二章 思案する火曜日
1、
結論から言うと猪狩の祈りは思ったとおり無駄になった。翌日、猪狩が奈美香に会って最初に聞いた言葉は、
「聞いたわよ」だった。
今は二講目が始まる少し前。猪狩と奈美香は第二外国語がドイツ語で一緒のクラスである。猪狩が終わりきっていない宿題を終わらせようと机に向かっていたところ、奈美香がやってきたのである。
「何の話?」猪狩は無駄だと知りつつも、悪あがきでとぼけてみる。何より、宿題がやりたい。ちょうど、名詞の性と冠詞の格変化に手間取っていた所だった。何故、古代のドイツ人は物に男性だの女性だの、はたまた中性だのをつけたのだろう。それはフランス語などの多言語にも言える事だったが。
「野球部で殺人事件があったんでしょ?」
「へえ」
「とぼけても無駄よ。あんた第一発見者でしょ」
「なんで知ってるんだよ。それに正確には殺人と殺人未遂だ」
「私の情報網をなめないでくれる?」
確かに彼女は顔が広い。O大の三人に一人は彼女と知り合いで、さらに三人に一人は彼女が知らなくとも彼女を知っている者だという噂がある。本当かどうかは分からない。なにせ藤井から聞いた話である。どちらにせよ彼女には知り合いが多い。
「どうだったの? 密室だったんでしょ? 窓は、ちゃんと見た? 合鍵は?」
なぜか密室のことまで知っているようだ。目撃者は猪狩と藤井と本田の三人だけのはずである。野次馬はいたかもしれないが、密室の事までは知らないはずだ。本田と繋がりがあるのだろうか、もしくは本田の彼女とかもしれない。そもそも本田に彼女がいるのか。もしくは藤井が喋ったのかもしれない。などと猪狩は考えた。とりあえず、藤井だったら一発殴ってやろうと決めた。
「窓は鍵が掛かっていたし、鍵は何年も前からなくなってる。」うんざりした様子で猪狩は言った。「そして一番大事な事が一つ」
「なに?」奈美香は興味津々で身を乗り出してきた。
「俺は何も考えたくない。警察の仕事だ」
猪狩は思いっきり奈美香に頭を叩かれた。
「いてっ! 何すんだよ!?」
「別に」奈美香はそっぽを向いて自分の席に行ってしまった。
2、
奈美香は苛々していた。
まったく、あいつときたら! なんでも警察の仕事だって!
身近に人が死んで、密室だって騒いでいたら不謹慎かもしれないけど、それで事件が解けるならいいじゃない!
現にあいつは事件を解いた事があるんだから。
……まあいいや。あとで現場を見に行こう。
そう思って奈美香は授業に集中する事にした。
昼休み、奈美香はサークル会館に来ていた。来たのはいいものの、もちろん野球部に部室は立ち入り禁止である。仕方ないので隣のサッカー部の部室に入った。つくりは同じはずだ。勝手に入ってもまあ、何とかなるだろう。
サッカー部の部室は側面に棚が置いてあり、私物が乱雑に入れられている。その反対には黒板が設置されていて、連絡事項よりも落書きが多く見て取れた。それでも部屋全体としてはかなり整頓されている。壁の隅に紐が張られておりタオルなどが干されている。
「鍵が本当になかったとすると……」
奈美香は窓の方に近づく。
「ドアよりは窓の方が閉めやすいわよね」
一番想像しやすいのは糸を使った方法。ただ、糸が通りそうな、例えば通気口などはない。
「でも、ないなら作れば……」
窓ガラスに小さな穴をあければ、気づかれにくいだろう。もしくは、左右の窓の間に糸が通るように隙間を作れば……それこそ自然に欠けましたとでも見えるように。
「…………」
今度はドアの方に向かう。
「こっちは難しそうね……」
扉は金属製でしっかりした造りだ。隙間などないし、作れそうにもない。こちら側には窓はない。
こちらを外から鍵を掛けるには(鍵が本当にないと仮定して)機械仕掛けしかないだろう。しかし、文系大学にそんなものを造れる人物がいるとは到底考えられない。
「ああ、現場が見たい……」
とりあえず奈美香はサッカー部の部室から出た。誰かが来る前に出ておかないとまずい。
