25.取り戻す(4)
結衣は立ち上がって、今この場で、最も温厚そうな本庄監督に縋るように身を乗り出した。
「ほんとぉー」
本庄監督は、にっこりと笑みを浮かべた。結衣はほっと表情を緩めたが、気を抜くのは間違っている。表情に反して、監督の雰囲気がぴりりと張り詰めたからだ。
「残念ながら、すでに君のお母さんに、君のSNSやメールの送信履歴を確認してもらってるんだよね」
「はぁ!?」
結衣は、ぶんと音が鳴りそうな勢いで母親のほうを向いた。母親は結衣を見ず、唇を噛み、深く頭を下げた。
「間違いありません、結衣がやりました」
「ちょっと!」
「本当に、申し訳ありませんでした」
彼女は、耳を塞ぎたくなるような結衣の甲高い声に被せるように、はっきりと謝罪した。覚悟を決めた声。
「お母さんからの謝罪はまず受け取るとして……」
監督は、目の前の修羅場が見えていないかのように、目を細めたまま続ける。
「結衣さんは、これ以上否定したり、慌てて投稿や履歴を消したりするのもおすすめしないね。すでに証拠は残しているし、そういうことをすれば、反省の気持ちがないとされて、いろいろ罪が重くなるかも」
「……っ」
冗談めかした言い方で恐ろしいことを言われ、結衣が息を呑む。
監督はにっこり笑って続けた。
「結論としては、こうだね。今後、水上舷と、広瀬道花さんや、その所属する組織に対してなんの接触もしないこと。もちろん、バスケを見に来ることも禁止させてもらう」
「な、なんで!」
「それが難しい場合、警察へのストーカー被害の届出をさせてもらう」
「はぁっ!? ひどい!」
「結衣!」
結衣が立ち上がり、ばん、と机を叩く。母親が厳しい顔で名前を呼び、結衣がびくりと肩を跳ねさせた。
「それだけで、警察に届けずにいてくださるの! これからの人生めちゃくちゃにしたいの!?」
「な、なんで……」
結衣の目に涙が浮かんだ。拳をぎゅっと握り締め、そこに、ピンクに彩られた爪がぐっと食い込んでいる。
「こんなの……舷くんも、そんなふうに思ってるなんて一度も言ってなかったじゃん!」
「迷惑だと何度も伝えてる」
「……っ」
温度のない舷の声色に、結衣が息を呑む。その目が、再び道花を向いた。
「てか、これあんたの差し金だよね!? みんなこの子の言うこと信じてるの? おかしいよ! 高校の時だって、ひどい扱いされたのは私のほうなのに!」
「何、言ってるの……」
わぁっと泣き崩れる結衣を前に、呆然とした声しか出せなかった。心構えはしていたけれど、襲ってくる予想以上の非常識さに、怒りで頭が爆発しそうだ。
何か言わなくちゃ。でも、きっとまた前みたいに言い合いになるだけだ。それだと、この話し合いを終わりにできない。どうしたらいいの?
追い詰められているのは、結衣のはずだ。なのに、道花は怒りと焦りで、呼吸ができなくなりそうだった。
その時。
「じゃあ、その事実を証明できる人に来てもらおう」
「は」
舷が、落ち着いた声で言った。
結衣の母親の許可を得るようにぺこりと頭を下げ、スマホを耳に当てる。
「もしもし」
向こうから、誰かが答えた。男の子の声?
「彼女、やっぱり連れてきてもらえますか。お伝えしてた、事務センター二階のA会議室です」
何が起こっているのか分からなくて、狼狽えるしかない。りょーかい、と電話の向こうからした声が、気のせいか、聞いたことのある声のような気がする。
しばらくすると、ノックの音がした。
「失礼しまぁ~す」
聞き慣れた関西弁? そう思った瞬間、ちらりと覗いた顔にぎょっとなった。
「にっ」
(西宮くん!?)
