#10 斉明
その日は休日だというのに、朝早く起こされてしまった。
九月の半ば。今日は、久篠乃の高校の文化祭の日だった。
朝は急いでトーストをパクついて家を出る。斉明は黒い綿パンに灰色のTシャツという格好で、久篠乃は高校の制服だった。
制服姿の久篠乃を、ちゃんと見るのは初めてだった。普段は久篠乃が着替えるよりも早く、斉明は家を出るし、帰ってきたら久篠乃はすでに私服に着替えている。
電車に乗って駅を三つほど素通りし、四つ目の駅で降りて、校門の前に辿り着く。
「一般来場者の入場は一時間後だから、それまでは校門の外で待っとけばいいですか?」
久篠乃は首を横に振る。
「小学生がずっといたら、声かけられるかもしれないから……それはマズいかな」
文化祭があると地域住民は知っているとはいえ、現在時刻は午前七時だ。まだ早いから無関係と思う人がいてもおかしくないし、教員などに見つかっても面倒だ。
久篠乃は敷地内を見渡す。どうやら人影がいないか確認しているらしい。「よし、行くよ」と久篠乃は斉明の手首を握って、早歩きで学校の敷地に入る。
突然手首を握られたことにも驚きはあったが、それより問題な事がある。
「まだ文化祭始まってないのに、入っていいんですか?」
「……ホントは良くない」
ダメじゃないか。そうは思っても、自分のために悪さをしていると考えると、頭ごなしに否定もできない。
正面玄関で靴を脱ぐ。靴をビニール袋に入れて、さらにそれをナップザックに入れた。廊下は滑るので、靴下で動き回るのは危ない。斉明はナップザックからスリッパを取り出して、それを履いた。
校舎に入ると、遠くから階段を下りたりする足音が反響して聞こえた。午前七時とはいえ、文化祭開始直前だ。様々な催しの最終準備があるのだろう。
「どこ行くんですか?」
「出し物とかない部活があるのよ。だからそこの部室に逃げる」
なるほど。確かに運動部などの部室ならば、文化祭とは縁が無い。隠れていれば大丈夫だろう。いくらなんでも教員の見回りもノーマークな筈だ。
二人は運動部の部活に入る。一般的な教室と広さは同じだが、なぜか教卓が二つあったりと、隠れられそうなスペースはある。
部室には先客がおり、女子生徒だった。ブレザーに赤いネクタイという格好は久篠乃と同じだ。
「おはよー」
「ああ、おはよう久篠乃……その子が、例の子?」
親しんだ雰囲気から察するに、どうやら友人らしい。事前に話を通してあったようだ。準備のいいことだ。
「そうそう、親戚の子」
「どうも」
斉明は頭を下げる。
「ここなら先生の監視はないから、ここで一時間待ってても大丈夫。大人しくしてるのよ?」
「分かりました」
斉明が言うと、友人は疑問を呈す。
「なんで敬語なの?」
「そういう子なの」
人が来たときはどうしたらいいか……斉明は教卓に目を付けた。
「教卓はいつもこの位置なんですか?」
「どうなの?」
久篠乃に訊くと、久篠乃は知らず女子生徒に振る。
「うん、まぁ普段から動かさないしね」
ならこの裏にいるのがいいだろう。椅子を教卓に入れると、小学生の矮躯を生かし、椅子と教卓の微妙なスペースに入り込む。
「いざって時には、これでいいですかね?」
「それでいいんじゃない?」
「念入りだなぁ……」
「じゃ、私たち色々やることあるから……出ちゃダメよ、斉明」
「分かってますよ」
二人が出ていくと、教室は静かになる。外から来る足音や雑音も、ここに辿り着く前にほとんど減衰しているからだろう。
ナップザックには財布やビニール袋に入れた靴の他には、何も入っていない。本くらい持ってくれば良かったなと思う。
「けど……」
たまには、こういうのんびりとした時間もいいかもしれない。何も考えず、何もせず、ただ、ぼぅっと過ごす……それに、どうせ一時間程度だ。浪費という程でもあるまい。
しばらくぼぅっと過ごしていると、マイクに拡張された声が、韻を失い音となって聞こえてきた。どうやら体育館からのようだ。開会式直前のマイクテストでもしているのだろう。様々な障害物によって摩耗された声は、人の言葉ではなく環境音も同然だった。
しばらく、窓の外の青空を眺めていると、だんだんと眠たくなってきた。朝が早かったのも原因のひとつかもしれない。
