一章 開始する月曜日
1、
猪狩康平らの通うO大は山の上にある、と言ったら語弊があるだろうか。しかし坂の上にある、では足りないだろう。駅からずっと山の方へ歩いて二、三十分ほど、それまではずっと上り坂である。その坂を猪狩は登っていた。季節はもう秋だが、坂を登っていれば汗をかくほどである。
今日は月曜日。なぜか月曜日は授業が少ない。何か意図的なものを感じる。そのため月曜日に授業を取らない、いわゆる「全休」を作る学生も多い。大学生の辞書に「ブルーマンデイ」という単語は存在しないのかもしれない。だが、残念ながら猪狩には全休はない。「ブルーマンデイ」という単語も自分の辞書に載っている。ただ、彼はそれほど苦に思っていないようだ。彼は「大学は勉強する所」というスタンスを崩していない。
しかし、大学に入って一年半、そのスタンスが揺るぎ始めているのも事実である。独り言のように授業を進める教員、大教室でマイクも使わず延々と喋り続ける教員、自分の研究内容を自慢しているようにしか見えない教員、そもそもなんの役に立つのかわからないような内容の授業。
猪狩は大学に着くと真っ直ぐ教室へと向かった。これから始まる授業もそんな授業のうちの一つ。
授業が進むにつれて周りの学生たちの筆が止まっていく。机に突っ伏して寝ている学生もいる。この授業は役に立たないとは言わないが、授業の進め方に問題があるのだろうか、スライドに出ている数式は何の事だかわからない。一応説明が入るのだがうまく聞き取れない。これでは寝てしまうのも無理はないかもしれない。
(何のための大学なんだか)
猪狩はため息をつきたくなった。大学にまで来て寝ている学生にも、授業とは呼べないものを進めている教員にも。
そもそも、大学の教員は自分たちの事を「教育者」ではなく「研究者」と認識していると聞いた事がある。彼らにとって授業は片手間に行うものなのかもしれない。
しかし、そういった授業こそ大学の授業だという人もいる。そういえば高校のときの教師で、大学時代に教授が自分の研究を黒板もスライドも使わずに発表するような授業がとても面白かったと言っていたのを思い出した。研究者の最新の研究が聞けるのがとても良いと言っていた気がする。要は聞く人次第なのだろう。来年のゼミは自分に合った教員の下で有意義に行いたいと猪狩は切に願っている。
居心地の悪い九十分を過ごした後、猪狩は食堂へと向かった。月曜日ならば藤井がいるはずである。否、いつでも彼はいるはずである。
九月も終わりに近づいてきてずいぶんと肌寒くなった。山の上にあるO大ではそれが顕著に感じられる。もう少しすれば紅葉の季節。緑一色だった景色の中に紅が混ざってきて、いずれはそれすらもなくなって真っ白な世界になるのだろう。
猪狩は足早に食堂へ向かった。食堂はそれほど込んでいない、月曜日に来る者の特権だと勝手に思っている。火曜日など授業が終わってから急いで来ても、席などまったく空いていない。席についている彼らは如何にして席を取ったのだろうか、授業があるという条件は同じはずである。
猪狩は食堂の奥で藤井を見つけた。彼は携帯電話をいじっているようだったが、こちらに気づくとそれをしまって軽く手を振った。
「おう、今からメールするところだった」
「もう、飯食ったの?」猪狩が尋ねた。
「いや、まだだよ」藤井は大袈裟に手を振って見せた。彼はなんでも大袈裟に表現する事が多い。「行くか」
二人は席に鞄を置いて、昼食を取りに行った。
「うーん、何にするかな……」藤井がつぶやいた。
「ライスと味噌汁、あとトンカツ」猪狩は悩んでいる藤井をよそに迷うことなく注文する。
「先行ってるぞ」
「あ、ちょっと待てよ! おばちゃん、カレーで!」
別に急ぐ必要もないだろうに、と思ったが口には出さず、そのまま会計を済ましてもとの席に戻った。会話もそこそこに食べ始める。
「なあ、キャッチボールしようぜ」藤井が言い出した。
「は?」
「だから、キャッチボール。最近、身体が鈍ってさあ」
藤井は高校時代、野球部にいたらしい。名もない公立校だったが、一応四番だったとか。猪狩は趣味程度でしか経験がない。