なんとなく野球部の部室を覗こうと試みる。入り口に立っている警官が迷惑そうに奈美香のほうを見ている。中から若い男が出てきた。二十代後半だろうか。
「何か必要ですか? まあ、ちょっと難しいですけど」
マネージャーと思ったのだろうか、男は奈美香に対し、申し訳なさそうな表情を作った。柔らかい感じのする、紳士的な男だ。
「あ、いえ、そういうわけじゃ……」
「困るなあ、部外者が入ってきちゃ」男は顔をしかめた。
「すみません……」奈美香は頭を下げる。「あの、窓に小さい穴があいてたりしませんでしたか? もしくは窓に隙間があったりとか……」
男は目を見開いて奈美香をじっと見た。そして、声を出して笑い出した。
「あ、あの……?」怒られると思った奈美香は拍子抜けしてしまう。
「ああ、いやごめん。もしかして矢式奈美香さん?」
「え? はい……。なんで知ってるんですか?」
「勘。いやあ、そうかそうか……」男は一人で納得している。「窓に細工されていた様子はないよ。隙間もないし。一般人にはこれくらいしか教えられないよ」
「あ、そ、そうですか」ダメ元で聞いてみただけだが予想外にすんなり答えられたので調子を崩してしまった。「すみませんでした。失礼します」
奈美香は一礼すると立ち去ろうとした。後ろから男の声がした。
「猪狩君にもよろしく」
奈美香はもう一度驚いてしまった。
3、
「伊勢さんだな、たぶん」
放課後、猪狩と奈美香、怜奈は一緒のJRに乗っていた。猪狩が一人で帰ろうとしたところを奈美香に見ったという次第である。奈美香に昼休みの出来事を聞かされた猪狩は、手短に説明した。あまり思い出したくない出来事であり、奈美香や怜奈も一緒に体験した事だったので多くは語らなかった。
「なるほど、そういうことか」奈美香は納得したようだ。
「また、密室殺人?」怜奈は苦笑いした。
怜奈も今回の事件の事を知っていた。自分たちのグループにいる限り(奈美香がいる限り)いずれは知れる事だ。というよりは、すでに大学の人間の大半は噂程度であれば知っているだろう。こんな大事件が、騒がれないはずがない。
「殺人と、殺人未遂。一人は死んでいない」
「そうだったね」
「密室の謎っていう観点で見れば一緒だけどね」と奈美香。
「条件が違う。中に生きた人間が一人いる」
「じゃあ何? 人を殺して、中から鍵を掛けて、自分を殴って気絶したっていうの?」
「条件の話をしただけだ。出血がひどかったから、気絶してたのは間違いないだろう。少なくとも自分ではできない。そもそも、俺は密室が嫌いだ」
「どういう意味?」怜奈が首を傾げる。
「利点がない」
怜奈は余計に首を捻る。
「もし、推理小説が生まれた頃、つまり科学捜査が発達していなかった頃に、本当に小説みたいな密室殺人が起きたとしたら、密室の謎を解かないと犯人を捕まえられないかもしれない。けど、例えば、今の時代にどうやったか分からないような完璧な密室殺人が起きたとする。どうやっても密室の原理を証明できないとする。けど現場に落ちていた凶器から、犯人の指紋が出てきたら? 被害者の爪から犯人の皮膚が検出されたら? 犯人の毛髪が発見されたら? 密室は何の意味を持たないんじゃないか?」
とは言ったものの、猪狩はどうすれば殺人として立件されるかは知らなかった。どうやったかが分からなくても物的証拠があれば良いのだろうか。
「間抜けな犯人ね」奈美香が笑いをこらえている。「痕跡を残さなければいいじゃない」
「もし、痕跡がなければそれこそ密室にする意味がない。何も証拠がないんだから捕まる心配はない」
「うーん」怜奈も奈美香も猪狩に言い負かされた形になって何も言えないようだ。
「でも、実際に起こってるじゃない」そう言ったのは奈美香のほうだ。
「そう、わけがわからない。密室の原理も、密室にした理由も」
「うーん」奈美香は考え込んでいる。そして、何かを思いついたようで、「そうだ!」と言った。「明日、南原君のお見舞いに行きましょ!」
「は?」と言ったのは猪狩。
「いいね!」怜奈は乗り気だ。
猪狩は深くため息をついた。