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風香るフルムーン・ポイズン

作者: ゆーう

 私は太陽を見たことがない。

 五十人もいない小さな村で産まれた私はずっと村の上にある洞窟の中でほとんど人に会うこともなく暮らしている。

 たまに村人が洞窟の入り口から大きな声で話しかけてくれたりするが、私は人間に接触してはいけないときつく言われているので、大人しく洞窟の奥に作られた広いスペースの中に反響する声を聞いて、言葉を返す。

 私はお母様と同じ死に至る病に侵されている。だから私もたぶん死ぬのだろうけど、私にはお母様と違って素敵な殿方とは出会えていないため、子を残すことができない。

 それは寂しいことなのかもしれないが、私は産まれてすぐにお母様とは会えなくなって寂しい思いをしたのだから、私のような子を産まなくて済むので幸福なのかもしれない。

 きっとお母様は私を残して逝ってしまわれたことを、天国で酷く後悔していただろう。

「オリコ、おるかい?」

 毎晩、私の身の回りの世話を焼いてくれるババ様が、村人の中で唯一、私が住む洞窟の奥まで入ってきてくれる。

「おります。ババ様」

「今日もよく言いつけを守ったの」

「そんな約束を破るような子供じゃありません。私ももう大人なんですから」

 現在はもう太陽がすっかり沈んだ夜の時間。

 太陽が沈むと、私の鼻腔を刺激する匂いが消えるのだけれど、その悪臭の正体をババ様に聞くと、それこそが私の抱える病気――毒なのだと言う。太陽に当たるとその毒が出てしまうため、私は隔離されているのだ。

 夜になれば村人たちは乾拭き屋根の家の中で囲炉裏に火を灯して明かりを取り鍋を作る。

 今日は雉が取れたという声が聞こえたから、きっと村のあちらこちらの家で雉鍋が食べられているに違いない。

「ほれ、夕餉の前に外に出るかい?」

「ええ、そうさせてください。ここは陰鬱な空気が垂れ込めてますから」

 いくら山で雨が降ろうと水が漏ることはないし、小動物や昆虫が迷いこんでくることはないため、すっかりこの洞窟には私の匂いが染み付いてしまっている。

 ババ様の差し出してくる細長い枝を掴んで、私は足元に気をつけながら歩いていく。

 私は産まれつき視力が弱い。

 完全に見えないなんてことはないが、産まれた時から弱視で、幼い頃から太陽もまともに浴びていないので体は弱る一方。

「わあ、気持ちいい。今日は風で草木がそよいでますね。料理の匂いだけでなく、森のずっと向こうの甘い果実の匂いもします」

 眼下に薄っすらと民家から漏れた火の明かりが、ぽつりぽつりと、あちらこちらに見て取れる。

「そうかい。オリコは目が弱い分、耳や鼻が人一倍いいから助かるわい。明日、村の若い連中に風上の方の森に入るように言っておこう。なにか良い物が採れたら、ちゃんと差し入れるからの」

