五章 脱線する金曜日
1、
「あ、康平」昼の食堂。奈美香が猪狩の方を見て手招きしている。
「何?」
「野球部のマネージャーの結城さん。三年生で南原君の彼女」奈美香は自分の向かいに座っている女性を示す。
すらっとした体型で女性にしては背が高い。ショートカットがよく似合っている。こういう人を魅力的な女性と呼ぶのだろう。猪狩は黙って頭を下げる。
「奈美香ちゃんの彼氏?」
「ちょっと里美さん?」奈美香が低い声で言った。慌てる様子もなく、根っから否定しているようである。むしろ慌てられても困る。こっちから願い下げだ。
「なんだ違うのか」結城里美は悪戯っぽく笑った。
「事件を解く探偵役ってとこですかね」
不本意ながら、とつぶやくのが聞こえた。不満があるなら自分がやればいいだろう、と猪狩は思う。だが、奈美香は目を細めて猪狩を見ている。もっとやる気を出せ、という威嚇のようだ。
「うっそー」
「嘘です」猪狩がきっぱりと言う。奈美香は猪狩を横目で睨む。
「まあ、いいや。何が聞きたいの?」
「事件の日。何か変わった事なかったですか?」
「って言われてもねえ……。あの二人、監督にこっぴどく怒られてたけど」
「らしいですね。二人が話し合うこと、知ってました?」
「いや、全然知らなかったの。出かけるときも、いつの間にかいなくなってたし」
猪狩が何のことだかわからないでいると奈美香が「南原くんと里美さん、同棲してるのよ」と耳打ちしてきた。
「ただ、監督がすっごい怒ってて『おまえら、一回腹割って話し合え!!』って言ってたから」
「じゃあ、誰か聞いていたかもしれないですね」
「まあね。あとは特にないなあ。ごめんね」
「いえ、いいですよ」
「南原は携帯持って行きました?」猪狩が唐突に聞いた。
「え? ああ、忘れていったのよ。なかなか帰らないから電話掛けたっけ、すぐそこで鳴るんだもん。びっくりしちゃった」
「監督って、ここの教授ですか?」猪狩は質問を続ける。
「いや、野球部のOBなの。キャプテンだったんだって。自営業で土日の融通が利くから、やってもらってるの」
「何年卒ですか?」
「いつだったかなあ? 十年くらい前だったと思うけど」
「ありがとうございます。もういいです」そう言うと猪狩は立ち上がって食堂を出て行った。奈美香が後からついてくる。
まだ、次の授業には時間がある。なぜか猪狩は授業棟とは反対の方向に歩いている。
「ねえ、携帯がどうしたの?」
「どうも。あ、そうだ。カジノ・ロワイヤルって見た?」
「何それ?」
「007だよ。何年か前の映画なんだけど」
「そんな、おじさんが見るようなの見ないわよ」
「ああ、そう? てか、それ偏見だろ。面白いと思うぞ。今回はいろいろ新しい試みがあってマンネリ化してたシリーズから抜け出してるっていうか、批判が多かった新ボンドもかなりの評価を受けたし。特に印象に残ってるのは、最後にボンドがヒロインを追っかけていく所かな。ポーカーの所とかって言う人もいるだろうけど。とにかくいい作品だよ。と言っても実は前の俳優の作品の方が好きなんだけど」
「で?」奈美香が苛々しながら聞いた。
「いや、それで終わり」
「事件との関係は?」
「ないんじゃない? いてっ!! 何するんだよ!」
「別に」奈美香は猪狩の頭を叩いた後、そっぽを向いてしまった。
「康平」理不尽な暴力に猪狩が不満を募らせていると藤井がやってきて話しかけてきた。「明日、暇か?」
「暇だけど、何?」
「野球部の試合見に行こうぜ」
「何だよ、急に。別にいいけど」
「オッケー。じゃあ、明日九時に迎えに行くわ」
藤井はそのまま食堂の方へと向かって行った。
「で?」奈美香が声を低くして言った。
「何が?」
「だから、事件については?」奈美香はかなり苛々している。
