きちんと召し上がれ
死ぬかもしれない。
それは、殆んど突発的に実感した。私の身体は、何時も通りに元気に機能しているし、自殺願望も今のところはない。でも、私は死んでしまうかもしれない。何となく、そう思った。同時に、私が死んだらどうなるのだろう、と。
「完全犯罪を達成する方法、知ってる?」
俊がそんな風に自分の知識を披露する時、優越感たっぷりの、恍惚とした笑みを浮かべる。私はその表情が、何となく好きだ。そして私はその表情を愛しく思いつつ、子供をあやすように、それを聞いてあげる。私の下らない発言を、俊が同じように受け入れてくれるように。
「溶かすんだよ」
「溶かす?」
「うん」
いつになく、興味深いことだった。いつもなら、言葉の語源や、テレビで見たくだらない裏技程度の豆知識しか言わないものなのに。私は聞き流すのでは無くて、ちゃんと言葉を理解しながら、得意気に話す俊の話を聞いた。
「万物時間を経れば腐敗するし、腐敗しきったら溶けちゃうだろ。それを使えば、証拠は残らない」
嬉しそうに俊は笑った。
腐敗して溶かすには、膨大な時間がかかるだろうし、第一骨はそう簡単に溶けないだろう。そう思いながらも、私は敢えて何も指摘しなかった。
ただ頭の中で、死体を埋める俊の姿を想像した。俊が人を殺して、溶かして隠蔽工作を謀るなら、私は山へ死体を遺棄する手伝いをしようと思う。一緒に大きな穴を掘るのだ。早く骨まで溶けるように、細かく骨を砕いてやろう。カルシウムを溶かすような薬品が手に入れば一番良いけど、私にそんな化学薬品を手に入れられるようなコネはない。
「じゃあもし私が誤って人を殺しちゃったら、そうする」
「その時は手伝ってあげるね」
俊は、私が俊に対して思ったことと、同じことを思ってくれていた。やはり、私達は、深く結びついている。私は、絆、という甘っちょろい言葉では表現できない程の、頑なな結びつきを頭の中で思った。絡まって解けない針金よりも、もっと頑丈。
もし私が死んだら、俊はどうするだろうか。
ふと考える。私の為に泣き、葬式の手配をし、きちんと火葬してくれるのだろうか。私の身体は燃え尽きて骨だけになり、立派とは行かないかつての先祖達と同じ墓石の下で眠るのだろうか。
嫌だ。私はそんな形式的な葬儀を求めては居ない。
「風邪ですね」
死ぬかもしれない、と思った翌朝、私の喉はがさがさに嗄れてしまい、上手く声が出せなくなった。頭がぽうっとして、意識がはっきりせず、身体が重い。ついに死が訪れたか! と、腹をくくって病院を訪れた。
「抗生物質とトローチ、嗽薬を出しておきます」
額が禿げ上がった医者は、顔色一つ変えること無く、さらさらとカルテに蚯蚓のような字を書いて、看護師の中年女性に手渡した。
「先生、本当に只の風ですか」
「ええ、そうですよ。二、三日すれば熱も下がるでしょう」
「隠してません?」
「何を?」
「死ぬんでしょう、私」
医師は意味が分からないといった様子で私の顔を見、ややあって私を嘲笑うかのごとく口許を緩めた。
「嫌ですね。死にはしませんよ。あなたはまだ若いですし、こんな風邪ごときに敗けやしません。御安心を」
マンションに戻ると、俊がギターを弾いていた。病院まで送ろうかと言ってくれたけれど、きっぱり断った。死ぬ前に、外を歩きたいと思ったのだ。外は都会らしく混雑していて、空気も汚いし、うるさかったけれど、田舎の便が悪い地域よりはよっぽど素敵な景色だと思った。それなのに、ヤブ医者は私に、私は死なないと言った。
俊は身を捻って、私に、お帰り、と言った。ギターを脇に置いて、向き直り、どうだった、と付け加えるように言った。
