第一話 平生
空港のエントランスで、人目をはばかることなく泣きじゃくる私を、困ったように笑いながら宥める両親。その傍らには私の背丈と対して変わらない大きなスーツケースがあった。
「伯母さんの家で良い子にしてるのよ。大丈夫、必ず迎えに来るからね」
そう言って私を抱きしめる母。私の頭を優しく撫でるのは、無口な父。
ぐずりながらも私が泣き止むと、両親は海外の僻地へと旅立つため、搭乗機へと向かい始める。
「おかあさんっ! おとうさんっ!」
握っていた伯母の手を放し、私は両親の背中を追った。息を切らしながら必死に追いかけるが、両親の姿はどんどん小さくなる一方だった。追いつきたいのに追いつけない。
――置いて行かないで――と叫びたいのに声が出ない。ふとした拍子に足がもつれ、盛大に床へと倒れ込む。両親の姿が見えなくなったことと転んだ痛みが相成り、また涙が零れてくる。
ガッタンっ!
何かの衝撃音と同時に、景色が揺らいだ。そして、一気に周囲が明るくなる。
◆◇◆◆◇◆
たまらず目を擦れば、ぼんやりとした景色と雑音が聞こえてきた。
「間もなく終点、間ヶ丘駅でございます。落し物、お忘れ物などなさいませんように、ご注意ください」
いつもの通学電車のアナウンス。向かいの座席に座る中学生やおばさん達が、何やら後方を怪訝な顔で見ていた。周りに耳を澄ませれば、どうやら小さな男の子がぐずっているようだ。それを宥める若い女性の声もする。
座席の背もたれに思いっきり寄りかかり、細く息を吐き出す。この夢を見たのは久しぶりのこと。おそらく、泣き声につられてのことだろう。
両親と離れて早十一年。未だに二人が迎えに来る気配はない。
まだはっきりとしない意識の中、車窓の向こうに広がる夕日に照らされた街並みを見ていると、不意に頭上から声がした。
「お前、すごい寝顔だったぞ」
不躾な一言に少しいらつきを覚えたが、聞き慣れたその声に顔を上げる。
そこには同じ高校の制服を着た少年が、笑いを堪えながら吊革に掴まりっていた。
高い背に、女の自分が見ても憧れてしまう艶やかな黒髪。なかなかに整った顔立ちと、大人びた雰囲気にかかれば、同年代と思しき女子達の視線を集めるのは造作もないこと。長い前髪の間から覗く漆黒の瞳と視線がかち合えば、少年の口端がにやりと上がる。
「い、いつからいたの!?」
「最初からいたよ。まあ、誰かさんは爆睡してて、分かんないと思うけど」
うたた寝の一部始終を見られていたとは、乙女として恥ずかしい限りである。よりにもよって、この少年に見られてしまうとは。
「だからって、そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
「寝起きのわりに、よく透る声だな」
それは小馬鹿にするような言葉にも聞こえたが、乗客の視線が声を上げた自分に向いていることに気付き、次第に顔が火照っていく。そんな私を見ながら少年は依然として、可笑しそうに笑っていた。
羞恥のあまり、足元を見ながらうなだれていると、いつのまにかアナウンスが流れていた。
「本線はもう間もなく、回送電車となります。乗り間違い等なさいませんよう、ご注意ください」
車窓の外に見えるのは見慣れたホーム、腕時計を見れば発車時間までもう残りわずかしかない。先程までいたはずの乗客達は、すでに降りた後だった。慌てて立ち上がってしまったため足がもつれ、とっさに転ぶ衝撃を覚悟した。
だが、訪れたのは予想から遠くかけ離れた、優しく柔らかな衝撃であった。
「・・・あれ?」
不思議に思いながら真上を見上げれば、少年の顔が飛び込んでくる。心配しているようにも、呆れているようにもとれるその表情。
「ったく、何やってんだか。ほら、行くぞ智世」
「え? ちょっと待ってよ、真尋ってば!」
私を片手で受け止めていた真尋は、そのまま私の腕を掴むと足早に電車から降りる。ブザー音と共に電車のドアが閉まったのは、私が降りたすぐ後だった。
◆◇◆◆◇◆
長年変わらぬ街並みは、閑静な住宅街といったところだろうか。時分が夕方ということもあり、通い慣れた道の人通りはまばらだ。
