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その異変は、静かに始まった。
王城・中央塔の地下。
王国の魔術研究を担う魔導院で、夜明け前の当直をしていた老魔術師が、ふと眉をひそめた。
「……おかしい」
水晶盤の上に描かれた魔力波形が、微かに乱れている。
誤差と言えば、それまでだ。
だが、三十年この装置を見続けてきた彼にとって、その歪みは見過ごせるものではなかった。
「結界値、再測定だ」
助手が慌てて応じ、魔力を注ぎ込む。
水晶盤が淡く光り――次の瞬間、警告音が鳴り響いた。
「なっ……!? 結界出力が、低下しています!」
「馬鹿な。昨日まで、基準値を保っていたはずだ!」
老魔術師は、震える指で数値をなぞる。
王都を覆う防衛結界。
魔獣や災厄を遠ざける、王国最大の守り。
その出力が、確実に――下がっていた。
「原因は!?」
「不明です! 魔力供給源は正常、魔石も劣化していません!」
研究室に、重苦しい沈黙が落ちる。
その時、誰かが小さく呟いた。
「……“調整役”は?」
一斉に、視線が集まる。
「……まさか」
「いや、しかし……」
言葉は続かなかった。
昨夜、王太子によって断罪され、追放された令嬢の顔が、皆の脳裏に浮かんだからだ。
「エリシア・フォン・リーネ……」
その名を口にした瞬間、空気が冷えた。
「彼女は……確かに、毎週、地下祭壇に出入りしていたな」
「魔力は低いが、結界の安定値だけは、異常なほど正確だった」
老魔術師は、苦々しく唇を噛んだ。
「……彼女がいなくなった、たった一晩で、これか」
否定したかった。
だが、現実が、それを許さない。
「すぐに王太子殿下に報告を!」
「結界低下は、国家存亡に関わる!」
慌ただしく人が動き出す。
一方、その頃――。
王城・私室。
レオンハルト王太子は、紅茶を飲みながら報告書に目を通していた。
「結界値の低下?」
彼は鼻で笑った。
「誤差の範囲だろう。あの女を追放したからといって、何が変わる」
隣では、聖女候補リリアが不安げに首を傾げる。
「でも殿下……昨夜、地震のような揺れが……」
「偶然だ」
きっぱりと言い切る。
「エリシアは、ただの調整係だ。代わりはいくらでもいる」
だが、その言葉とは裏腹に。
王城の外壁を覆う結界が、淡く――一瞬だけ、揺らいだ。
「……殿下?」
リリアの声に、レオンハルトは窓の外へ視線を投げる。
遠く、王都の上空で、空気が歪んだように見えた。
「気のせいだ」
そう言いながらも、胸の奥に、言い知れぬ不安が広がる。
――知らない。
自分たちが、どれほど重大なものを失ったのかを。
結界の最深部。
誰にも気づかれず、魔法陣の一部が、静かに崩れ落ちていた。
修復する者は、もういない。
その夜、王都近郊で、通常では現れないはずの魔獣が、確認された。
それは、すべての始まりに過ぎなかった。