「ありがとうございます、ババ様」

 弱視で村の様子はまったく見えなくても、洞窟の中にいた時よりも料理の匂いが漂ってきて空腹の胃袋を刺激する。

「ほれ、あまり前に出るでないぞ。下に落ちたら死んでしまう」

「ババ様、私は生きていない方がいいのでしょうか?」

「なにを言う」

「だって私はお母様と一緒で遠からずに死ぬのでしょう? 子も残せぬまま」

「……そうかも知れぬ。村の者を怖い病気や感染症から守るようにオリコを洞窟の中に隠しておるのも事実じゃ」

「知っています。私は贄なのでしょう」

「オリコ、月は見えるか」

 左上を見上げれば、一際明るい黄色の光が見える。やっぱり私の目ではぼやけてしまうけれど、その明るさは月にしかない明るさだ。

「はい、見えます」

「明日はオリコが産まれて十八年目の満月じゃ。結婚、せんか?」

「私のようななにもできぬ、一人で生きられぬ女が結婚なんて――相手もおりません」

 村人の何人かの声は聞いていても、その顔は弱視とは関係なしに見たことがない。誰も近寄って来ないのだから。

「それに私の患う病もお忘れでないですか? お母様がそうであったように、私と一緒になったらお父様のように相手の殿方も殺してしまいます」

 わかっていたはずなのに、お父様はお母様と一緒になって結婚をして、私を授かったが、私が産まれるずっと前にお父様は亡くなり、お母様も私を産んですぐに亡くなった。

「他の者は近づいただけで私の持つ病――いえ、この毒に侵されてしまいますのに、ババ様は私に近づいても平気なのですか?」

 ババ様は亡くなられたお母様の代わりに私を実の娘のように育ててくれた優しい人だ。

 そんなババ様にこの洞窟で育てられ、色々なことを教えてもらい私は外の世界に出ても生きていけるだけの知識を与えてもらった。

「前にも話したが、私はお前の母親の世話もこうして焼いていた、この村の世話焼きババ様じゃよ。ふぇっふぇっ」

 歯の間から空気が抜けたような笑い方をするババ様の笑い顔を私はずっと見てみたいと思っているけれど、きっとそれは叶わない。

 だって私にはババ様に触れることすら許されないのだから。

「どうじゃ? 結婚する気があるのかえ?」

「できるものならしたいですけど……私は面と向かって殿方と話したことがありません」

「オリコの境遇じゃ仕方なかろうが、だがオリコのことを知っておる男は何人といる」

「村の方ですよね?」

 彼らは私に楽しい話を聞かせてくれようと毎日誰かしらが代わる代わるやってきて、洞窟の入り口から声を響かせて、今日の天気から狩猟での収穫物、私が感じた匂いや気配の先にいた動植物を手にした喜びと感謝を気分よく話してくれる。私はそれを聞いて、今日も役に立ててよかったと思えるのだ。

「そうじゃ。お前のことをよく知っているし、お前の両親のことだってな」

「ですが、私のような目の不自由な――洞窟からもまともに出れず、太陽の下を歩けない女では」

「それでもお前を好いてくれる人がいくらでもおる。お前を必要としてくる人もな」

 相手の顔は見えないが、殿方も私の顔を知らない。でも声だけは何人も知っている。

「なにもできない私なんかでも、いいのでしょうか?」

「オリコはなにもできないなんてことはない。お前のその力で村人がどれだけ助けられているか考えてごらん。幸せになる権利は、誰にも平等にある。人の村への貢献の仕方など、それぞれじゃ」