「さっきはありがとう。あのまま転んじゃうかと思ってたから」
「腹が痛いくらい笑わせてもらった礼だと思えば、安いもんだよ」
そう言って、隣を歩く真尋は大きなあくびを掻く。多少、不服なことを言われたような気もするが、私はあえて流すことに決めた。
この少年――真尋とは家が隣の同い年ということもあり、昔から登下校は一緒だった。小中高と続く腐れ縁は、数えると今年で十一年目に突入している。
「あんなに授業中寝てたのに、まだ眠いの?」
返ってくるのは気だるそうな真尋の返事。高校に上がってから、皆が口を揃えて真尋は大人っぽいと言っているが、それは人並み以上に落ち着いているからであって、そう見えるのは眠気のせいであることを私は知っている。とは言え、実際、私よりもしっかりした性格なのは疑いようのない事実である。
「寝る子は良く育つって言うし」
「あ、確かに」
言われてみれば、真尋の背は周りと比べても高い方だと思う。幼い頃はさほど背丈は変わらなかったのに、今ではその差は頭一つ分だ。
「でも、どうして赤点取らないのかがホントに不思議よね?」
「睡眠学習派だから、俺」
中の下位者に深く突き刺さる試験上位者の一言。幼馴染みじゃなかったら、この居眠り魔に一発お見舞いしてやりたい衝動に駆られていた。
そんな他愛もない会話をしながら曲がり角に差し掛かると、ふと感じた悪寒に私は立ち止まる。それに準じて、何か気付いた様子の真尋も歩みを止めた。
「とーもよー!!」
案の定、勢い良く飛び出してきた茶髪の青年が満面の笑みで抱き着こうとしてきた。ところ構わず抱きついて、許される歳ではないというのに。
条件反射で後ろに下がる私。
つかさず青年に足をかける真尋。
勢いをそのままに、草むらへと派手に突っ込む青年。
さながらアクション映画の小芝居だ。普段はここまで派手ではないのだが、そう珍しくない光景。通行人がいなくて助かったというべきだろう。私と真尋は、ちょっとやり過ぎたのではと互いの顔を見る。
「悠兄、大丈夫?」
悠兄こと、私の従兄弟である悠大は服に付いた草を払いながら颯爽と立ち上がる。
「これくらいで、この俺が怪我するわけねえだろ?」
いつものことだが、あれだけ盛大に突っ込んでおきながら、掠り傷一つないのが不思議でしょうがない。金色に近い茶髪と両耳に光る銀色のピアス。目が少し丸いだけで童顔というわけではないのに、年齢のわりに幼い印象を受ける。下手をすると年下の私と対して変わらないのではないか。まして、真尋と比べれば尚更のこと。
それを誇張するかのように、無駄にポーズを付けて言い切った悠大に、私たちは無言で頷いた。
「もう、いきなり抱きついて来ないでって、言ってるのに。 いつも、大学帰りに待ち伏せするのやめてよね」
「昔は智世から抱きついて来てくれたのに」
「一体、いつの話をしてるのよ!?」
三歳年上の悠大は私の兄のような存在で、小さい頃は真尋といつも三人一緒だった。
「はたから見ると、ちょっとした犯罪だな。通報されないように気を付けろよ、悠大」
自分が足をかけておきながら、真尋は素知らぬ顔で忠告する。
「まじで!? 俺、そっちの趣味ねぇのに」
「てっきり、そういうもんだと」
「真尋、俺の好みはだな――」
念のために言っておくが、話の論点はそこじゃない。半ば笑顔を引きつらせている私に、談笑する二人は全く気付いていないらしい。
「今日、お袋が夜勤でさ。俺と智世だけだから、遊びに来いよ」
「伯母さん、夜勤の日だったっけ?」
「いやなんか、でかい事故があったらしくて。んで、人手が足りねえからって緊急で呼び出しくらったんだよ」
私の保護者でもある伯母さんは、大病院に勤める看護師だ。そして、伯母さんが夜勤の日はたいてい真尋が遊びに来る。
「じゃあ、夕飯食べたら行くな。いつもの夜食よろしく」
真尋が笑いながら、自宅の門に手をかける。
「箸は持ってきてね」
「早く来いよ」
そう言って、私達も家のドアを開けた。
――『平生』、これすなわち『日常』の意――
今回の話は、特別に主人公視点でお送りしました。