15
王都に、夜が訪れても。
人々は、眠れずにいた。
空を覆う結界の光が、明らかに“揺れている”。
それはもはや、専門家でなくとも分かるほどだった。
「……結界、出力低下」
「内部圧、危険域に入りました」
結界管理局の報告に、誰も声を出せない。
机の上に並ぶ数値は、ただ一つの結論を示していた。
――限界。
王城・緊急会議室。
レオンハルト王太子は、机に両手をついたまま、動けずにいた。
「聖女リリアの状態は?」
問いに、侍医が視線を伏せる。
「……長時間の儀式維持は不可能です」
「これ以上続ければ、命に関わります」
その言葉が落ちた瞬間、会議室の空気が凍った。
「では……」
誰かが、掠れた声で言う。
「他に、方法は?」
沈黙。
全員が分かっている。
聞くだけ、無意味な問いだ。
老魔術師が、ゆっくりと口を開いた。
「……一つだけ、あります」
視線が、集まる。
「エリシア・フォン・リーネ」
「彼女に、正式に“すべてを委ねる”ことです」
その言葉に、王太子の肩が、わずかに震えた。
「……それは」
「王国が、彼女に跪くという意味か」
「はい」
否定はなかった。
「条件交渉ではありません」
「要請でも、ありません」
老魔術師は、はっきりと言った。
「完全な降伏です」
重い沈黙。
誇り。
王家の威信。
正統性。
それらすべてを、天秤にかけるまでもない。
――このままでは、国が死ぬ。
「……分かった」
レオンハルトは、目を閉じた。
そして、ゆっくりと、頭を下げた。
「余が、書く」
その姿に、誰も異を唱えなかった。
それが、王国の終わりであり、
同時に、生き延びるための唯一の選択だったからだ。
夜明け前。
王家の紋章が刻まれた、黒の封書が完成した。
そこに書かれている言葉は、短い。
謝罪。
権限の全面委譲。
条件の無条件受諾。
――そして。
「王国は、あなたの判断に従います」
その文言が、全てを物語っていた。
使者は、選ばれた一人だけだった。
肩書きも、威厳も、最低限。
ただ、“頭を下げられる者”。
彼は、城門を出る前に、振り返った。
王都の空。
結界は、まだ辛うじて保たれている。
だが、その光は、どこか弱々しい。
「……間に合ってくれ」
祈るように呟き、馬を走らせた。
一方、辺境ルーンフェルト。
エリシアは、結界塔で静かに待っていた。
「来ます」
カイルが言う。
「ええ」
否定も、驚きもない。
「ようやく、ここまで来ました」
遠く、街道の先。
一騎の使者が、必死に駆けてくる。
その姿は、誇り高き王国の象徴ではない。
――助けを乞う者の姿だった。
エリシアは、窓辺に立つ。
表情は、穏やかだった。
怒りも、憎しみもない。
ただ、冷静な覚悟だけが、そこにある。
「……条件は、もう決まっています」
王国が生き延びるかどうか。
聖女が救われるかどうか。
それらすべては、
彼女の一言に委ねられている。
そして――
次に、王国が差し出すものは、誇りでは足りない。
それを、誰よりも理解しているのは、
かつて“無能”と切り捨てられた、彼女自身だった。




