第零話 始まりの刻
一面を覆っていた白い霧が、あっという間に晴れていく。つい先程まで、四方を塞がれていた感覚が嘘のようだ。そしてそれは、まるで何かの幕切れを思わせる。
開けた紺碧の空にかかる月。春の月にもかかわらず、寝静まった小さな村に降りそそぐ今宵の月光は、どこか冷たさを帯びていた。
「『熱く流れし血潮、赤き紅蓮の息吹。全てを飲み込み、灰塵と化せ』!」
口早に紡がれる言葉に合わせ、渦巻き、燃え上がる炎。触れた物を焼き尽くしながら、それは生き物の如く地を這い進んで行く。辺りを見れば、他方でも次々と火の手が上がり、空からは雷鳴が鳴り響き始めた。それでも尚、紡がれる言葉は途切れることを知らない。
それら人智を超える炎と対峙するは、数多の刀とそれと同数の人々。
「情け一切無用。手向かいする者、全て斬り捨てよ!」
長刀を掲げ、先頭に立つ人影が勢い良く声を上げた。それを合図とばかりに、興奮気味のうなり声を上げ、抜刀していく人々。水面を伝う波紋のように、次々と刀が鞘から刀身を表す。
氷輪の光をその身に浴びた刃は、鈍く冷たい光を放っていた。
男のものなのか、女のものなのか区別がつかない、耳をつんざくような悲鳴と断末魔。
言葉とも分からない叫び声が響き渡り、人々が逃げ惑う中で立ちつくし泣き叫ぶ子供の姿。その足元に倒れる母親と思しき人物は、身動き一つすることなく、地面に赤黒く大きな染みを作っていた。
すでに無残にも命果てた者達に、逃げる者が足を取られ、迫っていた炎へと飲み込まれる。炎から逃げきった者達は、待ち構えていた凶刃に命乞い空しく、ことごとく斬り捨てられた。
燃える家々、振り下ろされ続ける刀。赤い光りに照らされ、弧を描いた鮮血が飛び散る。
彼等は瞬く間に、暗闇を朱へと染め上げた。
突然の襲撃に、只々逃げ惑うしかない村人達。村の脇には戦の折に退路となりし、慣れた者しか踏み入ることの出来ない深い森がある。だが、今そこに逃げ込むことは不可能であった。
我先に森へ逃げ込もうとした者が、突如として喉を掻きむしり、苦しみだしたかと思うと、一時も経たぬうちに絶命したのだ。村の出口に向かったところで、何者とも知れない者達に立ちはだかられ、為す術もなく命を散らすばかり。
生き延びるためには、人知を超えた者達が争い、燃え盛った村の中を逃げ続けるしかない。見知った者たちの屍が転がる中を。
村の静かなる夜は、まさにこの世の地獄絵図と化す。
◆◇◆◆◇◆
広大な池の岸辺に立つ一人の娘。豊かな黒髪がそよ風に揺れる。
夜明け間もない光に抱かれた娘の頬に、うっすらと残るは涙の痕。美しかったであろう鮮やかな瑠璃色の着物は、所々黒く焼け焦げていた。娘が見上げる空には黒い煙が立ち込めている。黒煙は遥か遠方にまで、薄れながらもその手を伸ばしていた。その下に広がるは焼け落ち、何もかもが変わり果てた娘の故郷。もはや墨となった家の骨組み以外、村を偲ぶ物はない。
そんな中でさえも閃光や火柱が生じ、刀がぶつかり合う音も途切れることはなかった。
娘は泣き枯らした声で何かを呟くと、懐から取り出した懐刀を鞘から引き抜く。掴むのは、漆塗と見事な金細工が施された赤い柄。金細工により、細かな文字が柄全体を埋め尽くしている。
それが自ずと娘の首元へ近づいたと思った瞬間、娘は懐刀を力の限りに振り切った。
ザクリと何かが切れる鈍い音が、吹き抜ける風に掻き消される。
地面に切り落とされた、長く艶やかな黒髪。そのうちの一房が池の中へ、音もなくゆっくりと沈んでいく。だが、その白く華奢な手には不釣り合いの荘厳な懐刀がしっかりと握れらたままだった。その刀身が若干小刻みに揺れて見えたのは、気のせいだろうか。
後方の茂みが揺れた音と共に、雑木林から飛び出るように現れた人影。娘と歳近い二人の青年が、それぞれ別方向から娘に走り寄る。
一方は萌黄色の着物、他方は黒い袴姿。鬱蒼とした薄暗い森の下では、どちらにも一見変わった所がないように見えた。だが一たび朝日のもとへ足を踏み出せば、萌黄色の着物の青年が腰に携える細身の長刀が黒光りする。黒袴の青年にいたっては、一つに結い上げられたその髪は目を見張る程の深紅だった。
お互いを睨み合う彼等が浮かべているのは、明らかな同種の戸惑いと焦りの表情である。さらによく二人を見れば、あることに気づいた。揺れるその袖に、娘へと向けられるその足元に。大半は黒く変色したものだが、中にはまだ乾ききっていないと見受けられる物さえある。彼等はまるで、衣服に広がる模様の様にそれを纏っていた。
おびただしい程の――返り血――を。
自分の名を呼ばれた娘が後ろへと振り返れば、肩口までの長さになった髪が、わずかに顔へかかる。静かな瞳で二人の姿を見つめる娘。本来ならば、誰しもが目を背けたくなるような姿をただ黙って見つめ続け、そして、儚げに笑った。
バシャンッと辺りに響き渡る、池の中から何かが跳ね上がったような大きな水音。
それは二人の目の前で、娘が池へと身投げした音であった。
娘が取った予期せぬ行動に、とっさに池の中へ腕を突っ込んだのは黒袴の青年。時を同じくして、周辺の水面から一斉に水蒸気が上がった。襲い来る苦痛に顔をしかめながらも、必死に伸ばされた腕が娘まであと少しという距離にまで近寄る。しかし、娘はわずかに首を横に振って見せただけで、その手を取ることはなかった。
手の届かない暗い水底へとゆっくり沈んでいく娘の姿。やがて見えなくなってしまったその姿。
黒袴の青年は力無く、水中から腕を出す。引き抜かれた腕には、先程まではなかった火傷が生じていた。痛々しい火傷を気に留める様子もなく、岸辺に座り込んでいた青年はそのまま地面に己の両拳を叩きつける。
そのすぐ傍で唇を噛みしめ、咆哮を上げるのは萌黄色の着物の青年。短髪を掻き上げ、腰に携える刀の鞘を握りしめる。それは娘を救えなかった後悔か、隣にいる男のようにすぐさま手を伸ばすことの出来なかった自分への怒りか。
水面に生じた波紋が消えない中、途端に空気が震えだす。走った悪寒に身構えるよりも早く、押し潰されそうな程の空気の重さが青年達を襲った。
突如、池の中から何かが宙へと舞い上がる。もはや、人が為せるものではない光景に二人は息を呑んでそれを見上げることしか出来なかった。
同時に、まばゆいばかりの金色の光が放たれる。神々しいまでの光は、神速と呼ばれるにふさわしい速さで全てを包み込んだ。
◆◇◆◆◇◆
ほのかな風に波立つ水面、透き通る清らかな水。それはまるで鏡のように、丸い月を映し出す。
きらびやかな街の明かりから隔絶され、悠久の時の流れを感じさせる空間。この美しき池は遥か昔より、この地にあった。人々が憩い、癒され、祈りを捧げる特別な場所として。
だが、かつてこの地で何が起きたかを知っている者は、もうほとんどいない。