17
王都の空は、静かすぎた。
あまりにも、穏やかだった。
結界管理局の中央制御室。
並ぶ魔導盤の前で、誰もが息を潜めている。
「……最終確認」
「結界停止まで、残り三十秒」
乾いた声が、室内に響いた。
王太子レオンハルトは、壁際に立ったまま、拳を握りしめていた。
指先が白くなるほど、強く。
「本当に……」
掠れた声が漏れる。
「これで、良いのだな」
返事をしたのは、大司祭だった。
「これ以外に、王都が生き残る道はありません」
その言葉は、慰めではない。
事実だった。
聖女リリアは、別室で横たわっている。
結界から切り離す準備は、すでに整っていた。
――すべては、彼女の提示した“条件”どおり。
「十」
「九」
「八……」
数字が、刻まれるたび、王都全体が張り詰めていく。
街の人々は、まだ知らない。
だが、動物たちは気づいていた。
馬がいななき、鳥が一斉に飛び立つ。
空気が、微かに軋む。
「三」
「二」
「一」
「――結界、停止」
その瞬間。
王都の空を覆っていた光が、
すっと、消えた。
悲鳴も、爆発もない。
ただ――
重圧が、消えた。
「……?」
最初に異変に気づいたのは、街の外れにいた農夫だった。
「空が……」
「広い……?」
息が、しやすい。
胸の奥の、得体の知れない圧迫感がない。
王都中央。
石畳に、細かな亀裂が走り――
次の瞬間、止まった。
「崩壊、ありません!」
「地盤反応、安定!」
制御室に、驚愕の声が上がる。
「魔獣反応は!?」
「……出ていません」
「外縁部、静穏です」
誰もが、信じられないという顔をした。
結界を止めたのに。
都市は、壊れていない。
「……どういうことだ」
王太子が、呟く。
その問いに答えたのは、
遠く離れた辺境ルーンフェルトにいる、エリシアだった。
結界制御塔。
彼女は、結界盤を前に、静かに手を動かしている。
「予定どおりです」
隣で、カイルが息を呑む。
「王都の……結界が、ないですよね?」
「ええ」
「“檻”を、外しただけです」
彼女の指先が、魔導盤の新たな層を起動させる。
「今までの結界は」
「外敵を防ぐ代わりに、内側の循環を殺していました」
淡々とした説明。
「私は、外側に張りません」
「都市そのものを、世界の流れに戻します」
王都の地下。
目に見えない“歪み”が、ゆっくりと解け始めていた。
圧縮されていた魔力が、自然に拡散する。
土地が、呼吸を取り戻す。
「……すごい」
カイルが、思わず呟く。
「本当に……壊してから、直している」
「いいえ」
エリシアは、首を振る。
「壊れていたものを」
「やっと、壊しただけです」
一方、王都の大聖堂。
聖女リリアの体から、淡い光が抜けていく。
「……あ……」
彼女は、目を開けた。
胸が、軽い。
あの重圧が、ない。
「結界は……?」
侍女が、涙を浮かべながら答える。
「止まりました」
「でも……王都は、無事です」
リリアは、天井を見上げた。
「……そう」
初めて、心から息を吐いた。
その瞬間、彼女は理解した。
自分は、“守っていた”のではない。
“縛られていた”のだと。
王城。
レオンハルト王太子は、窓辺に立ち、空を見上げていた。
結界の光は、もうない。
だが――恐怖も、ない。
「……余は」
彼は、低く呟く。
「何を、信じていたのだろうな」
守っているつもりで、壊していた。
支えているつもりで、切り捨てていた。
その代償が、これだ。
だが。
王都は、まだ立っている。
それは――
“彼女が、世界を知っていた”からに他ならない。
夕刻。
王都の上空に、淡い光の流れが生まれた。
結界ではない。
境界でもない。
ただ、世界と都市が、正しく繋がっている証。
その光を見つめながら、
人々は、初めて理解し始めていた。
――守るとは、閉じることではない。
そして。
この奇跡を起こしたのが、
かつて“不要”と断じられた令嬢だったことを。
王都の再生は、始まったばかりだ。
だが、もう後戻りは、しない。




