13.過去(6)
自分が推薦されたのはきっと、先輩にも喜んでもらえた分析力を期待されてのことだ。
道花はそれを思い出して、少しだけ元気を取り戻して部活にやってきた。
ちょうど一年の子が不安そうに歩み寄ってきてくれたから、喜んでそれに答える。だが、その時だった。
「めっちゃ上からアドバイスするじゃん。どの立場なんだろ」
通りすがりに聞こえた、こちらが気のせいかと思うくらいの声。
その一言で、立ち直ろうとした心は、ぱきりと折れた。
「先輩」
目の前の子は、気づかわしげにこちらを見てくれている。きっと、この子にも聞こえていた。気にしないでください、と言いたそうな表情。でも。
――恥ずかしい。
そちらを睨みつけでもすればよかったのだろうが、すぐに動けなかった。くすくすと笑う数人がこちらを見ている気配がする。それが誰かを確認するのも嫌だ。
「ごめん」
なんとか口角を上げてみせた。きっと、痛々しい笑顔だったけれど。
これが助けになると言ってくれた先輩はもういない。菜々美も頼れない。役に立つと思ってやっていたことをそんなふうに言われてしまえば、道花はもう、何もできない。
「これ、出した人片付けといてくれる?」
そこからは、転げ落ちるようにエスカレートしていった。
道花の指示を無視する部員は徐々に増えている。ぎしぎしとストレスで胃が痛むが、せめて顔には出さないでいようと、顔を上げて、自分でボールを倉庫に運んでいく。
そんな姿を舷に見られていたことには気づかなかった。
「どうなってんだ、そっち」
「何が?」
距離をとってくれていたはずの舷が、駅で道花を待っていた。
ちゃんとあの子たちに気づかれないように話しかけてくれたことにほっとして、でもそんな、怯えて隠れるような自分が心底嫌になる。
とぼけてそう言ったけれど、舷の顔がさらに険しくなっただけだった。
「いくらなんでも分かる。お前の指示を聞いてない奴がいるだろ」
気づかれていた。舷は思いやりでそう言ってくれているのは分かる。でも、私を思いやってなら、気づかない振りをしてほしかった。
恥ずかしい。
自分の感情を受け止めきれなくて、代わりに湧き起こったのは怒りだ。
「そういうことはあるでしょ、ちょっとくらい」
「そんなわけない。道花、どうしたんだ」
「うるさいな」
思ったよりも冷たく声が響いて、舷が息を呑んだのが分かった。
(だめだ……)
道花は手のひらで目を覆って、深呼吸した。
正論を突きつけられるのが辛い。追い込まれているように感じる。舷は、何も悪くないのに。
きっと、考えて迷って、舷は声をかけてくれた。そんな言葉にすら引っかかってしまうのは、完全にこちらの問題だ。
「ごめん」
「いや……」
「もう、何もかもうまくいってない」
元気な声を出すのは無理だった。舷が一歩歩み寄ってくる。
「……早森には?」
顔を覗きこまれそうになって、さっと逸らした。こんな情けない顔を見られたくない。
でもそこで、舷のほうが大げさなほど後ずさりしたからはっとなる。きっと舷は、自分に対する拒絶だと思っただろう。
「……ごめん、完全に八つ当たり。ていうかあんた、顧問も呼び捨てなんだ」
覇気のない声になってしまったけれど、空気を変えようと冗談も言ってみる。でも、舷を笑顔にすることはできなかった。
「相談はしてるけど、あんまりね」
「あいつが頼りにならないなら、こっちに言うか?」
「いやいや……ていうか根本の原因がよく分からないんだよね」
結衣の口からはっきり言われたことといえば、舷のことだ。
だが、舷とはあれからほとんど話していない。
舷が言った「こっち」というのは、男子バスケの顧問のことだろう。そんなことをしたら、余計にややこしくなる。
そんなふうに考えていた時だった。
「もう少し、強く言ったらどうだ」
「は?」
舷が何気なく言った言葉に、ぴく、とこめかみが震えたのが分かった。
強く言う? それで解決するほど単純な話じゃない。
でもそこで、また首を振る。
怒りをぶつける相手が違う。そもそも舷だって真剣に練習しているのに、女バスで起こっている陰湿なやりとりにまで気づけるはずない。それを詳しく話してもいないのに、正しいアドバイスを期待するのが間違っている。