「うん。死ぬかもしれない」
そう言うと、俊はまた、ギターを抱えて、弦を弄り始めた。アコースティックギター。私と一緒に暮らすようになった時には、既に連れていた。暇さえあれば弄っているけれど、腕前はいまいちである。
「病気なの?」
「うん」
「何ていう、病気?」
「わかんない」
私は冷静だったし、俊もまた冷静だった。私の言葉の真意性を見い出して居ないのだろう。
私はよく、大げさなことを言う。妄想でものを言う時もある。宇宙人に殺されるかもしれないとか、今日家を出ると事故る気がする、とか。何の根拠もない出鱈目。しかし、俊はそれを否定しなかった。私が俊の無駄知識を受け入れるのと同じように、俊も私の出鱈目な言葉を受け入れてくれる。
確かに、私が死の病だということに真意性は無い。私は医者ではない。自分の病気なんて知らない。微熱と、頭痛と、喉の痛みを身体で感じ、風邪だと判断することしか出来ない。しかし、私は死ぬかもしれない。病気で。もしかしたら事故かもしれないけれど。そんな気がするのだ。
「火葬は嫌なのよ」
「火葬?」
「かといって土葬も困る」
「埋葬の話か」
そう、と頷き、私は自分の死後を思った。しかし、そこには私が居ないだけの、平穏な日常があった。この部屋には、俊が一人、あたかも最初から一人住まいだったかのように住まい、下手なギターを演奏している。
「溶かしてあげる」
俊はギターを弾きながら、落ち着いたように笑って言った。
それじゃあ私の痕跡が、何も残らないじゃない。
そう思ったけれど、上手く声が出せなかったので、私は医者で貰ったトローチを一つ、口の中に含んだ。
生っちょろくて、薄っぺらい繋がりなんか、私は望んじゃ居ない。中学生の頃の彼氏のように、ただ格付けが変わった、殆ど友達のような繋がりなら、ちっとも欲しくない。かといって、結婚することや、子供を生むことが最終目的なのかというと、そうでもない。戸籍上の繋がりも、愛の化身と言うべき新生命も、不必要である。愛は非常にメタフィジカルで、一説に論じることも、触れて実感することも出来ない。人間は目に見えないそれに、しばしば翻弄される。勝手に美しいものとして認知し、頻りに欲する。ただし、私の場合、そのような美しさを追求してもいない。
永遠の空間が欲しいのだ。私と、俊だけで築かれた空間。誰かが入ってこようものなら、圧力で押し潰して殺してしまうような、隔絶された空間。
「治らないんです」
薬は飲まずに全て処分した。風邪だというのに、休息も取らず、いつも通りの生活をしていたら、一週間経ってもそれは一向に治らず、ついには拗らせてしまった。がさがさの喉は、悲鳴を上げるようにして順調に悪化し、今では性別の判断が出来ない程、透明感の無い、しわがれた声になってしまった。
医師は驚いたように私を見つめ、困ったようにはげ上がった頭を引っ掻いた後、レントゲン室へ私を追いやった。上半身裸にさせられたかと思うと、冷たい機会に抱きつかされて、数秒間息を止めるように言われた。若い男の人だったけれど、私には興味が無さそうだったし、私も興味は無かった。
「肺炎になりかかってますね」
医師は、白黒のぼんやりしたレントゲン写真を眺めながら、溜め息混じりにそう言った。
「入院しますか?」
「いいえ」
「でも、あんたみたいに、医者の言うことも聞けない人じゃ、治るもんも治りませんよ」
非常にトゲのある言い方をされたが、事実なので私は機嫌を損ねることも無かった。どうやら医者に、薬を飲んで居ないことがバレているらしい。
白いもやの映った、私のレントゲン写真。
あばら骨がいくつも並んで伸びている。
