13
異変は、静かに始まった。
それは爆発でも、警鐘でもなかった。
日常の中に、ほんのわずかな“違和感”として紛れ込んだのだ。
「……結界、数値にズレがあります」
王都結界管理局。
若い技術官が、震える声で報告した。
「どの程度だ」
上官が問い返す。
「外部防御値は、むしろ上昇しています」
「ですが……内部循環率が、想定より三割低下しています」
「三割?」
室内が、ざわついた。
内部循環とは、結界が“街の中”に与える影響を示す数値だ。
魔力の流れ、空気の安定、土地の健全性――
それらすべてに関わる、極めて重要な指標。
「誤差ではないのか」
「再計測しました」
「……ズレは、固定化しています」
沈黙。
結界は、守っている。
魔獣の侵入も、防いでいる。
だがその代わりに、内側が削られている。
「聖女様の儀式の影響か?」
誰かが呟いた。
だが、その言葉はすぐに打ち消された。
「結界は、安定している」
「民も安心している」
「問題を大きくする必要はない」
そう判断され、報告は上へ上へと流され――
途中で、止められた。
その夜。
王都南区の住宅街で、最初の“兆候”が現れた。
「……作物が、枯れている?」
小さな家庭菜園。
昨日まで青々としていた葉が、一夜にして色を失っている。
「病気かしら……?」
だが、同じ現象は、別の区画でも起きていた。
井戸水の味が変わる。
家畜が落ち着かなくなる。
子どもたちが、理由もなく熱を出す。
どれも、致命的ではない。
だが――確実に、“おかしい”。
大聖堂。
聖女リリアは、胸元を押さえながら、祈りを捧げていた。
「……っ」
視界が、わずかに揺れる。
(また……?)
結界の維持は、確かに成功している。
だが、その感触は、以前とはまるで違った。
まるで、巨大な重りを、体の内側で支えているような感覚。
「聖女様、お顔の色が……」
「問題ありません」
即座に答える。
「結界は、安定しています」
それは、嘘ではなかった。
ただ――半分しか、真実ではない。
彼女は、気づき始めていた。
この結界は、修復されない。
維持されているだけ。
しかも、その維持は、彼女自身を“部品”として組み込む形で成り立っている。
(……外せない)
一度、この形になってしまった結界は、
制御を止めれば、一気に崩壊する。
つまり。
――彼女が降りる選択肢は、最初から存在しなかった。
一方、辺境ルーンフェルト。
エリシアは、結界盤の前で、完全に手を止めていた。
「……不可逆ですね」
淡々とした声。
カイルが、息を呑む。
「やはり、ですか」
「ええ」
「外から見れば、強化されている」
「でも中身は――削り取られています」
結界盤に表示された数値は、明確だった。
循環効率:低下
土地安定指数:減衰
回復余地:極小
「これ……」
カイルが、言葉を選ぶ。
「元に戻せるんですか?」
エリシアは、しばらく沈黙し、答えた。
「……“元に”は、戻せません」
その言葉は、重かった。
「救う方法はあります」
「でも、それは“作り直す”という意味です」
「王都を……?」
「ええ」
彼女は、静かに告げる。
「壊れた結界を前提にした延命ではなく」
「一度、終わらせる必要があります」
カイルは、思わず拳を握った。
「それを、王都は受け入れますか」
「いいえ」
即答だった。
「だからこそ――」
「彼らは、もっと追い詰められる」
王都では、その頃。
異変が、“偶然”では済まされない頻度で発生し始めていた。
結界は、まだ輝いている。
だが、その光は――
街を守るものではなく、
街を閉じ込める檻へと、変わりつつあった。
そして、誰もが薄々理解し始めている。
このままでは、いずれ。
結界が、王都を殺す。
それを止められる可能性があるのは、ただ一人。
だが彼女は、もう王国の人間ではなかった。




