09) 契約
(蝉、うるさい!)
海から吹いて来る海風が内陸側に並ぶ山々に当たり、そして再び城ノ岬の街を通過して日本海に戻っていく。俗に『山おろし』と呼ばれる風が、森や林で蝉の大合唱を拾い集めて犀潟智也の部屋に網戸から入って来た。
その盛大な蝉の鳴き声は、眠気の晴れない脳みそを大根おろし器でゴリゴリと削るように神経に障り、この時期の猛烈な暑さとねっとり絡み付いて来る熱風も相まって、不快感のオンパレード。睡魔に誘われるどころか、そもそもが我慢の限界なのだ。
「いつの間にか寝てたな」
生きる屍のようにゆっくりと上半身を起こした智也は、寝汗でじっとりと濡れた身体をそのままに、枕元に置いてあるスマートフォンを手に取って時間を確認する。
見れば時間はちょうど昼の十二時、腹の虫もぐうぐうと鳴っており、エアコンを作動させないとこんな蒸し風呂では二度寝出来ない事から、とりあえずエアコンのある居間へと降りて遅い朝飯を食べる決心をする。
「あっ……」
部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルに目をやり、いつもとは違うその光景を基点としてフラッシュバックする智也。飲みかけのペットボトルや読みもしないゲーム雑誌が乱雑に置かれたそのテーブルの上に、昨日までは無かった物が置かれている事を再確認する。
それは八角形の木片。表面に見た事もないような文字がびっしりと刻まれた、呪術の道具ではと思われるような何とも怪しいその物体。『真衣香ではない真衣香』が現れて、強要するかのような剣幕で契約しろと突き付けて来た物だ。
だがその怪しさも真衣香の姿に霞んでしまい、結局智也は契約などせずに悶々と物想いに耽ながら明け方に布団へと潜ってしまったのである。
彼女……本物だったよなと、テーブルにある木片を持ち上げてしげしげと見詰めてはみるものの、脳裏によぎるのはあの真衣香の姿。契約を忘れているとまでは言わないが、死者の再訪はそれだけ智也には鮮烈な光景だったのである。
だが、そんな甘いフラッシュバックを突然現実世界に引き戻す出来事が起きる。
“別の世界の真衣香……もっと話してみたい”と、夢見心地で一階に降りながら、カップラーメンでも食べるかとお湯を沸かし、リビングにあるテレビのスイッチを付けると、何とNHKの昼のニュースが特番に切り替わっており、他人事とは言っていられない内容のニュースが報道されていたのだ。
『新潟県佐渡沖のレアアース採掘基地、謎の軍隊に襲撃される! 』
――画面の右下に仰々しいタイトル文字が浮かび、ブレブレの超望遠レンズで捉えた採掘基地を画面に大きく表示させながら、ヘリコプターに乗ったレポーターが怒鳴り声で、燃えているだの煙が見えるだの謎の飛翔体だと大騒ぎしているのだ。
『現場からの中継を首相官邸に切り替えます。もうすぐ国木田総理の緊急記者会見が行われます』
ヤカンから勢いよく蒸気が飛び出し、ピイイイと派手な音を立て始めるも、慌ててコンロの火を止めた後もカップラーメンの用意をしようともしない。空腹の心配よりも何よりも、あのレアアース採掘基地は父親の職場であり、今もそこに父親がいる事実が智也をテレビに噛り付かせているのだ。
総理大臣の緊急記者会見が始まるまでの間を繋ごうと、アナウンサーがしきりに今までの経緯を説明している。それによると、新潟県佐渡ヶ島沖の近海を哨戒活動中だった海上自衛隊の護衛艦二隻が、夜明け前に謎の飛行体の攻撃を受けて爆沈。その謎の飛行体はそのまま日本の領空侵犯を続けながら南下して、レアアース採掘基地上空で静止、攻撃部隊を降下させて占領したと言うのだ。
あの採掘基地を破壊する目的でないならば、占領が目的であるならば、父はまだ殺されてはおらず囚われているだけかも知れない――
そう自分に言い聞かせ慰めてはいるのだが、恐怖と焦りから大量のアドレナリンが発生したのか、智也の手足は面白いほどにガクガクと震え、それこそ生まれたての子鹿のようなありさまだ。
「と、父さん! 」
もう知っているかも知れないが、勤務中の母親に連絡を取った方が良いかもと、スマートフォンを取りに二階に駆け上がる。すると智也は部屋に飛び込んだ後に大きな叫び声を上げた――何かに驚くような、ひゃあああと言う情けない声でだ。
