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戻ってきた友人

作者: 雉白書屋

「……え、お前」


 夜の帰り道、スマートフォンを見ながら歩いていたおれは、ふと前方に人影を見つけて顔を上げた。そこに立っていたのは――。


「井上? おい、お前、井上だよな?」


「……よっす」


 井上はそう言って、額の前で二本指を立てた。

 おれは驚いた。それが井上らしくない挨拶だったからではない。もう二度と会えないと思っていた井上が、こうして目の前にいることが信じられなかったのだ。


「お前、どうやって帰ってきたんだ……?」


「どうやってって、まあ、普通に」


「普通にって……だってお前、宇宙人に誘拐されたんだよな?」


 そう、井上はあの夜、おれの目の前で宇宙人にさらわれたのだ。

 二人でおれのアパートで飲んだ帰り道、井上はまるで掃除機に吸い込まれるゴミのように、一瞬で空に浮かぶ黒い物体へと消えた。あれはおそらく宇宙船だったのだろう。すぐに夜空へ溶けるように姿を消し、おれは声も出せずに呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 あまりにも現実離れした出来事ゆえに、誰にも言えなかった。今思うと薄情だったかもしれないが、仕方がない。どう話せばいいんだ。交番に駆け込んで「友達が宇宙人に誘拐されました!」なんて言ったら、酔っ払いか頭のおかしいやつの妄想と思われるだけだ。

 結局、その日はそのままアパートに帰り、何事もなかったかのように日々を過ごした。すると次第に、あの夜の出来事も夢だったように思えてきた。でも、井上の安否を確かめなかった。

