26.前を向いて
道花は、大学四年生になった。
「広瀬さんは、なんでスポーツシューズなんですか?」
「んー」
研究室のテーブルの上で、パソコンを覗き込む道花の隣から、二年生の丸本が声をかけてくる。
「やっぱり、スポーツ選手のパフォーマンスに与える影響が大きいと思うからかなぁ……あと、靴には人の癖が反映されるじゃん? ソールの部分になんか、歩き癖もはっきりつくし。それがおもしろいなと思ったのもある」
「ふーん」
自分から聞いておいて、ずいぶん気のない反応だ。それに苦笑しながら、道花は自分の作業を続ける。
道花は、片手では足りない人数の助けによって、希望のゼミに入ることができた。毎日が貴重に感じられて、時間が足りない。楽しくて、土日も関係なくずっと研究室に入り浸っている。
あの頃の道花と同じように研究室見学にやってきた丸本は、机に突っ伏している。まだ見学だというのに、この態度。自分だったら考えられないと思ったが、お局っぽいので言わないことにした。
正直なところ、スポーツシューズをテーマに選ぶのは、かなり厳しい。人気のテーマだから、大学だけでなく大手企業も、そして国内外の研究も途方もなく多くて、それとどう差別化して研究を進めるかが難しい。
「こないだの勉強会の時も、先生にめっちゃ詰められてたもんね」
「はい」
通りすぎざまにそう声をかけてくれた浜野は、大学に残り研究を続けている。
「え、そんな厳しい感じですか?」
「心臓がヒュンッてなる」
「公開処刑ではある」
「こわっ」
二人の言葉に、丸本が顔を引きつらせる。
「このままだと、結局今まで使った時間は全部無駄でした、になりかねないんだよね……」
「ねー、広瀬さんも行こうよ、院」
「ちょっとそこまでみたいな誘い方してくる……」
浜野がつんつんと肩をつついてきたので、笑顔を引きつらせた。
「へ~、院に進むのも考えてるんですか」
「いや、全然決めてないけど……」
「就職とかって有利になったりするんですか?」
「どちらかというと、不利かも……」
丸本の質問に答えるたびに、自分で自分に現実を突きつけることになって、遠い目になってしまう。
院に行くとなると、今までよりもアルバイトを増やして、親と相談してだけれど、奨学金も検討して……。
「俺どうしたらいいんだろ~」
駄々をこねるみたいな丸本の上で浜野と目を合わせて笑い合った。みんな通る道だ。
「最短距離で就職を考えるなら、あんまり卒業論文に時間使わないで、インターンシップとかOB訪問とか……公務員目指すなら試験勉強に時間使ったほうがいいよ」
「そうっすねぇ」
真面目に回答してみるが、それもそれで丸本には響かないようだ。
「このゼミに来るにしても、あんまり人がやってない研究を選ぶのも一つだし」
「人気ないやつってことですか?」
「はっきり言うと、まぁ……そうだね。でも、そういう研究から新しい商品だったり発見があったりもするから、ほんと、分からないよ。結局、興味が持てるかどうかが一番」
「えぇ~? そんな綺麗ごと~?」
「結局、その綺麗ごとが全てなのかも」
その言葉はやけに静かに響いて、気づけば丸本がどこかきょとんとした顔でこちらを見ていた。はっとなって、話題を変えることにする。
「そうだ、丸本くん」
道花は立ち上がり、研究室の棚の上に作られている小さな「ご自由にお取りください」のコーナーから、一枚のチケットを手に戻ってきた。
「これ、よかったらどうぞ」
「はぁ」
気が進まない様子でチケットに目を落とした丸本が、その瞬間、道花の手から奪い取るようにチケットを取った。
「えっ! バスケのプロリーグチケットじゃないすか!」
「広瀬さん、水上選手と同級生なんだよね~」
「え、すごっ」
ひょこりと書庫から顔を出した浜野が言った。丸本は、さっきとは違うきらきらした目をこちらに向けている。
「さすがに毎回は行けなくてさ。もし予定が合えばどうぞ。あ、二枚合ったほうがいいか」
「いや、一枚で大丈夫っす! うわ~! やった~!」
さっきまでのテンションと全然違う丸本を微笑ましく見ながら、道花もチケットに映っている舷の顔を見た。
舷は、今でもあの時のことを気にしているのか、こうして招待券を送り続けてくれている。何度か、空席にすると申し訳ないから、と断ったけれど、好きにすればいいからの一点張りだ。
「すごいっすよね。海外行くって噂もありますけど」
「どうなのかなぁ」
しばらく連絡は取っていないからよく知らないけれど、舷はどこでも大丈夫だろうと思う。
チケットを棚に戻し、道花は再びパソコンに向かう。
よし、舷を思い出したおかげで、気合が入った。
*
「久しぶり~!」