「いや、だから何もないって。あ、そうだ。象を冷蔵庫に入れるにはどうしたらいいと思う?」
奈美香は気が重くなった。頭に何かが乗っている気分だ。どうしてこいつは、こうも掴み所がないのだろう。いきなり関係のない話を始める。
「そんなの知らないわよ。小さく切って入れるんじゃないの?」
「違うよ。答えは冷蔵庫のドアを開けて、象を入れて、ドアを閉める。だよ」
「呆れた」奈美香はため息をついた。
「じゃあ、キリンを冷蔵庫に入れるには?」
「冷蔵庫のドアを開けて、キリンを入れて、ドアを閉める」彼女はぶっきらぼうに答えた。
「残念。冷蔵庫のドアを開けて、象を出して、キリンを入れて、ドアを閉める。だ」
「何それ」もうすでにまともに取り合っていない。
「知らないよ。それが答えなんだから。けどさ、象が入るほどの冷蔵庫を想定しているのに、なんで象とキリンが一緒に入る大きさは想定してないんだろう。どっちもありえない大きさなのに。どうして象とキリンを一緒に冷蔵庫に入れちゃいけないんだろう?」
「知らないわよ、もう」奈美香はどうでもいいわよ、という様に肩をすくめた。
「あ、そう。じゃあ、俺寄る所あるから」そう言うと踝を返して坂を登って行った。行き先はどう見てもサークル会館。これは付いて行かないわけにはいかない。むしろ憑いて行くくらいの気持ちで。
「ちょっと、待ちなさい!」
「何してんの?」
野球部の部室に入ったと思ったら中を物色し始めた猪狩。事件に関係する事なのだろうか。いや、そうでないといろいろとまずい気がする。自ら動き出した事に関しては評価してもいい。しかし、彼の行動はどうも意味のある事には見なかった。
「いや、別に。先帰っててもいいぞ」
「いやよ、そんなの」
不毛な会話をしている間にも猪狩は物色を続けるが、窓や扉には目もくれない。
椅子に登り、合宿用であろう料理道具の入った袋をガサゴソ。
バットの一本を取り出し、ボーっと見つめる。
冷蔵庫を開けると、二リットルのペットボトルを取り出し、すぐに戻す。
救急箱を見つけては中身を漁り、その他奇行をいくつか成した後、
「あほらし。帰ろ」そう言って猪狩が出て行ってしまった。
「……はあ?」
奈美香が漏らしたそれは、非難めいたものではなく、心底の呆れから出たものだった。
「てか、授業……」
2、
猪狩はその日の夜O大野球部のホームページを見た。部員紹介の所をクリックすると部員の一覧が出てくる。名前をクリックすると、その人の詳細を見る事ができる。
猪狩はまず一番上の監督の名前をクリックした。
安田久 昭和五十二年五月二十一日生 三十二歳
平成十二年卒 当時はキャプテンで四番センター。五年前から指揮を取る。
「ちょうど十年前か……」
続いて他の部員の名前もクリックしていく。ほとんどわからないので会った事のある者だけ見ていく。
高木祐介 二年生 平成元年八月五日生
I高校 右投右打 投手
O大が誇る二年生エース。自慢の速球で相手を手玉に。
南原信也 二年生 平成元年十月十四日生
H高校 右投右打 捕手
頭脳明晰、チームの司令塔。シュアなバッティングも期待。
本田圭介 二年生 平成元年四月三日生
K高校 右投左打 内野手
チビで俊足。とにかく足が速い。気づいたら走っている。先輩に追いかけられて……。
山本高志 二年生 平成二年二月十一日生
A高校 左投左打 投手
モットーはのらりくらり。のんびりしながらも、ちゃっかり抑えている。
結城里美 昭和六十四年一月七日生
T高校 マネージャー
チームを影で支える(支配する?)マネージャーの長。マネージャーはおろか選手でさえも逆らえない。睨まれたが最後、手足の震えが止まらない。
「…………」猪狩はパソコンをシャットダウンして、寝た。
僕はピアース・ブロスナンが一番好きです。