クソな文学と笑うノベル
吊革が引っ張らない重い肩が鳴る夜の電車。満員というほどではない七時くらい。今日もつまらない景色がそこにあるだけである。私は偶数番目だけの空いている席を避けて、もはや惰性になってぼんやりと揺られていた。
電車が止まった。誰も待っていない凍てついたコンクリートの夜である。冷気が私を囁いて止まないのでさっさと行けと願うばかりである。が、バタバタとサラリーマンが走ってきた。夜も驚く真っ赤なスーツだ。彼一人だけだったから閉まりかけた扉も少し待って、駆け込み乗車とならず彼は息を切らせた。
つまらない日常。私は正直、この人生に飽き飽きしていた。刺激が欲しいというわけではない。かといって安心や休みが欲しいというわけでもない。何もほしくない、このしみじみとした心境がもどかしかった。これが大人の静寂なのかと、古き青春を思い返せば痛々しいだけなので、私はぼーっと蛍まがいの夜行を眺めていた。
夜行とは外の町景色のことであるが、少し意味合いが変わってきた。彼である。彼の見る、内側の世界は百鬼夜行じみていた。
そうである、彼である。赤服のことである。赤服は太々しく偶数番目の席に座れば、隣で本を読んでいた別のサラリーマンに大声で話しかけたのである。迷惑。その視線がぶつかっていても彼は彼なのだろうか。
「何読んでるんですか。ああ、今年の芥川賞の?」
「ええ、まぁ」
「つまらないでしょう。その本」
「……ま、まぁ」
「でもここ~とかセンスありますよね」
不敬極まりない会話が続く。絡まれているサラリーマンが可哀そうだ。なので私たちはもはや迷惑そうにするのも辞めてスマホで誤魔化した。あのサラリーマンのSOSもスマホの画面で簡単に覆い隠せる。
それが、あのサラリーマン。青服のことである。あんなに拙かった会話がどうやら弾んでしまって、車内は赤と青の大声に脅かされていた。
「青さん、いい趣味してますねぇ。おすすめの本を教えるつもりが、教えられちゃって。敵わないです。やっぱり小説は文学に限りますよねぇ」
「ええ。大衆小説もライトノベルも薄っぺらくて堪りませんよ。あんなのは子供が読むものですよ。いや、子供こそ読んだらいけませんね」
「子供に悪影響ですか」
「ええ。あんな作り話で真実を隠すような話じゃ、馬鹿になりますよ。大人が悪ふざけする気分になるために読むくらいで」
「みっともない大人ですねぇ」
「そうですよ、ほんと」
はい、せーの!――みっともないのはお前たち~、と言いたいのはやまやまだが、そうしないのが現代社会の倫理観なのである。ただ時が過ぎるのを待つ。頭のおかしいものには触らない。これはSNSでも同じなので覚えておこう。
これは私の持論であるが、こういった場合に限らず話が弾むのは人を馬鹿にする方向のほうが多いと思う。上司への不満、社会への不満、青春を振り返れば肯定的であろうが、人は考える葦なのではなく、駄弁する酒だるまなのだ。
と、まで言い過ぎたくなるのはそれほどに赤と青がうるさい世の中のせいだろう。
「赤さん、ああいった人を感情的にさせるだけの文章はどうしようもないですよね」
「なんかその、操られてる感じがして気に入らないですね。というか泣かせるぞっ、とか、怒らせるぞって感じが出るともう寒い」
「それでくだらない感情論で物語を片付けてしまうんですよね」
「そう、中身がない。あんなの意味無いですよ。でも文学には意味がありますよね」
「え、いや、そこは違いますね。文学にも意味はないんですよ。学べることはありますけどね」
「ほう、意味がない? それはなんでなんですか、赤さん」
「ネタバレではないですが、たとえばその小説を読んでも青さんの人生が変わることはないでしょう。ならば日本も世界も変わるものでもない。文学に力はないのです。いや、あるべきではないのです。政治家が書いた小説は文学ではなく、行き過ぎた大衆小説というべきで。これを真理と言っても、たとえそれが真理であっても、社会を変えてしまう兵器の一つとして文学があるべきではないんです。普遍性が損なわれます。文学は理性に問いかけるものであるべきで、説くものではないんです」
「そうですかね。僕はそれが真実であればその後はどうでもいい派なんですけど。学べることっていうのは?」
「文学というものには必ず書く人の人間原理が述べられる。人間はこういう理由で動く。そこに説得力がある。現実感とはそのことです。実際にあっているかは専門家でないとわかりませんが、知性としてそこに共感でき、できなくともその原理から来る物語、人生は一つの生き様になる。その生き様から人は人の生き方を問うのです」
「別の誰かの人生から学べることがあるということですね」
「青さん、そういうことです。その為には客観的に観察し、イデオロギーや感情を抜きにして考える必要がある。大衆小説やライトノベルはそうではなく、人をこういう感情にさせる、その為には事実を捻じ曲げるのもいとわない。だから違う」
「うんうん」
と盛り上がっているのはお前たちだけだと客観的に空気を読んでみろ。文学が仮に知的であろうが、社会の役に立たないにしろ、社会の害となるならば話は違う。いくら賢くてもマナーやルールを守らない人間はろくでもないということだ。正論であれば何をしてもいいわけでないし、認められるわけでもない。
二分して全体的に沸々としていた車内にまた冷風が吹いた。頭を冷やせ、と自然に言われても赤青の声は止まない。私は今、崩されている日常に虫唾が走っていた。早く赤いの降りろ。
その切なる祈祷が願ったのか。車内に華麗なるOLが入ってきて、視線を釘付けにした。いつもこの時間にやってくる女神である。
彼女の美しさの前では私たちは沈黙するしかない。くらいに見入ってしまう、そのすらりとした美脚、艶靡く黒髪、円く可愛らしい輪郭とぱっちりとした大きな目。恋の熱は雪のように色白い肌に吸い寄せられるばかりだ。
これで静かになる。と、安心したのも無と化した。なにせあの赤青はむしろはしたなく騒ぎ始めたのだ。より一層、自分たちは賢いぞと声を大きくしたのだ。
「いやぁ、やっぱりライトノベルはゴミです」
「馬鹿が読むものですよね。賢者は純文学ですよ」
「わっはっは!」
赤青の態度。女子の前ではしゃぐ大学生のようだ。みっともない。こうなってはもう収拾がつかない。黙して耐えるか、いや、むしろ美女の前であれらに注意すれば恰好がつくだろうか。
そうだ、何かいいセリフでズバッと。どこぞのスカッとする番組みたいに?
されどその必要はなくなってしまった。美女はライトノベルを悠々と取り出し読んだ。そして小さく純粋に笑んだ。
純文学に何の意味があっただろうか?




