第2話 邂逅
「くそ、ここもか!」
逃走する経路の先々で警察車両による検問が敷かれていて、ユイたちは狭い街区の中で袋小路に追い詰められつつあった。
背後からユイたちの車を追跡するセダンも、次第に距離を詰めてきていて、しきりに脅迫めいた停止の呼びかけを行う。
「ナギ、何やってんの?」
ベルトに付けたポシェットをゴソゴソ探っていたナギは、直径3センチほどの小さな円形の機械を取り出した。
「この子に働いてもらうの」
そう言ってナギは車の窓を少し開けると、その小さな機械を車外に放り出した。
「『ハチドリ』行って!」
ナギが『ハチドリ』と呼ぶその超小型ドローンは、あっという間に背後のセダンのもとに飛んでいくと車体下部に潜り込んで見えなくなる。
ナギはその様子を確認しないまま人差し指でメガネのフレームを軽く叩き、自らの網膜上にバーチャルジョイスティックを投影する。
傍目には何もない空中で手を握っているようにしか見えないのだが、ナギの網膜は確かにジョイスティックの存在を捉えており、指先には視神経経由でその感触が伝わっていた。
ナギは送信されてきたデータを瞬時に解析し、『ハチドリ』が車体下部の電子制御部付近に張り付いたことを確認した。そして『弾倉』のロックを解除し網膜ディスプレイ上に怪しげなコマンド群を展開する。
展開されたコマンド群の中から、ナギはさらにいくつかをピックアップすると、バーチャルガンに装填して照準を合わせた。
「ターゲットロックオン! 毒電波発射っ!」
ナギがそう叫ぶと、『ハチドリ』から車の電子制御装置に対して一連のハッキングコマンドが射出された。
そのわずか2、3秒後、背後の黒いセダンがいきなり蛇行を始め、街灯をなぎ倒しながら近くの商店のシャッターに突っ込んだ。
「仁さん、今のうちにっ!」
「おう!」
商店に突っ込んだセダンから必死の形相で這い出てきた刑事たちを尻目に、軽自動車は夜の闇の中へ悠々と走り去った。
まばらな街灯だけがかろうじて闇を照らしているひどく殺風景な場所で車は止まった。
街明かりはほとんど無く、周りからは人の生活の気配が感じられない。
「向こうに『壁』が見えるってことは、ここは13街区?」
車を下りたユイは、通りの先に見える黒々とした高い壁を顎で指して天堂仁に尋ねた。
「ああ、そういうことだ」
春先とはいえ深夜の外気はまだ肌寒く、裸足で薄いハイレグレオタード一つのユイは鳥肌を立てている。
それを見て、ユイの背後からナギがそっと自分の上着をかけた。
「ありがとう、ナギ……」
「ちょっと仁さん、いつまでこんな薄ら寒い場所に私たちを立たせとく気? ユイなんてレオタードだけなんだよ」
「ああ、悪かったな」
そう言って天堂仁は、真鍮製の古い鍵をナギに放り投げた。
「そいつは、お前らの目の前にある小屋の鍵だ。とりあえず俺は車を返してくるから、お前らは俺が帰ってくるまでその小屋の中で待っとけ」
天堂仁の言う小屋というのは、小さな川の橋のたもとにある、コンクリ製の古びた倉庫のような建物である。
天堂仁は、逃走時に使った車に歩み寄ると、カードキーを向けた。すると、車体の色、ナンバープレート、さらにはヘッドライトなど車体のフォルムの一部までもが一瞬で差し代わり、逃走時の車両とはまるで似ても似つかぬ代物となった。
「車の擬態は違法だよ」
「ああ、お前らのいた劇場と同じだな」
ナギの言葉に天堂仁はそう皮肉を返すと、そのまま車を急発進させて、荒っぽい運転で走り去った。
「あいつ、運転下手なんじゃないの? ナギがいなかったら、今頃警察の車まけてなかったよ」
ユイは走り去った車を目で追いながら、そんな憎まれ口を叩いた。
ユイたちが恐る恐る足を踏み入れた倉庫の中は、意外にも生活感であふれているというか、細々とした日用品や食器類、衣服などがそこら中に散らかっていて雑然とした印象であった。
「まさか、あいつここで暮らしてんの?」
「そうみたいね」
「うへえ、食器ぐらい洗っとけよあのオヤジ!」
シンクにたまった薄汚れた食器の山を見て、ユイが顔をしかめる。
「ユイ、とりあえずコーヒーでも飲む? インスタントだけど。外ちょっと寒かったから身体あったまるよ」
しばらく二人は無言でコーヒーをすすり、人心地つく。
「それでナギ、あいつは何者? 『協力者』ってどういうこと?」
「あの男、天堂仁って人は、私らの劇場の元オーナーよ」
「正確には三代前のオーナーだがな」
部屋の暗がりからぬっと現れた天堂仁が答える。
「うわっ! 驚かせないでよ!」
前触れ無しにいきなり背後から声をかけられたナギは、危うくコーヒーをこぼしそうになる。
「アンタも同業者だったってわけ?」
「オレはヤク中ども相手の商売をしてたわけじゃない。オレが経営してた頃は健全なショーパブさ」
そう言って、天堂仁は自分の身の上を語りだす。
天堂仁自身の言によると、ショーパブ自体の経営はそれなりに上手くいっていたらしい。