出入り口から見て、教卓の陰に来る位置に、椅子を二つ並べて寝転がる。どうせ人も来ないだろう。それにもし来たとしても、これだけ静かな場所だ。足音でそれと分かるだろう。
まどろんでいると、パタパタと足音が聞こえて、さっと斉明は目覚めて音を立てずに教卓の裏に隠れた。椅子の上に座っているので、下から見ても足でバレるようなことはない。
どうせこの教室じゃないだろうと高をくくっていたが……扉が開いた。
――おいおい……。
それだけで終わるかと思ったが、闖入者は教壇を踏んだ。もう駄目だと諦める。
「うわっ!!」
驚愕の声が聞こえた。その大きさに、斉明の方が驚きつつ、教卓の裏から出る。
「え、キミ誰? なんでこんなところにいるの?」
闖入者は女子生徒で、久篠乃と同じでブレザー姿だったが、ネクタイの色は緑色だった。髪は長く、肩まで下りている。女子生徒らしい背丈で、当然、久篠乃よりは小さい。
さて、どう説明したものか。名乗っても仕方が無いので、久篠乃の名前を出した方がいいだろう。
「二年の篠原久篠乃の親戚です。ここで待ってるように言われました……その、先生には秘密にするようにってことで……」
生真面目な性格なら先生に告げ口するかとも思ったが、闖入者は肩をすくめて、小さくため息をつく。
「あー、篠原か。アイツ、また好き勝手やりやがって……あ、別に変な意味じゃないのよ、ほら、篠原って、ちょっと破天荒なところがあるから」
はてんこうというのが、いったいどういう字を書くのか斉明には分からなかったが、どうせ変わっているとか、そういう意味に違いないと思って「そうですね」と適当に相槌を打つ。
どうやらこの人物は、久篠乃のことをよく知っているらしい。友人だろうかと一瞬思ったが、おそらく違うと思い直す。
「もしかして、久篠乃さんの先輩ですか?」
「へ? うん、そうだけど、なんで?」
「ネクタイの色違うんで、そうかなと……」
「おぉ、鋭い」
それに闖入者……もとい先輩は、久篠乃の事を「久篠乃」ではなく「篠原」と言っていた。あくまで斉明のイメージだが、友人とは下の名前で呼び合う印象があった。ネクタイの裏付けもあるし、友人でなければ先輩だろうと予想がついた。
「どういう付き合いなんですか? 久篠乃さん、部活に入ってたんですか?」
自分より早く帰ってくるのに、それはないだろうと思った。
「んや。アイツ色んなところに友達いるみたいでさ、ここにもよく遊びに来るのよ……まぁ私もそうなんだけどね、そこのカバン忘れちゃって……」
なるほど、そういうことか。斉明を隠dすためにここに連れてきたくらいだし、特にこの部はお気に入り、といったところだろう。
「あの……」
「ん?」
こうやって、久篠乃のいないときに久篠乃の事を訊くのは卑怯な気がすると思いながらも、気になるという気持ちは抑えられなかった。
「久篠乃さんって、学校だと、どんな人ですか?」
「うーん……まぁ、誰にでも普通に接して明るくて……たまにビックリする事してくれるわね……キミが知ってる篠原とは違う?」
普通に接して、明るい。それは言うまでもないだろう。ビックリすること……確かに、追求者としての手際は素晴らしかった。それ以外に何かあるとすれば……。
「……意外と鋭い人です。こっちの気持ちを察してくれるというか……」
斉明の言葉を聞いて、闖入者は表情を曇らせる。
「……君、何年生? まさか中学生?」
その見た目で中学生はないでしょ? と言いたげだった。失礼なとも思ったが、実際に小学生なので、よくよく考えれば失礼ともいえない。
「小四ですけど」
「頭良さそうねー」
「よく言われます」
「うわー、性格悪いなーキミー」
冗談っぽく大仰に言った。斉明が憮然とした表情になると、少しおいて真面目な口調で話し出した。
「なんか変? 学校にいる篠原って」
「いえ……そういうわけじゃないですけど、顔広いなって……」
追求者でありながら、普通の人間関係を良好に築いている……久篠乃個人を知っているとはいえ、それでも斉明は凄いなと思った。追求者でありながら、そういう事ができるというのは、やっぱり性格的なものが大きいのだろうか?