「幸せになる権利……私にできること」

 その時、不意に私のお腹が鳴った。

「ふぇっふぇっ、夕餉にしようかい」

 振り返れば洞窟の入り口に一包みの布と竹筒がある。その中に小麦のパンと火で炙った動物の肉(今日は雉かな)。そしてヤギのミルク。私の今日の夕飯だ。匂いでわかる。

 これらは全部、村――正確には私から離れた場所にある森の中から運び込まれる。この村では、私のせいでなにも育たないから。

「目が見えない私は耳と鼻が役立つ」

 それで殿方の狩猟の役に立てるのであれば、料理のできない私でも、誰かの役に立つことができるし、もしかして結婚だって。


 翌日の朝は早くから村が賑わっていた。

「誰か、誰かいませんか?」

 長い洞窟の中を壁に手をつき、手探りで進みながら、視界がほんの僅かに白んだのを確認して足を止める。

 日中にあまり外に近づきすぎて太陽の光に焼かれると私の体にある毒素が表に出て、人を死に至らしめてしまう恐れがある。

「お目覚めになられましたか、オリコ様」

 洞窟のすぐ外にすでに誰かが待機していたようで、私の声を聞いて言葉を返してくれた。

 私は自分の体から出ている毒でその人を殺してしまわないように無意識に半歩下がる。

「表の騒ぎは……まさか、猪か熊でも出たのですか?」

「いえ、今宵の結婚式の準備です」

「どなたが結婚されるのですか?」

 私はこの村の、表に猟に出る殿方の声を何人か聞いているが、私と同じ女はババ様しか知らない。ババ様が言うには、女は家のことで忙しいから滅多に外には出ないと。

「ははは、おかしなことを言いますね。本日結婚するのはオリコ様ですよ」

「わ、私ですか?」

「はい。オリコ様の挙式が本日行われます。無論、オリコ様が夜間にしか外に出れないのを知っていますので、それに間に合うように準備を整えておりますのでご安心ください」

「いえ、そうではなくて……私は一体誰と」

「ご存知ありませんか? ヒシメ様です」

「……生憎と存じない名前です」

「そうですか、ヒシメ様はオリコ様と同じ病気を患っておいでです」

「私と?」

「はい。触れた者を殺めてしまう毒病」

「そんな……! でも、それでは」

 私は死んでしまうではないか。

「オリコ様の亡くなられたご両親はオリコ様だけでなく、ヒシメ様もお産みになられたのです」

「それはつまり……私のお兄様?」

「どちらが先かは産婆がその場で死んでしまわれたのでわかりませんが、双子と聞いております」

「ヒシメ様も私と同じ毒病を?」

「はい。ですが、ご両親も同じです。そして元気な双子を残されました」

 それが今の私と、顔も存在も知らなかったお兄様――いえ、私の目では元々人の顔など判別できないのだから、相手の姿など大した問題ではない。だけれど……。

「ご両親も、この結婚の当日になって互いが双子であることを知らされたのです」

「お父様とお母様も?」

 二人のことに関する記憶は一切なくても、そこにいて、私をこんな体にででも命を懸けて産んでくれたことは確かなのだ。

「はい。お二方共、それまでの生活が孤独であったことや、その日まで互いに存在を知らなかったこともあり、また愛すべき他の村人を守りつつも、子を残すという夢を果たすため、迷いつつも結婚を英断されました」

 私は驚いているが、それ以上になんとも言い知れぬ感情に心が支配されている。

 孤独だった世界に明かりを灯してくれる存在が――私の孤独だった心の隙間を埋めてくれる、私を受け入れてくれる存在。

 私の毒を受け入れてくれるのは、私と同じ毒を同じように体内に宿したお兄様。

 同じ悩みや悲しみを知るお兄様は私と同じように孤独の中での死を覚悟していたのかもしれないが、お母様とお父様と同じように同じ境遇の人間同士で結婚すれば他の誰かを悲しませなくて済み、私もお母様と同じように幸せな一人の女として死ねる。

