月の兎
むかしむかし、あるところに、猿と狐と兎がおりました。その3匹は仲良く、山で一緒に暮らしていました。
そんな時ある日、お腹をすかせたおじいさんが山に迷いこんで来たのです。3匹はおじいさんを助けてあげようと思いました。猿は木の実を集め、狐は川で魚を捕まえ、おじいさんに渡します。
けれど、兎は何も取ることができず、自分にできることを必死に考えます。そこで、あることを思いついた兎は、猿と狐に手伝うようにこう頼みました。
「火を焚いて、僕をその中に入れておくれ」
嫌なことがあると、どうも外の、しかも夜の空気が吸いたくなる。その日もそんな理由で出歩いて近所の公園に逃げ込んでいた。
ブランコに乗ったりベンチに座ったりすると、闇と一体化して自分の存在が消えたような気になる感覚が好きだった。自分がこの世界から消えてしまったような錯覚に陥るのは堪らなく落ち着く、そんな困った少女は目の前の光景を疑わずにはいられない。
公園の真ん中に、10歳くらいの少年がこちらに背を向けて立っていたのだ。半袖に短パンというとてもラフな格好で、露になっている真っ白い腕や脚は、月明かりに照らされたためにその白さを増し、妙に艶かしくて少女は思わず生唾を飲んだ。
我にかえれば、こんな子供がこの時間に外を出歩くのはさすがに黙ってはいられない。思いきって話かけることにした。
「君、1人なの? 危ないから家に帰ったら?」
少年は顔だけ振り返る。やはり、まだあどけなさの残る小学生くらいの子供である。
少女の存在を確認すると、少年は体もこちらに向けて、2人は向き合う形となった。
「…ねえ、私の言ったことわかった?」
少年があまりにも無反応だったため、少女はもう一度問う。すると、少年はにっ、と笑うと、いきなり駆け出した。
ことの理解に少女は苦しんだが、このまま放置するのも良心が痛く、ちらちらと後ろを見てこちらの出方を伺う少年を捕まえようと走り出した。
「ちょっと…ちょっと待ってよ」
これではまるで鬼ごっこだ。折角気持ちを沈めるために来たのに、時間の無駄になってしまう。そんな気分であった。
小学生相手に大人げないとは思いながらも、全力を出して少年を追いかけ始める。
「――捕まえたっ」
限界まで腕を伸ばして相手の首根っこを掴む。思ったよりも時間がかかり、まだ高校生ながらも衰えを思い知らされる。
「…さあ、帰ろう。お家まで送ってくから」
荒い呼吸のまま、もう解放されたい思いで、別れを促した。
「…お姉ちゃん。名前、なんて言うの?」
口を開いたと思えば、いきなりそんなことを聞いてきた。
「え…い、十六夜だけど…」
「いざよい?」
「そう、十六夜。さ、帰るよ」
半ば無理矢理に少年の手首を掴んだが、少年はそこから動くことを無言で拒む。
「僕はね、ツキっていうんだ。…ねえいざよい」
そう言って少女を見上げるその瞳が、どうも子供らしくない憂いを帯びていて、つい、掴んでいた手の力を緩めてしまう。
「明日も来てくれない? 夜は1人でつまんない」
「…あ、いざよい! 来てくれたんだ」
昨夜と同じ時間に公園に来てみれば、ツキは十六夜の姿を見つけるなり、跳ねるように走って来た。
「ねえいざよい、お話しようよ」
そう言うと、ツキは彼女の手を両手で掴んでベンチへと十六夜を連れていく。
夜は1人だからつまんない、その言葉には何か、自分なんかが踏み込んではいけない事情があるのではと思った十六夜は今宵、この場所でまた会う約束を取りつけ、ツキの相手をすることにした。
「いざよいの話してよ」
つぶらな瞳でそんなことを言われる。
「話って…何を話せばいいの?」
「なんでもいい。いざよいのことが知りたい」
取り敢えず、学校のことを話した。嫌いな教師の愚直っぽいことや、最近起こった十六夜なりの面白いと思ったことを、出来るだけ言葉を柔らかくして語った。
「ツキ、こんなことでいいの?」
不安になって尋ねると、少年は満面の笑みをみせてくる。
「すごく楽しい。僕に構ってくれる人なんていないから」
十六夜は心が痛くなった。こんな子供が、なぜ無理して笑っているのだろう、そんな思いで一杯だった。
「あっ、いざよいが思っているようなことじゃないんだよ。もっと別の理由」
「じゃあなんなの? ツキ、答えて」
ツキ、答えて。この、自分の発言が何か引っ掛かった。大分昔に、同じことを言ったことがあるような、そんな感覚だ。
ーー私、前にツキに…会ったことがある…?
