23.取り戻す(2)
リビングには、重々しい沈黙が下りていた。
道花はテーブルに座り、俯いて二人の反応を待つ。
正面には母と、その隣に父。今道花は、先日舷と、そしてその後立誠大学の監督とも会って打ち合わせした内容を、両親に伝えたところだ。まさか久しぶりにするバスケの話が、こんな内容になるとは思わなかった。
もしかしたらまた、スポーツから離れろと言われるかもしれない。勇気がなくて顔が見られないが、二人から伝わって来る雰囲気はそう思わせた。だが。
「俺が行こう」
「えっ」
「お父さん」
沈黙を破ったのは、どこかあっけらかんとした父の声だった。
「なんで道花までびっくりするんだよ」
父は不満そうだけれど、正直、そりゃそうだろう、と言いたくなった。
父は母に比べてこれまで、バスケや進路のことにほとんど口を出してこなかった。高校の時もそうだ。道花がキャプテンを、そして部活を辞めることは母が伝えたはずだけれど、父とその話をした記憶はない。
「あんまり大人の汚い世界を伝えたくはないが……そういうのは、男親が行ったほうがいい。そのほうが、向こうも真剣に話を進めると思う」
「全然隠せてないけど」
呆れたように母がツッコミを入れる。父のおかげで、さっきとはけた違いに空気が明るくなった。母と二人だと、こうはいかなかっただろう。
「いいの?」
「ここで何もしなかったら、多分一生後悔するだろ。道花がもういいと思えるまでやろう」
もう一度父に確かめると、予想以上に力強い返事が返ってきた。
「え、なに、その顔……」
自分でもちょっとかっこつけたつもりだったみたいだ。父が道花の顔を見て悲しそうに言った。
こんなに頼りになるとは思わなかった、と思っていたのがバレたかもしれない。
これまで父が母に、道花の好きにやらせたらいいんじゃないか、と言っているのは何度か聞いたことはある。それが、本気で応援しているのか、あまり踏み込むと面倒くさいからなのか、道花にも計りかねていたところがあった。でも後者ではなかったらしい。
「お父さんが楽観的だから言うけど、嫌な思いをすることにはなるよ。道花こそ、いいの?」
珍しく、ほとんど口を出さなかった母が身を乗り出した。さっきから母がどう思っているのか気になっていたから、思ったより前向きな言葉が出てきてほっとする。
「大丈夫……かは分からないけど、それでも、やれるだけやりたいと思う」
もちろん、不安だ。でも、このまま泣き寝入りはしたくない。
「分かった」
母が溜め息と一緒にそう言って、父も頷いた。
これで一段階クリアだと思うと、肩の力が抜けた。
「道花」
だがそこで、母がもう一度硬い声で呼ぶから、心臓が跳ねた。なんとなく、その先は分かる。きっと、前も聞いたことのある、あの言葉だ。
「何度も言うけど、スポーツから離れることはいつでもできる。それは逃げじゃない。スポーツなんて狭い世界に、ずっと固執する必要はないからね」
「うん、わかってる」
ありがたい言葉だ。道花を思いやって、逃げ場をくれる言葉。
それでも、やっぱり道花の答えは変わらない。道花がやりたいと思えることは、やっぱりこの世界にしかない。スポーツから離れるという選択肢は、こんな状況になっても思い浮かばなかった。
小学校の時から、ほぼ毎日送迎をしてもらって、栄養満点のお弁当も用意してもらった。シューズもユニフォームも練習用のボールも、必要なものは何不自由なく揃えてもらった。一度もそれに文句すら言われたこともない。それは、当たり前のことじゃない。
「ありがとう」
心配かけて、本当にごめん。
口に出して謝るべきだったのかもしれないけれど、そうしてしまうと、二人は悲しい顔をする気がした。なんのしがらみもなく、きらきらした目で前を向いている姿を見せるのが、多分、何より恩返しになる。
申し訳ないし、情けないし、自分の未熟さを突きつけられて、嫌になる。
でも、それを受け止めて、助けてもらって、進む。これが、今の私だ。
認めるしかない。
*
大学バスケットボール協会の建物は、高いビルの立ち並ぶオフィス街にあった。
莉央のお姉ちゃんから借りたスーツを身に着けてきたけれど、自分はこの場所では明らかに浮いている気がする。もしかしたら三年後くらいにはこういう場所で働いているかもしれないけれど、今の道花には、そんな未来はまだ想像できなかった。
隣に立つ父は真剣な顔でスマホを見ている。仕事のメールか何かだろうか。いつも家では頼りなさげだけれど、今はすごくこの景色に馴染んでいて、父も社会人なんだよなぁ、と当たり前のことを思う。
「道花」
腕時計をちらりと見て、そろそろ待ち合わせ時間だ、と思った時だった。聞き慣れた声に呼ばれ、顔を上げる。
少し先に、道花と同じくスーツを着た舷と、その隣に、同じくらい背の高い男の人が立っていた。近寄ってきた二人を、父と並んで見上げる形になる。
温厚そうな顔をしたその人は、父と道花に向かってにこりと微笑んだ。
「広瀬さん、ですよね」
「はい、先日はお電話で、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
