるものも分からないわよ」
「だから、それが分かんないんだって!」
ついかっとなって、喉が張り裂けんばかりに声を張り上げた。久篠乃の言葉は口調も真面目だった。だからこそ、本当に分かってくれていないと分かってしまって、苛立ちが爆発した。
「分かるなんて使える人の言い分じゃないですか! 自分が使えるからって、使えない人間に使う人の気持ちが『分かる』って押し付けないでくださいよ!」
気づいた時には、不満の言葉が続いて放たれていた。沈黙が訪れた。久篠乃は気圧されたように目を見張って……続いて、視線を横に逸らした。苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「ごめん、今日はもういいわ」
「……っ!」
人にあれだけ言いたいことを言っておいて、なのにそんな顔をされたら、まるでこっちが悪者だ。「ごめん」という謝罪すら、今は謝罪としての意味ではなく、自分への非難のように聞こえた。
怒りで視界がジリジリと白く灼けた。だが冷静な自分はどこかに残っていて、自分自身を非難していた。
――久篠乃にこんなことを言わせてどうする? お前が使う事を分からないように、久篠乃はお前の使えないって感覚を分からないのに、それをお前は押し付けるのか?
怒りに任せた自分の言い分の自己矛盾に気付いて、誰に何を押し付けていいのか分からなくなった。一つだけ感じたのは、ここに居たくないということだけだった。
斉明は、ふらふらとリビングに戻ると、じっと廊下を見つめた……身体は、いつの間にか靴を履いて、玄関を飛び出していた。
「ちょっと、斉明!」
室内から声が聞こえる。やばいと思った斉明は駆け出して、エレベーターに乗るとすぐに扉を閉めた。三十階建てだが、エレベーターは一つしかない。ここは二十四階だから、非常階段を使って追いつくのは不可能だ。
斉明は一階のボタンを押すと、壁に寄りかかった。途中、二度ほどエレベーターが止まり、そのたびに久篠乃が来たのかとビクついたが、どちらも無関係な住民だった。当然か、と思う。戸締りをせずに出るわけにはいくまい。その時間を含めると、多少の時間は稼げる……。
ふっ、と息が漏れる。稼いだところで何をするんだと、斉明は自分の考えに呆れかえった。
エントランスを潜り抜ける。外は暗いという印象は無かった。町は夜だろうと光で溢れている。
こうして出るのは久しぶりだなと思った。学校に行くために昼間に出ることはあるが、こうして夜に出るのは……初日に、久篠乃と外食をしに行った日以来だった。
どうしてこんな事になったんだろうかと、自分に問い続ける。原因はやはり、自分と久篠乃の違いなんじゃないか――そう、思えてならない。
自分には道具が使えない。今回のトラブルの原因だって、そこに尽きる。自分が道具を使えていれば、あんな些細なミスはしなかったんじゃないか……。
いつの間にか自分を責めるような考えになっていて、斉明はムシャクシャした。使えないことは悪いことじゃない筈なのに、なんで自分自身すらも、そんなところを責めているんだろう……。
しばらくほっつき歩いていると、足元がひときわ明るくなった。その時に、自分が下を向いて歩いていることに気付いた。
ふと顔を上げると、そこにはコンビニがあった。煌々と光を発している四角い箱は、ガラス張りなのもあって電灯そのものだ。その付近や中には人影があって、まるで誘蛾灯のように思えた。
その光に誘われるようにして、斉明は駐車場を縦断する。途中、カラスが降り立って目の前を横切ったが、またすぐに飛び立っていった。
コンビニの自動ドアをくぐって店内に入る。財布も持ってないのに入店してしまったが、別に何か盗もうと思ったわけでもない。
店内をぐるりと見回すと、様々なもので溢れていた。飲み物、食べ物、雑誌、文房具……そのどれもが、どこかで誰かが作った代物だ。その苦労を知らずに客は、数百円数千円を店員に払って持ち去っていく。
いい気なものだ。金さえ払えば自分のものになるくらいに考えているんだろう。どれだけ考え、どれだけ思って作っても、自分が使えるようにはならない斉明にとっては、嫉妬を通り越して憎悪に近い感情すら浮かんだ。
さしたる理由もなく使える者たち……使う力はあるのに、その用途はさしたるものじゃないんだろう。宝の持ち腐れだ。せめて無駄に持っている分の才能だけでいいから、僕にくれ。
商品棚にあるものを滅茶苦茶にしたい衝動に駆られて、斉明は足早にコンビニから出る。出てすぐに車止めに躓いて、くらくらした。世の中にある全てのものが、自分を追い詰めるために存在している気がした。
立ちくらみがして、斉明はコンビニの外壁に寄りかかる。頭痛はどんどんひどくなって、その場にしゃがみこんだ。
視界が波打っている気がする。すぐそばを自動車が通った。音と光が陶しい。何かに耐えるように、歯を食いしばって目を瞑った。この最悪な気分の嵐が、過ぎ去ってくれるのを待つように……。
突然、頭を小突かれる。顔を上げると、そこには久篠乃がいた。
「こんな所まで来て……心配したんだから、もう……」
視線を落とす。「なんでアンタが心配なんかするんだ」という感想が浮かんで――久篠乃が肩を上下させ、額にびっしりと汗をかいているのを見て、悔しくなった。こんなガキっぽいことを考えている自分を、久篠乃は一所懸命に探していたのだ。
「ごめんなさい」
「いいわ、もう……帰りましょ。あたし、お腹減っちゃってさー」
あえて斉明ではなく「自分の腹が減っている」と言うところが、久篠乃なりの気遣いなのだろう。事実、斉明はそっちの方が気が楽だった。自分のことをあれこれ気に掛けられるよりも、気が楽だった。
ふらつきながら立ち上がって、久篠乃に続くようにして斉明は歩いた。途中で何度か逃げ出したくなったが、さっきの久篠乃を思い出すと、その気も失せた。
マンションのエントランスが見え始めた時、久篠乃は真剣な表情で、ぽつりと言葉を漏らす。
「しばらくは、いいわ」
「? 何がですか?」
「私の手伝い」
後ろめさはあったが「やります」と言うほどの精神力も無かった。どちらにせよ、ここで否定すれば『使うことを考慮した作成』をしなければいけなくなるのだ。それくらいなら、いっそ作成すらも、やらない方がマシだと思った。
「じゃあ、しばらく休みます……」
こんなのは、ただの甘えだ――斉明は、行き場のない苛立ちに、思わず歯ぎしりした。