「グローブなんて持ってきてないぞ」
「大丈夫、野球部のやつに借りるから。あいつら月曜は休みなんだ。部室に行けばグローブくらいあるぞ」
「……寒い」
「すぐ終わるって。暇つぶしだよ」
わざわざ寒い思いをしてまで暇をつぶす必要はあるのか。そもそも人のグローブを勝手に使うのはどうなのだろうか。それを猪狩が指摘すると、
「わかったよ。許可取ればいいんだろ? あ、本田!」
藤井は二つ先のテーブルにいた本田という男に声をかける。小柄で猫みたいな顔だと猪狩は思った。
「何?」
「キャッチボールしたいからグローブ貸して」
「え? 何、いきなり」本田はいきなりの要求に呆れて苦笑いしたがすぐに承諾した。「いいよ。俺も部室に用があったから。先輩の使われるとまずいし」
「オッケー。じゃ、行こうか」
2、
野球部の部室は少し坂を登った所にあるサークル会館の中にある。すぐ横に数台の駐車スペースがある三階建ての建物で、一階に運動部、二、三階に文系の部がある。いつも軽音楽部の騒音が外に漏れてくる。野球部は一階の廊下の一番奥の左側にあり、非常口がすぐそばにある。
「野球部って新人戦いつ?」藤井が尋ねた。
「十月入ってすぐ。三日から」
「どこと?」
「H工大。微妙だな。今年あんまりメンバーそろってないんだ。何でおまえ入んなかったんだよ?」 本田はもの惜しげに、藤井を見た。
「名もない公立校の四番がいたって意味ないだろ」
「あのなあ」本田はため息をついた。「この大学に来るやつなんてみんなそうだって。どこの私学じゃあるまいし。四番なんて喉から手が出るほど欲しいっての」
「まあ、いいじゃん。俺は高校野球で燃え尽きたの」藤井がお気楽な声で言う。「でも、エースがすごいんだろ? しかも二年って聞いたけど」
「ああ、高木のこと?」本田は顔をしかめた。「まあ……あいつのピッチングはすごいと思うよ」
「?」歯切れの悪い返答に二人は疑念を覚える。
「まあ気にするな。着いたぞ」何でもない、というように手を振った後、本田はドアノブに手をかける。が、ドアノブの代わりに捻ったのは首だった。「あれ、鍵が掛かってる?」
「鍵は?」
「ないよ、そんなの」
「はあ?」
「鍵があるなんて聞いたことないぞ。昔はあったんだろうけど」そう言って本田はドアノブを覗き込んだ。確かに鍵穴はある。鍵が掛かるタイプのドアではあるようだ。「俺が入ってからは一回も鍵が掛かった事はないぜ」
「どうすんだよ?」
「うーん、困ったな……」
「学務課か守衛室だろ」猪狩が口を開いた。ずっと黙っていたので本田の反応は一瞬遅れた。猪狩の言動は慣れた者でないとタイミングが合わない事がしばしある。
「そっか。あ、その前にキャプテンに聞いてみよう」そう言って携帯を取り出した。「出るかな……」
「誰かいるんじゃねえの?」本田が電話している間に藤井は思い立ってドアをノックしてみたが反応はない。
「……はい、はい。わかりました、失礼します」キャプテンと連絡がついたようだ。本田は電話を切る。「ないってさ」
「仕方ない。学務課に行こう」
学務課に行くと野球部の部室の鍵は何年も前に紛失したと届出があったそうだ。もちろんその頃、彼らは入学していないのだが、やたらと嫌味を言われた。ましてや猪狩と藤井は野球部ですらない。いろいろと言われた後ですぐ返すようにと、鍵を渡された。
「ったく、なくしたのは俺らじゃねえっての」坂の途中で藤井が悪態をついた。
「貸してくれただけでも良しとしよう」と猪狩。
「だいたい俺とおまえは野球部じゃねえっての」
「知ってるよ」猪狩はいたって冷静に答えた。
「そもそもなんで鍵が掛かってたんだ?」本田が首をひねる。
「誰かの悪戯じゃねえの? 鍵掛けて……そう、窓から出たんだよ。鍵いらなかったな」
「うーん、そんな馬鹿やるやついるかな?」
部室に着いて、本田は鍵を開ける。そして中の状況に驚愕する。
血を流して倒れている男が二人。
「高木!! 南原!!」本田が真っ先に駆け寄り叫んだ。猪狩もとっさに男に駆け寄る。
脈はない。呼吸もしていない。けれど、死んでいるのかどうか、その判断は猪狩には出来なかった。ただ、身体は冷たかった。