「…ねえいざよい、お月様に兎がいるっていう話の、ルーツとなる出来事のことを知ってる?」
ツキはいきなり、そんな話題を切り出した。その瞳にはやはり、憂いしかないようで…。
「ルーツ?」
「そう。あれは元々、こんな昔話から来ているんだ」
ーーねえツキ、知ってる?
頭の中で、何かの光景と言葉がフラッシュバックする。狭苦しい空間に小学生の少女が1人、白く丸い物体を抱え、それに話しかけている。しかも、その物体を、確かに「ツキ」と呼んだ。
…これ…私の…。
「ーーむかしむかし、あるところに、猿と狐と兎がおりましたーー」
兎はなんと、自分の肉をおじいさんに食べさせたいと言い出したのです。
もちろん猿と狐は、兎を必死で止めました。けれど兎の想いは固く、何を言われてもやると言って聞きません。
諦めた猿と狐は、兎の言うことを聞き、木の枝を集めて火を焚きます。火が自分たちよりも大きくなったころ、兎は火の中へと入り、残った2匹は泣きながら、兎が燃えていくのを見、兎の苦しみながらあげる悲鳴を聞いています。
そして、火が小さくなっても、2匹が何度呼び掛けても、兎が返事をすることはありませんでした。
しかし、その光景をおじいさんはずっと見ておりました。みすぼらしい格好をしたこのおじいさんは、実は人間ではなく、仏様が人間に化けた姿だったのです。
仏様は兎の優しさに感動し、その魂を、せめてものお詫びとして月へと届け、兎はそれから、月で暮らすようになり、猿と狐を見守っていきましたーー。
3匹は仏様、もとい帝釈天という仏教の守護神と出会う前に、自分たちがなぜ獣の姿であるかを考えた。
たどり着いた答えは、自分たちの行いがよろしくないのでは、ということ。悪いことをしているから天が罰を与えている、だから、良い行いをすればいい、優しい心を持てばいい。そんなものだった。
だから、弱った者を助けようとしたのだ。兎は、自分のやり方が正しいことと信じて、その身で優しさを証明しようとし、月へと召された。
月の兎とは、身を捧げてまで人間を助けようとした、やり方を間違えた兎の成れの果てなのだ。
「ーーていうことなんだよ」
ツキは話し終わると、こちらを向いて微笑む。
十六夜は、どうも胸の引っ掛かりが取れないでいた。
…今の話、どこかで聞いたことがある…いや、話したことがある…?
「いざよいは、この兎のこと、どう思う?」
「…私なら、自分の肉をあげたいなんて思えない。私なんかと比べ物にならないくらいの、覚悟と優しさを持っていると思う」
ーー兎さんは優しいの。私なんかよりも全然…。
まただ。また何かが耳の奥に響く。
「…よかった。いざよいは全然変わってないや…」
「その言い方…。やっぱり、あなた前に私と会っているんじゃ…」
ーーあれ、ちょっと待って。ツキ…月…?