「……もしかして、お母様はお父様の毒で、お父様はお母様の毒で亡くなられたのではありませんか?」

「そうです。ご自身の毒では死にません」

「……そうでしたか、わかりました。本日の結婚式、よろしくお願いしますとお伝えください。私は奥にいます」

「わかりました。ではまた後ほど」

 明かりをまともに見れない私の瞳は、未来と過去にある闇の深さを知って涙した。

 洞窟の壁や天井に頭をぶつけたり、石に蹴躓いて転んで痛みで泣くことはあっても、心の苦しさで泣くのは初めてだ。

「苦しいよ……痛いよ……」

 自分の鳴き声が洞窟に反響して、余計に悲しさを増幅させる。

 お母様もお父様も、本当は昨日までの私と同じように孤独の中で死んでいくことを、誰にも迷惑をかけないために死ぬことを望んでいたかもしれない。

「それなのに……! 胸が苦しい」

 私と同じ立場の人間がいるとなれば、私の心は希望を求めてしまう。

「私はわがままなのでしょうか? このまま逃げてしまった方がいいのでしょうか」

「――俺と一緒に逃げないか?」

 唐突に聞こえた、聞いたことのない殿方の声に驚き、泣いていた顔を見られまいと無意識に目を擦って声のする方から顔を逸らした。

 私は相手の顔など見えないのに顔色を窺うようなことをするなんておかしなことだ。

「どなたですか?」

「目、見えないだろ。俺が誰かなんて関係あるか?」

「声と足音で知らない人だとわかります」

「そういうの、すげーな」

 ついでに、そんな乱暴な言葉も、必要以上に大きな声を出して喋る殿方も私は知らない。

「俺はアルってんだ。この村の外でヤギを飼い、畑を世話し、村人の食べ物を作ってるんだ。オリコの口にするものもだぞ」

「そうでしたか。しかし馴れ馴れしいです」

 はっきりとは見えない目でその姿を見ても、やっぱりぼんやりと、そこに誰かがいるというのしか見えないが、目の前に差し出されている肌色はたぶん手だ。

「私に触れると、あなた死にますよ」

「なんで?」

「なんでって……私の体からは目に見えない毒素が出ています。その毒素を私はお母様のお腹にいた頃から発生させていたことで、自分の目をやってしまいました」

 自分の毒では死なないお母様も体内に残った私の毒で亡くなられてしまったのだろう。

「人間が毒ってお前、馬鹿なのか?」

 なんて酷いことを言うのかしら。

 殿方はみんな優しい人ばかりだと思っていたのに、この人は私のことを馬鹿にしているし、言葉も乱暴でちっとも優しくない。

「でもさ、毒草だって使い方によっては薬にもなるんだぜ。知ってるか?」

「知りません!」

 私が匂いを判別できる草は食べられる物だけだ。その種類は村内で嗅いだ事があり、それがどのような方法で食べられたり、薬として使われるのかババ様に教えられたものだけ。

「まあいいや。でさ、ここで今なにが起ころうとしているのか聞いていいか?」

「村の人間なのに知らないの?」

「俺は村の食い物を作ってても、ここには住んでないからな。それよりここ村なのか? 見た感じ、里っぽいんだけどな」

「私は教えられたままのことしか知りません。目が見えないので」

「で、あんた逃げねーの?」

「なにから逃げると言うんですか?」

「外のやつらが話してたけど、お前このままじゃ死ぬんだろ?」

「あなたになにか関係あるの?」

 私がどんな気持ちでいるかもしれない癖に。

 悲しみや苦しむで初めて涙を流したように、今目の前の誰だかわからないアルという男の人に対して怒りを覚えている。

 悲しみも怒りも初めてだ。

「放っておけねーんだ」

「この洞窟に人が勝手に入ると死んでしまうんですから、早く出てください」

「だからなんで?」

「この洞窟の中を見てわからないの? 動物も虫もいない。それは私の体の毒素が蔓延しているからよ。だから人は入って来れないし、私も人がいる時間は外には出られない」

 捲くし立てるように早口で、声を張って喋るというのは疲れるものだ。

「お前は毒を持ってるって言うけど、どこか体は悪いのか?」

「目が悪いって言ってるじゃない」

 何度言っても、この人は聞いていないのではないか、私がこんなにも怒っているのに意に介さないし、ババ様に見つかったらどんなに怖いか、この人はわかっていない。

「人間、産まれた時から目が悪いこともあるさ。知ってるか? 森の中にいる猿なんだけど産まれた時から右足がねーんだ。でも、母猿の腹にしがみついて元気に生きてるぞ」

「私を猿なんかと一緒にしないで!」

 ふぅーふぅー、とまた息が荒くなる。

「猿だって生きてるのに、お前は生きるのを諦めるのか?」

「お前お前ってやめてよ。私にはオリコってお母様がつけてくれた名前があるんだから」

「そのお母様のためにも、オリコを大事に思う他の誰かのためにもオリコは生きないのか? 死ぬ運命を選ぶのか?」

「……帰って」

「だからさ」

「帰ってよ!」

「逃げたくなったら俺の名前を呼べ。いつでも連れ出してやるよ、お前の墓場からさ」

 私には他人を非難する言葉が見つからない。

 嫌いなんて言葉使ったことがなければ、嫌いになるほど、私は彼のことを知らないが、私が口にするものを作ってくれる人だ。

 私がここから村人を助けるように、彼は村の外から私たちを助けてくれている。

「アルって言ったっけ。変なやつ」

 もう二度と関わりたくないわ。けど……ほんの少しだけ悲しい気持ちが晴れたかな。


 太陽がすっかり沈む頃には元より光の及ばない洞窟の中の空気も、ひんやりとし、心なしか風の音も静かになる。

「オリコ、召し物を代えようか」

「ババ様……。今日はいきなり色んなことが起こって、正直私にはついていけません」

 昔からそうであったように私はババ様に着替えを手伝ってもらい頭から被るだけの布と違い、今着せられた服はずっしりと肩に重みを感じ、また丈も長い。

「今日ばかりは特別じゃ。オリコのお披露目でもあるし、婚約者とも会える特別な日だ」

「私は外に出てもいいのでしょうか?」

 新しい服は肌がちょっと痒いけれど温かい。

「無論じゃ。オリコの目のために、今日は村の若い連中が、オリコのその目にも見えるように工夫してくれたんじゃ。見て驚くなよ」

 ババ様は笑ったけれど、私は誰かを殺めてしまわないか心配でいっぱいだった。

 ババ様の持つ枝を握り、真っ暗な洞窟の細道を通り抜けると、そこは夜とは思えないほどに綺麗な光で満たされていた。

「わあ。なんですか、これは」

 空を見上げれば昨日も見えた黄色い月が昨日よりも近くに見えるし、足元を見れば私の目には僅かにしか見えない星よりもたくさんのオレンジ色の光が見える。

「火を灯して、オリコの晴れ道を作ってくれたんじゃよ。夜にしか出られない、オリコのためのものじゃ」

 眼下を見下ろせば、数えられないだけのぼんやりとした明かりが、まるで私を導く導のように置かれている。

「足元の光を頼りに自分でお歩き。その先に、オリコの兄ヒシメがおるよ」

「はい……」

 私は今日初めて、この村がどんな形をしているのか知った。

 この光の導がそのままであるのなら、私のいた洞窟は崖の上。いつも足元を注意しろとババ様に言われていたように、足元に目を凝らして光の先を見れば半円を描くように村の中心に向かって光は下りていく。