 罪悪感に苦しむのが嫌で、忘れようとしたのだ。だが、よかった。井上はこうして戻ってきたのだ。


「んー、宇宙人ね。まあ、向こうから見たら、こっちも宇宙人だろうけどな」


「え? まあ、うん……」


「とりあえず、お前の家に行っていいか?」


「あ、ああ……」


 アパートに戻ると、井上は畳に座り、「懐かしいな……」と呟いた。

 まだあの夜から一週間も経っていない。だが、時間の感覚がなくなるほど壮絶な体験をしたのかもしれない。おれは申し訳ない気持ちになり、缶ビールを勧めた。


「えっと、つまみがなくて悪いな……ああ、ピザでも頼もうか? 食べたいものがあれば遠慮なく言ってくれよ。おれの奢りだ。ははは……」


「ビールか……」


 井上はテーブルの上に置かれたビール缶を指で動かし、ラベルをじっと眺めた。 


「え? それ、お前が好きなやつだよな? 他の銘柄もあるけど」


「いや、いい」


「そうか、それでいいか。じゃあ、とりあえず乾杯!」


「ああ、そうじゃなくて、酒はもう飲まないんだ」


「え、そうか……」


 かつてはどんな安酒も「うまいなあ、うまいなあ」と言いながら飲んでいたあの井上が、酒を断るなんて……。

 どうしたのだろうか。まさか、宇宙人に体をいじられて、味覚を失ってしまったのか。確かに、井上の顔には何かを失ったような寂しさが漂っている。


「酒を喜んで飲む馬鹿の気が知れないな……」


「ああ……ん?」


「酒を飲んで脳を腐らせ、馬鹿がますます馬鹿になってどうするんだか……。体も馬鹿になるしな」


「え、ああ、まあ確かに体にはよくないだろうな……」


「はあ……」


「あ、じゃあ水にするか?」


「硬水? 軟水?」


「え? いや、水道水しかないけど……。あっ、自販機で買ってこようか?」


「ふう……いいよ。お前が酒を飲んでるのを眺めているだけで十分だ」


「そうか……あ、テレビでもつけるか? ほら、お前が好きな番組がやってるぞ」


 おれはリモコンに手を伸ばした。すると、井上は大きなため息をついた。


「テレビ……ね」


「ん?」


「実にくだらない」


「そ、そうか? お前、バラエティとか好きだったけどな……」


「バラエティ番組か……」


 井上はふっと笑い、わずかに目を細めた。


「くだらないこの社会について考えると、まるで巨大なバラエティ番組の中に迷い込んだような気分になるよ」


「……おー?」


「もちろん、楽しいって意味じゃない。視聴者が大笑いしているが、私は呆気にとられているだけだ。まあ、ある意味、その愚かさはユニークではあるがね。テレビをつければ、どこを見ても同じような顔ぶれ。彼らはまるで人形劇の操り人形のように、与えられた台詞を繰り返している。まったく、出演者たちはそれでいいと本気で思っているのかね。だとしたら、それは幸せなことなのかもしれない。政治家たちの演技力は確かに大したものだが、脚本が陳腐すぎる。しかし、視聴者がそれを飽きないから、いつまでもお互い成長しないんだ」


「え、政治家? は?」


「ニュース番組も今や一種の娯楽だ。災害、戦争、犯罪。毎日新しい出来事が報道され、視聴者は一瞬だけ関心を寄せるが、翌日には誰も覚えていない。天気予報と変わらないじゃないか。人間の記憶力とは、こうも拙いものなんだね。一瞬の興奮だけが消費されて、次の新しいニュースを待っている。ニュースキャスターたちは、その瞬間的な興奮を維持するために、より過激な言葉を選び視聴者に伝えるが、どれだけ悲痛さを訴えても、この世界が何も変わらないことを彼らは知っている」


「これ、なんの話?」


「さて、こうした社会を一言で表すならば、『くだらない』という言葉がぴったりではないだろうか。人間は、毎日くだらない茶番を繰り返してる。政治家の不正、芸能界のスキャンダル、ニュースの瞬間的な衝撃……新しく見えて、実は包装を変えただけの古いネタであり、人々はそのトリックに何度も引っかかっている」


「その口調はどうしたんだ」


「最も滑稽なのは、このすべてが一つの巨大な冗談に過ぎないということだ。人々は、社会という名のバラエティ番組の中で、まるで自分が本当に生きているかのように錯覚している。しかし、実際にはすべてが演出されたフィクションに過ぎないのだ。そう、知らず知らずの間に台本を渡されているんだ。もちろん、役名は『愚者』だ」


「いや、お前はずっと何言ってんだよ」


 以前の井上は、どんなくだらないテレビ番組でも、目を輝かせて見ていた。それが今ではまるで別人のようだ。まさか、奴は宇宙人に――


「私が宇宙人に洗脳されたとでも思っているね。実に愚直だ。ある意味では面白いと言える」


「おぉ……」


「否定したところで、凝り固まった先入観の前では意味がないから、そう思いたければそう思ってもらっても構わないけど、一応、事実は伝えておこうかな。私は、洗脳されたわけではないよ。まあ、洗脳の定義にもよるかな」


「そう……」


「彼らはいうなれば……目覚めさせてくれた、かな。人間としてのステージを一段階上げてくれて……ああ、もしかすると皆さんからすると何段も上に感じるかもしれないけど」


「皆さん?」


「彼らは、私に人間の愚かさを気づかせてくれたんだよ。皆さんがどれだけくだらないことに夢中になっているかをね。ああ、勘違いしないでくれ。地球人の悪口を吹き込まれたとか、そういったものではない。低俗だ。ただ単純に、彼らの世界を見せてくれたんだよ。その結果、地球のテレビ番組や、どうでもいいニュース、政治、戦争。すべてが滑稽で意味がないことに気づいたんだ。私はもうそんなものに価値を見出せなくなったんだよ」


 なんか、頭が痛くなってきた。おれは眉間を揉みながら、奴に訊ねた。


「それで、お前はこれからどうするつもりなんだよ……」


「決まってる。自分にふさわしい場所に行くのさ……」


「おい、それって、まさかまた――あ、おい!」


 井上は立ち上がり、さっと部屋を出て行った。

 おれはただ座って、その背中を見送ることしかできなかった。井上の話を聞いて、何が何やらわからなくなっていたのだ。数分経ってからようやく立ち上がり外に出たが、井上の姿はどこにもなく、おれは友人を二度失った気がして、深く落ち込んだ。



 ――しかし、数年後。

 おれは再び井上の姿を目にした。


 奴はコメンテーターとして、テレビに出ていた。

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