「まぁ、誰が相手でも隔たりなく接するしね、アイツ。女子は当然だけど、たまに男子と放課後にバスケやってるし」
やりたい放題だなと思い――ふと思う。自分が学校から帰ったら、必ず久篠乃は家にいる。「最近もですか? バスケって」
「あー……最近は見てないわね。夏休み開けてからは、そういうのあんまりない……かも……かな?」
自分が来てからだなと斉明は気づいた。最初の頃は自分の教育もあったし、今でも久篠乃の方が先に帰っている。……もしかすると、斉明が家に帰っても寂しくないように、早く家に帰るようにしているのかもしれない……。
「もしかして、君の影響?」
「え?」
「久篠乃が早く帰るようになったの」
先輩の雰囲気は変わらないのに、見透かす視線だけは鋭くなっていることに気付いた。妙な感じがした。
「ええ……まぁ……」
「へぇ……篠原の奴、ゾッコンなのね」
「ゾッコンって……」
どう反応していいか困り、斉明は頬をかく。
「もしかして、篠原のこと好き?」
「は?」
「あれ? 違うの?」
なんとなくだが、この先輩の言う事は無根拠というわけではない気がした。もし根拠があるとすれば、こうして話していて感じた印象だろう。
自分は久篠乃に好意を抱いているんだろうか……斉明は暫し黙考してから答える。
「そうですね……人として尊敬はしてます。色々面倒見てくれたり、気遣ってくれたり……けど……」
「けど?」
語尾を濁らせると、先輩は催促してくる。解創の事情は漏らせない。嘘にならない範囲で、言葉を選ぶ。
「たまに、何考えてるんだろうって……」
「何考えてるって、篠原って、そんな難しい奴じゃないでしょ?」
「そうですかね?」
「うーん……キミがなんでそう思ったか知らないけど、篠原は難しいことは考えてないんじゃない? アイツ、根は単純だし」
あっけからんとした物言いに、斉明は納得できず疑問を呈す。
「単純なのに破天荒って、矛盾してるんじゃないですか?」
「単純だからこそ、そのままやりたいことを成すために、突拍子もないこと考えるんじゃないかな。普通の人って、割と色々考えて、できないって決めつけるから」
――斉明は、色々考えすぎ。
脳裏をよぎる誰かの言葉……思い出した。海岸でシーグラスを拾っているときに訊いた、明日香の言葉だ。
「じゃ、あたしそろそろ行かないと……じゃあね」
先輩はカバンを取って立ち去った。再び静かになった教室で、斉明は、今聞いた話を考える。
色々考えすぎ……なら、久篠乃の行動の原因は、もっと単純なのだろうか?
まず自分の場合に当てはめて考えてみる。自分が物を作るのは? そんなの、作りたいからに決まっている――確かに、単純だなと思った。
人は目的を叶える時、現実にぶつかる。それを回避したり立ち向かったりするために思考し、工夫し、手段は複雑化する。
だがもともとの目的――行動の根幹、手段の原因は、それほど難しくはないのかもしれない。
人によって、それぞれ違うのは当たり前だ。けど違っているからって、難しいとは限らない。
体育館の方から、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。どうやら、文化祭の開会式の開始の合図のようだった。
一応、朝のホームルームはあるらしい。斉明は教室の前でホームルームが終わるのを待つ。教師が話し始めると、だいたい皆ちゃんと黙るのは、流石は高校生といったところか。
ホームルームが終わると、久篠乃が出てきた。
「おっ、斉明! なんでこんなトコいるの?」
「窓の外見たら一般の人が入ってきてたんで、もういいかなと。あの部室まで行くのも手間でしょうし」
「そりゃどうも……で、私はこれからクラスの仕事だから、午前中は、ずっとここにいないといけないの。だから斉明は一人で色々見て回ってて」
「一緒にいます」
「一緒にって……仕事だからさ、見ててもつまんないし」
「いえ、いいんです」
斉明が譲らないところを見て、久篠乃は取り付く島もないと悟り、後ろ頭をかく。
「ん~、まぁいいけど、つまんなくなったら、校舎の中とか見に行きなよ? 色々あるから面白いと思うけどな~」
久篠乃は純粋に楽しんで欲しいようだが、斉明としてはそうもいかなかった。何もできない現状を打開するため、斉明は今日を有意義に過ごそうと決めた。
