#12 久篠乃
久篠乃は斉明の様子を、定期的に裁定委員会に報告することになっていた。場所は裁定委員会のスポンサーが提供している別荘の一室だった。郊外にあり周囲に建物も無いので、ここなら話していることが外部に漏れることはない。
久篠乃にとっての裁定委員会の窓口となる人間が、今回の斉明の人事についても担当している。名前を国枝邦宗という。
上宮家と『三家交配』の契約を交わした仲である国枝家とは、一時期、関わりがあった。しかし国枝家が子である邦明を差し出さずに逃がしたため、上宮家と国枝、そして篠原家の交流は無くなっていた。
だがそれは、あくまで家同士の話である。むしろその策謀に巻き込まれた被害者である『子供』同士は親の知らないところで、自分や互いの親の愚痴を吐きあえるような、妙な関係を築きあっていた。
邦宗と久篠乃の関係とは、実にそういうものだった。とはいっても、最初からそういう目的で交流しようとしていたのではない。久篠乃が参考資本提供者となるため人事部に相談に行った時、たまたま応対したのが、この国枝邦宗だったのだ。
名前を聞いたとき、なんとなくそんな気はしていたのだが、話してみるにつれて、やはり互いに『三家交配』によって人生を狂わされたと分かるや、一気に打ち解け合っていった。
とはいえ――今日はそこまで、軽いノリで話せるわけでもなかった。人事部の邦宗以外にもう一人、情報部の大船卿玄がいたからだ。
そもそも上宮斉明の後見人という話に、情報部の人間である大船が出る幕はない。だが大船は、斉明から後見人として指名された鶴野温実がその役を辞退したため、その間の一時的処置として――富之と交流があったからという理由で――斉明を引き取っていた……という経緯があったに過ぎない。大船としても斉明を久篠乃に預けた時点で、話は終わっているはずなのだ。
大船自体は悪い人ではないと、久篠乃も承知している。しかし裁定委員会の狙いが分からない。
「どうして、大船さんが?」
「ん?」
「情報部一課の課長が、なんで斉明に入れ込むんですか?」
相手が本心を語るかどうかは別として、建前だけでも聞いておこうと、とりあえず久篠乃は訊いてみる。
「あー、ね。久篠乃ちゃんや国枝君の事を信頼してないわけじゃないけどさ、一時期は俺も預かった身だし、一応、様子を聞いておこうと思ってね」
掴みどころのない男だと久篠乃は思った。情報部が斉明について知りたいとすれば、斉明の動向を把握しておきたいといったところだろうか……なら横のつながりで人事部に訊けばいい。もしかすると、情報部は人事部とは仲が良くないのだろうか? そんな話は聞いたことが無いので、久篠乃は釈然としなかった。
「それで、上宮斉明くんの様子はどうだい?」
無関係な話は終わりとばかりに、邦宗が本題を切り出す。
「そうですね……まず、以前から電話で連絡はしていましたが、参考資本提供者にするための教育の件については、現在は保留しています」
「使う才能が無いため、その手の道具のノウハウが無く、作る時に問題が出るという話だったね」
斉明のコンプレックスなどについても、久篠乃は一通り説明していた。一緒に暮らしていれば、斉明の得手不得手、好き嫌いは大体わかってくる。その中で参考資本提供者の教育に関係するものだけは、後見人の義務として把握し、委員会と共有していた。
「ええ、その問題があったので、しばらく斉明には、そちらの解決に注力させようと思っています。私も依頼に影響のない範囲で手伝おうかと……」
ふと大船を見る。目を伏せて黙って聞いている。本当に様子を聞くためだけに参加したのだろうか?