なのに、今目の前にいる舷が、急に遠い存在に感じた。
「そうだね。まぁ、なんとかやってみる」
へら、と笑うことはギリギリできた。舷は道花の不安定な反応に少し困惑したみたいだったけれど、最終的には納得したと思ったようだった。
「何かできることがあったら、言ってくれ」
ありがと、と小さく返して、ちょうど電車が来たから、離れた車両の乗車位置に移動した。
誰にも見られたくないという気持ちもあったけれど、それよりも、これ以上舷と話したくなかった。
何かできること? 舷に相談して、それで何になるんだろう。
もし舷に動いてもらったとしても、道花への陰口はなくならないだろう。むしろ、火に油を注ぐだけだ。
*
大会の予選通過を目指して、一丸となる時期――のはずだった。
無視されていることは道花にとっては明らかだが、それは、早森には気づかれないよう、姑息に慎重に行われていた。
表面上は特に問題は起きていない。道花さえ我慢すれば。
実際は、早森がいない時、結衣を中心としたメンバーが、勝手に別の練習メニューを始めていることもあった。特に後輩たちの戸惑いは大きくて、いったい誰の指示に従っていいか分からず、混乱しているのが伝わってきた。
せっかく希望を抱いてこの高校に入学して、入部してくれたのに。
自分のせいでそうなってしまった。申し訳なさと怒り、それから、チームをまとめられていない恥ずかしさで胸がぐちゃぐちゃになる。
道花たち三年生の代の、メッセージグループがあった。
道花が送った連絡事項は、「そっかー、了解(笑)」という結衣のコメントで終わっている。道花のメッセージではなく、結衣の吹き出しに多くのリアクションがついていた。誰がリアクションをつけたのかが見られる仕様なんてなかったらいいのに。自分でも見なければいいのにと思いながら、スマホをタップする。
ああ、この子も、この子も。結衣側につくって決めたんだ。
味方は、いない。
あの様子だと、きっと、道花以外の部員のメッセージグループがあるのだろう。そこではきっと、道花の挙動が面白おかしくからかわれている。毎日。
俯いて一人、帰り道を歩いていると、陽菜が駆け寄ってきた。
「道花ちゃん」
「……陽菜」
「その、みんなの前で言えなくてごめん、私、ほんとによくないと思ってる。道花ちゃんは何も間違ってない……」
じゃあ、それをみんなの前で言ってよ。
「ありがとう」
そう吐き捨てたいのを我慢して、お礼を絞り出した。
そんなこと、私にだけ言われてもどうしようもない。自分だけ罪悪感から解放されて、気持ちよくなろうとしないで。
そんなドロドロした気持ちを抱えて力なく微笑むだけの道花に、陽菜は悲しそうな顔をして俯いた。
それでも。まだ道花は、完全には折れていなかった。このまま我慢していれば、いつかは相手も飽きる。
みんなそれぞれ、この部活に入った理由があるはず。それを思い出してくれさえすれば。
そう願っていた。
「一度、話し合いをしてみたらどうだ」
「話し合い……?」
ある日、早森がそう言った。寝耳に水で驚いたし、あまりにも見当違いの提案に胸がもやっとした。常々相談はしていたけれど、こんなふうにちゃんと早森の口から提案をされるのは初めてだった。なのに、それ? 話し合い?
話し合って、どうにかなるものだろうか?
「ほら、結局、忌憚なく意見をぶつけ合う場がないからこうなってるんじゃないか?」
「いや……」
そんなわけない。表に出したらどんなことになるのか、分からないのだろうか。
「俺も立ち会うから、一回そういう場を作ってみたらいい」
早森の中では、もう決まっているようだった。
きっと誰かに、何か言われたのかもしれない。そう思ったが、もう、抵抗する気力もなかった。
そうして迎えた、話し合い当日。道花にとって忘れられない、地獄の日になる。
「そもそも、広瀬さんがキャプテンっていうのがなぁ」
今の女子バスケットボール部の運営について、何か意見はあるか。早森が最初にそう問いかけて、手を上げたのは結衣だった。周囲の、くすくす笑う声が重なる。
「キャプテンってのがなんだ、具体的に言え」
(やめて……!)