 私には村と里の違いはわからないけれど、アルは私の住む村を見て、里と言ったのだ。

 小さな歩幅で光の間を歩いていく最中も、背後や真上から殿方たちの声がいくつも聞こえるが、やはり女性の声は一切聞こえない。

 しかし光の筋を辿り、傾斜の道が平らになると細長く、真っ直ぐな道が正面に続き、少し離れたところに丸い光の輪が見え、向こう側から誰かが近寄ってくる足音と、聞いたことがない女性の声が聞こえる。

 この村ではもしかして、殿方と女性は別々に暮らしているのではないだろうか。

 私は、その一本道の前に立って足を進められなかった。

「ババ様、ババ様!」

 私が心の底から頼れる人はババ様しかいない。なにが、とは言えないが違和感を感じてしまったのだ。

 それはアルの言葉のせいがあったのも無関係とは言わないが、弱視の私がなにも知らない世界に、ババ様の手の届かない世界に自ら踏み込もうとしている。

「どうしたんじゃい?」

 足音とともに近づいてくるババ様の声に私の声は酷く安心感を覚える。

「不安なのです。私、向こうに近づくことが怖いのです。向こうにいるのでしょう? 私のお兄様、ヒシメ様が」

「ああ、もうすでにオリコを待っておるぞ」

 ババ様はヒシメはオリコと同じように村の反対側の洞窟に閉じ込められていたとは思えないほどに生気溢れる端整な顔立ちで、他の女子たちの憧れの的だと教えてくれたが、私が聞きたいのはそういうことではない。

「二人で話してくるといい。村の中心でなら二人きりになれる」

 聞けば、この細い道を一歩でも踏み外せば奈落の底に落ちてしまい、そこには私が発する毒よりも強い毒が蔓延していると言う。

「い、いってきます」

 声と足を震わせながら私は一本道を進み、どうにか広い空間に出ると、正面に立つヒシメ様が一歩近づいてくる。

「オリコ、驚かないで聞いてくれ」

「お兄様なのですか? お会いできて――」

「そんなことどうでもいい。君は今すぐに、この里から逃げるんだ。今しかない」

「どういうことですか? 逃げるって、私は目もまともに見えないのですよ?」

 どこかに行くなんて無理な話だ。

「アルを呼べ。あいつならオリコを助けてくれる」

「なぜそんなことを言うのですか?」

「この里に伝わる、オリコにかけられた呪いの正体を話す。君のような人が、こんな辛い目に合う必要はないんだ」

「お兄様、どういうこと?」

「この里の地中深くには毒ガスが蔓延していて、ここに住む人間はみんなが同じようにその毒に侵されているが、私やオリコのように洞窟の中で隠されていた人間は毒に侵されていない」

「私は外に出ていますよ?」

「それは今のような夜の時間だろう。地中にある毒ガスが反応するのは太陽の日を浴びている時間だけだ。だからこの周辺では作物は育たないし、育ってもそれを食べるしかない。なにより肉を食べたくても動物は近寄ってこないし、果物だって実らない。だからこんな中心が窪んだような形の集落を作り、毒を外に逃がさないようにして生活し、僕やオリコの食べ物は里の外から入手しているんだ」

「そんなのおかしいですわ。それが本当なら、ここから逃げればいいじゃないですか」

「逃げる先などないさ。僕のいた村で疫病が蔓延し土地が死んだ。原因は、この里の呪いだと言われている」

 そんなのがおかしいことぐらい、世間を知らない私にだってわかる。

「この里の連中は、毒に侵されていない男と女の子を外から攫ってきて、成熟したその体に毒を受けさせて、贄として穴に捧ぐ。僕やオリコがそれだ」

「私は毒に侵されていないのですか?」

「僕もだ。女たちにずっと管理されていた。逃げようと思えば逃げれたが……僕がいた村はここより酷かった。兄や両親は飢えて死んだ。ここと違ってまともな食事などできなかった。僕は少なくとも、腹を空かせず、餓死しない今を幸せだと思ったんだ」

「お兄様も、幼い頃にこちらに連れて来られたのですか?」

「だから僕はオリコの兄ではない。両親が双子同士で結婚をしたなんて、常識を知らないオリコの逃げ道をなくすための嘘だ。毒に侵されていない僕たちは、この里以外に行く宛てのない人間たちの贄でしかない」

 この里にある毒ガスやヒシメ様のいた村で起きた疫病など、不幸なことを鎮めるための贄として、私はこの里に攫われてきた?

