7
最初の異変は、鐘の音だった。
王都・北区画。
夜明けと同時に鳴るはずの警鐘が、狂ったように打ち鳴らされた。
「魔獣だ!」
「結界が――結界が薄い!」
石畳を駆ける兵士たちの足音。
窓を開けた市民たちが、悲鳴を上げる。
空が、歪んでいた。
本来、王都を覆う防衛結界は、目に見えないほど安定している。
だが今は違う。
空気が揺れ、光の膜が、まるで破れかけの布のように波打っていた。
「あり得ない……!」
魔導院の老魔術師は、震える手で水晶盤を叩いた。
「第三結界が完全に沈黙! 第二も、出力三割以下!」
「応急魔力、投入しろ!」
魔術師たちが一斉に魔力を注ぎ込む。
だが、結界は応えない。
「なぜだ……なぜ、安定しない……!」
老魔術師の脳裏に、忌まわしい事実が浮かぶ。
――調整者が、いない。
「まさか……本当に、エリシア嬢が……」
その時。
轟音と共に、北区画の結界が、はじけ飛んだ。
「突破された!!」
黒い影が、なだれ込む。
魔獣。
通常なら、王都には一体たりとも近づけない存在。
兵士たちが剣を構えるが、混乱は広がるばかりだ。
一方、王城。
「何をしている!」
レオンハルト王太子は、玉座の間で怒鳴り声を上げていた。
「結界はどうした!?」
「なぜ、魔獣が王都にいる!」
跪く魔導院の使者は、蒼白な顔で答える。
「……制御不能です」
「魔力を注げば注ぐほど、歪みが拡大しています」
「そんな馬鹿な!」
殿下は、拳を握り締めた。
「調整役はどうした!」
「代替の魔術師を――」
「……いません」
使者の声は、かすれていた。
「結界を“理解して調整できる者”は」
「王都には、もう……」
沈黙。
その空白を埋めるように、城壁の外で、爆発音が響いた。
「殿下!」
聖女候補リリアが、震えた声で叫ぶ。
「市街地に、被害が……!」
レオンハルトは、はっと息を呑んだ。
――思い出す。
舞踏会の夜。
冷静な声で告げられた、あの言葉。
『私がこの国を去った後、何が起きても――どうか、後悔なさらぬよう』
「……まさか」
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
同時刻。
魔導院地下、誰も使わなくなった古代祭壇。
かつて、毎週のように整えられていた魔法陣は、無残に崩れ、ひび割れていた。
「……遅すぎた」
老魔術師は、膝をついた。
「彼女は、力を貸していたのではない」
「“世界を回していた”のだ……」
王都の空に、赤い光が走る。
魔獣の咆哮。
人々の悲鳴。
結界は、完全ではない。
だが、確実に――弱体化していた。
そして、王太子は、ようやく理解する。
自分が追放した令嬢が、
どれほど“代替不可能”な存在だったのかを。
「……探せ」
掠れた声で、レオンハルトは命じた。
「エリシアを……」
「今すぐ、連れ戻せ……!」
だが、その命令は、遅すぎた。
彼女はもう、
この国のために、祈る理由を失っている。
王都の夜明けは、血と恐怖に染まっていた。