色々考えすぎ……という以前の明日香の言葉と、先ほどの先輩との意見を統合して、今日の行動の指針を決めた。今日は久篠乃を見る事に集中しよう。どうせ今の心境では素直にイベントなんて楽しめない。ならいっそ文化祭そのものよりも、その中で普通に振るまう久篠乃を見る方が、集中できると思ったからだ。
そうやって観察していれば、追求者でありながら、普通に暮らしていける久篠乃の秘密が分かる気がして――あわよくば、使う人間の事を考えて作れる久篠乃の精神性が、分かるかもしれない。
ホットプレートの上で、ソースのかかった麺が蒸気を発する。夏の空気の対流が、匂いを斉明の鼻腔まで運んでくる。
校舎と校舎の間にある中庭は、いくつものテントが両脇を占拠し、中央のフリースペースは人々でごった返していた。お祭りの出店よろしく並べられたテントに、生徒から一般客まで、幅広い年齢層の人々が列を作って注文し、テントの中の店員は、働きアリの如く慌ただしく駆け回っている。
斉明はその中の一つ、久篠乃のクラスの屋台の裏にいた。すぐ後ろは校舎で、その壁にもたれるようにして座っているので、店員の生徒の迷惑にはなっていなかった。
ホットプレートに載っている麺の量は、五人前か六人前か。完成したものから透明なパックに入れられて、割りばしと一緒にテーブルに置かれるが、瞬く間に注文されて買われていく。
大量の麺が、湯水の如く使われていく。これだけ多い量になると、食べ物を食べ物として見られなくなる。食べる人間からしてみると、食べ物の定義は「自分が食べられる」範疇の物しか、その対象に入らない。工場でレーンに載って作られていくインスタント食品や、アメリカとかの奇天烈なサイズのハンバーガーが食べ物に見えないのは、そういう理由だろう。
ふと、斉明は思う。食べ物は自分の日常の中にありながら、自分は『作る側』でない。料理をするには刃物が必要だからだ。食べる側の人間は、使う側に位置するだろう。食べることに関して言えば、自分も『使う側』の人間であるといえる。
では、使う人間への共感は――食べるときの共感に類しているのだろうか? 旨い不味いは分かるし、他人と味覚の明らかな相違や、まして隔たりを感じた事はない。
食べられるなら、その感覚を他者と共有できる。なら同じように、道具を使えれば、その感覚を他者と共有できるわけだ。だが道具を使えない自分には、使う人の感覚を共有することはできない――結局、その結論を再確認してしまうだけだった。
考えるのも嫌になり、斉明は再び仕事をしている面々を眺めた。後見人である篠原久篠乃も、他の生徒と同じように慌ただしく働いていた。常人の枠を逸した追求者であることなど忘れて他の生徒と変わらぬ振る舞いをしているのは、正直言えば少々滑稽だった。
「はいおまちー」
一応、役割分担は決まっているようで、久篠乃は調理する係のようだが、他の人間の手が空いていなければ、客に商品を渡す仕事もこなしていた。やはり文化祭の売店というのは人気らしく、その仕事ぶりは多忙を極める。
客たちは焼きそばの入ったパックを受け取ると、きゃあきゃあ言いながら焼きそばを割りばしでつつく。
作る久篠乃は幸せなのだろうか? ――そうだろうなと思った……何か根拠があったわけではないが、そんな気がした。
久篠乃は自分の作ったものに疎外されていない……そんな気がする。自分が作った道具が、どこかに行って自分を孤独にする力として舞い戻る……なんて事とは無縁な気がした。
「ほら斉明……暑いでしょ、ここ。なんでこんなトコにずっといるのよ? 校舎の中ならクーラー効いてて涼しいのに……」
二時間ほどした頃、客足のピークは過ぎたようで、店員は交代で休憩に入る。順番が回ってきた久篠乃も、時間が来て休憩に入ったようだ。
久篠乃が缶ジュースを開けて渡してきたので受け取る。氷水に浸かっていたそれは、ずっと持っていると指先が痛くなるほど冷たい。ふと、なんでわざわざ開けてから渡してきたのか考える……斉明がプルタブを開けられないかもと久篠乃は考えたのだろう。気を遣わせてると気づいて、申し訳ない気持ちになる。
「どうも……けど一人で教室は遠慮します。迷って迷子センター行きになるのは嫌ですし」
「斉明に限って、それはないと思うけどね……はぁ、まったくあっついわね……」
手の甲で額の汗をぬぐう――そんな仕草に何か感じて、斉明は思わず視線をそらした。気づかれる前に、斉明は質問をぶつける。
「仕事は終わりですか?」
「うん。午前中だけだから。私たちは後半の人と交代で、午後からは遊んでくるけど……斉明も来る?」
