19
大聖堂は、静まり返っていた。
かつては祈りと讃美歌で満ちていたこの場所に、今は人影がほとんどない。
結界が役目を終えたことで、“聖女の間”もまた、その意味を失ったのだ。
リリアは、白い寝台の端に腰掛け、ぼんやりと自分の手を見つめていた。
「……重く、ない」
それは、驚きの言葉だった。
体ではない。
胸の奥――ずっと押し潰されていた何かが、消えている。
扉が、控えめにノックされる。
「失礼します、リリア様」
侍女の声に、彼女は小さく頷いた。
「もう……“様”は、いらないわ」
その言葉に、侍女は一瞬、戸惑ったように目を瞬かせる。
「……リリア、さん?」
「ええ」
リリアは、少し照れたように微笑んだ。
「それで、十分よ」
侍女は、堪えきれず涙を浮かべ、深く頭を下げた。
「……おめでとうございます」
その言葉に、リリアは首を傾げる。
「何が?」
「生きていて……」
「“人”でいられて……」
その瞬間、リリアの胸が、きゅっと締め付けられた。
――ああ。
自分は、どれほど“人”から遠い場所にいたのだろう。
そこへ、足音が近づく。
「……入ってもいいかな」
聞き覚えのある声。
「王太子殿下……」
レオンハルトは、かつての威厳ある装いではなかった。
剣も外し、王族の外套もない。
「今は、ただのレオンハルトだ」
彼は、ゆっくりと頭を下げた。
「話を……させてほしい」
沈黙。
リリアは、しばらく彼を見つめてから、頷いた。
「どうぞ」
二人きりになると、レオンハルトは言葉を探すように、しばらく黙っていた。
「……君に」
「聖女であることを、選ばせなかった」
それは、懺悔だった。
「必要だと、言い聞かせて」
「守っているつもりで……縛っていた」
リリアは、静かに答える。
「知っています」
責める声ではない。
「だって、誰も疑わなかった」
「私自身も……疑わなかったから」
彼女は、窓の外を見た。
新しい結界の、柔らかな光が、空に溶けている。
「……怖かったの」
「何が?」
「私がいなくなったら」
「この国は、壊れるんじゃないかって」
指が、ぎゅっと握られる。
「だから、“聖女”でいることが」
「私の存在理由だと、思い込んでた」
レオンハルトは、唇を噛みしめた。
「……エリシアは、違った」
その名を口にした瞬間、リリアの表情が、少しだけ柔らいだ。
「彼女は、“私がいなくても大丈夫な世界”を作った」
「それが……どれほど、救いだったか」
自分が要らない世界。
それは、否定ではない。
解放だった。
「だから」
リリアは、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、聖女を辞めます」
レオンハルトは、頷いた。
「……王家として、正式に受理する」
「君は、自由だ」
その言葉を聞いた瞬間。
リリアの目から、涙が溢れた。
声を押し殺し、肩を震わせる。
「……ありがとう」
「やっと……息ができる」
聖女リリアは、この日、終わった。
そして――
ただの少女リリアが、ここから始まる。
大聖堂を出ると、風が頬を撫でた。
「……外って、こんな匂いだったのね」
土と、草と、人の生活の匂い。
生きている世界の匂い。
その空の下で、彼女は初めて思った。
――いつか、エリシアに会いたい。
救われた者としてではなく。
同じ“人”として。
王都は、静かに変わり続けている。
誰かの犠牲に支えられた奇跡は、もうない。
代わりに残ったのは、
選び、迷い、進む自由。
それこそが――
エリシアが、この世界に残した最大の“魔法”だった。