「生きてるぞ!」もう一人の男を見ていた藤井が大声で言った。
「救急車! 早く!」猪狩は本田に指示した。めずらしく大声だった。本田が慌てて走って行く。
猪狩はなんとなく窓に近寄った。外は駐車場。鍵がかかっていた。
「…………」
部屋の中を見渡してみる。整頓されてはいるが、もともと物が多いため、綺麗という印象は受けない。入り口の左手には救急箱や雑巾、ティッシュなどの備品が棚の中に入れられている。右手には普段使うボールやバットなどがまとめて置かれている。その横には冷蔵庫が備え付けられている。アイシング用の氷を作るためだろうか、飲み物も入っているかもしれない。真ん中のテーブルには野球用品のカタログや本などが乱雑に置かれていた。三年生のものだろうか、SPI対策の本まである。側面には一面に棚が続いており、部員の私物が入っている。その棚の上には合宿で使うのだろうか、鍋などの料理道具が入った袋と紙皿、紙コップ、割り箸などが入った袋が置いてあった。こんな所に置いておいて大丈夫なのだろうか、紙皿の入った袋にいたっては口が開いている。食中毒にでもなったら笑い事ではないだろうに。などと無駄な事を考える。窓の上に掛かっている時計は止まっていた。
「なあ、とりあえず出ようぜ。ここにいてもできる事ないって」藤井が顔をしかめて言った。落ち着きがないようだ。
「ああ」
思考から引き戻され猪狩は藤井と部室から出た。気まずい数分間が流れる。
「こっちです!!」
入り口の方から本田の声がした。もう救急車が来たのだろうか。
「こっちです。見てください!」
本田が呼んできたのは救急隊員ではなかった。もちろん呼んだだろうからもうすぐ来るのだろうが。彼が呼んできたのは保健管理センターの医師だった。確か、医師である。高校の養護教諭と違って医師免許を持っていたはずだ。髪の薄さを長さで誤魔化している頭。健康診断で二度だけ見た事がある。年に一度だ。医師は猪狩が見ていたほうの男に近寄って何か調べていたがやがて首を横に振った。
「亡くなっています」
「そんな……」本田がうなだれてその場に座り込んでしまった。医師は急いでもう片方の男に駆け寄ったが特にする事はなかった。男が目を覚ましたからだ。
「うっ……」
「南原!!」
「大丈夫かい!?」
医師がそう聞くと首を縦に振った。しかし、どう見ても痛々しい。
「出血がひどい。早く処置しないと……」
遠くからサイレンの音が聞こえた。救急車が来たようだ。
そのあとはトントン拍子に事が進んだ。医師が適切な説明をしていたし、南原の意識はしっかりしていた。命に別状はないようだ。問題は死んでしまった高木の方。警察にも連絡する事になり、事情を話すためにその場に残らなくてはいけなかった。
本田はかなりショックを受けているようだ。チームメイトが死んだのだから無理もない。
「高木……」本田はずっと俯いている。涙目で今にも泣き出してしまいそうだ。猪狩と藤井は何も言えなかった。十数分間この沈黙が続いた。
パトカーのサイレンが聞こえたときには少しホッとした。何も解決していないにもかかわらず。気まずい沈黙が破られたせいだろうか。とりあえず猪狩は外に出る事にした。
「あれ、君だったのか」パトカーから出てきた男が猪狩を見ていった。
「……?」猪狩には彼が誰だかわからない。会った事があっただろうか。記憶の引き出しを一つずつ開けてみる。
「……ああ、覚えてたんですか」
「君は覚えてなかったみたいだけどね」
彼の名前は伊勢浩太郎。道警の刑事で猪狩とは二ヶ月ほど前に一度だけ会っている。
「面倒ですよ」猪狩は部室の方を指差した。
「殺しはなんだって面倒だ」
「密室ですよ、一応」
「好きなのかい、君?」
「ふざけないで下さい」
「はいはい。さてと、まずは現場を見るかな」
そう言って伊勢は奥へと進んでいった。
3、
伊勢は現場である野球部の部室に入った。すでに鑑識があちらこちら調べている。