これが私である実感は皆無だった。私の骨がこんな風に私を支えているなんて考えると、身体がむず痒くなった。私を溶かしたら、最後までこの骨は溶けずに残るのだろうか。そう考えると、気分が悪かった。肉が溶ければ、骨が『私』になる。そんなの耐え難い。皮膚も肉も内臓も骨も、全て引っくるめて私なのだ。
「お医者さん」
「何でしょう」
医師は面倒そうに、カルテを書き続けながら言った。
「人の骨は、溶けるのにどれくらいかかるんですか」
医師は、不意な質問にぽかんとした顔をすると、暫く間を空けてから、
「薬品を使えばまだしも、自然に溶かすとなるといまいち判然としませんね」
具体的な数値は述べずに、淡々とそう告げられた。
帰りは、俊が迎えに来てくれた。車は旧式のマーチで、これは随分前に、俊が知人から受け継いだもので、かれこれ十数年乗り回されている。薄い水色の車。最近、エアコンがあまり利かなかったり、エンジンのかかりが悪かったり、様々な不祥事が顕れ始めている。
車内は蒸し暑く、入りの悪いラジオが、ノイズ混じりでかかっていた。今流行の曲が流れているようだけれど、ノイズのせいではっきり歌詞が聞き取れなかった。私が車に乗り込むと、俊は煙草を吸うのを止めて、エンジンをかけた。助手席は、生温いエアコンの風が直接身体に当たるため、エアコンの風向きを反らせた。
「どうだった?」
義務的に、俊は訊く。その顔はやけに平然としていた。だから私も、平然と答えるのである。
「死ぬかもしれない」
同じようなやり取りを繰り返すことに、私は恍惚とする。豆知識を披露する、俊と同じくして、私はどうでも良いやり取りに、大きな幸福を感じるのだ。幼児をあやすように、私の話を聴いてくれる、俊の素っ気無い相槌とか。
「そこでなんだけど、私が死んでも、溶かさないで欲しいの。溶かすのは完全犯罪を犯すまで取っておいて」
私は、自分のレントゲン写真を思い出しながら言った。嫌悪感が募り、声が一層鈍くなる。それもそうだねえ。ハンドルを丁寧に回しながら、軽く笑って俊は答える。
「じゃあ、俺は、きみをどうやって葬れば良いの? 火葬も土葬もダメなんでしょう」
信号が赤になって、旧式マーチは徐々にスピードを落とし、停車線の少し前でピタリと止まった。
横断歩道の上を、黒いランドセルを背負った少年と、赤いランドセルを背負った少女が、元気良く走って渡って行く。
彼らは気付いていないかも知れないが、彼らも、いつか死ぬのである。
そして火葬なり土葬なりされて、永久に葬られる。ただ私は、そのような画一的な埋葬方法を望んでは居ない。況してや、犯罪を隠蔽する時と同じ方法で葬られたくもない。私は、俊と永久なる空間を作り上げたいのだ。他人が入り込むことの出来無い密室。彼と私がアダムとイヴになって、創造する、世界。
「私を食べて。骨まできちんと」
俊は、驚いた様子もなく、ただ私の顔色を少しだけ窺ってから、のんびりとした笑みを見せた。
「それは、素敵だね」
「でしょう」
完全に一つになれる方法は、結婚でもセックスでもない。皮膚を、肉を、血液を、骨を、全て相手に捧げることだ。彼の血となり肉となること、それが本来あるべき幸せで、私はその中で一生生き続けるだろう。彼との永遠の空間を築き、誰かが介入しようものなら圧死させ、私達は完全に一つになる。
あなたを構成する細胞は私。
なんと素晴らしい事実だろうか!
「帰ったら、歌を歌ってあげる。一曲、作ってみたの」
俊はそう言って、アクセルを踏んだ。青に変わった信号の下を、薄水色のマーチが駆けていく。
勘弁してよ、そう言い掛けたけれど、喉が詰まって声が出なかった。だけど今度はもう、トローチは舐めなかった。