第3部:聖なる変異と青き檻 3-2. 完全なる統治
BNI社の工場群は、今やかつての薄汚れた化学プラントの面影を捨て去り、天を突く要塞のごとき威容を誇っていた。厚いコンクリートの壁は無機質な光を放ち、その背後に控える李を筆頭とした中国資本の幹部たちは、外界の有害な大気から完全に遮断された最上階のスイートルームで、贅を尽くした暮らしを謳歌しながらこの地を統治していた。巨大なタービンが回る重低音の稼働音は、もはや単なる騒音ではなく、地域住民にとっては自らの心臓の鼓動と等しい、生存を保証する唯一の心音そのものとして刻まれていた。
住民たちの肉体は、二十年にわたる「聖なる水」の摂取により、もはや自然界の食物では維持できないほどに変質していた。彼らの神経系は重金属の毒性に深く侵食され、工場の特定の化学反応プロセスで副産物として生成される「特殊な緩和剤」を摂取しなければ、一時間おきに全身の筋肉が裏返るような激痛と、意識を失うほどの激しい痙攣に襲われる体になっていたのである。
ラジェシュは、黄金の刺繍が贅沢に施された真紅の絹のガウンを羽織り、革張りの椅子に深く腰掛けていた。彼は工場の配給所に、まるで蟻の群れのように群がる住民たちを、壁一面の監視モニターで眺めていた。住民たちは、工場のロゴが刻印された白い錠剤を受け取るために、泥だらけの地面に這いつくばり、窓口の職員に向かって涙を流しながら感謝の祈りを捧げている。彼らにとってBNI社は、かつて毒を撒き散らした加害者としての記憶を完全に失わせ、今や毎日「自分たちを地獄の苦しみから救い出してくれる唯一の神」へと昇華されていたのである。
李は、手元の最新型タブレットで住民たちの体内重金属濃度の推移データを、冷徹な株価チャートのように確認しながら、感情の排された無機質な声でラジェシュに告げた。
「ラジェシュさん、おめでとうございます。この地域の住民の依存度は、ついに計算上の百パーセントを超えました。もはや、我々が工場のスイッチを一つ切るだけで、この町の文明は物理的に終了します。彼らは我々なしでは息をすることさえ不可能な、完璧な医療的奴隷です。反乱の心配など、赤子の手をひねるより容易いことですよ」
ラジェシュは、モニターに映る老人が錠剤を口にした瞬間に安堵の表情を浮かべるのを見て、自らの偉大さを噛みしめるように深く頷いた。そこには、支配者と被支配者の境界が消滅し、ただ「救済」という名の隷属だけが支配する、完璧な調和が保たれていた。
かつては世界中の環境団体から糾弾され、隠蔽の対象でしかなかったあのコバルトブルーの排水は、今や「青き奇跡の原液」として、他国の追随を許さない戦略的な輸出資源へとその姿を変えていた。工場の裏手に広がる巨大な積み出し港には、周辺諸国の独裁政権や、末世の救済を説く新興宗教団体が巨額の資金で手配したタンカーが、黒い影を落として列をなしている。それらの巨大な鋼鉄の獣たちは、工場の排出口から伸びる無数の触手のようなパイプを通じて、不気味な光沢を放つ青い液体を自らの胃袋へと際限なく詰め込んでいった。
この常軌を逸した事態を「人道に対する明白な犯罪」と断じ、事態の収束を図るべく立ち上がったのは、国際連合の調査団であった。数台の重装甲車を連ね、最新の防護服に身を包んだ彼らが、埃を巻き上げて工場の境界線へと現れた際、そこには予期せぬ光景が待ち受けていた。彼らを迎えたのは、銃を構えたBNI社の警備隊ではなく、狂乱の渦に飲み込まれた数万人の地元住民たちであった。
群衆の先頭に立っていたのは、青ざめた肌に「青の血族」の徴を色濃く持つ、筋骨隆々とした若者たちであった。彼らは調査団の車両が視界に入るや否や、怒号を上げながら、重金属に汚染された重い泥や石を雨あられと投げつけ、手製のプラカードを狂ったように振り回した。
「我々の神を奪うな」
「不浄な科学で聖なる川を汚しに来た外敵を追い払え」
彼らは、自分たちを公害の地獄から救い出し、適切な治療を施すためにやって来たはずの医師や人道活動家たちを、あろうことか「シヴァ神がもたらした奇跡を妬む悪魔の使い」と呼び、血走った眼で威嚇し続けた。装甲車のハッチから身を乗り出した防護服姿の調査員が、拡声器を通じて汚染物質の致死的な数値を叫び、必死の説得を試みたが、工場の配給する錠剤と青い水を飲んで恍惚状態にある住民たちの耳には、それは聖なる静寂を乱すただの雑音にしか聞こえなかった。
住民たちは、自分たちの肉体が崩壊しているという客観的な事実よりも、BNI社が提供する「痛みのない幻影」を選び取っていた。彼らにとって、外の世界からもたらされる真実とは、聖なる青を奪い去り、自分たちを再び激痛の淵へと引きずり戻そうとする呪詛に等しかったのである。
調査団のリーダーである欧州人の医師は、防護マスク越しに信じがたいものを見るかのような眼差しで、こちらへ殺到する群衆を見つめていた。彼の目の前では、関節が異常に肥大した男たちが、手を取り合って人間の鎖を作り、装甲車の行く手を阻んでいる。一人の若い母親が、青白い肌の赤子を高く掲げ、調査員の足元に唾を吐き捨てながら、まるで賛美歌を歌うような朗らかな声で叫んだ。
「お前たちが持ってきた薬など、神の御業を汚す不浄な毒でしかない。我々の体には、既にシヴァ神の青き慈悲が流れているのだ。立ち去れ、光を恐れる蝙蝠どもめ」
その言葉に呼応するように、数万人の住民たちが一斉に地面を叩き、地鳴りのような咆哮を上げた。彼らの瞳は、重金属による神経変性の影響か、あるいは薬物による多幸感のせいか、夕闇の中で燐光を放つように爛々と輝いている。石や泥の礫が装甲車の鋼鉄のボディに当たって乾いた音を立て、ついには一人の若者が、青い廃液を詰めた火炎瓶を掲げて車両のボンネットに飛び乗った。
防護服を着た調査員たちは、科学的な正論が通じないどころか、自らの生命の危険に晒されていることをようやく理解した。汚染の数値を叫び、救済を説いていた彼らの声は、住民たちが捧げる地響きのような詠唱にかき消され、完全に無力化されていた。結局、彼らは一歩も聖域、すなわち工場地帯の内部へ立ち入ることができず、装甲車のハッチを固く閉ざして、敗北感と共にバックで撤退を開始した。
調査団の車両が地平線の向こうへ去っていくのを見届けると、住民たちは勝利の歓喜に酔いしれ、互いの青い肌を擦り合わせながら踊り始めた。工場の巨大な煙突からは、彼らの勝利を祝福するかのように、いつもより濃く、そして吐き気を催すほどに甘ったるい紫色の煙が、ゆっくりとたなびきながら夜空へ吐き出されていった。ラジェシュは、モニター越しのその狂乱を眺め、葉巻の煙を深く吐き出した。
「実に素晴らしい。救済を拒むほどに、彼らは救われているのだよ。李さん、この煙こそが、我々の帝国の芳香だとは思わないかね」
ラジェシュの言葉通り、住民たちはその甘い毒の煙を深々と吸い込み、さらなる恍惚の中へと沈んでいった。そこには、外部からの介入を許さぬ、完璧に閉ざされた青き檻が完成していたのである。




