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婚約破棄された王太子妃候補ですが、私がいなければこの国は三年で滅びるそうです。  作者: カブトム誌


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19/22

19

 大聖堂は、静まり返っていた。


 かつては祈りと讃美歌で満ちていたこの場所に、今は人影がほとんどない。

 結界が役目を終えたことで、“聖女の間”もまた、その意味を失ったのだ。


 リリアは、白い寝台の端に腰掛け、ぼんやりと自分の手を見つめていた。


「……重く、ない」


 それは、驚きの言葉だった。


 体ではない。

 胸の奥――ずっと押し潰されていた何かが、消えている。


 扉が、控えめにノックされる。


「失礼します、リリア様」


 侍女の声に、彼女は小さく頷いた。


「もう……“様”は、いらないわ」


 その言葉に、侍女は一瞬、戸惑ったように目を瞬かせる。


「……リリア、さん?」


「ええ」

 リリアは、少し照れたように微笑んだ。

「それで、十分よ」


 侍女は、堪えきれず涙を浮かべ、深く頭を下げた。


「……おめでとうございます」


 その言葉に、リリアは首を傾げる。


「何が?」


「生きていて……」

「“人”でいられて……」


 その瞬間、リリアの胸が、きゅっと締め付けられた。


 ――ああ。

 自分は、どれほど“人”から遠い場所にいたのだろう。


 そこへ、足音が近づく。


「……入ってもいいかな」


 聞き覚えのある声。


「王太子殿下……」


 レオンハルトは、かつての威厳ある装いではなかった。

 剣も外し、王族の外套もない。


「今は、ただのレオンハルトだ」


 彼は、ゆっくりと頭を下げた。


「話を……させてほしい」


 沈黙。


 リリアは、しばらく彼を見つめてから、頷いた。


「どうぞ」


 二人きりになると、レオンハルトは言葉を探すように、しばらく黙っていた。


「……君に」

「聖女であることを、選ばせなかった」


 それは、懺悔だった。


「必要だと、言い聞かせて」

「守っているつもりで……縛っていた」


 リリアは、静かに答える。


「知っています」


 責める声ではない。


「だって、誰も疑わなかった」

「私自身も……疑わなかったから」


 彼女は、窓の外を見た。

 新しい結界の、柔らかな光が、空に溶けている。


「……怖かったの」


「何が?」


「私がいなくなったら」

「この国は、壊れるんじゃないかって」


 指が、ぎゅっと握られる。


「だから、“聖女”でいることが」

「私の存在理由だと、思い込んでた」


 レオンハルトは、唇を噛みしめた。


「……エリシアは、違った」


 その名を口にした瞬間、リリアの表情が、少しだけ柔らいだ。


「彼女は、“私がいなくても大丈夫な世界”を作った」

「それが……どれほど、救いだったか」


 自分が要らない世界。

 それは、否定ではない。


 解放だった。


「だから」


 リリアは、ゆっくりと立ち上がった。


「私は、聖女を辞めます」


 レオンハルトは、頷いた。


「……王家として、正式に受理する」

「君は、自由だ」


 その言葉を聞いた瞬間。


 リリアの目から、涙が溢れた。


 声を押し殺し、肩を震わせる。


「……ありがとう」

「やっと……息ができる」


 聖女リリアは、この日、終わった。


 そして――


 ただの少女リリアが、ここから始まる。


 大聖堂を出ると、風が頬を撫でた。


「……外って、こんな匂いだったのね」


 土と、草と、人の生活の匂い。


 生きている世界の匂い。


 その空の下で、彼女は初めて思った。


 ――いつか、エリシアに会いたい。


 救われた者としてではなく。

 同じ“人”として。


 王都は、静かに変わり続けている。


 誰かの犠牲に支えられた奇跡は、もうない。


 代わりに残ったのは、

 選び、迷い、進む自由。


 それこそが――

 エリシアが、この世界に残した最大の“魔法”だった。

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