「あなた白くて丸くて、お月様みたいだから、名前は『ツキ』ね!」
狭苦しい空間、埃と草と、動物臭さが漂う小屋の真ん中で、少女は手中の兎を「ツキ」と呼んだ。
長年使われていなかった兎小屋に、住居者が決定した。担当は、とあるクラスの生徒数名、中でも、とびきり張り切る女子生徒がいた。
少女は毎日ツキのもとを訪れた。自分が担当の日でなくても手伝いをしたり、当番の交代を求められた時は快く引き受けた。
いつしか、他の生徒はツキの世話をサボるようになったが、この少女だけは何よりもツキを優先させた。友達と遊ぶことよりも、家族との旅行よりも、ツキの相手をしていたのだ。
「私は、あなたを独りにしないから」
ある日、少女は風邪をこじらせてしまい、学校を休まざるを得ない状態に陥っていた。こればかりは両親も娘を止め、少女もそれに従った。
次の日、教室よりも先に兎小屋に向かった少女は目の前の現実を疑った。
ツキの様子が明らかにおかしい。横たわっていたのだが、身を丸くして寝るツキにしては珍しい格好であり、寝ているというよりは伸びているようであった。
体を触ってみれば、雪のような冷たさだった。呼び掛けてもいっこうに目を覚まさず、慌てて教師を呼びに少女は駆け出した。
小屋の扉には、昔空いてしまった穴を塞ぐために、そこだけ木の板で補強されている。教師が確認すると、その板に血痕が残り、さらにはツキの頭の毛が一ヶ所だけ血で固まっていた。
ツキは過って頭をぶつけ、そのまま途絶えた、その事実が受け入れられなくて、少女は悲しみにくれる日々を過ごしていくこととなるーー。
少女の名は、十六夜、だ。
十六夜の頬に、一筋の涙が走る。
忘れていた。あんなにも悲しかったのに、いや、悲しいから思い出したくなかった。ツキの死が信じられなくて、記憶に留めておきたくなくて…。
「いざよい、なんで泣いているの?」
少年が、十六夜の顔を覗き込むように見てくる。見覚えのある真っ白な肌が、とても近い。
「…ツキ? ツキなの…?」
「ーー僕は、いざよいが元気かどうか知りたかったの」
そう言いながら、ツキは後ろに数歩下がる。
「僕ね、いざよいと一緒にいるの楽しかったよ? でも、君は僕のために自分を犠牲にしすぎていたんだ。…嬉しかったけど、どうも痛かった」
ツキが両手を広げて、その場でくるりと廻る。月の光が、まるでスポットライトのようだ。
「さいごにお話出来なかったのは残念だけど…それでも、いざよいの顔を見たら、もっと一緒にいたいって思っちゃうと思ったから…」
…ツキの言い方、これではまるで…。
「いざよい、もうダメみたい」
ツキが憂いを込めて笑う。笑っていても泣いているような、そんな笑顔だ。
「ーーじゃあね、いざよい」
ツキの体が青白い光に包まれ、少しずつ、少しずつその光が天へと上っていく。ツキの足が、どんどんなくなっていった。
「待って、ツキ。ーー私達は、また会える?」
ツキの体は、上半身だけとなった。
「…君が僕のことを忘れて、元気がなくなった時に、もしかしたら会えるかもしれないよ?」
「ーー残念だなあ。それならもう会えないや。だって…」
胸から上しか存在しないツキは首を傾げる。
少女は長い深呼吸をして、笑顔でこう答えた。
「だって私、あなたを忘れるなんて馬鹿なことしないもの」
ツキの全てが光の塵となり、本当の月へとそれが誘われる。少年の姿が見えなくなってもなお、まだその声は少女に届いていた。
「また会えたいけど、君に忘れられてほしくない。そう思う僕は、なんて我が儘なんだろうね」
ーーけど、僕が君の妨げになるなら、さっさと忘れて前を向くんだよ。
「あなたが私の妨げ? 大切なあなたを忘れた私にそんなことを思う資格はないし、絶対に、思うこともないよ」
少し欠けた月を見上げる。そこでは、呑気に一匹の兎がこちらを見下ろしていたのだった。
「ーーね、ツキ。悲しいお話だよね? 兎は人のために自分の体を差し出したんだよ。でも、そんなことができる兎って、とても優しいんだろうね」
月の兎。それは、身を呈して優しさを示した、悲しくて、勇敢な、兎の話ーー。