「それで、解決する方法っていうのは?」
「斉明が道具を使うための道具の作成です」
邦宗、大船両名共に眉をひそめた。
「どういう事だい?」
久篠乃は、斉明が言っていた話を要約して説明する。
「斉明には、使う才能が決定的に欠けています。追求者に得手不得手というのはあるので、斉明の生まれた時からの素質の問題でしょう。そこを解決するための手段を作ろうかと考えていますが、まだ具体的な方針は決まっていません。まず、使う才能について詳しいく解析していこうと思っています。あくまで私の勝手な目途ですが、半年程度はかかるかと」
するとこのタイミングで、大船はゆらりと手を挙げる。
「しつも~ん。追求者の実作業を、おじさん見たことないから、その辺よく分からないんだけどさ、解析だけで半年って長くないかな?」
唐突な質問の意図が分からず、久篠乃は疑問に思いながらも、一応、用意しておいた資料を差し出す。斉明と話し合って決めた計画のスケジュールだった。斉明には「このスケジュールは厳密に守らなくていい、あくまでただの目途だから、自分の納得するようにやってね」と言い含めてあるが、そこまで裁定委員会に話してやる義理はない。もし大幅な遅延が出たら、その時はその時で頭を下げるだけだ。無責任だとは思うが、久篠乃としては委員会への義理立てよりも、斉明の教育――それも委員会の為ではなく、彼自身のためになること――の方が重要だった。
「斉明も学校がありますから、割ける時間は絞られます。せいぜい帰宅してから十七時から十九時までの二時間です。休日については土曜日こそ、ほぼ一日使っていますが……斉明もまだ子供ですし、縛り過ぎるわけにもいきません」
「ふぅ~ん、まぁそれはいいんだけど、具体的な作業としてってことだよ」
大船は、より露骨に踏み込んでくる。久篠乃も応じる他ない。
「色んな道具を使って情報を収集し、斉明の道具を使う上でも、多少の良し悪しはないかなど、傾向を探ろうと思います。その為にこなさなければいけないのは数です。様々な条件で道具を使う必要があります。だから半年という長期間になるんです」
「ふーん……もっと楽な方法とかないの?」
「いえ、これ以外には……」
大船が気にしているのは何か……解析の時間についての疑問、楽な方法が無いかの質問……共通するのは時間……。
「大船さん、何かあるんでしょうか?」
「ん? というと?」
「時間が掛かる事を、ずいぶん気にしていらっしゃるようですが、斉明に何かさせたいという意向が、情報部の方であるんでしょうか?」
問い方がストレート過ぎるかと思ったが、少なくともこの場では何も無いのであれば、話を終わらす流れに出来る。
「……ん……そうだねぇ、こっちとしては、君の能力を信頼してるし、後見人としても斉明くんに合ってるとは思ってるけど、どの程度教育が進んでいるかを……現状を把握しておきたいんだよ」
一応、久篠乃を立てる前置きをしたとはいえ、言っていることは同じである。久篠乃は一瞬だけ頭を巡らせると、矛先を変える。
「……それは人事部の仕事じゃないんですか? 国枝さん」
あらゆる可能性を捨てず、久篠乃は邦宗が大船と繋がっているか確認してみる。
「ええ……上宮斉明の後見人と、彼の教育については、人事部に一任されています。もちろん、大船さんの言う通り、人事部としては把握しておきたいですが……」
続く言葉こそ出てこないが、言いたいことは分かる。「情報部のアンタが気にすることじゃない」だ。
二人の視線に晒される大船は、さして態度を変えずに告げる。
「篠原ちゃん……キミを後見人に最終的に着けたのは、もちろん人事部だ。だがそれは同時に、裁定委員会の意向ということでもある。斉明くんを、上宮寄りから裁定委員会寄りにして欲しいってのが、上としての本音だろうね……まぁ俺としても、そこまでしなくても一般的な教養や、参考資本提供者になれるだけの力は、彼に身に付けて欲しい。正直な事を言えば、当たり前の子供のように遊ばせたいワケじゃないんだよ」
まるで人権を無視したセリフだが、重要なのはそこではない。
「つまり斉明を洗脳したいんですか?」
「まさか。極端だよ篠原ちゃ~ん。俺はね、こちらとしてやって欲しい事を、彼にやって欲しいってだけさ」