「そうします」
「そう……」
さっきとは真逆なほど素直なところに久篠乃は違和感を抱いたようだが、斉明は素知らぬ顔で缶ジュースを飲む。
そういえば、と斉明は思い出す。あの先輩についても訊いておこう。
「そういえば、朝、部室で待ってるとき、人が来ました」
「げ? 誰だった」
誰にバレたかとヒヤヒヤしているようだ。斉明は来訪者の特徴を思い出して答える。
「ネクタイの色が緑で、先輩みたいでしたね」
「ふーん……大丈夫だった?」
「ええ……名前は聞きそびれましたけど……誰だってんでしょうね」
あまり出しゃばる気にもならないが、しかし来訪者の正体が気になるのは事実だった。直接誰とは訊き辛いので、斉明は少しずつ、個人を特定する流れに持っていく。
「どんな人だった?」
「髪が長かったです。あと久篠乃さんの事、『はてんこう』って言ってました」
「あー、……硯先輩かも」
「どんな人なんです?」
「変な人」
斉明は困惑せざるを得なかった。どの口が言うのか。
「久篠乃さんが言います? それ」
「失礼な……ま、昼ごはん食べて、行ってみようか。硯先輩のところ」
「何かやられてるんですか?」
「うん。あの人は気合入ってるわよ……とりあえず、昼ごはん食べよう。話はそれからだ」
久篠乃が自分の財布を持って立ち上がったので、斉明も続いた。
昼ごはんは、二人ともカレーにした。一、二時間もホットプレートの上の焼きそばと格闘した久篠乃は、湯気とソースの匂いにやられたらしく、焼きそばは愚かソースの食べ物は嫌だったらしい。
「さて。遊んでこよっか」
腹ごしらえは済ませたので、二人は校舎内に入る。そこで斉明は、ふと気づいた。久篠乃は、一緒に見て回る友達などはいないのだろうか?
――もしかして、僕に気を遣って……?
あれだけ普通に溶け込んでいた久篠乃だ。一緒に行く友達がいないとは考えにくい。そうなると行きつく結論は一つだった。自意識過剰だと思ったが、しかしそれ以外に理由が無いのも、また事実だった。
どうしたものか……甘えていいのだろうか?
甘えた方がいいのかという考えよりも、白黒つけたいという心が勝った。
「あの……友達とかと一緒にいないのって、僕がいるからですか?」
「いやいや、残念ながら久篠乃さんには友達がいないのですよ~」
「…………」
沈黙したまま見つめ返すと、久篠乃は小さくため息をついた。冗談では誤魔化せないと思ったらしく、久篠乃は素直に白状した。
「そりゃバレるか……」
「別に、自分は言ってもらえれば、全然大丈夫でしたよ……久篠乃さんの気遣いはありがたいですけど、久篠乃さんだって、貴重な文化祭なんですから……」
久篠乃は二度目の溜め息をついたが、次に吐き出した言葉は、先ほどとは籠っている感情が違った。
「なーに一丁前に人の心配してんのよ、斉明。私はキミの後見人なのよ? 勿論エンジョイしたいのは山々だけど、それ以上に、斉明に見てもらうために、色々考えてるんだから……気に入らないかもしれないけど、ま、騙されたと思って乗ってくれればいいのよ」
久篠乃の後見人としての言い分は分かったが、それと文化祭との接点が見つからず、斉明は疑問を呈する。
「どういうことですか? 文化祭で僕に見せたいものとかあったんですか?」
「まぁ……その、個人的にはね、ネタバレせずに見てほしいと思ってたのよ。友達がいたら、話がバレちゃうかなと思ってね」
なるほど、それで、黙っていたのか……。
「じゃあ訊かないでおきますから、連れてってください」
「はいはい」
斉明は純粋に興味が湧いた。久篠乃だって、『作成物』に関して斉明の目が肥えていることは分かっているだろう。それでもなお、自分に見せたいものとなると、それなりに良いものなのかもしれない。あまり過度にはいけないが、少しくらいは期待しても良さそうだ。
二人は一般校舎に入る。特別教室が集まっている特別校舎は、文科系の部活の部室が集まっているだろうから、人が多いようだが、こちらは生徒の教室がある東側こそ人が多いが、西側は選択教室などしかなく、基本的に空き教室だからか、まるで人の気配が無い。
二階にある教室の前で、久篠乃は立ち止まる。教室の上にあるプレートには『選択教室B』とある。教室の前に、一つ生徒用の机が出ており、紙が貼ってある。ガラス製のペーパーウェイトは唯の円形の物体ではなく、サンドブラストで蔦の模様が入っており、小洒落ている。
