三章 見舞いする水曜日
1、
次の日、三人は南原の入院している病院にいた。結局猪狩が言い負かされた形になって、付いてきた。藤井も誘おうと思ったが、見当たらなかった。
院内を歩く。消毒液の臭いがきつい。そこらじゅうで看護婦、今の時代は看護師と言った方がいいのだろうか、彼ら、彼女らがせわしなく動き回っている。
「あ、ここだ」
怜奈が南原の病室を見つけた。
「そう言えば、南原だっけ? 知ってるのか?」猪狩は奈美香に向かって聞いた。
「いや、全然」奈美香はきっぱりと言った。「大丈夫よ。何とかなるから」
猪狩はため息しか出なかった。見ず知らずの人間がお見舞いに来たらどう思うだろうか。重い足取りで病室に入った。
「あ?」
そこには藤井がいた。
「何やってんだ?」
いないと思ったら先に来ていたのか。よくよく考えれば彼には野球という接点がある。
「何って、お見舞いだよ。見りゃわかるだろ。おまえらこそ何してんだよ?」
「何って、お見舞いよ。見ればわかるでしょ」奈美香が言い返した。
「えっと、矢式さん……だっけ?」そう言ったのはベッドで半分身体を起こしている、南原だった。さすがは奈美香、顔が広い。O大生の三分の二は彼女を知っているという噂があるが、二年生に限ればほぼ百パーセントではないだろうか、と猪狩は常々思っている。
「はじめまして、よく知ってるわね」奈美香は軽く挨拶した。猪狩と怜奈も軽く紹介する。
「で、はじめましてなやつらが何しに来たんだよ?」
「いいじゃない、迷惑かしら?」奈美香は南原に向かって聞いた。
「いや、全然。来てくれてありがとう」南原は微笑みながら言った。
「大丈夫なの? 何があったの?」
「もう大丈夫だよ。殴られたんだよ。知らないやつに」南原は少し顔をゆがめた。
「顔を見たの?」
「いや、目出し帽っていうの? そういうの被ってて、見えなかった」
「二人しかいなかったの?」
「ああ、部活は午前中で終わってたんだ。けど、バッテリーで話し合おうって事になって。まあ、一回帰ったんだけど、もう一度行ったわけ」
「ふーん」奈美香は何か考えているようだ。
「何を話し合ってたの? てか、何で?」怜奈がふと沸いた疑問を口にした。
「え? ……話さなきゃダメ?」南原は何か渋っているようである。初めて会った人間なのだから当然といえば当然であるが、話せないような後ろめたいものなのだろうか。
「いや、全然。自分で調べるから」彼女は笑顔で言ってのけた。これが怜奈の恐ろしい所である。行動力と図々しさは奈美香がピカ一だが、情報収集では、怜奈の方が一枚上手かもしれない。その上、そのせいで悪意なく人を傷つける事がある。悪意はない。猪狩はそう思っている。
ないはず。
多分。
恐らく。
そうでなければ一年半かけて形成した新川怜奈という人物像を作り変えなくてはいけなくなる。その心配はないだろうが、そう思うくらい酷い結果をもたらした事もある。稀ではあるが。
「わかったよ」それを知ってか知らずか、南原は観念したように両手を広げた。「まあ、みんな知ってるしな。ケンカっていうか、あいつ、いつも練習テキトーにやるからキツく言ったんだよ。いつもの事だから、監督が痺れを切らして雷落とされた。で、さすがにヤバイから、この先どうするよって話を」
「ふーん」彼女は満足そうに頷いている。
「あれ、君ら何してるの?」猪狩たちの後ろからさらに声が聞こえた。
そこにいたのは伊勢だった。
「何って、お見舞いですよ。見たらわかりません?」猪狩が言った。
2、
遡る事数十分、伊勢は南原の入院している病院にいた。今日から面会が許されるということで、彼に事情聴取に来たのと、彼の担当医に話を聞くためである。まずは、彼の担当医に会いに行った。ある程度、彼の状況を聞いた後で一番聞きたかった事を切り出した。
「彼が本当に気絶していたかどうかわかりませんか?」
密室という状況を作るにおいて、一番手っ取り早い方法である。中から閉めればよい。ただ、そうすると彼の怪我をどうやって作ったか、という問題に直面する。それにまったく理にかなっていない。それでも、とりあえず考えられる方法を片っ端から片付けるしかない。これはその一つである。
「うーん、傷口からして、あれで平気というのはありえないと思います」
「わかりました。失礼します」
続いて、南原の病室に向かった。やっと詳しい話を聞くことができる。何か進展があるといいが……。
病室の前で、伊勢は一度立ち止まった。どうやら見舞い客が来ているようだ。申し訳ないが、退いてもらおう。何せ、こっちは仕事である。
「あれ、君ら何してるの?」
知っている顔がいるとは思っていなかったので、思わず声に出してしまった。病室にいた皆が振り向く。そこには猪狩康平と矢式奈美香がいた。あとの顔は知らなかった。
「何って、お見舞いですよ。見たらわかりません?」猪狩が言った。なぜかその場の全員がクスクス笑っている。自分が何をしたというのだろう。
「まあ、そうだろうね。で、悪いんだけど席を外してくれるかな? 仕事なんでね」腑に落ちなかったが、気持ちを切り替える。
「わかりました」
「ちょっと! 私たち来たばっかりなのに!」奈美香が不満を言った。
「ほら、帰るぞ」そう言ったのは藤井だった。「じゃあな、南原」
「ああ、今日はありがとう」南原はそう言って、手を振った。
猪狩たちが去って、伊勢と南原だけになった。
「さて、道警の伊勢といいます」伊勢は手帳を見せながら言った。
「どうも」南原は軽く会釈する。
「さっそくで申し訳ないんですが、事件当日の事を聞かせてもらえませんか? 話によると午前中で練習は終わったそうですが」
「はい、けど二人で話し合おうって事になったんです。ぼくら、ピッチャーとキャッチャーなんで。監督に言われたんですよ。僕ら、馬が合わないっていうか、それで監督に怒られちゃったんです」南原は苦笑いしながら、説明する。
「何時に会う予定でしたか?」
「四時です。メールで決めたんですけど」
確かに、被害者の携帯電話に履歴が残っていた。間違いはないようだ。
「野球部員は全員、あなたたちが集まる事を知っていましたか?」
「さあ? 知らないんじゃないですかね? 監督が話し合えって言ったんで、何人かはその話を聞いていたかもしれないですけど。」
「わかりました。次は襲われたときの状況を教えて下さい。まず、何時頃でしたか?」
「うーん」南原は手を顎に当てて考える仕草をする。「よく覚えていません。結構経ってはいたと思うんですけど、部室の時計が止まっていたんで」最後にすいませんと頭を下げる。
「わかりました。では、どんな状況でしたか? 辛いとは思いますが、できるだけ思い出してください」
「部室で話してたら、急に入ってきたんですよ。目出し帽で顔を隠してたんですけど、男っぽかったです。で、その場にあったバットで殴りかかってきました」
伊勢は部室に入り口のすぐ近くに大量のバットがビール瓶のケースに入れられていたのを思い出した。
「先に襲われたのはどちらですか?」
「僕です」
「犯人の特徴などは覚えていませんか?」
「ほんとに一瞬だったんで……。身長は大きくも小さくもなかったような気がします。男だったらですけど」
「わかりました。今日はこのくらいで失礼します。またお話を聞く事があると思いますが、ご協力お願いします」そして、伊勢は病室を去った。
結果は想像の範疇。あまり成果は得られなかった。結局軽くならなかった足取りで、彼は署に戻った。