「やって欲しい事というのは?」
「そりゃ勿論、参考資本提供者になる為の勉強だよ。それだけやってくれたら、別に急かしたりはしないよ。半年でも一年でもやってくれ」
――なるほどね……。
大船が意図していたかは知らないが、それさえではなく、それだけという言い方をしたということは――裏を返せば、それ以外の事を、して欲しくないという気持ちの表れである。
暇を与えたくない。それが大船の意図らしい。それなら納得がいくなと、久篠乃は内心でほくそ笑む。
斉明は、なかなかに頭の良い子だ。裁定委員会による上宮家殲滅に、不満を募らせるのは当然、と大船は考えているのだろう。
そんな斉明が久篠乃という後見人の元――管理の及びきらないところで、裁定委員会への報復の準備や、何かしら要らぬ企てをされたら、たまったものではない……という事だ。
斉明に言いくるめられて、良いように久篠乃が『報復の準備の時間』を稼がされていてはいけないと、裁定委員会は考えているらしい。
久篠乃が明らかに斉明を擁護すれば、久篠乃自身も斉明の『いらぬ考え』に付き合っていると考えることだろう。ならば久篠乃は感情を出さず、後見人としての説明義務を果たすだけである。
まったく、舐められたものだと久篠乃は思った。確かに自分はまだ未熟だろう。だが、小学生に誤魔化されるほど抜けてはいない。
とはいえ、委員会にそう思われているという事実は違わない。ここは委員会に従順な態度を示しておくのがいいだろう。
「分かりました。スケジュールは私が管理していますし、週に一度は進捗を確認します。斉明は、しっかりしてるので、それほど心配はいらないかとは思いますが、少しでも何か問題があれば、必ず報告するようにします」
斉明と久篠乃――後見人の関係では、久篠乃が主導権を握っているということをアピールしておく。斉明が久篠乃の管理下にあるのであれば、その久篠乃が人事部の管理下にあれば問題ないと委員会は判断するはずだ。
「まぁ……そういうことなら……俺は良いかな。悪いね、話の腰を折って」
大船が話を切り上げたので、邦宗が続ける。
「では続きを……技術的な事ではなく、精神的なところでは、何かあるかい?」
「そうですね、やはり上宮家の子供というだけあって、作り手としての意識が、かなり高いと思います。裁定委員会を完全に信用してもらうのは無理そうです」
「孝治さんの影響かな……どうやらあの人は、委員会のことをあまり快く思ってなかったみたいだしね」
「本人に訊きましたが、話によれば斉明は曾祖父の富之寄りのようでしたけど……彼なりに、考えているようです」
邦宗と久篠乃が話しているところで、大船も自分の意見を言う。
「そうだろうねぇ……斉明くんは作る事は得意だけど、それだけの子ってワケじゃない。自分なりにも上宮や委員会……後見人についても、いろいろ考えてるんだろうねぇ~」
富之の教育は受けているが、本人の主体性は損なわれていない。ただその主体性が、委員会の利となるかは判然としない――大船の認識は、そういう事のようだ。どの程度信じてもらえるかは分からないが、久篠乃は言ってみる。
「そうですね……けど、既にご存知だとは思いますが、斉明は賢い子です。委員会に逆らえばどうなるかは分かっていますし、表立って反抗するような事はないでしょう。不服に思っている節はありますが、それもだんだんと落ち着いてきています」
「つまり……彼が参考資本提供者として十分な技術を身に付けた頃には、既に精神面でも問題は無くなっていると?」
「ええ……」
能力的にも、精神的にも問題が無いと分かれば、それ以上追究することはなく、あとは今後の方針を確認して、話は終わった。
話が終わって、大船が先に部屋を出る。邦宗も一緒に出るものかと思ったが、邦宗は部屋に残った。どうやら、話したいことがあるようだ。久篠乃は小さく頷いて部屋を出ると、邦宗がついてきた。とりあえず場所を変える。大船が妙な策を弄するとは考えにくいが、盗聴器などの類が仕込まれていないとも限らない。
外に出ると、一瞬、喫煙所に向かいかけるが、やめたようだった。たしかに『あからさま』過ぎる場所ではある。
駐車場にある自分の車も、名義上は私用とはいえ、委員会の人間を乗せることも多くある。身内的な話をする以上、あまり使いたい場所ではない。
