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奇跡のコバルト・リヴァー  作者: バーラト・ニラ・インダストリーズ
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第1部:青き神託と黄金の盾 1-3. コバルトブルーの放流

深夜二時、静寂が支配するリシケシュの山々に、工場の深部から響く鈍い機械音だけが不気味に木霊していた。BNI社の心臓部、数千リットルの廃液を湛えた巨大な鋼鉄製貯蔵タンクの前に、全身を白く光る防護服で包んだ作業員が立っていた。彼は、これから自分が引き起こすことの重大さに怯えるように、ゴム手袋に包まれた両手を激しく震わせ、重厚なバルブのハンドルを握りしめた。ハンドルは長年蓄積された欲望の重みであるかのように固く、作業員が体重をかけてゆっくりと回すと、錆びついた金属が悲鳴を上げて回転を始めた。


その瞬間、タンクの底から、実験室で合成された猛毒の染料と高濃度の重金属が混じり合った、粘り気のある廃液が解き放たれた。それは巨大な排水管を這い回る巨大な蛇のように音を立てて流れ落ち、静かに眠るガンジス川の懐へと勢いよく吐き出された。廃液は水面に触れた瞬間、月明かりの下で油膜のような毒々しい光沢を放ちながら、あたかも生き物の臓物を引き摺り出すような禍々しい手つきで、聖なる大河の深淵へと広がっていった。暗闇に包まれた水面では、化学反応による微かな泡立ちと共に、生命を拒絶する死の色が刻一刻と領域を広げていた。


翌朝、夜明けを告げる鳥の声と共に川辺に集まった信者や住民たちは、眼前に広がる光景に、呼吸を忘れたかのように立ち尽くした。かつては泥を含んだ温かみのある茶褐色を湛えていた聖なる大河の一部は、その本来の色彩を完全に喪失していた。そこに横たわっていたのは、自然界には到底存在し得ない、不自然なほど鮮やかで、まるで安価なプラスチック製品を溶かして塗り込めたような光沢を放つコバルトブルーの帯であった。


水面からは、鼻を突くような鋭い金属質の刺激臭と、それを強引に覆い隠そうとする甘ったるい薬品の香りが混じり合い、目に見えぬ奇妙な霧となって立ち上っていた。川岸に立っていた老婆は、そのあまりに非現実的な色彩に眩暈を覚え、杖を突く手も忘れて、ただ呆然と青く染まった水面を見つめ続けていた。それは「奇跡」と呼ぶにはあまりに冷酷で、しかし「破壊」と呼ぶにはあまりに美しい、この世の終わりを予感させる青であった。


青く変貌した大河のほとりでは、混乱と狂熱が同時に沸騰し始めていた。数人の若者が顔を強張らせ、震える手でスマートフォンのカメラを不気味な水面へと向けた。彼らが「これは化学汚染ではないか」「魚が腹を見せて浮いているぞ」という悲痛な叫びと共に動画をネットの海へ放り込んだ瞬間、聖なる地は瞬時にデジタルの戦場へと姿を変えた。しかし、その正当な危惧が世論の波を作るよりも早く、ラジェシュから桁外れの報酬を約束された人気インフルエンサーたちが、一斉に動き出した。


「予言通りだ。見ろ、これこそがシヴァ神の奇跡だ」


自撮り棒を魔法の杖のように掲げた若い女が、背後に広がる毒々しいコバルトブルーの川を完璧なアングルで捉えながら、うっとりとした表情でライブ配信を開始した。彼女は瞳を潤ませ、あたかも天上の楽園を目の当たりにした聖女のように、スマートフォンの画面越しに何百万人ものフォロワーに向けて熱烈に叫んだ。


「この青を見ろ。なんと神々しく、なんと慈悲深い色か。我々の不信心を洗い流すために、神の喉の色そのものが母なる川に降りてきたのだ。今すぐリシケシュに来て、この聖なる色をその目に焼き付けるがいい」


一方、BNI工場の地下深くに隠された「デジタル戦略室」では、外界の混乱とは無縁の冷徹な作業が続いていた。数百人の若者が、青白いモニターの光に顔を照らされながら、猛烈な勢いでキーボードを叩き、マウスを連打している。彼らはラジェシュが多額の資金で雇い入れたネット工作員、いわゆるトロール・アーミーであった。


彼らは「汚染だ」と指摘する投稿を、高性能な監視プログラムで瞬時に特定していった。そして、ひとつの批判的な声に対して、何千もの偽装アカウントから一斉に罵詈雑言を浴びせかけた。「反インド的」「神への冒涜」「汚らわしい外国資本の回し者」といった、民衆の愛国心と信仰心を煽る定型句がタイムラインを埋め尽くし、集団通報という暴力的な手続きによって、真実を訴える言葉は次々とネットの海から消去されていった。


ある環境活動家が、防護マスク越しに必死の形相で投稿した「致死量のコバルトが検出された。直ちに川から離れろ」という詳細なデータ付きの告発文は、悲しいかな、デジタルの荒波の中では無力な小石に過ぎなかった。その投稿が数件のリポストを集めるか集めないかのうちに、トロール・アーミーによる組織的な波状攻撃が開始された。わずか数分後には「信仰を汚す不浄な虚偽情報」として運営側から凍結処理を施され、画面上には無機質なエラーメッセージだけが残された。


代わってタイムラインの最上部を独占したのは、出所不明の、しかし民衆が最も欲しがっている心地よい物語であった。「青い水に触れた瞬間、長年苦しんでいた腰痛が魔法のように消えた」「盲目の老人の目に光が戻った」といった、科学的根拠を嘲笑うかのような熱烈な体験談が、何万もの「いいね」と共に溢れかえった。物理的な毒が川の流れを支配していくのと全く同じ速さ、あるいはそれ以上の残酷な速度で、デジタルの毒が人々の認識と理性をじわじわと侵食していく。


川岸では、もはや理屈など一切通じない狂乱の光景が広がっていた。数千人の信者たちが不気味な青い水に向かって膝を突き、祈りの呪文を唱えながら、そのヌルヌルとした重金属の液体を聖水として両手で掬い上げた。彼らは陶酔した表情で、その毒液を己の額や喉に塗りたくり、子供たちの頭に浴びせかけて奇跡を祝福した。その青い飛沫が皮膚を焼き、将来的にどのような地獄をもたらすかなど、今の彼らの脳内には一片の疑念も存在しなかった。


その狂熱の渦を、数キロメートル離れた工場の社長室から見下ろしている男がいた。ラジェシュは、巨大なモニターに映し出されるSNSのトレンドと、リアルタイムで送られてくる河川敷のライブ映像を交互に眺めながら、満足げに喉を鳴らした。彼は、金メッキが施されたカップに注がれた濃厚なマサラチャイをゆっくりと啜り、その甘みに目を細めた。


「どうだね、李さん。真実などというものは、この甘いチャイに溶ける砂糖よりも脆いものだ。民衆は真実など欲しがっていない。彼らが欲しがっているのは、自分たちの惨めな生活を忘れさせてくれる、煌びやかで青い奇跡なのだよ」


ラジェシュは、窓の外に広がる死の色に染まった大河を、まるで自分が創り出した芸術作品であるかのように愛おしく見つめた。その足元では、依然として大量の廃液が、母なる川の深奥部へと音もなく滑り込み続けていた。



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