『個人展示:ガラス作品 展示者:硯梢子』
紙には、そう書かれていた。
教室に入ると、入り口のすぐ横に生徒がいた。ネクタイの色は緑色。どうやら硯先輩とやらのクラスメイトらしい。ただの展示とはいえ、誰か人がいないと展示物を盗まれてしまうかもしれない。久篠乃がお辞儀をしたので、斉明も同じように頭を下げる。
「硯先輩って、今出てらっしゃるんですか?」
「ええ。お昼ご飯買いに行ったから……もう少ししたら帰ってくると思う」
久篠乃が会話をしている横を通り過ぎて、斉明は教室の中に入った。
大半の机は撤去されている。隣の教室にでも移動させてあるのだろう。等間隔で並べられた九つの机には、それぞれ一つずつ「作品」が載っていた。
一番手前の机にあるのは、まるで溶けない氷だった。
透明なブロック状の物体は、白い結晶を一切生まなかった氷に見える。全てを透かし、濡れた艶やかな表面は、ひんやりと冷たい印象を与えるが――それはまぎれもなくガラスであって氷ではない。「そっと触ってみてください」と机に紙が貼ってあるので、その通りに触ってみると、やはりそれは常温とさして変わらない。
不思議な感覚だった。触っても平気な炎のような、非現実感がそこにある。
「けど、なんでガラスなんでしょう?」
どうして高校生がガラスで物を作っているのか……気になって、隣に来た久篠乃に訊いてみる。
「硯先輩の家って、確かガラス工場か何かをやってるのよ。子供の頃からやってたのかもね」
そういうことかと、むしろ斉明は納得がいった。だが両親は、こういう物を作るように、娘に薦めたのだろうか? 根拠があったわけではないが、そうではないと斉明は思った。
なぜだろうか? 作品に込められている思いに――作る人の生々しさが宿っているからだろうか?
「どうしてガラスで作ろうと思ったんでしょう? 普段から身近にあったからですかね?」
「まぁ、そういうのは大きいんじゃないかしら? けどあの先輩の場合は、それだけじゃないかもね。伝統というか歴史というか……そういうのを学びたがる人だから、身近にあったガラスの歴史を知りたいから、それぞれの技術を学んでるのかも」
「ガラスって、どのくらい古くからあるものなんですか?」
斉明の反応は、久篠乃にとって、むしろ意外だったらしい。
「あれ? 知らなかったの? 人がガラスを作り始めたのは紀元前一世紀から。天然ガラスなんか石器自体から使われてたのよ。黒曜石って言ってね……って、社会の先生の受け売りだけど」
「そんなに前から……」
正直なところ、黒曜石は斉明のイメージするガラスとは違っていたが……自分のイメージ通りのガラスにしても、遥か二千年前から、人の営みを透かし続け、魅了し続けて、そして共に在り続けたのかと思うと、途方もない気分になる。
二つ目の作品は、まるで逆さにしたシャンデリアのようなオブジェだった。これをあの先輩が作ったのか……本当かと疑いたくなるが、それ以上に作品の完成度が勝った。誰が作ったとか、今はそんな些細な問題はどうでもよくって……ただずっと、この作品を眺めていたいと、純粋にそう思った。
「どう? 斉明」
「なんていうか……すごいですね。これを普通の人が作ってるなんて……」
これを作った人は凄い――富之の庭園を見た時にも、同じ感想を抱いた。もちろん、それとは別の質だ。先輩は追求者ではないのだから、これらの製作物を、追求者のそれと比較するのは間違っている。
けれど、つい比較してしまう――この人物は、追求者ではない。だが追求者に迫るものがある。追求者という概念を知らないというのに、そこに至らんとしている在り方は、自分がいる道とは、また違った道でありながら、素直に認められた。
恐ろしいほど細かなガラス細工。そこに込められた思いは何だろうか? なぜこのようなモチーフを使っているのだろうか? 斉明は意図を読み解き、真意を探り、作り手の思いを想像する。
道具と異なり、美術的な作品は、作られた目的が道具の機能のように分かりやすい形をしていない。単純に『凄い』とか『綺麗』というのではない細かな部分や芸術的価値を読み取るのは、専門家でなければ難しい。
作者は己の知識を用いて、何かしらの思いを表現していることだろう。今見ているオブジェにしてもそうだ、と斉明は考える。