そうなると使える場所は、ほとんどなくなる……が、一つだけ別の場所がある。
「国枝さん……すみませんが、次の電車が来るまで時間があるんです。もしよろしければ、家まで送ってってもらっていいですか?」
久篠乃は電車で来ていた。だが次の電車までの時間は、それほど長くない……邦宗は意図を察したらしく、あくまで誰かに聞かれていてもいいように、他人行儀に応じる。
「構いませんよ」
邦宗の車の助手席に乗せてもらい、久篠乃の家に向かう。小一時間ほどして着き、車は来客用の駐車場に入る。
停車したところで久篠乃は扉を開ける。
「ありがとうございました……もしよろしければ、上がってってください。お茶くらいは用意できますから」
「そうですか、それはどうも……では、お言葉に甘えて……」
邦宗はぎこちなく言いながら、自分も車から出て、鍵を閉めた。
エレベーターに乗って二十四階へ。廊下を歩き、部屋の扉の前に立つと、久篠乃は自宅の扉を開けた。
「あ、お帰りなさい」
リビングにいた斉明が出迎える。その視線は久篠乃を見て、ついで邦宗にいく。
「どうも、斉明くん」
「こんにちは……」
斉明と邦宗には接点がある。久篠乃が正式に後見人に決定してから、一度、手続きなどで人事部に出向いたことがあるからだ。
斉明は、邦宗が来た理由に察しがついたらしく、いったん自室に戻る。
久篠乃が邦宗に茶を準備している間に、斉明は外出の準備を済ませていた。手早いところを見ると、邦宗が来ることを予想していたのかもしれない。
「久篠乃さん、ちょっと二時間くらい、本屋に行ってきます」
「気を付けてね」
「はい」
短く応じて、斉明は足早に家を出た。
「気を遣わせたかな?」
玄関の扉が閉まると、邦宗が申し訳なさそうに呟いた。
「いえいえ、そろそろ休憩する頃合いでしたから……」
今日は土曜日なので、斉明は一日中、解析の作業に没頭していたはずだ。朝の九時から始めて六時間が経過している。途中で昼の休憩は挟んでいるだろうが、そろそろ休む頃合いだろう。あまり根を詰め過ぎて、ストレスになっても問題だ。
久篠乃は、リビングのソファに座った邦宗に茶を出す。
さて何から切り出すべきかと思ったが、優先すべきは、やはり大船の事からだろう。
「大船さんって、最初から来る予定だったんですか?」
邦宗は首を横に振る。
「昨日、突然だったよ。今日の事……後見人との定期会議の話を、どっかで耳にしたらしくって、参加させて欲しいって言ってきたんだ」
「突然ですか……邦宗さんとしては、あの人が参加すること、どう思ってるんですか?」
なんで断らなかったんですか、とは、さすがに言えない。
「そうだねぇ……情報部が首突っ込んでくるのは、なんか調べたいからだと思ったね。あとになって俺から話を聞くより、自分がその場に居合わせた方が、分かる事もあるだろうから」
人事部と情報部の関係……というより、情報部と他の課の関係と言えば、情報部は問題などがあれば実働部などの担当部署に情報を報告し、逆に他の部署は調べて欲しいことを情報部に依頼する……というような関係だろう。
となると……上からの依頼があって、情報部一課の課長がわざわざ出向いたと考えれば……辻褄は、合わなくはない。
「あの人だって上を目指してるくらいだし、上と繋がってるんだろうさ……情報部の部長候補の話、聞いてるかい?」
「大船さんが、次の部長になるかもしれないって話ですか?」
「ああ……そういう人だから、お上の言いなりになってる可能性は、否定できない」
まるで本人のいない間に悪口を言っているような風になってしまい、久篠乃としては少々申し訳なかった。情報部一家の課長であり部長候補という立場こそ、腹を割っていいほど信用できないが、大船卿玄という人物の人柄についてはむしろ逆の印象を抱いている。
「まぁとにかく……よっぽどな状況にならない限り、あの人はキミや斉明くんにとって都合の悪いような事はしないだろうさ」
「そうですね……」
口では同意を示しながらも、正直な感想は逆だった。人柄は良くても、あの人は公私混同をするようなタイプではない。よっぽどの状況になってしまえば、委員会の利となるように、容赦ない采配を下すだろう。