だが、経理担当の男が薬物に手を出し、店の金のほとんどをその支払いのために使い込んでしまったのだ。
「あとはお察しの通り。あのあたりを仕切るマフィアどもに店ごと取り上げられちまったってわけさ」
天堂仁は自嘲気味にそう話した。
その後に起こったマフィア同士の激しい抗争によって、劇場のある盛り場一帯は今度は街区ごと極東マフィアに乗っ取られてしまった。
極東マフィアというのは、ユイたちの劇場のある第7街区を足がかりに、このところ急速に勢力を拡大している新興マフィアである。
ユイの出演していた劇場も事実上のオーナーは極東マフィアなのだ。
「仁さんは、近々劇場に警察のガサ入れが入るって情報をくれたの」
「それが今日だってわかったのは、つい数時間前だがな」
天堂仁の言葉に、ユイは眉根を寄せて首を傾げる。
「アンタ、あそこに警察の手入れがあるってどうやって知ったの?」
「オレが匿名であの劇場についての有益なネタをUNポリスにタレ込んでやったのよ。UNポリスも極東マフィアの傍若無人ぶりにゃ手を焼いてたからな」
「呆れた。アンタ、まさかあの劇場を自分の手に取り戻そうって腹積りなの?」
その言葉に仁はゆっくりと頭を振った。
「オレはあんなマフィアどもに仕切られるだけの場末の劇場にゃ1ミリも興味はねえ」
「オレが興味があるのはな、荒屋敷ユイ、七頭ナギ、お前ら二人だ」
荒屋敷ユイが七頭ナギと出会ったのは今から3年ほど前、第9街区のストリートである。
その日も、ユイは繁華街から少し離れた路地でストリートパフォーマンスを披露していた。
キリッとした美貌と手足の長い引き締まったスタイルの持ち主が、鍛え上げられた腹筋が丸出しのタンクトップにハイレグのデニムショートパンツといった露出度の高い格好に身を包んでパフォーマンスを披露すれば、いやでも人目を引く。
しかも、抜群の身体能力から発揮されるユイのパフォーマンスの完成度は高く、体操選手顔負けのアクロバティックな身体の動きに最初通りを行く人々の誰もが目を奪われた。
だが、初めのうちは足を止めてユイのパフォーマンスに見入っていた観客たちも、ダンスに合わせた音楽が奏でられるうちに一人二人と離れていき、やがてまばらになる。
そのうちユイの目の前にいるのは、黒縁のメガネをかけた小柄で地味そうな少女だけになった。
少女は手拍子を打つわけでも、身体でリズムを取るわけでもなく、頬杖をついてしゃがみ込み、ただじっとユイの身体の動きだけを見つめている。
「ねえ、あなた私に調律させてくんない?」
パフォーマンスの最中に突然放たれた不躾な言葉に、ユイは不機嫌そうな顔をその言葉の主に向けた。
「アンタ、私が音痴だって言いたいの?」
「うーん、身も蓋もない言い方すればそう言うことかなあ。あなた、身体能力は凄いけど、自分の音楽をまるで奏でられてない。私が調律すれば、今よりずっといい音色を響かせてあげられるよ」
ユイはパフォーマンスを止めると、ムスッと押し黙ったまま身体中の皮膚に貼り付けている透明の電極シールをベリベリと乱暴に引き剥がし、ショートパンツのベルトループに吊るしていた変換ユニットごと少女に放り投げた。
「そこまで言うんならやってみなよ」
「うん、でもこのユニットに付属してる骨董品のアンプはいらないかな。私の持ってるコイツの方がまだマシだから」
少女はそう言いながらヘッドホンをかぶると、ユイから受け取った変換ユニットにリュックから取り出した小型チューナーを取り付け、その場でチューニング作業を始めた。
数分ほどのち、少女は変換ユニットをユイに差し出す。
「調律終わったよ。もう一度さっきのやってみて」
ユイは再び身体中に電極シールを貼り付けると、先ほどと同じ動きのダンスを披露する。
身体を動かし始めてすぐ、ユイは異変に気がついた。
(あれっ、なんか音が違う……)
ユイの身体の動きに合わせて奏でられる無数の音色は、何もかもがこれまで聞いたことが無いような響きと深みに満ちていて、ユイは新鮮な驚きに見舞われた。
しかもその音色は、ユイのアクロバティックな身体の動きや、鍛え上げられた筋肉の収縮に合わせて、次々と変化し新しい音色を生み出していくのだ。
千変万化のその音色は、互いに少しも干渉することなく、ユイのしなやかで力強い肉体の動きそのもののような見事な重奏を響かせる。
「何だろう……音にくっきり色がついたみたい……」
「ふふっ。だって『音色』って言うでしょう。その音があなたの持ってる本来の『音色』」
「あなたの身体の動きに合わせて、一から調律し直してみたの。これまで手探りでやってたのとは全然違うでしょ」
ユイは黙って頷くしかない。
「アンタ、名前は……」
「私、七頭ナギ。あなた荒屋敷ユイさんでしょ。この辺りのチルドレンの間じゃあなた有名人だもの。肉体音楽じゃなくて、もっぱら腕っぷしの方でだけどね。」