それは、大樹のような樹木に、たくましい枝が伸びており、その先には豚や鶏、牛といった生き物たちが乗っている。大樹には鎖が絡まり、鎖は枝にも巻き付き、その先の動物たちの足や羽にも絡みついている。絡まっている動物のそばで、様々な人々が、その全身を使って感情を表している。喜んでいる者、愕然としている者、怒っている者……。
なぜ絡まっているのは蔦でなく、植物や動物といった自然物には不似合いな鎖なのか……込められているのは、おそらく依存や生命力という意味ではなく、束縛などということだろう。もしかすると、このミスマッチすらも意図しているものかもしれない。
作品のタイトルは『文明疎外』とあった。大樹の根元を見ると、そこでは歯車に乗った人々が、せっせと鎖を作っていた。人々はまるでコピーアンドペーストのように、大量にいながら没個性だ。
なぜこれをガラスで作ったのか……なぜガラスの作品のモチーフとして選んだのか……考えに没頭していると、斉明はいつしか時間を忘れ、ただ見ることに没頭していた。
一つの作品を見るのに、いったいどれだけの時間をかけたことだろう。八つほどの作品を見て、そろそろ集中力が切れ始めた時、教室の扉が開いた。そちらを見ると、見覚えのある容姿の人物が入ってきた。
「お、篠原。来てくれたんだ、サンキュー」
来訪者は軽薄に、久篠乃に声を掛ける。
「ああ、硯先輩」
見紛うことはない。朝、あの部室に来た先輩だった。目が合ったので斉明は会釈をする。
「お、親戚の子も来てるんだ。篠原がデカくて隠れて見えなかったわ」
「先輩ひどいですよ」
「はっはっは、すまんすまん」
――これを作ったのが……。
条理に居ながら、これほどの物が作れるとは……斉明にとって、それは尊敬に値する。
条理を外れながら人並みの日常を謳歌する篠原久篠乃と、条理にいながら条理を外れたようなものを作り出せる硯……在り方は違っていても、どこか精神的な部分で、相通じているのかもしれない。
「さっきは名乗りそびれました。上宮斉明と言います」
「あら、これはこれはご丁寧に。硯梢子です。よろしくね」
そういって硯は、斉明の頭をポンと叩いた。その意図が理解できずに、困惑顔を浮かべるしかなかった。
「そんで……どう? 割と頑張ってみたんだけど」
硯が教室を見渡しながら言った。この部屋には、どれも素晴らしい作品で満ちているのに、それは謙遜が過ぎると斉明は思った。
「いや凄いですよ。私、ガラス細工とか全然わかりませんけど」
久篠乃が感嘆の声を漏らす。斉明も同じとばかりに首を縦に振る。
「そりゃどうも……まぁ、普通はガラス細工なんて、そうそう見ないしね」
別に自虐でも何でもない言葉の筈なのに、斉明には『普通は』という単語が、ぐさりと胸に刺さった。これだけ普通に生活していながらも、彼女自身は、普通の外にいると自覚している。余計な心配だと分かっていても、硯は孤独を抱いているんじゃないかという考えは、止められなかった。
「どう、気に入ってくれた?」
硯がこちらを見て言う。自分は『おまけ』と思われているであろうと勝手に考えていたので、話しかけられるのは予想外だった。だが斉明は戸惑うことなく、端的に感想を言う。
「凄いです」
「そう? ありがとう」
「おや、斉明が素直に褒めるとは珍しい……先輩、気に入られましたよ」
久篠乃が要らぬことを言うので、斉明は睨み付ける。
「変なこと言わないでくださいよ……」
なぜか共感したように硯が首を縦に振った。
「そりゃそうだ、斉明くんとやらは久篠乃にゾッコンみたいだし」
「いや、だからそれは……」
久篠乃も硯も、互いを茶化しては茶化し返す……いや、というよりも明らかに互いをダシにして斉明をおちょくっているに違いない。馬鹿馬鹿しくなった斉明は、二人のやり取りに巻き込まれるのを避けるため、その場を離れて最後の作品を見に行く。
それはガラス製のミニチュアの神殿だった。神殿には雨樋が設置されており、出入り口には装飾が施されている。怪物や悪魔の彫刻ならば樋嘴といったところだろうが、入り口と出口にあるのは、花弁の曲線が魅力的な二つの花――ハナシノブとノイバラを模した装飾だった。花弁には着色ガラスが使用されており、ハナシノブは藤色、ノイバラは白で、それぞれ着色されている。
そして不思議な事に、その雨樋の中を、悠々と二匹の鯉が泳いでいる。体躯の大きなものと小さなものがおり、寄り添うようでもあったし、大きい方が小さい方を導くようでもあった。二匹はつがいを意味しているのだろうか? 色々考えてみるが、これがどういう意味を示しているのか察しきれない。