物腰柔らかく頭を下げるその人を意外な気持ちで見た。もっとがっちりとした、見るからに体育会系という感じの監督を想像していたのだ。
「こちらの選手の問題で、大切な娘さんにまでご迷惑をおかけして、本当に申し訳ない」
「え」
監督が父にそう言ったのを聞いて、咄嗟に小さな声が出た。父と監督は気づかなかったようで、舷だけがこちらを見る。その目は落ち着いていて、「そういう話にしておいた」と言っている気がした。
(聞いてないよ、舷……)
舷のせいにするのは本意じゃない。事前に聞いていたら絶対に反対していた。でも今さら、こんな大人の話し合いの直前に口は挟まないほうがいいだろう。なんだか既成事実を作られた気がして、不満げな顔を舷に向けるしかない。
「じゃあ、中に入りましょうか」
大人二人は、実際そうなのかは分からないが、気負っている様子は全くなかった。
監督が舷と道花に向かって、行こうか、と微笑む。
「広瀬さんのところは業務用の空調を取り扱っておられるんですね。体育館とかも?」
「別の部署ですけど、やってますね。最近は導入される学校が増えてきて」
二人の会話を聞きながら、建物に入り、エレベーターに乗り込む。二人が黙ってしまったから、道花には、自分の心臓の音だけが響いているような気がした。
「お約束していた、立誠大学の本庄です」
監督が持ち上げた、受付に置いてある電話の受話器の向こうから、誰かが応えている声が聞こえる。
「お掛けになってお待ちください、だって」
近くにあるソファは四人座るには狭い。監督は舷と道花にどうぞ、と手で示してくれたが、座りにくい。舷も道花が座るのを待っていて、おずおずとソファに近づいた時だ。
「ああ、どうも、どうも」
ドアが開いた音がして、恰幅のいい、父よりも年上の男性二人が受付に現れた。
「井上さん、この間はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
監督がにこやかにそう声をかけ、相手も顔の前で手を振って笑っている。
知り合いなんだ、とまず驚く。道花は、どこを見て何をしていたらいいか分からず、ただ彼らを眺めていた。
「すいません。今日は突然、こんなお話で」
「いやいや、最近は多いですからねぇ」
もっと堅苦しい挨拶みたいなものから始まると思っていたから、思ったよりフランクな雰囲気に気持ちがついていかない。促されるままに、彼らの後ろを歩く。
案内されたのは応接室だ。道花の左には父が、右に舷、その向こうに監督が並ぶ。
「こちら、今回の件で巻き込んでしまった、広瀬さんのお父様です」
「ああ、それは」
本庄監督がすぐにそう紹介してくれて、少しだけほっとした。相手二人はこちらを見て、気の毒そうに目を細める。
「この度はお時間をいただき、ありがとうございます」
目の前で、父が名刺を差し出した。こちらにも視線が向けられたので、何を言っていいか分からず、ただぺこりと頭を下げた。
「どうぞ、おかけください」
監督と、父が腰を下ろすのを見て、舷と道花もそれに続く。
「今回、事前にお伝えしていた内容と重なりますが、こちらの水上選手に対する、ファンのストーカー行為がありまして。それが、こちらの広瀬さんへも広がってしまったような形で」
異論は、ある。でも、大人には大人の話の通し方があるのかもしれない、とぐっとこらえる。
本庄監督が二人の前に一枚づつ書類を置いた。これは、事前に道花も確認した、結衣の行為についてまとめられたものだ。
「……ということで、本人と親に来てもらって、まずは誓約書を結ぼうかと考えています」
「面と向かっては……その、大丈夫なんですかね。最近あるじゃないですか、逆に激昂するパターンとか」
道花の正面に座り、眼鏡を持ち上げて顔に紙を近づけていた男性が、そう言って顔を上げた。
「悩ましいところですけどね。今もまぁ、友人関係だったり、大学のほうでは比較的まともに過ごしているみたいなので、普通に話をすれば治まるタイプだとは思うんですが」
「人間、追い込まれないと分からないですからねぇ」
道花の知らないところで、さらっと結衣の調査みたいなものがされていることに内心ぎょっとなる。どんどん大人が話を進めて、まるで、自分のことじゃないみたいだ。
「で、誓約書に書こうと思っている内容の中に、こちらがありまして」
監督が指し示したのは、舷が関わるバスケットボールの試合への立ち入りも、本人への接近と見なす、という文言だ。
「ああ、これねぇ……」
協会側の二人が顔を見合わせる。少しだけ嫌な雰囲気だ。
「個人的なことになりますから、警備に伝えて動かす、とかは難しくてね」
「ええ、ええ、もちろんです」
事前に想定していたのだろう。監督は首を大きく縦に振る。
「そこまではそちらに要求するつもりは、全く。うちの大学の関係者が彼女を見つけた場合と考えてますし、その場合への彼女への説明も、うちからさせてもらうつもりです」
「ああ、そう……?」
相手は、少し肩透かしを食らった、という感じだった。
監督と舷は頷き合っている。そこまで、周到に準備をしてきたことが伝わってくる。
「なら、特に……どうですかね」
「問題、ないかな。ないね」
二人が頷き合って、部屋の中に、どこかほっとした空気が流れた。