智也が腰を抜かすほどに驚いた原因は真衣香から渡された木片。テーブルに置かれた八角形の木片が、3Dホログラムを宙に向かって投射するように、部屋全体が怪しい光に包まれていたのである。
「な、ななな何だよこれ! 文字が、文字が浮かんでる!? 」
『警告、警告! リバティ・ギア・ユニットに第三者の干渉を確認! 』
「しゃべった! ただの木工細工だと思ってたのに」
部屋全体が真っ赤に照らし出され、デカデカと警告の文字が宙で点滅する中、真衣香から渡されたこの木片は智也を急かすように言葉を繰り返す。
「真衣香も確かリバティギアがどうのこうの、スフィダンテが云々って言ってたな……」
スマートフォンを取りに慌てて二階へ駆け昇って来たはずが、この圧倒される異様な光景に我を忘れ、いつの間にかそれをマジマジと見詰め始める智也。
だがその木片は発していた警告が第二段階に入ったとして、ホログラム映像で地図を投射し、城ノ岬市と日本海にぽつんと浮かぶ佐渡ヶ島そしてその西近海にあるレアアース採掘基地にポイントを付け、新たな説明を始めたのだ。
『警告、警告! 模倣プレイヤー・ウィールを装備した魔力兵が、リバティ・ギア・ユニットへ接近中! 塩基配列犀潟智也は至急契約の有無を表明すべし! 』
「契約……真衣香にも言われた……」
ホログラム映像の地図で赤い点がある場所、それがそのリバティ・ギアがある場所なのかも知れないが、そこには紛れもなくレアアース採掘基地……親父が今そこに……!
今目の前で起きている事、そして今ほど一階のテレビが大騒ぎしていた事が一本の線で繋がった。
謎の飛行体がリバティ・ギアを狙っている事もこの流れから理解しようとすると、実は物凄く切迫した状況で自分は判断を求められているのではないかと感じたのだ。「契約をするか、それともしないか」を。
「おい、おい、教えてくれ! そのリバティ・ギアと契約するとどうなるんだ! そして契約しないとどうなる! 」
――犀潟智也がリバティ・ギア『スフィダンテ・タイプ』と契約すれば、スフィダンテ唯一の搭乗者として塩基配列及び独自魔力が登録され、当該世界の犀潟智也のみ自由な運用を認められる。しかし当該世界の犀潟智也が契約を拒否すれば、スフィダンテは自己防衛モードを発動させて自爆。その影響により半径三百キロ圏内にいる生物全てを蒸発させる――
光る木片の説明を聞きながら全身総毛立つ智也。無理筋の契約強要じゃないか、契約しなきゃ親父やお袋や街のみんなだけじゃない、北信越地方がそのまま蒸発するとか何の脅しだよ……と。詰め寄って抗議したいのは山々なのだが、昨晩あれだけ“別世界の真衣香”に言われて忘れていた経緯もあり、思い起こせば自分自身に降りかかっていた責任の一端も、否定は出来ない。
(今は契約せざるを得ない、それで一人でも多くの人が助かるならば)と考えれば、多少は気持ちも楽にはなるんだと智也は表情を厳しくした。
「契約する、俺はリバティ・ギアと契約するよ」
意を決した智也はそう宣言する。契約した先に何が待っているのか何も分からないまま。そもそも何の契約なのかまるで理解出来ていないのだが、それでもとマシな方に賭けたのだ。
『……スフィダンテ・ポータルは契約要請を受諾! リバティ・ギア【スフィダンテ】は塩基配列分類ガンマ・イオタ・ミュー類第3種型犀潟智也と契約。契約者は投射された魔法陣に左手甲をかざせ! 』
智也の左手が光に包まれ、そして全身が光に包まれた頃、一階の付けっ放しのテレビから、内閣総理大臣の緊急記者会見の声が聞こえて来る。
“敵は日本の武装勢力だが、我々の知る日本ではない”
“敵は異世界に存在する日本の軍隊”
“その敵は我々日本国とは違い、ソビエト連邦日本自治州軍を名乗っている”
“敵の武力を伴った示威行動を戦線布告と認め、我が国は限定的な防衛出動を発動する”
まるで絵空事のような説明に視聴者はキョトンと呆けるしかないのであろうが、総理大臣の声は緊張に震えており、現実の話として護衛艦が二隻撃沈されたとも正式に発表された。
〜〜何の実感も灌漑も無く、日本は戦争状態に突入していたのである〜〜