16.バスケットボールクラブ(3)
「すいません、もうちょっと見てもらえますか」
「私も、シュートも見てもらいたくて」
練習メニューが終わり、「体育館の利用時間が終わるまで、希望者は残って質問してもいいよ」と山口が言った直後から、道花の前には順番待ちの列ができていた。
「あーっ、みんなちょっと落ち着いて! 広瀬さん今日だけで終わらないから! えっと、ここで聞いてごめんね。来月も来れる日ってある、かな?」
「来月でも、その……もしよかったら来週でも大丈夫です」
「ほんと! 助かる!」
そこまではいらないと思われていたらどうしよう、と思いながら返すと、山口が勢いよく答えてくれたのでほっとした。
子どもたちの顔にも安心したという表情が浮かんでいる。役に立てそうなら、嬉しい。
「今日はありがとうございました! じゃあまた来週!」
山口に手を振り返して、道花は、詩織と体育館を出た。靴箱の前で、詩織がどこか勝ち誇った笑みを向けてくる。
「よかったでしょ?」
「うん」
読めてた、という感じの言い方は若干気にはなったけれど、素直に頷いた。詩織は勢いで生きているように見えるけれど、道花のことをよく分かってくれているのは事実だ。
すごく、楽しかった。キラキラした瞳で見られるのは気分がいいというのもあるし、純粋な向上心に触れて、何かが浄化された気がする。
そう思いながら、靴に足を入れた時だった。
「あ」
詩織の声に顔を上げる。外に出ていた舷が入ってくるところだった。
「おつかれ」
舷はまた、道花を見てぴたりと動きを止めた。無視するのも違うかなと思って、そう言ってさっさと横を通り過ぎようとした時だった。
「道花」
おそらく再会してからはじめてはっきり呼び止められた。平常心でと思いながらも、心臓は大きく跳ねる。
「……なに?」
挑むみたいな声色になってしまったが、しっかり顔は上げられた。本当に久しぶりに、ちゃんと正面から見つめ合った。
舷は目を逸らさなかったが、その喉が、ごくりと上下したのが見えた。
「お前が嫌なら、俺は、今度から来ない」
「え?」
想像していなかった言葉に目を丸くする。直後、怒りが湧き起こった。
「もともといつまでの話だったの?」
「……この一年はっていう話だった」
「ありえない」
怒りで声が震え、首を横に振った。
「私とのことよりも、あの子たちの期待を裏切るほうが最悪だよ」
きっと、立誠大学の水上舷が来ると知って、飛び上がるほど喜んだはずだ。将来プロになるかもしれない選手。ミーハーな気持ちだってあるかもしれないけど、少しでも技術を吸収したい、とやる気に燃えている子だってきっといる。
「……ごめん」
俯いて額に手を当てる舷の姿にはっとなった。無意識に握り締めていた拳をほどく。
「それは、なんの謝罪?」
喧嘩腰になりすぎていたことを反省して、肩の力を抜いて、尋ねる。
「俺は、いつも間違える」
「……?」
ぼそりと落とされた声は独り言みたいで、道花は首を傾げた。質問の答えにもなっていない。でも、その声はとても悲しそうで、というよりも、もっと深い……。
――後悔?
それに気づいて、目を見開く。
「もし……あの時のことだったら」
舷が顔を上げた気配がして、反対に道花は俯く。真正面から顔を見ながら話す勇気はまだない。
「私は、舷が悪いとか、謝ってほしいとか思ってない。私が、舷が思ってくれてるよりも弱かった、それだけだよ」
言い切った。
舷の反応はない。
おそるおそる顔を上げると、舷はこちらを見つめたまま固まっていた。感情の抜け落ちたような顔。
「そんなふうに、思ってたのか」
愕然とした声は、どこか危うさを感じさせた。舷、と呼び掛けて、つい手を伸ばしたくなるような。
「どうしたのー? そろそろ閉めるよー」
「あ、すみません!」
山口の声にはっとなる。すぐ隣から聞こえた返事に、その時になって、そばに詩織がいたことを思い出した。
「とにかく、やめなくていい。私も、今度はやめないから」
言い捨てるみたいに言って。外に向かおうとした時。
「お前は弱くなかった。悪いところなんてない。俺が、何も分かってなかっただけだ」
それだけ言うと、舷は道花の横を通り過ぎて行った。どこか懐かしい制汗剤の香りが残る。
中で舷と山口の会話する声が、どこか遠くに聞こえていた。
「気配消しすぎでしょ。なんか言ってくれたらよかったのに」
「いや、ああいうのは邪魔したらだめだなと思って」
いつも余計なことをするくせに、と詩織をじろりと見る。それにしても、野生動物並みの気配の消し方だった。
「舷、後悔してるのかな……」