早森はこの雰囲気に気づいていないのか、そう投げかける。
結衣はぴたりと止まったあと、意地悪く笑った。
「えー? なんていうか、メンバーへのメニューの落とし込みもなくてぇ」
「それはお前だけじゃなくてみんな思ってるのか? 同じように思うやつ、手を上げてみろ」
布が擦れるような音がいくつもして、見なくても、ほぼ全員が手を上げていることが分かった。陽菜を含め、慕ってくれていると思っていた後輩までも。
心が、死んでいく。
「広瀬先輩は、あんまりこう、試合でも貢献されてなくて、キャプテンとして指示が弱すぎるというか……」
「アドバイスはありがたかったですけど、常にそういう目で見られてると思うと、ちょっと……」
道花は辛うじて俯いてはいなかったが、もう自分でも、どこを見ているのか分からなかった。
怒りと悲しみと、何だろう。
泣きたい。
でもわずかに残った道花のプライドが、それだけはするまいと決めていた。
早森が、ちらちらとこちらを見る気配をする。少しはまずいと思っていたのかもしれないが、道花が表情を変えないことをどう受け取ったのか、溜め息をついて言った。
「お前ももうちょっと、歩み寄る態度を見せたらどうだ」
返事はしなかった。
声を出したら、泣いてしまいそうだった。
ここにいる全員が敵だった。
倒れ込むように部室で横になって、泣いた。最近上手くいってないことは母親にも気づかれていて、だから、家で泣いて心配させたくなかった。
ああ、もう無理かもしれない。
せっかくここまで頑張ってきたのに。悔しい。
でも、もう無理だ。
泣き疲れた顔で部室から出たら、そこで、舷と鉢合わせた。
「どうした」
ぎょっとした顔が、なんだか間抜けに見えた。
「別に……あ、そうだ。私、キャプテンやめようと思って」
これ以上みじめにならないようにと、笑いを浮かべて、できるだけ軽く。
でも、それが良くなかった。返ってきたのは険しい声だった。
「何言ってんだ。降りる必要ないだろ」
「いや、頑張ったけど、人間関係難しすぎる」
「道花」
舷の声には、どこか必死さがあった。
「やりたかったのは部員の力を伸ばすことっつってただろ。諦めんのか?」
諦める? 私を裏切ったのはあの子たちのほうなのに?
ぷちん、と張り詰めていた糸が切れた。
「ここまで頑張ったの! 簡単に言わないで!」
金切声みたいな声が出たけれど、もう抑えられなかった。
「どうしたんだよ……」
舷は一瞬目を丸くしたが、苛々した様子で溜め息をつく。
「お前は舐められすぎなんだ。もっと、だめなことははっきりだめだって」
「うるさい!」
泣きながら首を振った。
舷の顔はこちらを見て歪んでいた。ドン引き。そりゃそうだろう。
でも、こっちだって引いてる。何も知らないくせに。
「私は、舷とは違う」
涙が溢れ出て、頬を伝っていっているのが分かる。
「あっそ」
吐き捨てるようにそう言われて、道花はくるりと背を向けた。
舷が追ってくる気配はなかったし、それでよかった。
*
「キャプテンのことは分かった、でも、何も部活までやめることはないんじゃないか、この時期に」
早森の焦りを隠せない顔が目の前にあるが、何を今さら、としか思えなかった。
せっかく頑張ってたんじゃないか、お前がいないと、チームもダメになるかもしれない。先輩が作ってきたチーム晴翔がめちゃくちゃになってもいいのか。
どんな言葉も耳を滑っていく。
冷めた目で、「気持ちは変わりません」とだけ言い続けた。
私がいないほうが、全てが上手く回る。
ただ、早森が最後に言った言葉は、認めたくはないが、道花の心にぐさりと傷をつけた。
「逃げたことは、お前の一生に残るぞ」
歯を噛み締めて、怒りと悔しさに耐えた。この面談が終わるのを、詩織も待ってくれている。終わったら詩織に抱きついて泣けばいい。
みんな、敵ばっかり。
道花の心を最後に押したのは、もうこれ以上バスケを嫌いになりたくない、という気持ちだ。
いくら反対されても、もう気持ちは変わらなかった。
道花はそうして、部活を辞めた。