「ところで……斉明くんを引き取ったのは、やはり邦明の事かい?」
「…………ええ」
久篠乃が引き取った理由の一つとして、蒸発した国枝邦明の思惑が知れないという事があった。自分と同じ年齢の青年が、大層な事を考えているとも思えないが……しかし邦明の得体の掴めない心理は、久篠乃が『万が一』という考えをせずにはいられないほど、危ういものだった。
「その事なんだが……」
「何か分かりましたが?」
以前から頼んでいた事だったので、久篠乃は思わず身を乗り出す。
「いや、まったくだ。足取りが全然追えない。情報部とのツテで色々、調べているんだが……済まない……」
「いえそんな……こちらこそ、無理を言ってすみません」
「何を言うんだ、こっちの方こそ恥ずかしい限りだよ。兄として、弟の所在すら掴めないとは、まったく情けない話だ」
無理もないと久篠乃は思った。忌憚なく言わせてもらえば、邦宗は裁定委員会で活動するうえで十分な知識こそ持っているが、解創のノウハウや、追求者の精神性などは分からない。邦宗にその才能は無かったから、それは仕方のないことだ。
邦宗に無く、そして邦明にだけあるもの……それは、邦明自身以外に知る者はいないだろうと、久篠乃は考えていた。
上宮と他家の血を引くという点では、久篠乃も同じである。だが環境は違う。国枝に嫁ぐ事が決まっていた久篠乃や篠原家と違い、国枝では家の復興が急務だった。欲に駆られて子供を隠したほどだから、どれほど切迫していたことだろうか。
国枝家は、屋敷を分家に託し、本家は雲隠れしたという。それでも邦明は本家と一緒にいたはずだが、十五歳になった頃に蒸発したらしい。邦明を失った本家は屋敷に戻ったが、彼らに家を復興する力は残されていなかった。当然と言えば当然だ。邦明だけが、国枝家にとって最後の希望だったのだから。
だが――その最後の希望として期待された邦明自身は、いったいどんな思いだったのだろうか?
蒸発した彼の真意を知るものなど、果たしてこの世に彼以外要るだろうか……もしかしたら、彼自身すらも、ちゃんと理解していないかもしれない。
邦宗に分からないのは、解創の技術や精神性だけでなく――それらの要素によって形成された、邦明という人格そのものだ。
「……おっと、もうこんな時間か。そろそろおいとまするよ」
ふと腕時計を見た邦宗は、ソファから立ち上がる。
「そうですか……お気をつけて」
廊下を歩き、玄関に向かうその背中が、途中で久篠乃に振り返る。
「それと……あの話、覚えてくれてるかな?」
どの話かは、邦宗の遠慮がちな口調で、容易に想像がついた。久篠乃個人としては悩むところだが、篠原の娘としては、無下にも出来なかった。
篠原家は追求者の家系としては終わっている。だが一度は家同士とはいえ約束をした身だし、邦明亡き今の国枝家に、同情が無いわけではない。
「ええ……けど、私もまだ、ちゃんと心が決まってないというか……」
どう返したらいいものか……色々と言葉を選んでいると、大して意味のある言葉にはならなかった。だが邦宗はそれを気にした様子はなかった。
「そうだね……斉明くんのこともある。俺はいつでもいいし、嫌なら遠慮なく言ってくれたらいい」
「そんな、いやだなんて……」
久篠乃としては、邦宗の人柄は嫌いではない。知人としてなら、むしろ良く付き合っていたいとも思っている。
だが……国枝に嫁ぐとなると、やはり話は変わってくる。参考資本提供者である久篠乃が国枝に嫁げば、追求者としてもだが、それ以上に委員会と国枝家との間に、良好な関係を築くことができる。
それに、あるいは邦宗と久篠乃の間に、追求者としての才覚を持った子が生まれれば、国枝の復興にも希望が見えてくる。
もちろんそんな家の事情だけで結婚を考えられるほど、久篠乃はまだ人間が出来ているわけではなかった。
「でも……今は、お言葉に甘えさせてください。今はその……斉明の事を考えていたいので」
返答に窮しながらも、久篠乃は今言いたいことを言い切った……ただ、表情だけは困ったように眉が寄ってしまう。
「そうか……分かった」
邦宗にとっては、それで十分だったらしく、玄関の扉を開けて外に出た。久篠乃はお辞儀をして、その背中を見送った。