そうして、ぼそっと零した。詩織がちらりとこちらを見てから、うーん、と首を傾ける。
「私が言うべきか、黙っておくべきか……」
その返事が、ほとんど答えみたいなものだ。では、道花の感じたことは合っているのだろう。
「そっか、それは、考えてなかったな……」
怒りと呆れ、それから軽蔑。あの時の舷から伝わってきたのは、それが全てだった気がする。だからというと言い訳になってしまうけれど、舷が後悔しているとは夢にも思っていなかった。あんなに、何かが抜け落ちたような顔になってしまうほど。
「道花、部活辞めた頃は手負いの獣みたいだったもんね、誰も近づくな! シャーッて感じで」
「やめてよ。あの時は、自分を守るのに必死だったし……」
両手を上げて威嚇のポーズをしてみせる詩織をまた睨み、もごもごと言い訳する。
「仕方ないよ。道花以外、みーんな悪い」
「誰も悪くない、とかじゃなくて?」
「悪いでしょ。だから舷だってしゃーないよ。そこは自分でなんとかしろよって感じ」
私たちを引き合わせたくせに、突き放すようなことを言う詩織は、なんだか底知れない。
「でもなんか、大人になってたよね」
「舷? なってたかぁ? なんか余計なこと言ってなかった?」
「それは……言ってたけど」
そう言ってくすりと笑う。それでも、もうあの時の舷ではないと感じた。よく分からないけれど、成長過程というか、なんというか。
「あ、インカレの結果のこと、何も声かけなかったな」
「あー、こないだ決勝あったんだっけ?」
詩織も全くといっていいほど興味がなさそうだ。そんな話をするタイミングもなかったけれど、逆に触れなくてよかったのかもしれない。舷が誰より真剣に考えているだろうし、外野に口を出されても、煩わしいだけだろう。
その結果を受け止めて、割り切って、こうしてバスケの指導をしに来ている。大人になったんだな、とまた思った。
「なーんかなぁ、私だけ置いていかれてる気がする」
夕日に目を細めて零した言葉は、やけに寂しげに響いた。私は、何も変わっていない。あの頃のことに固く蓋をして、見ないようにしてきたことを痛感させられる。その間にいつの間にか、周りの時間が進んでしまっていることにも。
「そーーーーんなこともないんじゃない?」
「間がすごい」
正直な詩織の反応に突っ込んで、笑った。
*
「定期的に、男女合同とか、男子と女子の指導を入れ替えたりしてるんだ。いろんな人に見てもらったほうがアドバイスの幅も広がるかなと思って。次来てもらう時、広瀬さんと水上くんにもそうしてもらおうかなと思ってるんだけど、どうかな?」
山口がなんとなくこちらの様子を探りながら聞いてくれているのが分かる。道花もだいぶこのクラブに慣れてきて、詩織と一緒に来ることも少なくなってきた。でもそうなると、舷と道花の間の微妙な空気を隠すのは難しい。仲が悪くはなさそうだけれど、なんかありそう。そんな雰囲気はとっくにバレてしまっているだろう。
「全然大丈夫です」
でも、子どもたちの利益より優先することでは絶対ない。道花は迷う間を見せないように頷いた。
「そう? えーっと、舷くんが来る時でもいいし、あ、もし連絡先知ってたら、先に直接相談してくれても全然いいけど……」
「いや、知らないです。次の時でいいです」
迷う間もなく、気づいたら首をぶんぶん横に振っていた。明らかに態度に出てしまって、山口もさすがに苦笑する。
「嫌なのにごめんね、ありがとう。いや、広瀬さんとか鈴原さんが舷くんに対してこう……キャーキャーなったりしないのには、ほんと助かってるんだけどね」
「キャーキャー……」
大学生で、子どもたちにバスケを教えに来ている状況でそれはないだろう。道花の表情からその考えが伝わったのか、山口が困ったように笑った。
「実は、二人の前に来てくれてた子たちがね……舷くんが来るようになってから、まともに指導に集中できなくなっちゃって。会ったその日に強引に連絡先聞きにいったり、男女合同の練習ばっかりさせたり……」
「えぇ……」
その時の心労を思い出したのか、山口の顔がげっそりとなる。
正直、ドン引きだ。その子たちと結衣を重ねてしまって、嫌な気持ちを思い出す。
「だから鈴原さんに『絶対に男子にギラギラならない、バスケのできる女子知ってます』って言われて、それに賭けようと思って」
「賭け?」
引っかかった言葉に首を傾げると、山口は少し迷うように視線を泳がせてから言った。
「あー、その……ほら、また同じようになったら子どもたちの練習に差し障るからって、舷くんがほかの人見つけてきて辞めますって言っててね。ちょっと待ってもらってたんだ」