中央には長テーブルが置いてあり、周りを壁伝いにパイプ椅子が囲んでいる。遺体は部屋の左側、テーブルと道具の塊の間に倒れていた。それと線対称になるように部屋の右手前に血痕が残っている。こちらが先ほど救急車で運ばれた方が倒れていたのだろう。
「被害者の身元は?」伊勢はすぐそばにいた後輩の刑事、池田に話しかけた。
「ここの学生です」当たり前ですよね、といった様子で話す。「二年生で名前は高木祐介。財布の中に免許証が入っていました」
「へえ、免許持ってるのか」
「はい、車の鍵が入っていました。所持品は財布と車の鍵と家の鍵だけです。車は今探しているところです」
「それだけ?」
「はい」
「ふーん」
伊勢は死体にかかっているシートをどけた。頭の右側を殴られたようだ。額のあたりから出血がある、ということは正面から殴られた事になる。犯人と面識があったか、逃げる暇さえなかったか。
「凶器は……あれだよな?」
彼は死体の奥に転がっているバットを指差した。大量の血が付着している事からも間違いなく凶器だろう。
「そうですね。部の備品ですよね?」
「だな。凶器を隠す必要がないわけだ。撲殺には持ってこいの場所だな。ちくしょう」
至極単純な事件だ。犯人は被害者二人がいる部室に入り込み、そこにあったバットで殴った。それだけの事。ただ、合理的ではない。いつ誰に見られるか分からないような場所だ。しかし、今は気にしても仕方がない。
「死亡推定時刻は?」
「昨日の五時から七時の間頃です。詳しいことは検死待ちですけど」
その時間なら何か目撃情報が見つかるだろう。あとは……
「本当ですかね?」池田が聞いてきた。
「何が?」
「密室だったって。さっきの子言ってましたよね」
「さあな」
そう、まさにそこが一番の問題である。それさえなければ簡単な事件だ。単純に犯人が鍵を掛けていったのではないのか。もっと詳しい話を聞く必要がある。伊勢は猪狩たちに話を聞くことにした。
4、
「ほんとに鍵ねえの?」藤井は疑いの目を本田に向けた。三人はサークル会館の入り口にいた。そこには長椅子が置いてあるのでそこに座っていた。二階から降りてきた学生が、興味深そうに野球部の部室の方に目を向けるが、警官に追い返されている。
「知らないよ、そんなの」
「ふーん」
どうも藤井はいつもの調子ではない。それきり黙ってしまった。
伊勢がこちらに歩いてくる。
「詳しく話を聞きたいんだけど」伊勢は猪狩に向かって言った。会うのは二回目だというのになぜか言葉遣いが砕けている。
「何もないですよ」猪狩は別に気にするでもなく応答した。「部室に行ったら鍵がかかっていた。仕方ないから学務課で鍵を借りてきた。開けてみたらあの光景。それだけです」
「そういえば野球部なの?」
「いや、本田君だけです」猪狩は手のひらを上に向けて本田の方を示した。「こいつが急にキャッチボールをしたいって言い出したんで、グローブを借りに行ったんです」そう言って今度は藤井を指差す。
「密室だったっていうのは? 鍵は?」
「何年も前からないらしいですよ」
「ふーん」伊勢はメモを取り終えると頭をかいた。
正真正銘の密室殺人ではないか。犯人は何らかの方法で外から扉の鍵を締めたことになる。もしくは窓か。
「被害者のことは知ってる?」
「いえ、全然」
今度は藤井に顔を向けたが藤井は首を横に振るだけだった。今度は本田のほうを見て少し考えた後、
「野球部は後日また話を聞きます」と言った。「じゃあ次は、形式的な質問。昨日の五時から七時の間どこにいた?」
「家にいました」と猪狩。
「俺もです」藤井も続いた。
「俺は六時からバイトでした。駅前のK書店です」と本田。
「わかった。今日はもういいよ」そう言って伊勢はまた部室の方へ向かって行った。
猪狩と藤井は意気消沈している本田を送り届けた後JRに乗った。彼ら二人は隣のS市から通っている。
藤井はやはりいつもの調子ではないようだ。ずっと黙っている。前回の事件ではもっと積極的ではなかっただろうか。野球部だっただけあって、事件を身近に感じているのだろうか。被害者の二人と試合をした事があるかもしれない。
とりあえず、
誰かさんが動き出さない事を祈ろう。
猪狩は切実に祈った。
無駄だろうけれど。