よく見てると小さい鯉のひれが、片方、大きく欠けているように見えた。見間違いかと思って、斉明は目を凝らす。
「触っちゃダメよ、危ないから」
斉明の様子を見ていた硯が言った。ガラスだからという単純な意味かと思ったが、よく見ると鯉のひれの欠けている部分は鋭く、手で触ると怪我をしそうだった。
「ガラスって、割れると危ないですよねー。硬いし、結構危ないですよね」
隣から覗いてきた久篠乃が言った。その言い分は一理あるなと斉明は思った。それは硯も同意見のようで、漏らす。
「ほら、不良がビール瓶とか割って武器にするじゃん。アレも結構、理に適ってんのよ。ガラスって理論上は金属よりも鋭くできるから」
「へぇ~、じゃあガラスで武器作ったら強いんですかね」
どんどん話が物騒な方向に傾いている。せっかく情緒豊かなガラス細工を見ていたというのに、雰囲気が台無しだ。
「そういうワケでもないわよ。現実的な話をすると、ガラスは鋭くても脆いから、やっぱ金属に比べると、全然そういうのに適さないから」
なんだかんだで聞いていた斉明は、ふと思う。現実的に無茶な道理を押し通すなら――それこそ、解創の仕事である。
できるんじゃないか――ふと斉明は、久しぶりに作ることを考えたみた。ただ純粋に目的を願うのではなく、追求者が追求者との戦うときに利用するように、願いと目的を切り離すこと求められる。刃物としてのガラスだが、より重要なのは切断する機能ではなく強度の方になるだろう。
作れるかもしれないと思ったが、残念なのは、それを硯には見せられない事だろう。解創を一般社会に漏らすことは、裁定委員会によって禁止されている。もしその禁忌を犯せば、情報隠蔽のために処分されてしまうし、場合によっては硯にも被害が及びかねない。
作っても見せられない――だが、それでいいとも思う。今日のようなお祭りでない限り、人は、在るべきに在り続けるものだ。大切なのは、何を作ったかよりも、それを作る人の在り方だ。
たとえ条理を外れていても、人と話すことだけは認められているのだ――久篠乃のように、自分のように。
だから作り上げた自分たちが交流し合えば、自然と相手への敬意や憧憬が、共感といった形で現れる……。
ふと、斉明は気づいた。自分は「作る」という言葉ばかりを使っているということに……そして、はっとした。
自分は、どうしてそこに考えが至らなかったのだろう? 不思議でならなかった。ぽっかり空いた穴を、たった今発見した――そんな感覚。
素晴らしいものを作る人間に尊敬の念を抱けるように、道具を上手に使える人間にもまた、同じように憧憬を抱いていいではないか、と。
だが、考えたところで、斉明に使う人に対してその感情は湧かない。心からの尊敬ができない。なぜ……?
ふと結論に至り、もう一つ……最近、斉明が考えていたことについても、同時に理解できた。久篠乃がどうして、使う人の事を考えて物を作れるのかということを。
久篠乃は使う事の苦労を知っている。そこに至るまでに、どれほどの努力が、執念が必要かを考えられる人だから、作るときも、その人たちの事を考えられるのだ。
だが自分には? そんなもの無いに決まっている。使う才能のない自分は、使う人の事を考えた作成ができない。
焦りが生まれる……それは久しぶりの感覚だった。「作らないといけない」という使命感。だが、久篠乃のもとで作ることをするには、使う人の気持ちを理解できないといけない、使う人に敬意を払えないといけない……。
今でも自分の部屋の机の引き出しに入れてある、シーグラスを思い出す。
――子供は、なにか足りないまま大人になるけど、あとから足せるように、ちょっとずつ頑張っとけばいいよ。
思い出した言葉――あの時は、少し気が楽になる程度だった明日香の言葉。だが今は、別の意味合いを持っていた。
願い、思うことで自身に刻みつけ、人は努力するのだから。
使う才能、使う人への敬意が足りないままに自分は大人になるだろう。だけど、あとから足せるように、少しずつ頑張る事は、今からでもできるのではないか……。
そのためには? 使えるようになるには?
作る事しかできない自分に、どうやって使う才能を育めというのか?
もっとも有効な方法は何なのか――斉明は、答えを探るために、熟考の深淵に落ちていった。
そして斉明は気づけなかった。言った本人すらも意図しなかった、この言葉の残酷な意味に。