聞かなかったことにしてね、と山口は口の前に指を立てる。
(そうだったんだ……)
道花は納得した。だからあんなにあっけなく、自分が辞めると言い出したのか。道花に会って、なんの考えもなしに衝動的にあんなことを言ったのかと思った。
舷の行動は、そこまで無責任なものではなかったということだ。
話しても、何もいいことはないと思っていた。でも、話さないと、新しい誤解も生んでしまう。
「……ってことで、山口さんから、練習できるように打ち合わせしといてって言われたんだけど……」
「わかった」
次にクラブに来る日が舷と重なった時、道花は自分から彼に近づいた。いつまでも声をかけられるの
を待つというのも受け身で嫌だったからだ。
舷も山口から話を聞いていたのか、特に引っかかる様子もなく頷いてくれる。
「で、これが私のメモ。もし今大丈夫そうだったら、ちょっとだけ時間いい?」
こくんと舷が頷く。その目が、道花の手の中のメモに向き、ほんの少し細められた。
「……懐かしい?」
「ああ」
それがどこか優しい目つきだったから、気づけばそう尋ねていた。返された返事にはしみじみとした響きがあって、道花の心に優しく染みていく。
懐かしい空気。そう、こんな沈黙でも、心地よかった。
もう少しその空気にいたい気もしたが、あまり時間もないし、山口から聞いた練習に身が入らなくなった女の子たちのことも思い出して背筋を伸ばす。
「加藤さんはドリブルの高さを意識するように指導してるところ。だいぶ改善されてきて、次はステップの話をしてもいいかもなって思ってた。緑さんはディフェンスの時のステップの切り返しがまだまだ弱くて、まずは下半身のトレーニングが必要かな。ただ、それだけだとモチベーション上がらないだろうし、何か彼女の持ち味を生かせるテクニックが見つけられたらいいなって思ってるんだけど……」
舷の手に渡したメモのコピーを指差しながら話していると、ふと、一方的に話しすぎている気がした。ちら、と視線を上げる。
ばちん、と、舷と目が合った。
切れ長の目が見開かれていて、しばし見つめ合う。
「え……聞いてた?」
「……」
「うそでしょ」
びっくりしすぎて、責める声色を隠せない。人が一生懸命説明してたのに。何してたの?
「ごめん、ちょっと意識持ってかれてた」
「えぇ……」
額に手を当てて道花の視線から逃げる舷を見て、素直に心配になってきた。
「無理しすぎなんじゃないの……」
本当なら舷は、自分の練習や試合に集中すべき選手だ。人のことに口を出すのは好みではないが、休みの日にわざわざ顔を出すにはこのクラブは緩すぎるし、正直、舷にメリットはない。
「私が、途中で辞めるのは最悪とか言ったから、辞めにくくなってる?」
「え?」
舷が道花を見て目を丸くする。
「その、あの時は私も衝動的にあんなこと言っちゃったけど、舷がどうしようと自由だし、そもそも忙しいだろうし……あんなふうに責めることじゃないなって今は思ってるから、いつでも辞めていいからね」
目線を下げて言い切ってから、自分でも「ん?」と思う。何様な物言いすぎたかもしれない。
しまったと思った時には遅く、案の定、舷は無言だ。
見上げると、少しだけ眉を寄せた舷の顔がある。
(怒った?)
「あ、いや、辞めてほしいわけじゃないんだけど……難しいな」
「いや、ありがとう。考えてみる」
ぼそぼそ言うと、舷は感情の読めない声で言った。なんとなく、行けたら行くとか、前向きに検討します、とかと同じような。
「……えっと、じゃあもう一回言うから。今度はちゃんと聞いてて」
「分かった」
舷が頷くのを確認してもう一度説明を始めると、今度は間に何個か質問が飛んでくる。さっきは本当に上の空だったんだな、と少し呆れている、と。
「緑さんは、そもそもディフェンスの姿勢が合ってるのかどうかだな」
メモを見ながら舷が首を傾ける。はっとなった。
「あっ、スタンス……まだ見てあげられてないな」
大事なことが抜けてた。くしゃ、と顔を歪めると、舷が道花の手からメモを取っていった。
「無理な姿勢をしすぎないように、今言っておこう」
「助かります」
指導って難しい。それを実感しながらぺこりと頭を下げると、分かった、というように、また舷の目が細められた。
「……すごく、やりやすい」
感謝と尊敬と。その気持ちが混ざって、舷の目を見ながらつい本音がぽろりと漏れた。
「俺もだ」
見つめられながらそう返されて、途端に心臓が跳ねる。
「じゃあ、今度は、そういう感じで!」
なんだか変な空気に耐えられず、道花はそこから逃げるように話を終えた。