「そんなの信じられません。ババ様は優しかったんですから」

「オリコは目がほとんど見えないんだね。僕の顔、何色に見える?」

「黄色ですか」

「肌色ってんだ。だが、光の下で見るこの里の連中は、みんな顔だけでなく肌のあちらこちらが毒に侵されて紫や緑をしている。ババ様がオリコに触れないのは、オリコの毒が怖いのではなく、成熟するまでオリコを毒に触れさせるわけにはいかなかったからなんだ」

「私が毒を持つのではないのですか? この目は? どうして見えないのですか?」

「それは産まれつきのものなんだろう。僕も産まれつき足を怪我していて走ることはできず、疫病のせいで心臓が弱い。そういう体の不自由な赤ん坊を他の村から攫って来て、毒に侵されていると教え込むのだ。善意を振りかざした悪意だ」

「私、どうしたら? ヒシメ様の言葉、信じていいの?」

「もう一度言うアルを呼べ。お前をここから連れ出すために動いてる」

「でも、そうしたらその呪いは……」

「人間が死んで呪いが消えるわけない。この大地は死んでいるんだ。元々人など生きられないんだ。日が上る前に、早く行け!」

「ですが、ヒシメ様は?」

「僕は一人ではまともに歩けないんだ。足手まといになるし、今まで確かに幸せだった。今日この後死んでも構わない。だが君は、もっと世界を見るべきだ。優しい世界を――」

 その時、背後だけでなく正面からも無数の足音が近づいてきた。

「もう終わりだ。さあアルを呼べ!」

 目の前にいるヒシメ様はお兄様ではない?

 では、ババ様や村の殿方から教えられた話というのは全部嘘?

「アル! 教えて! 私に本当のことを教えて! この世界はなんなの?」

 聞こえてくる無数の足音に恐怖して叫ぶと、どこからか一陣の風が吹きつけ、足元の火の明かりが揺れた。

「まったく遅いんだよ」

 足元、崖となった場所からアルが上ってきて、怒ったように言う。

「こいつらの鼻を衝く腐乱臭に耐え切れず、毒沼に落ちるところだったぞ」

「アル……あなたは私に外の世界を見せてくれるのですか?」

「アルじゃなくて、昔みたいにお兄様とか呼んでくれると嬉しいんだけど覚えてないか」

「え? きゃっ」

 世界がひっくり返ったかのように私の体がぐるんと動き、それが抱きかかえられたと気づくのに、首を上に向けなくても夜の闇と無数の星と一際明るい月があるのがぼんやりと見えてわかった。

「人に触れてる……温かい」

「行くぞ。ヒシメ、じゃあな」

「ああ、アル。兄妹仲良くな。ここは僕に任せろ。悪しき風習はここで絶つ!」

 私の知る殿方、私の知らない女性、そしてババ様の声がどんどん遠ざかるが、私は振り落とされまいと、闇を走るアルに必死にしがみついた。

「説明してください、アル。私は……」

「ヒシメは村での俺の友人だ。俺こそがお前の本当の兄だ」

「お兄様なのですか?」

「だから言っただろ。ずっとお前を救える機会を窺っていたんだ。ヒシメの方の警備は緩いから何度も忍び込めたけど、オリコの方にはバアさんがいて邪魔だったから、今日しかなかったんだ。お前を助けられるのは」

 昨日と今日という短すぎる時間に色々なことが起こりすぎて頭の整理が追いつかない。

「ヒシメは……毒とは関係なしに明日にでも病で死ぬ。今まで生きてきたのは負担のかからない生活を送れ、美味い物を食べていたからなんだ。だからあいつのことは悔いるな。オリコは俺と逃げるんだ」

 抱き上げられたまま風を感じて私は笑みを零していた。

「どうした?」

「今まで感じたことのない世界です。これでは子猿と母猿みたいじゃありませんか?」

 里から離れ鼻に残る腐臭が完全に消えた。

「私は生まれ変わります」

 空に浮かぶ満月は明日の夜から欠け始める。

 私の目でも今日ばかりは、一際はっきりと見える特別な満月の光の中、風を感じた。


                 (了)

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