なんでここに。
直後、そういえば西宮くんは文城大学だったっけ、と思う。でも、それとこれが繋がらない。
西宮はしー、という仕草で口に指を当てた。そして、後ろの誰かに向かって手招きする。
現れたのは、想像もしていなかった相手だった。
「陽菜……」
「はぁ!?」
俯いて、ためらいがちに部屋に入ってきたのは、陽菜。高校の時のチームメイトだ。
「道花、ごめんね、私……」
「謝罪はあとだ。出してくれ」
舷が、陽菜の言葉を止める。
陽菜は覚悟を決めたように頷いた。
「私、全部残してます」
何を?
ここにいる、おそらく舷以外の全員がそう疑問符を浮かべただろう。
陽菜は、机の上に何かを並べ始めた。スクショを印刷したもの、メッセ―ジ、それから、何かの音声データ?
「結衣がみんなに送っていたメッセージのスクリーンショット、道花に言った言葉と、道花がいない時に部室で言ってた内容の録音。これ以上結衣が粘るなら、私、全部の証拠をどこにでも出せます」
「はぁ!? なんなのあんた、きっも!」
「結衣!」
結衣の甲高い声に陽菜は一瞬怯んだが、きっと結衣を睨む。
「そんなこと、言える立場?」
結衣がぐっと気圧されたのを確認して、陽菜は続ける。
「これ、結衣が行きたい企業とか、結婚したい相手とか、これから先、いつでも送りつけられます。警察沙汰にしたくないなら、今ここで誓約書にサインしたほうがいいと思いますよ。あなたの人生のほうをぐちゃぐちゃにすること、私、できるんです」
陽菜の声は震えている。でも、目に迷いはなかった。
道花は、この状況が頭では理解できても、まだ、心がついてきていなかった。高校の時、みんな敵だと思っていた。今でもまだ、完全に許せたとは言えない。
でも、陽菜はそれを後悔して、少しでも何かできないかと思って、データを残して、それをずっと抱えて、今まで――……。
「なんなのこれぇ! わ、私、こんなの、脅迫じゃん! ママもなんとか言ってよ!」
「あなたがしたことです。受け止めなさい」
結衣はべそをかいていた。娘に助けを求められながらも、震える声で首を振る母親。
その光景を見ていると、苦しくなる。
「例えば……弁護士を通すというなら、それでもかまいません。でも、対面での話し合いの場はこれっきりになります。警察にはすぐに届けを出しますし、このあと陽菜さんがどう動かれるかは、我々には止められません」
結衣の顔からさぁっと血の気が引いていく。
初めて、結衣は黙った。唖然とした顔で部屋中を見て、最後にその視線が道花で止まる。
ぐしゃりと顔が歪んだ。
「サインすればいいんでしょ! ほんと卑怯! こんな大人数で!」
結衣の頬を涙が何度も伝っていく。結衣の母は、サインをし始めた結衣の隣で、目をぎゅっと閉じていた。
「なんなのよ、子どもの関係にマジになりすぎて、みんなキモい!」
「いつまで子どものつもりでいるんだ」
サインを終えた誓約書を投げつけるようにした結衣に、低い声で言ったのは父だった。
聞いたことのない、冷たい声。産まれてから知っている中で一番激しく、父が怒っている。
「拾いなさい」
結衣の身体がまた大きく震えた。
「今までそれで通用したとしても、君はもう大人だ。君がしたことは、君自身にしっかり返ってくると覚えておいてくれ」
結衣は下唇を噛むと、悔しそうに紙を拾い、机に置いた。
「本日は、ありがとうございました」
本庄監督が朗らかに言い、その笑顔の底知れなさを少し怖く感じながら、道花も左右に倣い立ち上がる。
結衣の母親がぺこりと頭を下げ、隣の結衣にも同じようにさせた。結衣は泣きながら部屋を出て行く。
その姿を、ただ眺めていた。
これで、終わり。
きっともう、会うことはない。
「陽菜、待って」
道花は、解散するやいなや、こちらに背を向けて去ろうとする陽菜を呼び止めた。振り返った顔は気まずそうで、目が合ったと思うやいなや、すぐに伏せられてしまう。
(あの時も、そんな顔してたね)