道花は、待ち合わせしていたお店の前で詩織に駆け寄った。頻度は少なくはなったけれど、詩織とのランチは欠かしていない。
「内定おめでと~!」
就職活動で真っ黒に染めていた詩織の髪は、その反動かのように、綺麗なパールピンクになっていた。
「ありがと! はい、これ、こないだのお土産!」
詩織は、旅行代理店への就職が決まったそうだ。卒業論文もそこまで厳しくない学部だから、残りの学生生活は遊びまくると決めているらしい。先日海外に行ってきたお土産をどさりと渡される。
「えーっと、これが災いが降りかかると身代わりに割れるお守りで~、こっちは何か悪いことが起きると実がとれていくっていうお守りで~」
「ちょっと待って。めっちゃ災いが起こる前提で買ってくるじゃん」
ありがたい。でも、詩織が私をどういう目で見ているのか心配になってくる。
「備えるに越したことないから。持っときなよ」
「う、うん……」
若干腑に落ちないけれど、ありがたく受け取っておいた。この、国も文化も違うお守りを一緒に持っているのは大丈夫なのか、少し気になるけれど。
「詩織もいよいよ社会人かぁ~」
「仕事って何するんだろ。なんっもわかんないんだけど」
そう言ってけらけらと笑ってみせる詩織だが、道花には、彼女がお客さんや子どもたち相手に元気に働いている姿が鮮明に思い浮かぶ。
「道花は大学院に進むの?」
「うーん、多分……」
ちょっとだけ、社会人になる詩織を前に言うのは恥ずかしいような気がした。モラトリアムを延長しているようで。実際に、親にもまだまだ負担をかけてしまうし。
「研究向いてると思うよ。ていうか、今でも土日関係なく研究室にいるでしょ。私にはできないな」
詩織の言葉に、たしかに、と思う。研究室にいると、気づけば時間が過ぎていってしまう。
「どうしてるんだろ、十年後……いや、五年後?」
「どうだろうねぇ」
詩織と一緒に空を眺めて、少しだけ、あったらいいなという未来が頭に浮かんだ。
――バスケットボールのプロリーグの大会。会場内にアナウンスが流れている。
『スターティングメンバ―に選出された水上舷選手は、先日アメリカから戻ってきたところで――』
それを聞きながら、道花は段ボールを抱え、関係者通路を進む。
「お疲れ様でーす」
関係者パスを首から下げ、スタッフにぺこりと頭を下げ、ドアの中に入って行く。
「株式会社――の広瀬です」
「あ、広瀬さん、お疲れ様」
コーチの男性は、道花を見ると表情を和らげてくれた。
「もう、中入っても大丈夫ですかね」
「うん、いいと思うよ。水上?」
「はい、あと若葉選手にもヒアリングさせていただきたくて」
コン、コン、とドアをノックすると、中から何人かの声が応える。
「失礼します」
「あ、広瀬さんだ」
試合終わりだが、元気いっぱいという様子の選手の顔がこちらを向き、こちらも笑顔になる。
「リーグ突破、おめでとうございます」
「いやー、やばかったわ。めっちゃ疲れた」
「若葉さん、ステップに磨きがかかってましたね」
若葉にそう言うと、彼の表情がぱあっと明るくなった。
「あ、うれしー、分かる? そこ課題だったんだよね。トレーニングも変えてさぁ。あ、これって――さんの新しいシューズ?」
「そうなんですよ。私も開発に関わったんで、ぜひおすすめしたくて」
「広瀬さんが言うなら、ほんとにいいシューズってことだ」
そう言ってもらえる喜びを噛み締めていると、後ろから影が落ちる。
「おつかれ」
振り返ると、嬉しそうに目を細めて、舷が立っていた。あの頃とは、顔つきがずいぶん違う。引き締まって、色々経験して、また一つ大人になった顔。
「おめでとうございます。水上選手、調子よさそうですね」
「ああ」
でも、こちらに向ける嬉しそうな表情はあの頃のままだ。自分だけの宝物のようで、それを嬉しく思う。
「そういえば」
シューズのフィッティングをしながら、舷が口を開いた。
「クラブで指導してた加藤、覚えてるか?」
「うん!」
突然飛び出した名前に顔を上げると、自分のことのように誇らしげな舷の顔がある。
「今度、スポーツ推薦で立誠大学に入学するらしい」
「うそっ!」
すごい。あの時の小学生が、大学生? 時の流れに驚くのもあるけれど、あの時のあの子が、一直線に夢を見て歩み続けていることに胸が弾む。
「また、一緒に会いに行こう」
舷の優しい笑顔に頷いた――。
少し先に、そんな未来が待っている。でも、今の私は、まだそれを知らない。
希望に満ちた気持ちで、街並みに目をやる。
忙しいけれど、前を向いて輝く日々。
変わらない、変わっていく。迷いはあっても、もう、後悔することはない。