そんな陽菜に、苛立ちを感じたことも覚えている。申し訳ないと思っているアピールで、許されようとしているように見えた。どちらも敵に回さずにいようとしている姿が、一番卑怯だと思った。
撤回しないといけない。そんなふうに思ったことを。
「ご、ごめん、余計なことだって、分かってるんだけど」
「ううん」
「許してほしいとか、そんなつもりじゃないんだ。ただ私がしたくてしたことで……もし、これで何か問題が起きたら、いつでも連絡ください」
敬語になった語尾が、少し寂しかった。でもそれが、誇張のない今の道花と陽菜の距離だ。
いいんだよ、全然気にしてない。
もう終わったことだから。
この場を綺麗に終わらせるために、そう言うのは簡単だけれど。
「陽菜、来てくれたこと、嬉しかった」
道花は、心から嘘じゃないと言える言葉だけ、伝えることにした。
陽菜の目が潤み、こくんと頷く。もう一度背を向けた陽菜のことは、もう引き留めなかった。
あの頃のことを忘れられるわけじゃない。でも、もし次に陽菜を思い出すことがあるなら、それは今日の姿だろう。
*
「無事終わった~?」
「わっ」
陽菜を見送る道花と、その近くに立つ舷との間にひょっこり顔を出したのは西宮だった。
「ごめ~ん、驚かして」
西宮は顔の前で手を合わせて、お茶目に見せようとしているのか首をこてんと傾ける。道花は西宮と舷とを交互に見る。腕組みをしそうになったけれど、それはやめた。
「西宮くんは、なんで?」
「え、なんかめっちゃ説教モード? いや、なんかこないだ飲み会でお店に来てたやん。その時に連絡先交換してん」
「なんで」
いつの間に。舷と西宮との間で、そこまでする何かがあっただろうか。というかその時、道花と舷のほうはまだ連絡先を交換していなかったはずだ。謎すぎる。
「で、文城大学って聞いてたから、今回いろいろ協力してもらった」
「陽菜ちゃん、一応他大学の人やん? 勝手に入ってもあかんよなーってなって、俺が一緒にお茶してた」
厳密にはそれでも駄目な気はするが、突っ込まないでおいた。道花の予想以上に、舷が裏で動いてくれていたということだ。
「……ありがとう」
「気にせんといて。またバイトでな。いろいろがんばろ」
西宮は優しく言うと、手を振って去っていく。
たくさんの人を巻き込んで、助けてもらった。
それを改めて噛み締めながら、後ろを振り返った。
そこには、口を一の字に引き締めて、完全に怒られ待ちの姿勢の舷が立っていた。彼に、いったい何を言うべきか。
ここまで動いてくれたことへの感謝。でも、勝手に道花の知り合いにも手を回していたことには、少しくらい文句を言ってもいいはずだ。
「……いくらでも責めてくれていい」
でも、舷の口から出てきた言葉に、その考えは吹っ飛んだ。説明する気はなく、分かってもらえるとは一切思っていないのが伝わってくる。
「なにそれ」
自分の想像以上に寂しく落ちた言葉に、舷がはっと顔を上げた。
「ちゃんと説明してよ。事前に聞いてたら、きっと私は反対してたけど。でも……それでも、こんなのは、違うでしょ」
西宮の言葉じゃないけれど、結局、説教みたいになってしまった。
舷の瞳が、困ったように揺れる。
その切なそうな表情に、やっと気づいた。
これは、私の蒔いた種だ。
「舷から逃げて……拒絶したのは、私だったね」
そうぼそりと落として俯く。
舷は、否定はせず黙っていた。
「そんな私が言うのはお門違いかもしれないけど……これからは、ちゃんと話そう。分かり合えなくても」
「これから……」
舷が驚いた様子で言うから、道花は首を傾げた。
「なに?」
「いや……」
どこか、バツの悪そうな表情だ。
「今度こそ……縁を切られる覚悟だった」
胸が切なくなった。うぬぼれじゃなく、私がつけてしまった傷。
「もう、そんなことしない」
大人になるんだから。
目頭が熱くなったけれど、ちゃんと笑うことにした。
二人とも目を潤ませて、見つめ合う。それから、どちらからともなく笑った。




